第7話 亡き王国と銀色の狼

 意識の覚醒においては、外部からの接触が何より強く影響する。では何に影響すべきかと考えたのならば、それは刺激であり、刺激とは認識でもある。

 肌から感じる冷たさを感じたのならば、一気に意識が覚醒する。そもそもディカは眠りが浅く、しかも睡眠時間が短いので、マシロの尻尾でもなければおよそ熟睡などできないが、それを中断されたところで、惜しいとは思わない。

 上半身を起こせば、石牢の中であることがわかり、石造りの冷たさと、人の存在が少ないための冷たさが重なり、手のひらから上がってくる。立ち上がろうとしても、足についた鎖が音を立てるだけで、無駄だとわかっていたディカはそのまま座る。

 まるで、吐息までが白くなるような錯覚があった。

 この寒さも、懐かしい。

 待つ時間は五分となく、寒さに馴染む時間を楽しんでいれば、足音もなくやってきた白色のドレスを着た女性が、小柄な外見には似合わない老成した雰囲気と共に、にやにやと笑って姿を見せた。

「やあ、オリナ」

「久しいな、デュケイル」

 彼女の手から放たれた鍵が、格子の間を抜けて飛んできて、床に落ちて音を立てた。

「――うん?」

 その数が三つあり、ようやく気付いたディカが振り向けば、そこに、光風みつかぜとミルルクが眠っていた。

「ああ、参ったね。可能性はあったけど、こうも上手く波長が合うとは思わなったよ」

「友人か?」

「まあね」

「ククッ……」

「笑わないでよ」

「いやいや、お主が友人とは、なあ?」

 想像もしていなかった、という様子だが、笑われても腹は立たない。

「さて、どうする? このまま眠らせておいても構わんが?」

「起こしていいよ」

「そうか」

 二度、高い音を立てるよう手を叩いた。

「いつもそうやって侍女を?」

「侍女を呼ぶならば呼び鈴があろう?」

「さようで……」

 身じろぎがあり、躰を起こした二人を振り返ったディカは、まず声をかけた。

「おはよう。質問はあるだろうけれど、とりあえずこれが鍵だ。足枷を外していいよ」

「……おう」

「牢屋ですの……?」

「こんな寒いところじゃ、説明もままならないし、俺よりもよっぽど説明に適した人がいるからね。じゃ、一応俺から紹介しておくよ。こっちの、いつも寝癖みたいな頭なのが光風みつかぜ

「みたいじゃなく、ほとんど寝癖だけどな」

「こっちのいろいろちっこいのがミルルク」

「大きくしようと思ってた頃もありますわー」

「で、この偉そうなのがオリナだ。とりあえず行こうか」

 軋むような音を立てて、格子の扉が開く。やや低い出入口から廊下に出ても、寒さは感じないが、少しだけ気楽になったような解放感がある。本来ならば狭いと思える通路だとて、牢屋の中よりはマシだ。

 地下室を出れば、通路の広さが倍になる。敷き詰められた赤色の絨毯の上を歩き、更に上へ上へと行けば――その大広間には、玉座があった。

 応接間だ。

「さて――」

 ディカが足を止めれば、二人も止まる。玉座から五歩の距離、オリナだけが二段ほど上がって、服装の崩れを気にせず、さも当然のよう自然に、玉座へ。

「――改めて、挨拶としよう。わたしがこのイウェリア王国の王女、オリナ・イウェリアだ。そこにおるデュケイルの、まあ、妙な言い方にはなるが、教育係になる」

「デュケイル? 正式にはそうなのか?」

「いやもっと長い。忌忌いまいましげに舌打ちしたくなるくらいには」

「名づけは妾ぞ? デュケイル・リ・レリオ・イウェリアが正式だな。リは男性を示し、イリオは妾と姉の名を取った」

「ね? クソ面倒でディカと呼ばれるようにもなるだろう?」

「俺に同意を求めてんじゃねえよ。つーか……」

「ええと、記憶の前後がかみ合わないのですけれど? 私たち、確か寝ていたはずですわよね」

「そうだろうな。そして、そうでなくては、こちらに来ることはできん」

「そう……ですの?」

「当然だとも。何しろ、ここはとっくに滅亡した国であり、妾はもう死んで長いからのう」

 言って。

 肩を震わすよう、オリナは笑う。

「ここは死者の王国で、俺たちはまだマシロの尻尾でちゃんと寝てるよ。波長が合ったんだろうね。あるいは、オリナが呼んだのかもしれない。物理的肉体との齟齬なんかは、あんまり意識しなくていいよ。そんなものだ――と、思っていればね」

