第5話 アリスと雪の女王

 寒い寒い朝だった。辺りは一面の銀世界。木々も岩も真っ白な雪に覆われ、何一つ区別がつかない。昇ったばかりの朝日がその雪をキラキラと照らし出し、辺りは眩くて目を開けるのも難しい。

 そんな真白き世界の中を一台の荷馬車がゆっくりゆっくりと進んでいた。馬は踵辺りまで雪に埋まると、一歩一歩大仰な動きで雪から足を引き抜いては、また雪の中へと足を踏み入れている。その動きに迷いや戸惑いはない。雪道に強い馬なのだろう。引かれた荷馬車は五、六人程度は乗れそうな大きさで、小さいというほど小さくはなく、大きいというほど大きくはない。幌でしっかり覆われており、降雪は防げそうだが、寒さは素通りだ。実際、中に乗った少女は分厚い毛布を幾重にも被り白い息を吐いていた。

「寒いわね」

 大して寒くもなさそうな口調で言う。少女の頬は真っ赤に上気しているが、それ以外の肌は雪のように真っ白だ。小さな唇の赤さが際立つ。金色のふんわりとした巻き毛は息がかかる部分だけ凍りつき、荷馬車の中に僅かに差し込む光をきらきらと反射させていた。青く大きな瞳は深い湖面のようで、何もかもを吸い取りそうな強さを失わない輝きがあった。

「そうだね、アリス」

 それに答えた声は、対してひどく弱々しい。事実、その言葉を吐いた男はひょろりと伸びた背をさなぎのように丸め、幾重にも重なった毛布越しにも分かるほど震えていた。

「あなたがそんな顔をしているなんて珍しいわね、ハッター」

 呆れたように言う少女に、男――ハッターはなけなしの力を振り絞ったかのような青ざめた笑顔で答える。

「僕は寒すぎるのが苦手なんだ。こう寒くてはお茶会も開けないからね」

「でしょうね。きっと紅茶も凍るわ」

 ハッターの決死の軽口をアリスは真面目な口調で薙ぎ払った。

 そんなアリスたちに、御者が馬を制御しながら少し振り向いて言った。

「すまんね、お嬢さんたち。荷馬車の中では火をおこすわけにもいかなくてね。あと少しで街だから我慢しておくれ」

「こちらこそ。急に乗せてもらってとても感謝しているわ」

 アリスの言葉に御者がハハッと声を上げて笑う。

「いや、びっくりしたよ。あんな雪道の中にぽつんとお嬢ちゃんとお兄さんが立っているんだもの。こんなところを徒歩で旅しているなんて何事かと思ったよ」

「冬に来たのは初めてなの。こんなに雪が深いなんて知らなかったわ」

 この世界にたどり着いたアリスとハッターは突如一面の銀世界に放り出された。ハッターが時空の向こうから防寒服を取り出してくれたから、なんとか寒さを凌げたものの、布で防ぐにはあまりに辺りは冷たすぎた。とはいえ他に手段もなく、あちらこちらで火を借りながら徒歩で旅をし、それにも限界が見え始めた頃、たまたま通りがかったこの荷馬車が拾ってくれたのだ。

「まあ、ここはこうして日に何度か荷馬車が通るからね。まだ良いほうさ。とはいえ運が良かったよ」

 のんびりと優しい口調で答える御者のおじさん。運賃を払ったとはいえ、途中で馬を止めて、わざわざ話を聞いて乗せてくれるあたり、本当に気の良い人なのだろう。

 アリスは御者側の幌を少し大きく開けて前方を見やる。まだまだ雪道しか見えない。街は遠そうだ。

「どう?街、見えてきた?」

 荷馬車の奥から声をかけられて、アリスはふるふると首を横に振った。

「いいえ、まだよ」

「そう……残念。荷馬車にもそろそろ飽きてきちゃったわ」

 声の主はわざとらしく、ふぅとため息をつく。荷馬車の中にはアリスとハッターの他にもう一人客がいて、それが彼女だった。年の頃はアリスよりも五つばかり上だろうか。十代後半といった風だ。この歳の少女らしい底抜けの明るさと、物怖じしない心を持っているようで、急に乗り込んできたアリスとハッターにも気さくに話しかけ、あっという間に馴染んでしまった。

