第19話 お互いの成長、追う側と追われる側

 椋田くらた陽菜はるなの行動を追うのは、難しい。

 猫のように気まぐれで、どこにいるのかと思えば、自室にこもっていたりもする。鷺城鷺花との訓練はしているようだが、ほかに何をしているのかと問えば、勉強だと、短い言葉が返ってくる。

 仲が悪いわけではない。

 ただ、手がかからない猫だ。

 メモに使っているノートは、屋敷で生活を始めて三ヶ月、既に二十冊を越えており、日に焼けたような表紙をしているのは、それだけ読み返したり、使う頻度が高いことの証明だ。読んでも構わないと言われて藍子あいこが読むが、内容はほとんどわからない。

 思考の飛躍が激しいのと、魔術的な要素が多すぎるのが原因だ。

 おそらく、これはほかの三人も認めているだろうが――きっと、魔術師としては、陽菜が一番、鷺花に近い。現実として、陽菜のノートを挟んで、二人が話し合いをしている光景は、よく見る。

 羨ましいとは思わない。妬みもない。ただ凄いと思うし、それを理由に諦めることもないので、それは当たり前の光景として映った。

 まあ、しかしと言うべきか。

 そんな陽菜と、話を合わせられるファゼットの知識量には、嫉妬というか、こいつはなんで知ってるんだと、追及したくもなるが。

 デディから見れば、ファゼットの知識量は普段からの積み重ねだ。隠れてこっそりやっているわけではなく、陽菜のようノートを手に部屋の中にこもるのではなく、日常生活をしながら、思考を深くしているだけだ。

 このあたりは資質の問題だ。これまでの生活が違っている結果であって、挽回したいのなら、自分なりのやり方を考察するしかなく、比較するものではない。

 しかし今日は、珍しく。

 全員が表の庭に出ていた。

「さすがに面倒だから全員でやるわよー」

 そろそろ暑い季節だというのに、鷺花は黒色のロングコートを着ており、全員が揃ったのを見てから、腰と胸下、首元にあるベルトを締める。

「屋敷の全域に術式を布陣しておいたから、今日は出ないように。これから実感するから説明は不要――と言いたいところだけど、優しい私はルールの追加と共に、説明してあげる」

「ありがとうございまーす」

「簡単に言うと痛みはあるけど死ぬことはないから。三ヶ月、そろそろ鼻が伸びてきた頃合いだから、頭を押さえる意味でも、折っておこうかなと思ってね」

「先生ー、いつも訓練をするたびに折られてるので、鼻が短くなってんだけどー」

「畑中、それは可愛い顔になったから感謝するってことでいいのね?」

 返事はなかった。

「休憩以外で屋敷の中に入らないこと。あと、水や食料を供給するフェリットに危害を加えると、彼女の望みを私が聞いてから実行するので気をつけること。基本的には得物も術式も使って良し。ただ、相手の体内に直接針を転移させたりするのは駄目。つまり空間転移ステップなら移動限定。わかった椋田?」

「うん」

「あとは――まあいいか、面倒だ。じゃあ最初は、そうね、お互いにやり合うか、私とやるか、決めなさい。はいじゃあ私が相手ね」

 吐息を落としたのはファゼットで、肩を竦めたのがデディだ。

「喜べよデディ、どうやら今日はストレスが発散できるそうだ」

「それのどこが喜べるポイントかな? どうせ、――今日溜まったぶんのストレスは発散できない」

「はいはい、質問は?」

 迷わずファゼットが手を上げた。

「なあに?」

「汚れた庭を掃除するのは誰だ?」

「ああ、そこはフェリットがやってくれるわよ。その代わりに今日の夕食は私が作るけど。ほかは? ――よろしい。じゃあ、注意点。痛いから我慢。あとかなり再現度が高いから、気持ち悪くて吐くでしょうけれど、我慢。いいわね?」

「精神論じゃん……」

「嫌なら逃げ回ってなさい」

「そっちのがイヤ!」

「畑中は素直ねえ」

 そして、鷺花はそれを左手に作った。

「これが刀。畑中とエミリーには小太刀を渡したけれど、それの長いやつ。私の腕もまた鈍ってるだろうけど、最速と呼ばれる居合いを、それなりにやってみるわ。私の父親が得意にしてたんだけど……」