「うむ。ただし、城から外へは出ない方が良かろう。デュケイルだとて、試したことはない。どうせ戻ってはこれん。まあ少し待て」

 オリナが手元の呼び鈴を鳴らす。高い音で奏でられてすぐ、侍女服を着た二名が三つの椅子と、サイドテーブルを設置し、飲み物を置いた。顔見知りなのか、ディカは軽い挨拶だけをする。

「飲んでも大丈夫だよ。ここは夢の中みたいなものだ」

「厳密には、限りなく夢に近しい何か、だがな。起きて時間があるようなら、ここを訪れると良い。デュケイル、場所は覚えておるだろう?」

「うん、そっちに用事もあるからね」

「では少し、歴史を話してやろう。そもそもイウェリア王国は、常に、魔物との共存を宿命としていた国家だった」

「――よろしいですの?」

「なんだミルルク、構わんぞ。妾も人と話すのは久しいからのう」

常夜とこよあらしは、スライドが発生しないんですわよね?」

「うむ。だが当時はまだ、今のようになっておらん。ただし――隣接は、しておったがな。必然的にこの国は、軍事国家にならざるを得ない。常に魔物への対処を想定し、そして、魔物を刺激しないことを第一として、暮らしておった。まあまあ上手く、折り合いをつけてな」

 だが。

「クックック……」

 その笑いは、自嘲にも似たものだった。

「折り合い、か。そして上手くか? ――ははは、魔物を相手に、意思疎通ができていたなどと、そんな勘違いがどれほど続いていたのか、それこそが最大の原因だろうて」

「またそういう自虐的なことを言って、誤解を与えようとする。悪い癖だよ、オリナ。正しくは、意思の疎通は限定的でありながらも可能だった――が、だからといってトラブルはなくならない、だ。言葉が通じる人間同士だって喧嘩くらいはする」

「そうなると――規模が、違いますわね。オリナさん、何があったんですの?」

「何が、か。わかりやすく――などと、理由があれば、良いんだがな。あるいは魔物の大量発生。じゃがのう、理由がどうであれ、目の前で魔物が暴れて領域を犯してきたら、戦うしかあるまい」

「戦ったんですのね?」

わたしはそちらを見に行ったことはないし、こちらから見ることはできん。だがデュケイルに聞く限り、かなりの魔物がいることだろう。それらと対峙して、何を思う?」

「恐怖ですわ」

「諦めだ」

「その二つの先に、死を望む終わりがある」

 いや。

「そういう終わりが、この国には訪れた」

 にやにやと笑うオリナには、悲嘆の影はない。ちらりと見れば、ディカもまた、特に反応を見せず紅茶を飲んでいる。

「銀色の狼の魔物を守り神とし、魔物との共存を掲げたイウェリア王国の国民が、死を望んだ時に、王としての妾は一つの決断を下した。それはな、望んだ死を与えることだ」

「オリナ」

「事実だろう?」

「そうだね、その通りだ。間違いなく民の命を奪ったのはオリナだよ、それは王の責務だ。仕方ないとは言わないし、それが落ち度であることもどうせ認めている」

「ほ――ほかに、方法はありませんでしたの? たとえば救援を待つですとか」

「ミルルク、当時は今から千年くらい前のことだよ。まだレインエリアはできていないし――ほかのエリアがあるだなんて、想像でしかない」

「あ……」

「それでも、魔物と共存してきたのは確かなんだ。オリナは王として、その過去を否定したくはなかった」

「――だから、って結果だけは、拒絶したんだな?」

「そういうことだ。そして、本当の結果を言えば、魔物に滅ぼされたんだけどね」

「はあ?」

「どういうことですの?」

「いやなあ、かなり混乱しておって、ギンだけは逃がした妾は、ともかく急いで陣を敷いてだな? 全部を壊すために、魔物を召喚したんだが……」

「召喚式は難しいけど、オリナはかなり適性があったみたいでね」

「そういえば、お前のセンセイだっけ? あの人も召喚だっけか」

「術式の構成が難しいんだ」

 一瞥を投げれば、オリナは任せるといった様子で、玉座に頬杖をついた。傍に控えた侍女から、紅茶を空いた手で受け取っている。

「召喚ってのは、まあ、呼び出す術式だと思って貰って構わない。現存する何か、この場合は魔物を呼び出すわけだ。じゃあ、たとえば、どんな魔物でも呼び出せる召喚式――これは、可能か?」

