第2話 Perfect sleep 中編

 スリープ博士の元に中東の大富豪から新たなる睡眠機器開発の話が舞い込んできたのはある日の出来事だった。大富豪がアポイントメントを取りたいと直接メールしてきたのである。始めは悪戯かと疑った。だが話を進めていくうちにメールの相手が本気である事、実在する中東の大富豪であるという事を知った。




「いやあ、実に素晴らしい。あなたの開発したOⅡは私に多くの有意義な時間を与えてくれたよ」


 大富豪は実験室に並ぶ多数の睡眠装置を愛でながら言った。彼は名をハシムと言った。ハシム氏はご機嫌だった。自らの希望を叶えてくれる人物が目前にいるという期待に満ちた表情でスリープ博士を見た。スリープ博士は困惑していた。自身の造り上げたOⅡは最高傑作だ。これ以上の改良はしようがないと自負していた。


「要件というのは他でもない。新しい酸素カプセルの事だ」

 スリープ博士は息を飲んだ。


「私の為に眠らなくていい酸素カプセルを開発して欲しいんだ」


「眠らなくていい酸素カプセル」

 スリープ教授は眉を潜めた。


「可能かね」

「不可能です。どんなに短くても人間には体と脳を休める時間は必要だ」

 どんなに睡眠時間を短縮しようともそれはムリな話である。


「なら、極力眠らなくていい装置で良い。それなら可能かね」

 うーんと唸り回答を無理やりひねり出して答える。


「人間は1時間半周期でレム睡眠とノンレム睡眠を繰り返すとされています。理論上は3時間からあと1周期時間を短縮させて1時間半睡眠で生活するという事は可能かもしれません。しかし、そうした場合人体にどのような影響を及ぼすかは実験してみないと分かりません」


「研究費用ならいくらでも出すよ。多忙な私の為に超短時間で快眠出来る装置を開発して欲しいんだ」




 結局スリープ博士は断り切れずにその依頼を受けた。研究費用も魅惑的であったがそのような装置が出来るのなら作り出してみたいという自身の好奇心も手伝っての事であった。スリープ博士は直ぐに研究に着手した。


 まず、問題となるのは装置内の気圧であった。酸素カプセルとは通常の気圧よりも高めた気圧の中で呼吸する事により酸素を通常よりも血液中に溶けやすくするシステムだ。これまでの旧式の酸素カプセルは1.3気圧までを採用している事が多かった。 


 OⅡはそれを凌ぐ1.5気圧を採用していた。1.3気圧を越える気圧を掛けるという事はOⅡの発売当時異例中の異例で各方面から人体に与える影響が計り知れないとバッシングを受けた。新機器開発にあたりはそれを遥かに超える1.7気圧を加圧するという事を計画した。


 実験は自分自身の体を使用して行った。実験場所は自宅のOⅡの中。いつもより高められた気圧の中で「ふうーっ」と息を吐く。タイマーを1時間半後にセットしていつも通り5時に床に就いた。普段なら8時に起きるはずだが、その日は目覚まし通り6時半に起きた。目を開くとグルグルと眩暈がする。耳抜きをし、手を小窓に向けて伸ばす。伸ばした手にはビリビリとしびれる感触があった。しかしながら、脳には十分に寝たぞという妙な爽快感があった。


 スリープ博士はそれらの事象を実験ノートに記録した。寝る前の体調、就寝してから眠りに就くまで、起きてからの様子、体の変化、不安感の有無、その他事細かなことまで記す。


 博士は洗面所に行き鏡を見た。洗面台に手を突き自身の目をじっと見つめた。そして鏡に近づきニッと笑った。誰も返事を返してこない。疲れた男が鏡の前で不気味に笑っているだけだった。気分は少しハイだった。眠れていないせいかもしれないと思った。




「やあ、お早う」

 ご機嫌に手を挙げながら秘書に挨拶をする。


「おはようございます」

 若い秘書は席に着いたままで挨拶を返す。


「今日の私はどこか変じゃないかね?」

「いいえ、どうかしたんですか?」


「1時間半しか眠っていないんだよ。それも1.7気圧でね」

 まあ、という顔をして秘書は口元に手を当てた。


「お加減は悪くないのですか」

 秘書は心配そうに問うた。


「変な爽快感が有るよ」

 スリープ博士は自身の手を握りながらその動作を見つめた。寝起き直後に有ったしびれはすでに消えていた。


 スリープ博士は自身の執務室にこもるとノートを広げて思う事を書き綴った。まず、就寝時間が問題だろうと思った。昨夜は5時に就寝したが、人間の体は朝日を浴びて体内時計をリセットし、血圧やホルモン分泌、自律神経の調節等を行う。 


 起きてすぐ朝日を浴びるにはいつも通り8時に起きるのが望ましい。したがって寝るのを6時半にする必要性があった。次に新陳代謝の向上だ。夕べはシャワーで済ませたが新陳代謝を向上させるために湯船に浸かり全身をぽかぽかと温めてから寝る必要性が有ると感じた。また、夕べは興奮してか少し寝つきが悪かった。アロマの効果を利用して速やかに眠りに入るという一案をノートに書き込んだ。


 寝ていない間もどうやって速やかに眠るかという事ばかりを一生懸命考えていた。普通の感覚ならばこれこそ時間の無駄と思うのだろう。しかし、スリープ博士はそれが自身の仕事だった。スリープ博士は実験室のある1階に降り、中に居た研究員達に声をかけた。