 珍しく、呼吸を整えるように鷺花は深呼吸をした。

「じゃあ、遊びましょう」

 散開するかどうか、その指示にも似た視線を向けたのは陽菜で、その瞬間に鷺花が刀のつばを左手で押し上げたのを、全員が見ていた。

 そして、右手が柄に触れて、僅かに手がブレるような動作が二秒以内に見えて、だから散開の動きをしようとした時に、かちんと、音を立てて刀が納められた。

「う――」

「おえっ」

 全員が動きを止め、首元を押さえたデディと藍子は、小走りに庭の隅に行って吐いた。

 ぎりぎりで回避して、首ではなく腕を斬られた二人は、実に嫌そうな顔である。

「んー、三割か……」

 ファゼットはその言葉を聞かなかったことにして、左腕を見た。

「随分とリアルだな――痛みは、加減しているようだが」

「上限があるんじゃない?」

 気持ち悪くて吐く気持ちは、わかる。金属が肌にずるりと入り、次第に深さを増して行って骨を断ち、そのまま反対側まで斬られる――それは痛みを伴うが、当然のことながら感触も伴っていて、それがどうしようもなく生理的に受け付けない。

 のこぎりで切られれば痛みが先行するのに、刃物で上手くやられると、感触ばかりが先行して、胃の中がひっくり返るのだ。

 我慢できるのは、似たような経験があるからであって、それでも内臓の中で、何かがぐるぐると回っているような感覚がある。

「おい鷺城」

「ん? そろそろ続ける?」

「痛みの上限は?」

「死なない程度にはかけてるわよ。布陣した術式に関しては、それほど難しくはないんだけど……詳細はまた今度ね。さて、ここから私が惨殺を繰り返しても良いんだけど、それは腕を戻してからね。そっち、そろそろ復帰するでしょうし、やり合いなさい。初めてでしょ? ちゃんと楽しむのよ? ――できるだけ、追い詰めてね」

 性格が悪い、と思うのはいつものこと。

 だが今回に限っては、必要なことだとファゼットは小太刀を左手に持って、振り返った。

 立ち上がった藍子が、右の小太刀を引き抜いている。

 腰裏からデディが、拳銃ハンドガンを抜いていた。

 ――戦闘の開始は、陽菜が投げた針を避けるところからだ。

 デディが持つ拳銃は、ここ二十日ほど集中して扱っているが、まだ狙って撃たなくては当たらないレベルだ。

 模造品レプリカだと言っていたCZ75は、スチールのフレームを鳴らしながら銃声を上げ、ここ一ヶ月でそれを随分と聞いたなと、第三者としての立ち位置で、フェリットは思う。

 両手を前で揃え、露出はほとんどないロングスカートに、きちんとヘッドドレスもつけた侍女服を、汗一つ見せずに着こなし、あくまでも冷静に状況を目で追った。

 三ヶ月だ。

 一応、花蘇芳はなすおうの中で教育係の立場にあるフェリットとしては、この現実を認めたくない気持ちもあった。

 おそらく、自分どころか、花蘇芳の誰もが、この四人を殺すことはできないし、技量そのものも越えてしまっている。報告はまだだが、この中の二人が敵対した時点で、花蘇芳は組織として終わるだろう。

 何故、こんなふうに育てられるのだろうか。

 少なくとも自然体で周囲の警戒を行えるようになったのは、気まぐれに鷺花が殴るからだろう。一ヶ月前くらいからそうだったが、フェリットが気配を隠して足音も立てず移動していても、彼らが先に必ず気付く。暗殺しようと思ったら、相当な条件が必要だ。

 正面からの戦闘技能は、見ての通り、もう追いつけない。

 相手に合わせているのは、わかる。わかるというか、気付けた。

 週に一度か二度ほど、最近はよくメジェットが顔を見せて、鷺花が直接面倒を見ているのだが、その成長は驚くほど速い。もちろん、教えを飲み込むメジェットの理解力が高いのも事実だけれど、それにしたって。

 度合いが違うのだ。

 合わせる深さが違い過ぎる。

 まるで、成長する先が目に見えていて、それを求めながらも寄り道をさせるような――。

 大勢を教育すれば、こうなる? むしろ、一人をきちんと育てないといけない気もするが、それにしたって凄い。

「――そうでもないわよ」

 いつの間にか、隣にきた鷺花が簡易テーブルの上にあるカップを手に取り、水を注いで飲んでいた。本来その仕事は、フェリットのものなのに。

「失礼しました」

「いいのよ」

 水を飲んで、一息。

「最初は試行錯誤したけれど、経験というか、私にとっては戦闘と同じなのよ」

「戦闘……ですか?」

「最初のうちはね? 自分が覚えた技を、相手にどう通じさせようか。時には、通じさせるための技術を使って場を動かそう――そうやって戦闘を考える。フェリットもそうでしょう?」

「はい。それが戦闘の基本なのでは?」

「そうね。でもそれは基本であって、応用ではないの。戦闘レベルが一定以上になると、読みの精度そのものが必要だと気付く。対峙した相手が何をして、どうやって、戦闘を構築するのか」