「理論的には、可能ですわ」

「ミルルクさん、それ、現実には不可能ってことか?」

「おそらくは。そうでしょう?」

「うん、その通り。術式は魔力を消費して扱うものだから、術式の規模に応じて魔力がいる。でも前提は、どんな魔物でも可能な式だ。そこから制限をつけていく。まずは、種類かな。この分類は何でも良いけどね、ともかく制限というか、設定を加えていくことで、自然と分相応の術式になる」

「なるほどな」

「ま、一番の問題は距離なんだけどね。近場から呼び寄せたんじゃ、あまり意味もないから、ほぼ距離だけは無制限になる。あとは結果次第――なんだけど、この事実を知った時にはオリナを馬鹿にしたものだ」

「まだ覚えておるぞ?」

「つまり今もまだ、馬鹿だってことだ。大規模な召喚式、魔物は大型に指定で種族指定なし。ともかく国を壊すことだけを考えて、距離も無視した。もはや何でもありだ」

「魔力どころか、妾を含めた国民全員の命を使った術式だ。制限なんぞ必要あるまい」

「結果は、もう知ってるよね」

「……? なにがですの?」

「おい、おいまさか」

「そうだよ。今、俺たちが寝ている場所、常夜の嵐、この場所を作り上げたのは間違いなくオリナだし――つまり、あそこにいるほとんどは、オリナの召喚式で呼び出された魔物たちだ」

 さすがに、その事実には言葉を失った。

 過去のできごとが、そのまま現実となって突きつけられたような気分である。

「今もまだ、その召喚式は稼働しているけれど、オリナたちを繋ぎとめるために稼働している。簡単に言うと、霊体としての不安定な存在を召喚し続けることで維持している――かな。罪の意識を自覚するには丁度良いね」

「お主……そういう意地悪を言うようになったのう」

「言うまでもなく自覚してるでしょ。ほかに方法があったのではと考えるのが人間だし、だがそれでもと現実を捉えるのが王の役目だ。俺はこの結果に文句はない。それを決めるのはオリナであり、イウェリア王国だ」

「わかっておるとも」

「……あの」

「うん? なんだ、何を言うても構わんぞ」

「何も、何も残っておりませんの?」

「ふむ……ディカ、現実の場はわかっておるな?」

「いいよ、案内する。オリナの許可があれば構わないだろう。けれど、――なにもないよ、ミルルク。そして、残したくはなかった」

「何故ですの? 何か、一つでも……私ならば残したいと考えますわ」

「失敗でもか?」

「ええ、それは――こう言っては何ですけれど、参考になりますもの」

「今ならば、そうだろうなあ。しかし当時、妾の見解を言えば、失敗ならば跡形もなく消し飛ぶべきだと考えた。ここには国があった、そんな痕跡からまた人が集まれば、同じことを繰り返す」

「……納得は、しませんわ」

「それで良い」

「俺からも一ついいか?」

「なんじゃ?」

「正直に、答えてくれ。魔物と意思の疎通は、?」

 一つ、吐息が落ちた。オリナは姿勢を正す。

「共存ならば、距離感を保てば可能だ。そして、いずれ壊れる可能性を持ちながらも、意思の疎通は、――できる。ともすれば、人間同士の信頼関係よりも強固に、あるいは早く、魔物との絆は作りやすい。やり方までは言わんがな」

