第6話

美術館 5


 テレビをつけると真っ先に高速道路の渋滞情報が飛び込んできた。チャンネルを回すと次は空港でのインタビュー。世間は大型連休に浮かれている。

 私はというと、海や山に行くこともなければ、海外旅行に行くこともない。いたって平和な朝だ。というのも、両親は今日も仕事だからだ。二人は共に舞台かなにかにまつわる仕事をしているらしい。俳優ではないことだけ知っているが、詳しいことは分からない。

 とりあえず今重要なのは、私が優雅な休日の朝を過ごしているということだけだ。



 ブー、ブー、とマナーモードにしていた携帯が鳴る。一旦ポットにかけていた火を止めて電話を確認する。着信は真依先輩からだった。


「もしもし、おはようございます」

「あぁ、おはよう、佐藤さん。今日なんだけど、忙しいかな?」

「いえ、どこかひとりで買い物にでも行こうかと思ってましたけど……特に予定はないですよ」

「ちょうど良かった。T美術館って知ってるかな?あそこで面白そうな展示をやってるんだけど、一緒にどうかなと思って」

「いいですよ。そこって確か市役所の近くですよね。小学校の頃社会見学で1回だけ行ったことあります」

「そっか。じゃあ昼の1時半くらいに現地集合でいいかな」

「わかりました。じゃあまたお昼に」


 休日に美術館デート。優雅だ。相手が真依先輩というのがあれだけど。私は再びポットのお湯を沸かし、その間に電車の時刻を調べた。昼ごはんは家で食べてからでいいか。




 約束の時間より5分早く着いたんだけど、先輩は先に来て待ってくれていた。先輩は英字デザインのTシャツにジーパン、普通のサンダル。黒いキャップ帽を被っている。髪も前見たときと同じひとつ結びだ。男子か。


「佐藤さん、こんにちは。私服そんな感じなんだ」

「こんにちは。美術館って聞いてちょっとおしゃれしてきたんですよ」


 私は白色のワンピースに薄水色のカーディガンを羽織っている。目立ちすぎない、無難な格好だと思う。それじゃあさっそく行こうか、という先輩に合わせ、中に入った。



 美術館なんてそれこそ小学校の時以来だ。あの頃は絵の価値なんて分かってなかった。今は分かるのかと聞かれると怪しいところだけど、この作品を描いた人の事を空想することは何となくできる。例えばこの菫の水彩画。実際にこの花を前にして、最初は大まかな形を鉛筆でスケッチして、明るいところから順番に塗っていく。花びらは外側の方が薄い色だから、まずは全体を。乾いたら色を重ね塗りして、中心の濃い色を出しているんだろう。水彩をやってた子からの受け売りだけど、こういうことがちょっとわかるようになった自分が嬉しい。


 別の絵は抽象画のようだった。湖畔に2人の人影がある。縦長のキャンバスで、空には木々の間に大小様々な水滴が浮かんでいる。水面も空も独特な色使いで、今の私は写実的に描く練習しかしていないからこういった絵は難しそうだと感じた。将来的にはこんな自分だけのイメージを絵にするのかもしれない。でもそのためにはまず基本のスケッチを頑張らないと。


 先輩も私と同じように絵を見てるけど、右手の指がずっと細かく動いていた。自分で描くときの事をイメージしてるのかな。私は先輩が絵を描いているところを見たことがない。先輩はそういうのを見せたがらないと思うし、私も無理にせがもうとは思わない。きっとこのままいくと今年の秋の文化祭ではまた先輩は作品を描かないんじゃないだろうか。少しそんな気になったが、でも私にできることなんてきっと無いだろう。今は自分自身の事に集中しよう。そう思っていると、先輩はどんどん進んで別の絵を見ていた。周りも見なくちゃな、とすぐに反省して私は先輩を追いかけた。



「見せたかったのはこの展示なんだ」


 先輩は看板の前で足を止め、そう私に声を掛けた。“特別展示:油彩画の歴史”。看板にはそう書いてあった。


「佐藤さんはあの油絵に興味があるんだよね?この展示が油彩表現の勉強にちょうどいいと思ってね」

「あ、ありがとうございます」


 私は別に絶対油絵を描きたいというわけではないんだけど……せっかく誘ってもらった手前そうとも言い出せず、私は先輩に連れられて先に進んだ。


 特別展示スペースは先ほどまでと比べて異質な空間だった。照明が暖色系に変わり、絵のサイズもやたら巨大だ。その圧倒的な存在感に、でも、私の心はあまり動かなかった。確かに凄い絵だ。いったいどれ程の時間がこの絵に掛けられたのだろうか。歴史的にもすごく価値のあるものなのだろう。そう頭では考えつつも、気持ちはやはりあの準備室の絵に向いていた。



 美術館を出た私たちは、近くのカフェで軽く食事を取ることにした。先輩がアイスコーヒーを注文したので、私もそれに合わせた。話題は最近の部活動についてになった。


「先輩からもらったスケブで、ずっと石膏のスケッチしてるんです。やっぱり基本が大切かなと思って」

「うん、あのスケブを有効利用してくれてるようで何よりだよ。わたしが持っていても使い道がなかったしね」

「……先輩は、もう絵を描かないんですか?」


 ……聞いてしまった。微妙な時間が流れる。


「……そうだね。玲さんの頼みには応えるつもりだし、佐藤さんが素敵な絵を描いてくれたらそれだけで十分かな」


 迷う。私は先輩に何と言えばいいのか。先輩に何をしてほしいのか。私は何を聞きたいのか。思いを巡らせていると、やっぱり最初に浮かんだのはあの絵の事だった。


「……先輩。今日はありがとうございました。油彩の展示、とても勉強になりました」


 私はゆっくりと話し始めた。考えなくても、次の言葉がスラスラと浮かんだ。


「でも、あの油彩の部屋にいる間、私は実はずっとあの天使の絵について考えていたんです。わたしが好きなのは油絵じゃなくて、あの準備室の絵なんです。

 ……私、去年の文化祭のパンフレットを見ちゃいました。あの天使の絵は展示されなかったんですね。私はあの絵は川島先輩の作品だと思ってたんですけど、それは正しいんですか?」


「去年の文化祭、いったい何が起こったか、聞いても……」



 そこまで言って先輩の方に改めて目をやると、先輩は肘を机について頭を抱えていた。絶対に何も聞かないでくれという意思表示だろう。私は自分の発言を省みて、やっぱりいいです、今日は本当にありがとうございましたと伝えた。今度、どんな形でもいいので絵を教えてください、とお願いしてみたら辛うじて了承はしてくれた。グラスの中の氷が溶ける音が店内に響いた。

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