「確かに、それを知っているか否かは、重要だと思いますが、それもまた、こちらの技術をどう扱うかの判断基準なのでは?」

「そうね。けれど人は、ナイフを首に刺せば死ぬのよ? そして、大抵の人間はその行為を可能とする。相手が行動を起こす前にやるのが、暗殺。相手の行動を見切るのが熟練者。隠していても、隠していることが実力そのもの。だから読みを深くする」

「――未熟な部分まで、ですか」

「成長可能な余白までよ。あとは、そこを伸ばす方法を知っているかどうかだけ。こっちに経験は必要だけれど、私にできることなら教えられる」

「なるほど、的確なのですね」

「効率的と言ってもいいわよ」

「では質問を一つ」

「どうぞ?」

「競い合いを発生させるためには、お互いに戦闘をさせた方が良いと考えていましたが、これまで彼らをお互いに訓練させなかったのは、何故なのですか?」

「どうして今なのかと、そう問わないだけ考えてるわね」

「ありがとうございます」

 同じ気もするが、フェリットは過去を含めた過程を質問したのであって、今の現状から先を考えたものではないのだ。

「結論を簡単に言うと、競い合いなんてものは、お互いに戦闘をさせなくても簡単に作れるから。今までやらなかったのは、意識の違いそのものが悪影響を及ぼす可能性を考慮してのことね」

「スタイルの問題でしょうか」

「結果的にはそうだけれど、ちょっと早急過ぎる結論の出し方ね。椋田もエミリーも、基本的には殺すことを前提にしてる。けれど、藤崎と畑中は結果的に殺すだろう技術を得ている。わかっていたことでも、目の前の現実とは違うものは――なに?」

「……感情、でしょうか」

「そう、この場合は恐怖ね。殺すかもしれない、あるいは、殺す可能性がある――そういう立場と、殺さなくてはならない立場の差。死を間近に感じたことがあるかどうかも、そうね。だとしても――タイミングは重要なの」

 ただ。

「勘違いしないで。きっと怖いのは、エミリーや椋田も同じだから」

「そう……なのですか?」

「二人はもう型ができていた。それを伸ばすのが、本人たちも良かったんでしょうけれど、逆に型のない藤崎と畑中は、基礎を徹底するやり方から、派生させた。今までずっと、二人は先を歩いてた。藤崎たちはその背中を見ている――ところで、今の形勢は?」

「……身内贔屓があるかもしれませんが、ファゼと陽菜が優勢でしょう」

「そうね。それは二人もわかっているけれど、間違いなく近づいていることにも気付いてる。だったら? このまま続けたらいつ追いつかれる?」

「ああ、なるほど。二人の性格からして、追いつかれるのは嫌そうですね」

「さて、ここで問題。零からの成長と、三からの成長だと、前者の方が幅が大きいものだけれど、それが続くわけではない」

「しかし――成長の停滞が、あるとは限らない、ですか」

「焦るわよね?」

「なるほど」

 そういう狙いがあったからこそ、このタイミングでの手合わせだ。全員が、何かしら得るものがある最大値を狙ったような――いや。

 最大とは、言い過ぎか。

「うちのメジェに対しては?」

「どうするかは、そっち任せだけど、教育者に必要なことって、基礎をきちんと教えてあげることが一番なのね。土台を作ってやれば、その大きさに応じて、自分で成長はしていくから。もちろんそれ以降もできるなら、それに越したことはないけれどね」

「メジェには、そういう素質がある、と?」

「素質かどうかは知らないけど、浅く広く幅広くできるなら、誰にだって教えられるでしょう? だから、それぞれを教えながら、それを繋げて大きな一つになるような道を見せてるのよ。ただ、あまり教えすぎると道が決まるから、それは避ける」

「あくまでも見せて、選ぶのはメジェだと」

「誘導は多少入れてるけれどね。先を見据えなくて良いってのは、教える側も楽でいいのよ」

「――ならば、彼らの先は?」

「私に追いつくか、外に出ても無事でいられるか、どっちが簡単かしらね」

 どちらかはともかく、そのくらいの想定はしているらしい。

「さて、一時間くらいかしら。そろそろ休憩なさい!」

 水と軽食の用意を手早く行えば、鷺花と入れ替わるようにして四人がやってきた。呼吸は荒く、会話をする余裕はまだないのか、真っ先に水を手にする。比較的、余裕があるのはファゼットだが、取り繕っているのがフェリットにはわかった。