「……そうか」

「実際、俺なんかの対応を見ると、彼らと話をしているように見えるだろう?」

「ああ、それはさっきからずっと感じてた。寝る前の話な。ただそれが、どういうものなのかを俺は知らないし――俺は、まだ、できない」

「へえ?」

「なんつーか、ディカのお陰で遊んでもらってる感じだろ? それは対等な友人っていうより、ちょっとした遊び相手だ」

「さすが、光風みつかぜは現実をきちんと見ますわねえ」

「まだまだ若いのだから、よく考えるといい。ところでデュケイル」

「なに?」

「妾に用事があるとか言っておらなんだか?」

「ああうん、人形を手に入れたから、呼び出しに応じろってことを伝えに」

「――デュケイル」

「そろそろ現実を見ないと、ずっとそのままだよ?」

「わかっておる」

「わかってないから俺が準備したんだけどね?」

「うぐ……お主、そういうところがいやらしいのう」

「必要だろう?」

「……わかった、承諾しよう」

「逃げられないように契約を結ぶから、こっちの術陣に手を」

「本当に徹底しておるな!」

「いざって時になって嫌がって逃げようとするオリナは、リコにそっくりだけど、首根っこを掴んでおけば良いリコと違って、オリナは小癪なまでに抵抗するからね」

「あやつの名前を出すでない! あまつさえ比較するとは何事か! あんな気まぐれで適当で、とりあえずやってから考えればいい、なんてヤツと一緒にするな!」

「はいはい」

「まったく……だが精査するぞ、時間を寄越せ。そちらは上手くやっておるのか?」

「ようやく骨董品店が軌道に乗って来たところだよ。そのツテで人形は手に入れた。中身がなかったから運が良かった」

「方法はどうだ」

「ううん……魔剣を手に入れて分析はしたいと思ってるよ」

「その手伝いが、そこの二人か」

「いや」

「……ん? おう、なんだ?」

「手伝いはしてませんわよ? ――ああ、リコの世話の手伝いはしてますけれど」

「話してもおらんのか」

「もう隠さなくても良いけどね。俺の目的はね、あそこにいる魔物たちを、解放してやることだ」

 言うが、二人は無言で続きを促した。

 そのままの意味だとは思っていないからだ。

「大きさそのものが、存在のサイズで、力の強さだ。それを奪ってなお、安定できる何かを、俺はずっと探してる。それが骨董品を選択した理由でもあるね。そこに探し物があることを、俺は疑ってない」

「――待ってちょうだい」

「そうだよ待てよ」

 空気が張り詰めるほどに、真剣な空気が発生し、重い声で光風の言葉は始まる。

「つまりあれだろ……そりゃトラコさんがうちに来るって可能性がワンチャンあるってことだろ?」

「いえ、それはありませんわ。うちに来ることはありますけれど」

「おい」

「譲りませんわよ……?」

 どうでもいい真面目な話だった。

「猫好きって、こんな感じ?」

わたしは猫好きと事を構えんようにしておるからのう」

 さすが狼の魔物を守り神としてきた国の王だ、よくわかっている。猫好きとの喧嘩は駄目だ、あれはいけない。不毛である。

「トラコは魔物の中でも最大級に厄介なんだけどなあ……」

「そんなことはいい」

「そうよ、そんなのはどうでもいいのですわ。肉球と肉球の間に頭を突っ込みたいの」

「あれな! 爪の付け根のあたりな!」

「そうそこですわ!」

 うん、これは不毛だ。

「まあうちに猫いるけどね」

「初耳ですわよ!?」

「マジかよ!」

「あーうん、父さんたちの猫というか、まあ、いつも寝てるから放置だけど。世話をしているのはリコだから――っと、承認だね」

「うむ、……わたしおこなった現実を、見ねばならん。言い訳はせんとも」

「はいはい。それほど滞在時間もないだろうと、予想はしてるけどね。よほど相性が良くても、こっちが主体だから、拘泥がなければ影響はないさ」

「そのあたりの安全は確認済みだ」

「じゃあ」

 一言でいい。


「――また、いずれ」

「うむ」


 柔らかさと硬さを兼ね備えた、布団やベッドとは比べ物にならないほど安眠を与える柔らかい毛並みを肌で感じたディカは、吐息を落として躰を起こした。睡眠後の爽快感と共に、すっきりした頭で近くを見れば、ミルルクと光風がまだ寝ている。