「ゲルダ……だったかしら?」

 アリスが名前を問うと、ゲルダは嬉しそうにぱっと顔をほころばせる。

「そうよ!もう、名前を覚えてくれたのね!嬉しいわ」

 寒い寒い幌の中で彼女だけが真夏のひまわりのような華やかな空気を出している。さすがの若さだ。とはいえ、あまり良い家の出ではないようだ。そばかすの浮いた頬は肌荒れで真っ赤にこすれ、髪は汚れてはいないもののちりちりとした様子で傷みがある。手には水仕事をしているもの特有のあかぎれが見え、着ているものも何度も繕った跡がある。身繕いで小綺麗にしているものの、お金がないのは見て取れた。

「ゲルダはどうして街へ?」

 馬車代は安くない。ましてやこの雪の中だ。いつにもまして高いだろう。

 アリスの問いに、ゲルダはしばしきょとんとした後、恥ずかしそうに身を縮めた。

「いろいろあって……ね……」

 そのまま赤みを帯びた金髪を指先でくるくるとこね回して、目線を逸らす。そこから先を言う気配はない。というよりアリスの出方を待っているようだ。

 アリスはゲルダを大きな青い瞳でじっと見やる。少し痩せ気味の体、それをぴっちりと覆う薄手の擦り切れた上着と毛布、少し赤らんだそばかすの浮いた頬に、逸らしつつもアリスを視界の端に捉え続ける黒い瞳。その真ん中で大きな口が、今にも言葉が飛び出そうなのを必死に抑えるために荒い息を繰り返している。

 誘い受けというやつだ。

 アリスはつんとした鼻を少し上に向ける。アリスの長いまつげがしっかりと影を作り、それがかえって彼女の視線の強さを、薄暗い幌の中で一際輝かせていた。

 アリスは少しの間をもたせた後、とてもとても優しい声で言った。

「なにがあったの?聞かせてちょうだい」

 その優しい声とは裏腹にアリスの顔は微塵もほほえみを浮かべていなかった。

 対象的に、ゲルダはアリスの声にぱっと顔を輝かせ、よくぞ聞いてくれたというように背筋を伸ばした。アリスの冷酷な顔など見てもいない。おそらくアリスの気持ちなど興味もないのだ。ゲルダは意気揚々と話し出す。

「私ね、雪の女王の城を目指しているの!」

「雪の女王……?」

 疑問形でつぶやいたアリスに、ゲルダは分かっているよとでも言いたげに、縦に大きく二度うなづく。

「そう、雪の女王。雪を操る氷の魔女よ!」

 まじょ。

 アリスは口の中でつぶやいた。

 いつもだったら飛びつくはずのこの言葉。ゲルダが放つとセンセーショナルな響きをはらみすぎていて、逆に信憑性が薄い。

 アリスの冷めた心に気がついているのか、いないのか、いや、おそらく気がついていないであろうゲルダは矢継ぎ早に話し出す。

 いわく、幼馴染が雪の女王にさらわれてしまったこと。

 いわく、その幼馴染を助けるために急遽旅に出ていること。

 いわく、とてもとても大変な旅だったが、あと少しで雪の女王の城に着くこと。

 意気揚々と彼女の口からこぼれ出る言葉は、物語の主人公になった興奮が隠せないとでも言いたげで、自己陶酔の激しさにめまいがしそうだった。

 とはいえ、荷馬車の中で揉め事を起こすつもりもない。

 アリスは極力優しげな口調で彼女を褒めそやし、称え、同情の言葉を添えた。それがまたゲルダをさらなる興奮の高見へ押しやったようで、その演説にはなおのこと熱が入っていった。

