Perfect sleep

奥森 蛍

第1話 Perfect sleep 前篇

 “寝ている時間がもったいない“


 どこの誰が言い始めたのだろう?


 西暦2100年、生化学の世界的権威ウィリアム=スリープ博士は『睡眠1日3時間論』を提唱した。彼の開発した超酸素カプセル『OⅡ《オーツ―》』は爆発的ヒットを呼び、それが世界の常識と定着しつつあった。OⅡでの3時間睡眠は従来の8時間睡眠に匹敵するほどの良質な睡眠をもたらし、国民1人に1台、酸素カプセルの普及は人々の社会活動そのものに多大なる影響を与えた。

 睡眠時間3時間、労働時間16時間が標準の革新的時代がやってきた。



       ◇



「本日のゲストはウィリアム=スリープ博士をお招きしています。スリープ博士こんばんは」

「こんばんは」


 高名な司会者に紹介されてウィリアム=スリープ博士は優雅に白髪交じりの頭を下げる。


「いやー、すごいヒットですねOⅡ、私もこの間酸素カプセル新調したばかりなんですけどね。良いですよねアレ」

「お褒め頂き光栄です」

 こうしてテレビに招かれたのも、もう何度目か。博士自身覚えてはいない。


「たった3時間眠るだけで8時間分の睡眠がとれちゃうなんて夢の様な装置ですよね」

「はい。従来は、人は7~8時間程寝るのが健康的とされていたのですが超酸素カプセルを使用する事により、短時間でより高度な疲労回復が可能となりました」


「今や国民1人1人がそれぞれのMY酸素カプセルを所持する時代となったわけですよね。この事に関してはどうでしょう」

「非常に素晴らしい事と感じています」


「しかしね、博士……」

 小気味良い会話に声を挟んだのはフレデリック医学博士、彼もまた生化学の分野における睡眠のスペシャリストだ。


「我々人類は睡眠により成長ホルモンの分泌を促してきたんですよ。それが睡眠時間が極端に短いと成長ホルモンの分泌そのものを妨げる恐れがあるんです」


 顔をしかめるフレデリック博士にスリープ博士は毅然と答える。


「成長ホルモンは高濃度の酸素によって効率良く分泌される事が研究結果で分かっています。分泌された成長ホルモンは新陳代謝を促して骨や筋肉、皮膚に至るまで様々な部位の疲労回復に効果があるとした研究結果が有ります。超酸素カプセルは人類の疲労回復に極めて有効です」


 フレデリック博士はそれでも納得いかぬと追加の口を挟む。


「いえね、疲労回復に有効であることは僕も認めますよ。ただね、酸素カプセル3時間プラスアルファの睡眠が必要ではないのかと言っているんです」


 なるほど、と相槌を打ちスリープ博士は応じる。


「睡眠が何のために必要かという事をお考え頂きたい。睡眠は脳と体を休めるために必要なものなのです。超酸素カプセルOⅡはそれを可能にした。実際、世の中の人々は睡眠時間3時間労働時間16時間という世間の流れに逆らうことなく順応しつつある。疲労が蓄積して健康障害を起こしたという事例はこれまで報告されていません」


 フレデリック博士はため息を吐いた。理解しがたいという不満を前面に押し出して。


「脳を休めるにはですね、ノンレム睡眠という睡眠が必要なんですよ。人間の睡眠には浅い眠りのレム睡眠と深い眠りのノンレム睡眠があるわけですが、人間は1時間半周期でこの2つの睡眠を繰り返す事が知られているでしょう。この睡眠を4~5回繰り返す事により脳も体もリフレッシュするというのが人間の本来の睡眠なんですよ」


「眠らなくていいのなら眠らなくていい。寝ている時間がもったいない。我々は超酸素カプセルにより質の良い睡眠を手に入れたわけです。しっかり眠ったのなら後は起きて懸命に働く、それが人間の未来の姿だとは思いませんか。フレデリック博士もOⅡをお試しになってはいかがです」