「1.7気圧で実験したいのだが誰か付き合ってくれないか」

 実験室中がざわざわとした。


「1.7気圧というと医療用ですよ。酸素中毒になる恐れもあります」

 女性の研究員が言った。


「夕べ実験したが大したこと無かったよ。誰か手伝ってくれないか」

「試されたんですか。なんて無茶な」


「給料は弾むよ。新しい装置の開発に必要な実験なんだ、誰か協力してほしい」


 皆二の足を踏んでいたが、誰も名乗り出なかった事から博士がやや不機嫌になると、空気を読んだ1人の30代の研究員が名乗り出た。彼は髪とひげが伸びざらしの無精な風貌である。


「1時間半で良いんですよね? 終わったら起こしてくださいね」

 彼はカプセルの中に横たわって小窓を閉めながら言った。


「具合が悪くなったらすぐに窓を叩くんだよ」

 スリープ博士は真剣な面持ちで言った。彼はカプセルの中に横になると速やかに眠りに就いたようだった。スリープ博士は彼が目覚めるのを静かに待った。


 1時間半後、彼は装置からゆっくりと出てきた。

「どうだい具合は」

「快適です」


「手のしびれ何かは」

「無いですよ、調子いいかもしれません」

「実用化は行けそうだと思うかい」


「それはどうでしょうね」


 スリープ博士は眉をひそめる。


「僕がたまたま持病も無くて健康体だから調子がいいだけの可能性も有りますよね。カプセルに入ったのが年配や持病のある人ならば事情が変わるかもしれません。1.7気圧は本来で言うと酸素中毒を起こすと言われている数値ですから」


「そうか」


 スリープ博士はやや肩を落としながら頷いた。自身が朝起きたとき手のしびれやら眩暈を起こした事を思い出したからだった。スリープ博士はその後数人の研究者にも協力してもらいデータ収集を続けた。1.7気圧で1時間半寝てもらい血液検査をする実験行動の繰り返し。13人に寝てもらい体の異常を訴えたのはその約3分の1の4人だった。残りは異常を感じないものの変に爽快だという意見が多かった。酸素過多でハイになっているのだろうというのが自身の見解だった。

 その日は実験に明け暮れて、気が付くと23時を回っていた。


 帰りの車の中でスリープ博士は今朝立てた計画を頭の中で反復していた。5時まで雑務をして風呂に入って湯船に浸かり、6時半に床に就く。その時にアロマを利用して入眠し、そして1時間半後の8時に起きて朝日を浴びる。シミュレーションは完璧だった。スリープ博士はその通りの行動をとった。


「ふぁあ」


 スリープ博士はきちっと8時に目を覚ました。昨日見られた手のしびれなどの異常は無かった。朝日を浴びたせいか気分はすこぶる良かった。それを実験室から持ち帰っていたノートに記録した。ノートに記録し終えたところで博士は部屋を見回した。


「さてと。働きに行くか」




 スリープ博士は9時ちょうどに研究所に出勤した。皆も来ていて軽やかに「おはよう」と挨拶する。博士はパソコンを開きメールをチェックした。何千件にも及ぶメールの中から本実験の依頼主であるハシム氏からのメールを見つけた。


――実験の具合はどうですか?


 短文だった。「どうですか?」……どうなのだろう。上手くいっているのだろうか。寝ていないせいか気分はハイだがどこかに違和感が残ってそれが拭えずにいた。けれど不思議と眠たいという感覚は無く、上手くいっていると言えばいっている。即座にタイピングする。


――順調です。


 送る時少しだけ躊躇した“順調です“と返せばそれだけ向こうも期待する。そうなると、もはや出来ませんでしたと後戻りできない気がしたからだ。


 午前中は本を読んで過ごした。静かであるにも関わらず読書ははかどらなかった。一行読んで、もう一度同じ行を読むという事を何度か繰り返し、博士は実験ノートに『集中力低下↓』と書き記した。


 ノックして秘書が入ってくる。彼女も睡眠時間は3時間のはずだ。彼女に限った事ではない。ここのスタッフは皆三時間睡眠のショートスリーパーだ。だが、自身の1時間半と3時間の間には、とてつも無い差があるかのように思われた。


「1時間半には慣れましたか?」

 秘書は温かいコーヒーを淹れてきてくれていた。その気遣いが温かかった。スリープ教授はカップを近づけコーヒーの香りを自身の鼻元でくゆらせた。


「1時間半はきついな。これは商品化するのはどうも無理じゃないかな」

 はあっと温かい息を吐きながら全身の溜まった疲れを吐き出すように答えた。実際眠気は無いものの全身に倦怠感があった。


 スリープ博士は実験室に降りた。スリープ博士は実験室に置かれた数十台のOⅡを眺めた。眺めたというより愛でたと表現した方が良いかもしれない。OⅡのヒットがこの研究所の設立に一役買った。この機械が売れなければ今の自分の地位は無かっただろう。すなわち博士にとってOⅡは人生そのものだった。


 博士はOⅡの開発にあたり大切な家族を無くしていた。OⅡの開発に没頭し妻に離婚されたのだ。妻はOⅡが製品化されるよりひと月と少し前に幼い2人のわが子を連れて出て行った。それ以降月に1度は面会させてもらえるものの何とも短い時間の様に感じていた。


 OⅡはわが子だ。同分野の研究者と相席した時にそう述べる事もあった。OⅡの開発成功は大事な家族と引き換えだった。しかし、妻の立場から言えば当然だったろう。睡眠時間3時間の夫に合わせて自身もその生活を続けるなど言い尽くせぬ苦労があった事だろうと思う。妻の苦悩に気付かずにいた事だけは後悔してもしきれなかった。


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