 いや、おそらく起きている。

 この抗いがたい尻尾から離れたくなくて、目が開かないのだ。その気持ちはよくわかる。

「あー、マシロ、ちょっと」

 声をかければ、片目が開いた。焦点が自分に結ばれるのを待ってから。

「廃墟に行ってくる。ギンを貰ってくよ」

 言えば、半目になってから、そのまま閉じられた。諒承りょうしょうの意思だ。

「ん――あ、もう面倒だからこいつらと一緒に落として」

 瞬間、ばさりと尻尾が揺れ動き、二メートルほど浮かび上がったかと思えば、そのまま重力に従って落下した。

「ぬおっ!」

「おっ」

 二人は受け身をなんとか取ったようである。

「ミルルク、女の子なんだから、ぬお、はないでしょ」

「うるさいですわ! ええと……あら、いつの間に?」

「起きる時なんて、そんなものだよ。じゃあ川で水浴びして、向かおうか」

「お前、寝起きが良すぎねえか……?」

「慣れてるから」

 返答になっていないとは思ったが、三人は川の水場で軽く躰を洗う。厳密には川の中に入って汚れを落とし、ディカの火系術式で服を乾かした。

「つーかここ、モリゾーさんの中だろ……?」

「まあね。山から流れてくる水を得ることで、モリゾーも気分が良いみたいだよ」

「なんか落ち着かねえ」

「いやいや、俺が死にそうになった時も必ず、モリゾーの中で隠れてたよ。森ごと移動してくれるから、比較的安全にいられるからね。いわゆる迷いの森って呼ばれている現象の多くは、モリゾーの種類だ」

「進行方向がわからなくなる、あれか?」

「そう、あれ。平面のスライドパズルと同じでさ、まっすぐ歩いていても、通り過ぎた盤面を、人間が歩いている周囲の地形をスライドさせて、また進行方向に移動させておくんだ。そうすると人は、まっすぐのつもりなのに、また同じ場所だと気付いて、足を止めてしまう」

「あー、なるほど。確かに、それを気にせずにまっすぐ歩けば抜けられると、そう考えるヤツはほとんどいねえな」

「足を止めて、違う道を選んだら、魔物の勝ちってわけ。ただし、迷わせる目的はそれぞれだよ。モリゾーみたいに、そういうことをせず、ただ存在しているだけで落ち着いてる子もいるからね」

「入る前に気付く方法は?」

魔力感知シグナルキャッチ

「あれ苦手なんだよな……」

「はは、ちなみにこの場所は相当に魔力が濃いよ。来るまで、次第に魔力が濃くなっていくよう調整したから、それほど違和感はないだろうけどね」

「気付くのは、ノザメエリアに戻ってからか?」

「圧迫感から解放されたような気分になるよ」

「――ちょっと」

 咳払いが一つ。

「あの、よろしいかしら?」

 声をかけられ、ようやく二人は視線をミルルクへ。

「女が一緒に水浴びをしていることに、そろそろ、何かあるんじゃないんですの?」

「できるだけ見ないようにしてただろ。俺はもっと肉付きが欲しい」

「もうちょっと色気を身に着けてからにして欲しいなあ」

「そういう感想は求めてませんわよ!?」

 じゃあ聞くなよ、という言葉を飲み込んだ二人は、川から離れるよう足を進めた。

「で、どんくらいだ?」

「五分と少しくらいの距離だよ」

「なんだ近いんだな」

「まったくこの男連中は……ん、一つよろしいですの?」

「なに?」

「そもそも、一つの地形というのは、広さが違いますわよね?」

「うん、基本的にはそうだね」

「では、一番隅というのは、どうなってますの?」

「ん? 次の土地に繋がってるよ?」

「――は? そりゃおかしいだろ。スライドするんなら、地形は、たとえば四角形のものとして動いてんだろ? 次の土地ってのは、どういうことだ?」

「世界的に見て、確かに地形と呼ばれる盤面が空間を移動していて、それらがぶつかって場所を変わるから、スライドという現象が起きるのは、事実だ。けれど世界は、そうした現実的な側面を度外視してもね――、だ。さっきのモリゾー……じゃない、迷いの森の話があったね」

「おう」

「ここで魔術的な思考を一つ。あの場合、仮に地面が移動したところで、じゃあそれは森じゃないのか?」

「――否、ですわね。森の中だからこそ、移動するんですわ。けれどそれが同列ですの?」

「同じだよ? だって考えてもみなよ。は、一体何だと思う?」

 それは。

「元通りの形であり、それこそが世界だ。器自体は変わらないのなら、地形と地形は常に繋がりを持つ。ただ現実の話をすると、次の地形に足を向ける前にスライドするし――この場所だと、そもそも端、隅、そうしたものがない。まっすぐ歩けば、同じ場所に戻るからね」

「おい、そりゃ、隅には行けないって話じゃねえのか?」

「行けない、ならば発展はないよ? 俺がスライドを術式でやるのも、戻るのも、そういう魔術的な思考があってこそ、可能としているものだ。世界の解明は魔術師の領分で、本質だよ。何故なら、想定であっても、世界という仕組みから外れれば、術式にならないからね」