 十五分ほど、落ち着く時間があり、まさに鷺花が言っていた思考を、彼らは行っているのだろう。

 藤崎デディと畑中藍子は、自分の中の恐怖と見つめ合って。

 ファゼット・エミリーと椋田陽菜は、二人の成長具合を気にしている。

 ただ、庭に一人で立った鷺花が、短く息を吐いただけで、全員の視線が向いた。空気が僅かに揺れるような感覚があり、決して張り詰めず、鍔を押し上げた。

 手が、柄に触れる。

「――」

 今度は気付けた。

「隙間を斬ってるのか……? デディ」

「僕よりも藍子さんだね」

「あーうん、そうね。現象としては本来、空気を斬れば揺らぎがある。ともすれば、斬られた空気がから、風圧を感じてもおかしくない。ただ、威力とは別で、たとえば綺麗に切断すると元に戻せるから、そういう感じで斬ったのかもしれないね。限りなく細い線で――いや、どれだけ細いんだよって感じだけどさ」

「間合いが外れてるのに斬れた理由は」

「それは斬戟を飛ばした――と、思う。魔術的な要素じゃなく、空気を斬るのと同様に、遠当てなんかと違って、斬戟そのものの効果をある一点に発生させた? んー……ちょっと違うか」

「形のある衝撃が飛んで来る、そういうイメージなのは確かだろうけどね」

「ただあれ、気付いた瞬間にもう斬られてるんだけど……」

「そこだね」

「うーん……鷺城先生! それ小太刀でもできる?」

「あんたの鍔ありの小太刀なら、ある程度はできるわよ」

「そっか。ファゼットはできないね?」

 ファゼットの得物と、藍子が左手で扱う小太刀には、そもそも鍔がついていない。逆に言うと滑るよう抜け落ちるので、鍔を押し上げる必要がなく、納刀を頻繁にする利点がある。しかし、防御の点において鍔のありなしは大きく変わるし、扱い方も難しい。

「あーくっそう、殺され回避はできても、それだけじゃあなー」

「デディの武装が面白いな」

「あ、うん、それ、なに。それあったら私の針いらない……」

「いやあ、僕が使ってる限りじゃ、針の方が汎用性は高いと思うよ。簡単に言うと、金属と射出する装置だね。弾丸そのものは仕組みも材料も知ってるから、僕の創造系術式で作ってる。十五発かな。有効射程は五十メートルだけど、距離があっても通用はしないね。もっと大きい代物だと、千五百ヤードくらいが有効射程だ」

「千五百!? マジで? 軽く計測しても初速が最低でも700メートル秒くらい必要じゃない? 放物線を描いた威力減衰があったとしても、着弾したら死ぬでしょ」

「結構な速度だったよ。着弾してから音が聞こえるくらいだから、まあ反応が難しい」

「よく生きてるなお前」

「なんとかね。――おや?」

 屋敷の入り口に顔を見せたのは、メジェットだった。長い髪を後ろで括っており、動きやすい服装で、しかし入る前に首を傾げて。

「こんにちはー!」

 まずは挨拶、そして。

「先生、これなんかやってる?」

「気にしなくていいわよ、入っておいで」

「はい」

 中に入ってきたメジェットは、真っ先にこちらへ来て。

「邪魔だったかな?」

「鷺城さんが言う通り、気にしなくていいよメジェット」

 デディとは、拳の上下を打ち合わせるような挨拶。以前に言ったよう、二人は友人だからだ。ファゼットはその頭を軽く撫でるだけ。それぞれに挨拶を済ませたメジェットは、鷺花のところへ。