「私はね、どうなっても構わないの。カイ――幼馴染が助けられればそれでいいのよ!そのためにすべてを投げ売って旅をしているの!」

「すごいわ。他人のためにそこまでできる人はなかなかいないと思う」

 肯定するアリス。ゲルダはまた太陽のように顔を輝かせ、飛びつくようにアリスの隣へやってくるとその手を取った。

「ありがとう。私、頑張るわ」

 そう、とぞんざいな口調で答えるアリスとそれを全く気にも留めないゲルダ。

 ハッターはそんな二人の様子を見て、ふふふ、と笑うと、退屈そうにあくびを噛み殺す。

 そのとき、御者が沈黙に耐えかねたというように口を挟んできた。

「元気のいいお嬢さんだねぇ。それにとても興味深い話だ。おじさんも思わず聞いてしまったよ。それで、その、本当に雪の女王の城へ行くのかい?」

「ええ、もちろん!」

 身を乗り出して答えるゲルダ。毛布の前がはらりとはだけ、擦り切れた服が顔を出す。寒くないのかしら、と冷静にアリスは思った。

 その勢いにおされないのはさすが年の功というやつか。御者は全く動じることなく、うーんと唸りながら顎に手をやる。

「でもなぁ、行ったらがっかりするかもしれんぞ」

「どういうこと?」

 ゲルダの疑問にアリスも内心同意し、眉をしかめる。御者は言葉を選ぶように、そうだなぁ、とゆっくり続ける。

「あの城はもう......廃墟なんだよ。誰も住んでいない。何年もそんな調子だし、その、カイくん?、がいるとは思えないなぁ」

「そ、そんなわけないわ!だって雪の女王に攫われて……!」

「いやぁ、確かに雪の女王の伝説はあの城にはある。あるけれど、何十年何百年も昔の話だよ。……少なくとも私が生まれたときにはもう廃墟だったねぇ」

 おそらくゲルダの頭がおかしいか、心が壊れているとでも思っているのだろう。御者は優しい口調で一つ一つ言葉を選ぶように話す。その声には心からの思いやりと、諭すような響きがあった。その慎重な言葉はゲルダの気を削いだようで、ゲルダはそれ以上言い返すことができずにうつむいてしまった。「うそよ……」という小さな声が馬車の中に漏れる。それに返事をできる人はこの中のどこにもいなかった。中途半端な沈黙が馬車の中に流れる。ざざざ、と馬車が雪をかき分け進む音だけが時計の針のように休まず響き続けた。

「ゲルダ……」

 アリスが彼女の肩に手をかけようとしたそのとき、ゲルダがガバッと立ち上がった。

「私……っ!諦めないわ!絶対見つける……!」

 その目には明らかな輝きがあった。そう、彼女は自分こそがこの世界の主人公だ、と疑うことなく思い込んでいるのだ。諦めず前を向いて正義を貫くものは、必ずハッピーエンドに辿り着く、そう考えているとしか思えなかった。

「見つけると言ったってどこに行くんだい?」

 ハッターが興味深そうに尋ねる。

「もちろんまずは雪の女王のお城よ!なにか……ヒントがあるかもしれないもの!」

 御者の人が眉を緩ませて、ほぉっと息をつく。荷馬車の中で荒事が起きなかったことに安心したのかもしれない。

「それならぜひ見に行ってみるといいよ。歴史ある城は圧巻だからね。きっと気分も晴れる……そら、街が見えてきたよ」

 一面の銀景色の向こうに、城壁がぽつんと黒い染みのように現れていた。


 寒い冬の日だというのに、街中は人でごった返していた。煉瓦造りの道いっぱいに人がうろつき、行き交う馬車は馬車とは思えぬゆっくりとした速度で、のろのろと人混みをかき分けて進んでいく。これまで雪の中にぽつんぽつんとあった村々とは比べるまでもないほどに、街は華々しく栄えている。三階建ての煉瓦作りの建物が道沿いにずらっと立ち並び、その向こうにはさらに大きな建物がずいと顔をのぞかせており、まるで街に終わりがないかのようだ。道沿いの建物の一階はどこも商店やレストランになっており、人を呼び込む声があちこちで響き渡っていた。

