第2話

 翌日。

 授業を終えて、私は指定された通り2年4組に向かっていた。別の学年の教室は近づくだけで緊張する。周りは帰ろうとする緑のリボンの人でいっぱいだ。私はまさしく紅一点。緑と赤は補色の関係、というのを昔美術の授業で習ったことを思い出した。部活でもそういったことを教えてもらったりするんだろうか。そんなことを考えながら、私は4階まで続く階段を上がっていった。



 4組の教室に着いた。ほとんど人がいない。人がいても緊張するだけだしありがたいと思って、とりあえず近くにいた先輩に声をかけた。


「すみません、吉田さんって人を探してるんですけど……」

「あ、1年生? あそこで寝てるのが吉田さんだよ。授業中もずっと寝てたみたいだけどね……じゃあね!」


 その先輩はある机を指さして教えてくれて、すぐに教室を出ていった。そこにいたのは長い髪を後ろで縛った女の人だった。机に突っ伏している。何となく声をかけづらい。私も帰りたいと思いつつ、恐る恐る、声をかけてみる。


「あの、すいません、吉田先輩……?」

「……ん?あぁ、おはよう……」


 起きてくれた。眠そうな目をこすっている。本当にこの人が私に美術のいろはを教えてくれるのだろうか。なんだか不安だ。


「……あぁ、あなたが玲さんが言ってた人?」

「玲さん?あぁ、部長か……はい、佐藤夏美といいます」

「……」

「……」


 吉田先輩は黙ってじっとこっちを見つめている。不思議な静寂が私たちを包む。この人はいったい何を考えているんだろう。

 先に口を開いたのは先輩だった。


「あぁ、わたしのことは玲さんから聞いてるかな?」

「いえ、全然聞かされてないんですけど……」

「そっか……えーと、何から話そうか……」

「あの、私、美術部入りたてで、何から手をつけたらいいか分からないので、教えていただけたら……」


 吉田先輩は少し考えているようだった。


「……あの絵を見たんだっけ。うーん、じゃあ着いてきて。今日時間あるよね?」

「えっ、はい……美術室行かないんですか?」

「うん。美術部員じゃないからね」


 美術部員じゃない。私はその発言に軽く衝撃を受けたんだけど、先輩は気にせず帰り支度を始めていた。私もそれを見て軽く鞄を持ち直した。


「今から、あの絵の場所に行こう」





 学校を出て、2人で駅に向かう。私は家が近所なので通学に電車は使ってないんだけど、先輩はそんなこと気にも留めていなさそうだ。現在時刻は夕方の4時半。主婦の人が買い物する時間なのか、商店街には結構な賑わいがある。


「徒歩通学なら、この辺りあんまり来ないのかな。あのお肉屋さんのコロッケ、80円なのにけっこうおいしいんだよ。寄っていく?」

「いえ、あの、吉田先輩……」

「真依でいいよ」


 先輩は私のことを考えてくれているんだろうか。私の困惑をよそに先輩は飄々とした様子で案内を続けてくれている。


「えーと、真依先輩……確かに川島先輩から入部届を預かったんですけど、美術部員じゃないってどういうことですか?」

「……去年ちょっといろいろあってね。最初は部員だったんだけど、秋の文化祭の時に辞めちゃったんだ。まぁ、玲さんの命令だから復帰するけどね。部室に入り浸るつもりも作品づくりに熱中するつもりもないし、あんまり期待しないでほしいかな」

「……そうなんですか」


 どうやら複雑な事情があるようだ。天使の絵についても聞こうかと思ったんだけど、あの絵にも私の想像以上に何かあるのかもしれないと思って上手く言い出せなかった。


 駅に着いた。先輩が切符を買ってくれて、先輩は定期で中に入った。今から行く場所は先輩の家の近くなんだろう。ホームに着いたら急行の電車が来たが、それを見送って次の普通電車に乗った。2つ先の小さな駅で私たちは電車を降りた。家の近所だけど何もない場所だし、この駅で降りるのは初めてだった。


「不便だよね。この駅。コンビニすらない」

「まぁ、確かに……」

「あ、そろそろ日が沈むかも。急ごう」

「ちょっ、ちょっと待ってください!」

 先輩は私の手を引いて走り出した。どうしてこんな状況になってるんだろう。



 10分後。坂を登って、公園に入って、遊歩道の木立を抜けると、急に視界が開けた。

「先輩、ここですか?」

「ハァ、ハァ……ちょっと、ここで、休憩、しよう……」

 真依先輩は1分くらいで体力が切れたらしく、結局歩いてきた。あまりにもしんどそうだったので私の水筒を渡したんだけど、全部一気に飲まれてしまった。覚えてろよ。


 前方には転落防止のフェンスがあり、その先は谷の道路を挟んで団地が広がっている。結構高いところに来たのか、広い範囲の建物を一望できる。ちょうど夕陽が建物の壁にに当たって反射し、団地は綺麗な茜色に染まっている。


「そこの団地、わかる? あの絵の背景のモデルなんだ」


 確かにこの景色だ。てっきり外国の景色だと思ってたけど、こんな近くにこんな風景があったなんて知らなかった。


「この場所で、玲さんは絵を描いていたんだ……おっと、喋りすぎたかな……」


 やっぱりあの絵は川島先輩の作品だったんだ。確かに、こんな景色を見たら絵に描きたくなるのもわかる気がする。私にも描けるだろうか。しばらくの間、私はこの景色をぼんやりと見続けていた。



「すっかり遅くなっちゃったね。わたしは家がこの近くだからいいんだけど、帰り道は分かるかな?」

「来た道戻るだけなので、たぶん大丈夫です。携帯もありますし。」

「そっか。あっ、そうだ、連絡先交換しようか」

「そうですね。SNSでいいですか?」

「いや、わたしはそれやってないんだ。ガラケーだからね。電話番号を教えて。ショートメールでやりとりしよう」


 そんなやりとりをして私たちは連絡先を交換し、その場で解散した。帰り際に先輩はピンク色の巾着袋を持たせてくれて、帰りの駅でそれを開けるとお金が入っていた。交通費なんだろうけど、80円多く入ってる。私は少し笑って、帰りにコロッケを買うことに決めた。

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