 あくまでも、現実に即して。

 けれど、都合の良いよう扱いもする。

 それこそが魔術と呼ばれるものだ。

「――ここだよ」

 そう言ってディカが足を止めたのは、先ほどとほとんど何も変わらない場所だった。

 森はやや遠く、だが平地であり、岩があり、山も見えて、とぐろを作っている蛇がいて――。

「こ、ここ、ですの?」

「うん」

「この、何もない場所が、本当に?」

「そうだよ。まあ千年単位だから仕方ないんだけど、実際に崩壊当初も似たようなものだと思うよ? いや、当時の方が魔物たちで荒れてたかもしれないね」

 さてと、懐に手を入れる振りで、ディカは四十センチほどの人形を取り出した。

「ん?」

「あら――まるで、人形劇の操り人形を大きくしたような感じですわね?」

「そうなるね。人の形は魂魄の在りようは不可分だけど、魂が宿った人形は器そのものに影響を与える。ここらも魔術の領分だけどね」

「本当にお前は、魔術に詳しいな……」

「しかも、学園では教えていないことばかりですわ」

「そりゃね、学園なら特定の方向性に向かわせる教え方が主流だから。その道を外れたら、自分で調べるしかない。疑問があって教員に聞いても、満足な返答がないなら、クソ教員と呼ばれるようにもなるのさ」

 傍にあった小さな岩を背もたれにして地面に人形を置くと、ディカは両手を叩くのを合図にして、術陣を展開した。

 まずは四つ、人形の身を包むように。下準備をしたら、術陣を人形の足元に重ね、次は八枚。それも重ねて、次は二十三枚――周囲の状況と、術陣の混合における結果を丁寧に予測しつつ、オリナの承認を得た術陣を手元に浮かべ、人形の頭上へ。

 その術陣が、ゆっくりと人形の躰を包むよう頭上から足元へ落ちて、全ての術陣が消えた。

 静けさが発生し、注視していて人形の指先が、ぴくりと動く。それを発端として全身が発光し、白色に包まれた後には。

「ん、む――」

 あちら側で見たオリナと、まったく変わらない姿が、そこにあった。

 いや。

「人形の器がやっぱり小さかったか。お陰で躰が小さいねオリナ。術式は使えないだろうけど、躰の動きの確認を」

「あ、ああ、あー、……ふむ。身体感覚そのものは適応できておる。だが、やや重いのう」

 軽く飛んだオリナは、長い白色の髪を背中側に片手で流した。

「――ああ、そうか、ここか」

「そう、ここがオリナの成果であり、結果だ。何も残ってはいないだろう?」

「うむ、わたしの記憶にしか、何も残ってはおらん……」

 小さく苦笑したオリナは、こちらを見るようにして――いや、更に奥を見た。

「おおう、妙にデカイ魔物がおるのう。なんか足しかないヤツもいるようだが、ドラゴンもおる。あっちの白いのがキュウビか」

「マシロね」

幻想種ファンタズマの召喚に成功するとは、妾もやるものだ」

「それは命の対価の高さを証明したに過ぎないよ」

「誇ってはおらん」

「当然だ。悔やんでくれないと困る」

「デュケイル――」

「文句は聞かないよ? それは事実だ。けれどまあ、受け止めなくてもいい。受け止めるべきは」

 息を飲む。

 それは、光風とミルルクが同時に作った反応であった。

「――」

 それで、理解した。

 何故こうして、人形という肉体を得たのか。ここへ来て、状況を確認しなくてはならないのか。

 目を見開いたオリナが、何かを言おうとして止めて、奥歯を噛みしめ、手のひらを拳にした。

「――デュケイル」

「うん」

 荘厳、あるいは静謐、なんだっていい。

 オリナが背を向け、そして、こちらから見える位置に存在しているのは、それほどまでに美しい銀色の毛を持った、巨大な狼であった。といっても、コクロウでありクロよりは小さく、光風が手を伸ばせば背中に触れられるくらいの胴体。

