油彩の天使

@ksc

第1話

 私が美術部に入るきっかけになったのは、美術準備室で見つけた天使の絵だった。


 中学校では3年間、帰宅部として過ごした。周りには同じく部活に入っていない友達がいたけど、みんな別々の高校に行ってしまった。

 私は特にこれといってやりたいことはないけれど、何となく楽そうな文化部を見学することにしていた。美術部もその一つだった。


 美術室の中はちょっとした展覧会だった。鉛筆デッサンからコラージュまで、いろんな作品が並んでいた。不思議なことに部員は1人もいなかった。誰かいないかな、と思って準備室に入ってみて、その絵を見つけた。棚の手前に机があって、その隙間から角だけが出ていたのを引っ張り出した。なぜそんな事をしたんだろうと今になって思うけど、その時は本当に無意識だった。



 その絵は割と大きな油彩画だった。白を基調とした建物を背景に、羽を畳んだ天使が祈りを捧げている。背景の建物には一部赤黒い影が落ちていて、やや不気味な雰囲気が出ている。天使の目には涙が浮かんでいた。天使の衣服や表情、背景など細かいところも緻密に描かれていて、絵なんて全然詳しくない私でも、この絵のレベルが尋常じゃないことだけははっきりと分かった。


 こんな絵があるのにどうして展示しないんだろうか。失礼な話だけど、私には美術室に飾られていたどの絵よりもあの天使の絵が魅力的に思えた。その後他の部活に見学に行ったときも、それが終わって家に帰ったあとも、私はその絵が気になってしかたがなかった。


 そういうわけで、私、佐藤夏美は美術部への入部届を提出したのだった。





「初めまして!1年2組の古谷絵衣子です!中学でも美術部に入ってて、その時はアクリルメインで絵を描いてたんですけど、高校では彫刻とかもやってみたいなって思ってます。よろしくお願いします!」


 最初の活動の内容はミーティングで、最初の議題は恒例の自己紹介だった。机は教室の隅に片付けられており、適当に置かれた椅子に適当に部員が座っている。部員数はそんなに多くない。私は一番後ろの隅に陣取った。


「はい、よろしくね。最後は佐藤さん、だったっけ?」


 この人は部長の川島玲先輩。この美術部はかなり奔放にやっているらしく、それを一人で束ねている川島先輩はすごい人だそうだ。おまけにかわいい系の美人だ。おっと、私の番だった。


「初めまして。1年1組の佐藤夏美です。中学校では部活に入ってなくて、絵についても初心者ですが、これから頑張りたいと思います。よろしくお願いします」


 我ながら完璧に無難な挨拶だったはずだ。できるだけ無難に、目立たないように、というのが私のモットー。それでも美術部に入ったからには絵を描かないといけないんだろうけど、私にうまくやれるだろうか。不安が募る。



 ミーティングの内容は新入生への活動内容の説明に移った。この部には決まった活動時間はないそうで、部屋を使いたい人が美術室の鍵を借りに行き、最後の人が鍵を返す、というシステムらしい。出欠は完全に自由だそうだ。サボり放題じゃん、と思ったけど周りのリアクションを見るとそれが普通らしい。大丈夫か、美術部。



 議題は最後に作品展についての話になった。この学校では2学期、10月の上旬に文化祭があって、部員はそこで作品を展示しなければいけないらしい。他にも市や県のコンクールがあったりするけど、それに関しては自由だそうだ。


「あまりにも自由にしすぎると締め切り直前で慌てる人が出るから、とりあえず今どんなのを作りたいかの確認だけするね。じゃあまず1年生、何か希望がある人はいる?」

「はい!私彫刻やりたいです!」

「古谷さんね。了解。他は?」



 古谷さんの発言を皮切りに、他の1年生も色々やりたいことを言い出した。私はというと、何も思い付かない。できるだけ注目を浴びないように縮こまっていると、川島先輩が声をかけてくれた。


「佐藤さんは美術部初めてだもんね。じゃあ解散した後いろいろ説明するから一緒に来てくれる?」



 部長直々に手解きをしてもらえるらしい。この後すぐにミーティングは終わり、そのまま帰る人とさっそく作業に取り掛かる人に分かれた。先輩に呼ばれた私は、美術準備室に案内された。



「これがポスターカラーっていう絵の具で、水彩の一種だね。これはデッサン人形……やっぱり最初は静物スケッチかな……」


 先輩は準備室を案内しながら、目についたもの一つ一つについて解説してくれた。

 時間はちょうど夕方で、窓から西日が射し込んできていた。閉鎖的な部屋は独特な匂いが充満していて、どこか別世界のような雰囲気がある。こういう非日常感も嫌いじゃない。


 そこでふと、キャンバスが入れられた棚が目に入った。この前見た天使の絵だ。そうだ、先輩ならあの絵について何か知ってるかも。そう考えた時には既に私の足はそっちに向いていた。


「佐藤さんは何かこれがしたいっていうのは……」

「先輩。この絵について聞きたいんですけど」


 私がその絵を棚から出してそう聞いたら、明らかに先輩の雰囲気が変わった。なんだか動揺しているようだった。でもどうしても聞いておきたい。すっごく気になる。


「私、この絵をたまたまここで見つけて、これを見て入部を決めたんです。この絵を描いた人は部員なんですか?それともOGとか……」

「……」


 先輩は答えない。何かマズイことを聞いてしまったんだろうか。日が沈みつつあるせいで、先輩の表情がよく見えなかった。


 うーん、と先輩は小声で言いながらドアの近くまで移動してスイッチを押した。部屋の電気が点いて、先輩の表情もさっきと違ってなんだか明るく見えた。


「あの、先輩……」

「そっかそっか。よし!じゃあ佐藤さんには2年生をひとり担当に付けよう!ちょっと待ってね……」


 先輩はポケットから生徒手帳を取りだし、その白紙のページを破いた。そこに何かメモを書いている先輩の表情は、どことなく嬉しそうに見えた。渡されたメモにはこう書かれていた。


 “2年4組 吉田真依 090-XXXX-XXXX”


「連絡は私からしておくから、明日の放課後、2年4組に行ってみて。」

「?分かりました……」

「あっそうだ、これもだね……」

 先輩が手渡してきたのは、白紙の入部届だった。なんでだ。

 それについて尋ねようと思ったけど、先輩の有無を言わさないような雰囲気に気圧されてしまった。


「じゃあ、頑張ってね!」

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