「あれ? 先生、その得物なに? 私それ、初めて見たかも」

「刀と呼ばれているものよ。金属をハンマーで叩いて伸ばして、それを折り曲げてまた伸ばして、それを何度も繰り返した先に作られる。使ってみる?」

「うんやる」

「じゃあ両手上げて、右利きだったわね? たぶん重いけど」

 新しく刀を作って、装着を始める鷺花を見て、藍子は半目になった。

「あれー? なんでメジェットにはそんな優しいの? 鷺城先生、ちょっと、おかしいでしょなんか!」

「馬鹿ね畑中、――メジェットの方が可愛いもの」

「なぬ!?」

 男二人と、フェリットが二度ほど無言で頷いていた。

「あ、このやろっ!」

 藍子が小太刀を引き抜くのを合図に、戦闘が再開された。いつもの光景である。

「お、おおう……ファゼ兄たち、なんか始めてる」

「いつもよ。喧嘩して遊んでるようなもの――はい、これで良し」

「ありがとう」

 どうすればいいのかわからず、両手を軽く上げたまま視線を下げるが、左の腰にある刀はやや長く、ナイフや剣よりも重さがあった。

「左手はここ」

 手首を取って、左手で鞘を掴ませる。

「親指で軽くつば、その楕円形のところを押して、右手は鍔の傍、そう、軽く抜く。見ての通り、刃の部分が上に向いていて、後ろを見ると先端が下がってる」

「うん、曲がってるのね」

「じゃあ基本から。引き抜いてみなさい」

「――これ抜けない」

 言ってから、右手を伸ばすよう引き抜けば、腕が伸びきった地点でも刀身は鞘に残ったままだ。

 こういうところが、鷺花が好む理由にある。

 やる前に気付く。そして、確認するようにそれを行う。当たり前のことかもしれないが、それが重要なのだ。

「躰の成長に合わせてある程度は調整するものだけど、躰を捻るようにして抜く」

「あ、腰ね」

 それでもまだ長さが足りなかったが、鞘の端を軽く引っかけるようにして抜けた。

「左手も柄を握る、両手を離して、正眼。両手剣と同じで真正面ね」

「こう?」

「ちょっと違う。両手剣の場合は下で構えるけど、刀の場合は両手を軽く前に出す感じで正面ね。脇を締めて、そう、切っ先は相手の喉元。私だとちょっと背丈があるから、胸の付近でいいわ」

「このあたり?」

「そう。基本動作その一、振り上げて下ろす」

 言われ、僅かに考える時間があってから、メジェットは両手で持ち上げるようにして、そのまま振り下ろした。そこで動きを一度止めて、また正眼へ戻す。

「こう?」

「剣と違って、刀で斬るのは難しいの。叩きつけるだけじゃ基本的には斬れないから、引いてやる必要がある。上げて」

「うん」

「そこから、右足を踏み出しながら、腰を軽く落とすように、引いて下ろす感覚」

 呼吸を止める、踏み込み、そして斬って下ろした。

「そう、それが斬り方の基本。訓練としては、今の動作をステップをしながら繰り返す。前へ出て振り下ろし、振り上げと共に下がる」

「……うん」

「納刀、左手を鞘に。そしたら親指の付け根付近を、刀の背中、刃になってない部分を当てて、そのまま切っ先まで滑らすようにして、鞘の入り口へ誘導してやる」

「うん、――、よし、こうかな」

「音がするまで入れる」

 かちんと、鍔鳴り。

「先生」

「はいはい、質問ね」

「たぶんこの、刀は、凄く斬れると思う。ええと……こういうのはデディさんがよくわかると思うけど、こう、包丁で食材を押して切るみたいな感じで」

「そうね。押すというより、滑らしてるものね」

「それ以外の利点って、なんだろう」

「何故?」

「剣よりも、よっぽど技術がいるよね? 簡単に振り回せない――あれ? 藍子ちゃんが使ってるのって……」

「そう、あれは小太刀。これよりも短いものを、二本ね」

「……あれはでも、

「その通り」

 だけど、何故か藍子だけちゃん付けなのだが、突っ込んだ方が良いだろうか。いや、やめておこう。

「確かに、威力もあるし、何よりも折れにくい。それに――まあいいか。ちょっと藍子!」

「はーあーい! ちょっ、追撃すんな! ぱんぱんうるせえよデディ! ……で、なに鷺城先生」

「よく見てるのよメジェット。――はい、藍子」

 ゆっくりと鷺花が自分の刀を引き抜き、正眼で構えれば、藍子はびくりと身を震わせてから、顔を引きつらせて半身になり、右の小太刀を引き抜いた。

 ぴたりと喉元に切っ先を向けられ、距離は三メートルある。だが対峙してみれば、その切っ先が本当に喉元にあるような錯覚を受けた。

 ――どうする。

 考えるまでもない、挑むしかないのだと踏み込もうとした瞬間、鷺花のつま先の位置が動き、びくりと躰を震わせて藍子は踏み込みの動作が止まった。

「どう?」

「威圧? 藍子ちゃんどうなの?」

「怖いこわいこわい! 距離があるのに、喉元に切っ先があんの! 右も左も動けない!」

「なるほど、正眼ってそういう効果があるんだ……」

「はい藍子、戻っていいわよ」

「はーい……ちょっと休憩する」

「ん。実際に刀を使った戦闘は、相手の動きを切っ先で封じて、一撃で決める。それなりに技もあるけれどね。ただ私の知る限り、最高速は居合いでしか出せない」

「居合い?」

「そう。刀を抜く、斬る、納める。ここまでを突き詰めた技術よ。私が知ってる居合いの、せいぜい四割くらいの速度しか出せないけど、――見たいわよねえ」

「見たい」

 目を見ればそれはわかる。子供は素直だ。まだ八歳くらいだったはず。

「じゃあちょっと仕掛けね? 私の刀でこう」

 抜き身のままだった刀を、横に動かせば、空中に赤色の線が描かれた。

「斬ると出る」

「速すぎるから、わかりやすく?」

「そういうことよ」

「じゃあよく見てる」

「よろしい。――ファゼット!」

「俺かよ……!」

「お、おおう、ファゼにいのあんな嫌そうな顔、初めて見た」

「行くわよー」

 横から見えるよう、メジェットは小走りに位置を変えた。鍔を押し上げた鷺花は右手を柄に添え、そのまま、軽い足取りでファゼットへ向かう。それこそ、小走りくらいだったため、メジェットでも充分に目で追えた。