「デュケイル、妾は振り向かんぞ」

「うん」

「これは妾の結果だ。こうしたのは、してしまったのは、妾の決断であり――悔いを感じても、振り返って、かつてに戻ってやり直せるわけではない」

「うん」

「妾は、――死んでおる」

「その通りだ、間違いないよオリナ。けれど」

 ようやく、ディカの視線がオリナから背後へ向く。まるで、怒られるのを待っている犬のような視線を受け止めて、そして。

「けれどねオリナ、そう思っているのは君だけだと、そう考えているのが間違いだ。そして俺は、その間違いを正したくてこの場を作った」

「――」

「オリナ、魔物と心は通わせられないかもしれないけど――彼とは、そうじゃなかったはずだ。勘違いだったとしても、それは在ったんだよオリナ」

「……――まさか」

 仮にも、一国の王。幼いながらにも政務をまっとうした彼女が、その事実に気付く。

 振り返ろう、そうしようとして、一瞬だけ止まって。

「長く付き合った友が命を賭けたのなら――」

 振り返る。

「――自分だけ生き残るだなんて、御免だ」

 振り返ってしまったオリナは、拳を強く握ったまま、狼を見る。

 そう。

 二人が息を飲んだのは、その美しさにだけではなく――毛並みまで確認できるその銀色の狼が。

 と、直感を得たからだ。

「――ギン!」

 一歩、足を踏み込めば、狼は躰を小さくするよう、顎を地面につけた。

「この、馬鹿者!」

 オリナの声に、震えが混じる。

わたしは、逃げろと! 生きろと言ったじゃろうが! それをお主、お主は……! 本当に仕方のないやつだ……!」

 触れる。

 そのまま、前足のあたりに抱き着くよう、オリナは身を埋めた。

「馬鹿者め……!」

 狼が小さく鳴く。おずおずと、頬のあたりをオリナの方へと寄せた。

「……すまん、すまんのうギン。一緒に、戦ってくれとも、死んでくれとも言えなんだ妾を、許してくれ……!」

 しばらく、小さな嗚咽おえつが続いた。見ればミルルクがもらい泣きをしており、目元を拭っている。

「オリナ」

 声をかけても、こちらを見なかったが、構わずにディカは続ける。

「侍女長が以前、こう言ってたよ。オリナには玉座より、ギンの腹に埋もれるよう座っている姿の方が、よっぽど似合うってね」

「――」

 顔を上げ、泣きあとのある顔で、こちらを睨んだ。

「それは妾が幼いと、そう言いたいのか?」

「俺じゃなく侍女長に言うんだね」

 笑えば、二人を中心にして白色の光が術陣のように大きく広がった。

「やれやれ、さすがにオリナの召喚式の方が強いな。それとも、ここまで保てたのは俺の技量かな?」

「さて、それはどうだろうなあ」

「うぬぼれはないさ」

 そして、やはり、一言でいい。


「じゃあ」

「――また、いずれのう」


 光が一気に収束して弾ければ、そこには狼も、オリナもおらず、ただ人形だけが転がっていた。

「ま、最後に笑顔を見せたから、良しとしておくか」

 一歩、足を前に出せば、ケースから煙草を取り出して、光風みつかぜが火を点けていた。

「悪い。――やりきれねえよ」

「うちは父さんが吸うから、気にしたこともないけど」

「常習はしてねえって。たまにな」

 そんなものかと思って人形に近づけば、ミルルクが傍にきた。

「どうしますの?」

「もう使えないからね。形代かたしろとして使った人形はきちんと処理しないと」

「処理?」

「ヒビが入って壊れてるだろう? 基本的には火で燃やして、人の形そのものを壊してやるんだけど――術式で使った場合は、ここで一度殺しておいた方が良い」

 ナイフを取り出したディカは、割れ目に先端を入れると、そのまま深く差し込んだ。

「これで良し」

「念のための処理ですのね?」

「今回は可能性が低いけれど、術式の残滓が残っている場合もあるから」

 ひょいを人形を投げれば、術陣が一つ展開して人形に吸い込まれ、炎上しながら地面に落ちた。

「さて、これで一つ、肩の荷が降りた。付き合わせて悪かったね」

「……いえ」

「じゃあ五日くらい、ここで過ごして遊ぼうか。気分転換になるから」

 実際には何も解決していないし、終わりを迎えたわけでもない。

 ただ、今は亡き王国の女王が、唯一無二の親友と、ようやく再開を果たせただけだ。

 彼女たちはまだ、ここではないどこかに、いつ終わるかもわからない――時間すら関係のない場所で、きっと。

 今までよりは少しだけ気楽に、過ごしているはずだ。



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