 手を広げ饒舌に語るスリープ博士を目前にしてフレデリック博士は首を振る。

「結構です」




「ありがとうございました」

 番組の収録が終わるとスリープ博士はその場でスタッフに挨拶をした。


「スリープ博士」

 席を立つと同時にフレデリック博士が駆け寄ってきた。


「いやあ、貴重なお話を伺えて光栄でした」

 スリープ博士は求められて握手を返した。収録中はあまり良い空気でもなかったのだが彼は後腐れなく笑顔を浮かべている。


「今日お時間ありますか。この後お食事でもご一緒にと思ったのですが」

 スリープ博士はスマートフォンをタップして予定を確認する。


「21時から雑誌のインタビューが有るので深酒は出来ませんがそれでよろしいければ」

「十分です。先日美味しいイタリアンの店を見つけたので、そちらでご一緒しましょう」



       ◇



「どのくらいぐっすり眠られていないのですか」

 フレデリック博士は大ジョッキのビールをグイッと一口飲んでコップを置きながら問うた。


「ぐっすり? 私はいつでもぐっすりと熟睡ですよ」

 スリープ博士は口元に笑みを浮かべる。


「はは、質問を間違いましたね。いつから3時間睡眠を続けておられるのですか」

 質問の意図が決して分からなかったわけではなかったが、そこはスリープ博士自身のこだわりだった。笑みを作ると気さくに答える。


「もうかれこれ5年になります」

「5年? その間ずっと3時間睡眠なのですか。どこか具合が悪いとか有りませんか」


「いいえ、すこぶる快調です。3時間睡眠というのは元々ショートスリーパーの私の体質に合っているようです。勿論OⅡを使っての話ですが」


 ひどく心配そうにフレデリック博士は声を静める。

「健康診断などは受けられていますか。体の精密検査などは……」

「私自身が実験体のような物です。検診は欠かしませんよ」


「そうですか。私なんか毎日8時間は寝ているんですがコレステロール値が高いと指摘を受けましてね。羨ましい限りです」


「博士もどうです。収録ではお断りになられましたが1度OⅡを試されては」

 するとフレデリック博士は苦々しい笑顔を浮かべる。


「いやあ、私は古いタイプの人間でして。イマイチ文明の力というものに頼る気になれんのです。どうしてもやっぱり自然の状態で寝ないと気持ちが悪くて」


「寝ている時間がもったいないと考えた事はありませんか。1日の内8時間寝ていると人生90年とした時、人は一生のうち30年分は寝ている計算になるんですよ」


「そう言ってしまえば反論の余地もありませんが」

 ははっとフレデリック博士は笑う。


「私は小さな頃から人が眠るという行為に懐疑的でした。実に生産性の無い勿体無い時間だと思った。眠る時間を短縮してしまえばその分労働する時間が増やせるのです」


「随分と働くことに意欲的ですな。爪の垢を煎じて飲ませて貰わなければなりません。私はそれ程働きたくありませんから。博士は仕事の虫ですね」

「はは、我々のような仕事は注目され稼げるうちが華です」


 実際、スリープ博士の予定はすし詰め状態だった。この後、21時から雑誌のインタビューをこなし、23時から書籍出版の打ち合わせで午前3時から深夜ラジオの生放送をこなし、床に就くのは午前5時になる予定だ。睡眠時間はきっちり3時間で守り続け、世間の誰よりも濃密な日々を送っていた。




 スリープ博士はフレデリック博士との短い食事を終えると街に繰り出した。街はネオンが明々と燃えていた。スリープ博士の開発したOⅡが普及して以降、街は文字通り眠らない街となった。人々は不眠不休で働くようになり、デパート、スーパー、ショッピングモールなども24時間営業が普通で、夜中の2時でもそこには大勢の人々の姿が溢れていた。


 超酸素カプセルを買うという事は時間を買うという事を意味していた。眠らなければいけないはずの時間を、仕事をしたり読書をしたりまた趣味の時間に充てる事もできる。充足した人生を送るには必要な時間なのだ。人々はこぞって時間を買った。

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