 ――だから。

 さっきの三メートルを覚えていたメジェットは、その地点に鷺花が至った瞬間、赤色の線がファゼットの頭上から真下へと描かれたのを見た。

「はや――」

 ステップを踏む、軽いフェイントと共に右、一撃、そこから左、また一撃。

 鷺花の移動ではなく、手元を集中して見たが、手首から先が僅かに動いているようにしか見えない。

 三度の居合いを見せてから、鷺花は距離を取った。

「――よし、これくらいなら再現できそうね。はい全員集合! 今からちょっとした技を見せるから受けなさい」

「げー……」

 四人の布陣は面白い。

 藍子とファゼットが前、背後に陽菜、横にデディ。

「メジェット、見逃さないように」

「うん」

 吐息を一つ、鷺花は踏み込みを一つ、その勢いを後方へ向けた後方宙返り――大技かと思いきや、赤色の線が二つ、つまり居合いの斬戟が十字を描くよう発生した。

 大きい。

 だが発生とほぼ同時に着地、今度はバツの字を描くように居合いが二つ、これで正面はほぼ斬戟で覆われた。

 一歩。

 ただ、一歩。

 藍子は前へ向かって、抜け道を探そうと動いたが、その時に鷺花の姿はない。

「――っ」

 息を強く吐くような短い音と共に、居合いが更に二つ増えた。

 あろうことか、それは左右から袈裟、逆袈裟と、斜めに――背後にしか動けないのに、後ろに引いたところで条件は変わらない。

 迎え撃つ。

 そう判断をした矢先に、跳躍した鷺花が空中でぴたりと停止したように見えた。

 ――居合い。

 曲線、弧を描くようにして放たれたそれは、斬戟を飛ばすのではなく、彼らの頭上で放たれ、着地、それは真正面、見えたと思った頃には鷺花が奥、彼らの背後にまで抜けている。

 最後は空中と正面からの二発――であるのならば。

 総数八の居合いが、そこで全て合流した。

 かちんと、妙に静かなその場所での鍔鳴りに、メジェットは背筋がぞくぞくと震えるのを感じて、間違いなく身震いを一度する。傍で見ていたフェリットは、驚きによって動けない。

 結果だけを言えば。

 全員、崩れ落ちるようその場に倒れ込んだ。

「――ふう。ああ大丈夫、死なないようにしてあるから。だいぶ痛いけど」

 そして、全てを終えた鷺花が納刀した刀を左手に持ったまま近づいてきて、テーブルから水のコップを手に取る。

「最初の十字に続けて、バツの字を描いたのが退進すすみ、左右からのが羽音はばたき、空中と正面から最後にやったのが曲鎌まがかま、これらを総じて五ノ段、雨織アマオリと――まあ、そういう技ね。これは先手を取る居合いの一つよ」

 どう? なんて言われたメジェットは、腕をこすって鳥肌を収めながら、大きく深呼吸を二度ほどして、頷いて。

「よくわからない」

「でしょうね」

「でも、先生の移動よりも居合いの方が速いってのはわかった」

「――よろしい、いい子ね。その刀はあげるから使いなさい。刃も潰してあるし、ちょっとした術式で、切っ先もあまり刺さらないようになってるから」

「ありがとう」

「さて、また基本よ? 刀の有効範囲って、それほど広くはないの」

 足を二度ほど叩くと、四つの術陣が転んだまま起きない四人の周囲に展開し、もう一つが近くに発生し、木の棒のようなものが作られた。

「あっちのは、痛覚減衰の術式ね。いい? 実際に刀の有効範囲は、……そうねえ、抜いてから正面までが90度だとすれば、110度くらいかしら。わかりやすいよう水平にやるわよ?」

「……、あ、うん」

「そうね。それは後で」

 こちらの腰に注目していたので、苦笑しながら刀を抜く。

「正面が90度、だいたいことが110度。――で」

 もう一度、納刀から引き抜いて130度のあたりで棒に当てた。

「どう?」

「ちょっと斬れてる……というか、当たった衝撃で刺さったみたいな感じ――あ、そうか。脇も広がってるし、威力っていうよりも引けないんだ」

「そう、これだと滑らない。だから厳密には、こうやって踏み込んで、40度くらいから刀の半ばの当たりを当てて、110度に向けて滑らす。もちろんこれは、竹割り――縦の振り下ろしも同じことよ」

