第12話
合宿も無事終わり、しばらくの時間が経った。今は8月半ばごろ。例の公園へ向かう電車は、いつも通り人が少ない。F15サイズのキャンバスは少し大きいけど、この様子なら周りの人の迷惑にもならないだろう。そもそも周りに人がいない。
久しぶりに真依先輩の所に向かう。合宿前の練習の時以来だ。本当は何度か連絡が来てたんだけど、それに応じることはできなかった。これの準備をしていたからだ。
今日、先輩に全てを伝える。あらゆる意味で、その準備をしてきたつもりだ。えーちゃんと、特に玲先輩には感謝しないと。
公園に着いた。先輩はやっぱり先に着いていて、私が来るのを待っていてくれていた。
「佐藤さん、久しぶり」
「真依先輩、お久しぶりです」
いつも通りの挨拶を交わしたけれど、私は今日かなり緊張している。うまく言葉が出てこないし、先輩と顔を会わせづらい。今までできるだけ無難に、をモットーに生きてきた事の弊害だ。でも私は変わったんだ。先輩のおかげで。
「とりあえず、合宿お疲れさま。……メールで言ってくれた『大事な話』っていうのは、それについてかな?」
先輩は私の大荷物に目線を向けて言った。当然このサイズなら気になるよね。
「そうですね。まず、この絵を見てください。まだ未完成なんですけどね」
私は袋からキャンバスを取り出し、持ってきたイーゼルに立て掛けた。これが玲先輩の手助けを借りて進めていた絵で、イーゼルも先輩からの借り物だ。真依先輩はそれをただ黙って見てくれている。
それは一見ただの風景画。描かれている風景はこの公園、しかも例の団地が見えるフェンスの近く。イーゼルとキャンバス、それから椅子が描かれている。キャンバスは横から描かれる構図になっており、そこにどんな絵が描かれているのかは分からないようになっている。それから、一部絵の具を乗せていない部分がある。
「合宿が終わってから、お誘いを断ってしまってごめんなさい。どうしてもこの絵を準備したくて。玲先輩に見てもらいながら描いたんです。この絵がどういう絵なのか、先輩にはわかりますよね?」
「……この中央に人物を描きたい、そういうことかな……そしてその人物は……」
そこまで言って先輩は口を噤んだ。私は大きく深呼吸して、次の言葉を紡いだ。
「……玲先輩から聞きました。真依先輩は天才だって。描きかけの絵を見て、それを描いた人が何を意図しているのかを見抜くことができるって」
「そうか、玲さんに……どこまで聞いたのかな、私の絵について」
「ごめんなさい、全部、聞きました。あの美術室の天使の絵について。あれが誰の絵だったのか、なぜ表に出なかったのかも……
真依先輩はずっと玲先輩に絵を教えてもらっていたんですよね。その練習の時、ずっと描きかけの玲先輩の絵の上に描いていた。それが二人にとって当たり前になっていて、真依先輩は一人で最初から絵を描くことができなくなっていった……本当、だったんですね」
「……玲さんの絵には、れっきとしたゴールがあって、何を描きたい、何を伝えたいというのがはっきりと見てとれたんだ……天才というならあの人の方だよ。私はあの人みたいに絵を描けない」
先輩はふと公園に視線を向けた。何か昔の事を思い出しているようだった。私は先輩の次の言葉を待った。
「わたしと玲さんが出会ったのはこの公園なんだ。当時私は部活に入っていなくて、玲さんは美術部員だった。あの人はきっとあの町の風景が綺麗に見渡せる場所を探していたんだろうね。だからあの……準備室の絵、あれはきっとその時から計画されていた玲さんの大作だったんだろうと思う。私なんかが触れていい作品じゃなかったんだ」
「確かに……そうかもしれません。でも、玲先輩は言ってました。あの絵は本当に素敵だって。私が描けない理想を余すところなく描いてくれたって」
「そんなことはどうでもいいんだよ。絵というのは一人で一作品を作りきらないと意味がない。そんな基本的なことを、わたしは知らなかったんだ。わたしには絵を描く資格なんて無い」
「違います!絵っていうのはもっと自由なはずです! 誰が描いたとか、その過程がどうだったとか、そんなのが絵の価値を決めるんじゃないと思います! 意味がないなんて、言わないでください」
「わたしがいなければ、あの絵はコンクールに出展されて玲さんはきっと多くの人に認められたはずなんだ。わたしがそのチャンスを失わせてしまった……わたしがあの絵を、台無しにしたんだ!」
「そんなことありません! あの絵は、私を変えてくれました! あの絵が準備室に眠っていなかったら、私は今こうしてここにいなかった。先輩があの絵を描いてくれたから、私は美術部に入って、こうやって先輩と会えたんです。それだけで十分、あの絵には意味があったんです!」
柄にもなく大声で叫んでしまった。でも、これが私の結論なんだ。先輩は固まっている。私はさらに言葉を重ねる。
「もう一度この絵を見てください。この絵には私の真依先輩への想いを全て乗せて描いたつもりです。先輩がこの場所を教えてくれて、ここで先輩は私にいろんな事を教えてくれました。とっても楽しかったです。私にとって、ここで過ごした時間はかけがえのない経験になりました。それに、先輩にとってもここは特別な場所のはずです」
私はこの公園で先輩と多くの時間を過ごした。だから、先輩を描くためにこの場所を選んだ。そして、先輩はこの場所で過去にたくさん絵を描いてきたはずだ。この特別な絵の舞台となるのは、この場所しかない。
「描いて、くれませんか?」
先輩はしばらく茫然自失という感じだったが、ゆっくりと口を開いた。
「……そうか。わたしはずっと、自分にも、自分の描く絵にも価値がないと思っていた。でも、それを決めるのはわたしじゃなかったんだ。……ありがとう、伝えてくれて。描いても、いいのかな」
そう言った先輩は泣くのを我慢しているように見えた。私も返事をしようとして、嗚咽が込み上げてきていることに気がついた。
それを飲み込んで、返事をする。
「ちょっと遅くなっちゃいましたけど、描きましょう。一緒に。絵の具、準備しますね」
「ありがとう。一応こっちでも画材と椅子持ってきたから、準備するよ」
そうして私たちは絵の準備をした。もう誰にも邪魔されない、2人だけの時間だ。
「あっそうだ、髪……絵を描くとき結び直すんですよね。玲先輩に聞きました。私に、結わせてもらえませんか?」
「ふふっ、そういえばそうだったね。お願いするよ」
私は先輩の髪に触れた。柔らかな髪を上の方で束ねた。先輩が嬉しそうで、私まで嬉しくなった。
「あの頃に戻ったみたいだ。こうやって髪を結んでくれたのは、佐藤さんが2人目だよ」
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