 ほぼ同じ動作なのに、位置を変えて棒を正面に捉えて、軽く鷺花は切断した。

「はい、これが断面」

 大きめだったので両手で受け取れば、直径が十五センチほどの丸太だが、その断面は。

「綺麗……どこも裂けてない。すごく簡単にやったように見えたのに」

「簡単にやったのよ。私には難しいけれど、熟練者がやると首を落としても、相手が死に気付かない――ああ、これは本当」

「すげえ……」

「で、さっき見てたのね。基本は正眼だけど、居合いの場合は、鞘の向きを変えることで、居合いの向きを変えることができる。そのままなら縦、薙ぐ時は横、一番難しいのは下からの居合いね」

「あー、刀身が曲がってるから、下向きに抜こうとしても、柄は上を向くね」

「そう、つまり抜く時は下でも前でもなく、上へ抜かないといけなくなって、速度が出しにくいし、初めの頃はよく手首を痛める」

 上手くやれば、それこそ縦横無尽なのかと思って、頷きを一つ。

「あれ? 先生は腰にベルトで留めてないね」

「その代わりに、左手で固定しなきゃいけないんだけど、背後への居合いはさすがに、鞘を引き抜かないと無理だから」

「――背後?」

「そう、背後。これも技だから、簡単には説明できないけれど、できるのよ」

「すごいね」

「やる?」

「やる」

 即答があって、苦笑する。

 メジェットはどちらかというと、思考を先にして予測し、理論を求めたあとで、理論に躰を合わせて行くタイプだ。こちらとしては、理論が先行し過ぎず、躰が追い付く程度に抑えてやる必要もあるが――それほど長く面倒を見れるとは思わないので、そこの境界線はほどほどに。

「居合いの鍛錬、その基本は熟練者になっても変わらない。技とかはまた違う行動になるから、置いておいて。しかもすごく簡単」

「本当の基礎ってやつね? どんなの?」

「さっきも言ったけど、居合いはまず、抜く。それから斬る。そして納める。必ず元に戻すことを前提としているの」

「それは、一撃じゃなく、次も考えるから?」

「そうね、それも間違いじゃない。うちの親父なんかだと、納刀しないと、なんて妙なことを言ってたけれどね。だから」

 そう、本当にそれは簡単で。

「いい? 斬ることの意識はもちろんだけど、抜いて110度、そこで停止して戻して、刀を納める――この時に、抜いた速度と納刀の速度を、同じにするだけでいいの」

「もちろんその場合、親指でガイドせず、そのまま刀を入れるんだよね?」

「そうね。最初は鍔鳴りがするまで、ぱちんと納めなさい。さっき私がやった技とかになると、親指で押し上げた地点に戻さないと、次が追い付かなくなるけど、それはまだ先のこと」

「構えは?」

「居合いはね? 後の先を取る動きが印象強いの。さっきの私とは違って、相手の攻撃を読んで、見切る」

「受けて斬る?」

「避けて斬る。説明した通り、刀の間合いは、長さの半ばが当たる位置」

「それを保ちながら、避けて斬る……」

「そうね。その場合、一撃で済むわよね?」

「……、……うん、首を飛ばせばいい。そして、失敗しても次は、また距離が開く。人は顔に向けられた攻撃を、後ろに避ける癖があるから」

 特に攻撃を回避され、迎撃があれば、九割は後ろへ逃げようとする。

「ああ、だから、水平の居合いで済む?」

「そう。この場合の構えは、右足を前にして軽く腰を落とす」

「うん」

 軽く躰を震わせるようにして脱力してから、メジェットは右を前へ出して軽く腰を落とす。膝を曲げて、伸ばして、弾力があるような動きをして、と言われた意味を確認した。

「左手は刀、鍔は押し上げなくていいわよ。右肩をちょっと突き出すイメージで、右手はまだ触れないで。動かしてもいいけどね。そこから、右の肩を内側へ入れる――そう、腰を捻る感じで、そう、そこでストップ。右手は柄に触れられる位置だけど、まだ腰は捻れる?」

「……うん、少し余ってる感じ」

「その姿勢、覚えておいて。これを基本とする。どう?」

「だいたい、なんとなく」

「そうね、馴染むには時間が必要だものね。じゃあ、ちょっと難しいこと言うわよ? 実際に刀を抜かなくていいから、右手を振るように。構えの時点では、重心は後ろ足、膝は軽く曲げるだけ。刀を抜くのと一緒に、重心は前に出した右足で、いわゆる踏み込みと同様に膝を曲げる。やってみて」

「うん」

「ゆっくりでいいわよ――そう、もう一度。だいたいでいいわ、刀の重さがないから、きっちりやると後で困るから。そう、うん」

「……捻った腰を戻す感じね?」

「そうよ。刀の基本は、腰。じゃあ次の動きよ? 今のその動きに追加する。まずは構え、そこから余裕があるぶん、腰を更に捻る」

「ぎりぎりまで?」

「そう。で、ここが難しいんだけど、抜いてる途中でそれをやるの」

「ええと……」

「わかりにくいから、実際に刀を抜いてみましょうか。あまり遅すぎると抜けないから、あまり意識せずに」

「うん」

「私が、そこ、って言ったら腰を深く捻る。あとは同じ動き」

「あーちょっと難しいよ、先生」

「やってみればわかるわ。右手は柄、指で鍔を押し上げる。構え」

「――はい」

「鞘の中を滑らすイメージで、視線は前。そこに相手がいるのを意識して、深呼吸。……はい、右手で抜く」

「――」

「そこ」

 すらりと引き抜こうとした刀身が半ばを過ぎたあたり。

 合図と共に、更に腰を深く捻ったメジェットは、そこで動きを止めてしまった。

「え、え、え?」

 最初の時よりも違和感なく、本当にすらりと引き抜けてしまったのだ。

「続き」

「え、あ、こう!」

 慌てて刀を振るが、110度を少し越した地点で停止する。それ自体は悪くない。

「じゃあもう一つね? 納刀はしないで、そのまま。腰を深く捻る、そう、刀が抜けた、――ここ」

 軽く手で支えてやって、姿勢を止める。

「鞘から刀が抜けて、斬ろうとしている」

「う、うん、辛い」

 それもそうだ。

「これ、腕の動きと腰の動きが、連動してないのよね?」

 回る動きが逆なのだ。腕は右回りで斬ろうとしているのに、抜くために腰を左回りで捻っている。つまりそのぶんだけ、捻りを戻す方が長くなってしまう。

「だから、速度が出る。刀の振り幅は変えず、腰の捻りが増えたぶんだけ勢いをつける」

「ええと……110度で停止した時には、腰も腕も元に戻る?」

「そう。停止した時に腰が余っているようじゃ駄目」

 そのままゆっくり、感覚を確かめるよう刀を振り、腰の感覚を見て、頷きが一つ。

「うん、難しいね」

「そうね。視線はちゃんと相手を見据えたまま、今度は同じ動きで戻す。巻き戻すような感じだから、まずは抜くことができないと。最初は失敗してもいいから、確実にやること。慣れてきたら、抜刀と納刀の速度を同じにして、できれば視線を前へ向けたまま納刀する。――はい、だいたいこれくらい。じゃあしばらく、試してみなさい。この木の棒も出しておくから、110度の位置になるよう移動して」

「あ、振り切った位置がわかるように?」

「躰に覚えさせるためよ」

「うん、やってみる」

 納刀時に鞘の位置を軽く変えたりする技術もあるが、まあ最初にあまり詰め込むのも良くないかと、そこまでにしておいた。そうでなくたって、だいぶ長い説明をしたのだ。

 けれど。

 メジェットは、きちんと説明して理解を得れば、それを忘れないのだから大したものだ。

「――で」

 吐息を一つ、地面に座った四人を見る。

「打開策は見つかった?」

「この温度差!」

「何言ってんの。畑中の時も、小太刀の扱いを丁寧に教えてあげたでしょ」

「半分は肉体言語だったじゃん!」

「それがなに?」

「くああああ……!」

「で?」

「迷わず正面突破」

 端的に、陽菜が言う。そして。

「その通りよ。まあ、それを防ぐための雨織アマオリでもあるけれどね。居合いに限らず、速度が重要視される場面は多い。それに応じられるよう考えておきなさい」

「はあい。でもこれさあ……」

 藍子は地面を見る。

 赤色のマーカーがだいぶ濃い。つまり、本来ならば大地は大きく抉られていた。

「やられる前に動きを封じるとかは――おい、ちょっと待てそこの野郎二人。何してんの」

「あ?」

「なにって、なにが?」

「微笑ましそうな顔でメジェットの方見て何してんの! こっち! こっちの話!」

「あーはいはい、聞いてる聞いてる」

「お、メジェやるな。今のは良かったぞ」

「流れができてた――あ、ほらファゼット、ちゃんと確認してる」

「なんで授業参観みたいになってんのよ……!」

 こいつらはもう駄目だと、藍子は思った。

 殴ろうと。

 そう決意する。

 つまりまた、彼らの戦闘はそこから再開するのだ。



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