「賑やかね」

アリスの声にハッターは、そうだね、と優しく答える。

「この辺りの一大都市らしい」

 アリスは小さな体で人混みを縫い歩く。ぶつかられてもおかしくないほどの人の波だが、彼女が歩くところだけなぜかぽっかりと人の空白ができている。周りの人が避けているわけではない。むしろ気がついてすらいないようなのに、なぜか自然な動作で彼女の通り道を作っている。アリスは正面を向いたまま、澱むことなく歩を進める。

 とはいえ、これだけの人に囲まれていると景色はろくに見えない。アリスは周りを見上げながら、ふぅと息を吐く。

「前に来たときはこれほど人で溢れていなかったと思うけど」

「それは前に来たのが夏だからだよ、アリス」

 ハッターがひょこひょこと歩きながら答える。

「この街は冬に栄える街だ。寒さが厳しくなると地方の人々は皆、この街へ集まる。この世界の雪は大層深く、冬場は農業ができない。だからこの街へ食い扶持を求めて出稼ぎに来るそうだ」

「……それだけではないでしょう」

「そこは言わずとも分かっていると思っていたし、分かっているだろう」

 茶目っ気たっぷりに言ったハッターにアリスは返事をしなかった。ハッターは気を悪くした様子もなく、片手で緑の帽子を持ち上げ、辺りを見渡す。彼は背が高いので人混みの中でも周りがよく見えるようだ。彼の目の動きに合わせて、白い耳が帽子の上でぴょこぴょこと跳ねる。

「やれやれ。うさぎの噂を追いかけてここまで来たが、こうも人が多くちゃ聞き込みをするのも大変だ」

「そうでもないわ」

 アリスはこともなげに答える。

「さっきお店の人に聞いたとおり、この街では行方不明騒ぎは起こっていない。つまり、うさぎは何かを起こしてはいない。それにも関わらず、うさぎはこの街へ向かっていた……馬車に乗せてもらう前に村々で聞いたとおりよ。一心不乱にこの街を目指していたと」

 そう、アリスたちはただただ徒歩で旅をしていたわけではない。いつものごとく、うさぎを追いかけてここまで来たのだ。

 ハッターはふむと顎に手をあてて考える。

「人が多いから、ではないかい?」

「いいえ。それならばこの途中の村でも時間を奪おうとしたでしょう。冬の村には子供が多くいたわ……子供は彼の大好物。でもそうせずにここを目指したのは……おそらく朧げに覚えているのでしょうね」

 ああ、とハッターは膝を打った。

「なるほど。以前来たときの、ね」

「同じ過ちは犯さないわよ、ハッター」

 アリスの青い大きな瞳が、深い海の底のように暗く淀めいた。

「分かっているよ、アリス」

 そう言うハッターは笑みを浮かべつつも唇を引き攣らせている。その引き攣りの理由をアリスは知っている。アリスが口を挟む前にハッターが苦々しさを噛み殺すかのように飄々とした口調で言う。

「あいつに連絡がいるね。僕が連絡しておくよ」

「私がしてもいいのよ?」

 小首を傾げるアリスを制止するように、ハッターは手を前に出しため息をつく。

「いいんだよ……あいつに煩わされるのは僕だけでいい」

 忘れていた寒さを思い出したかのようにハッターはぶるっと身を震わせた。


 街中を抜けて、煉瓦道は森の中へ続く。街にあれほど人がいたのが嘘のように、辺りはしんと静まりかえっている。通る人がほとんどいないためか、煉瓦はひび割れ、雪かきもおざなりだ。道は悪い。あまり早くは進めず、一歩一歩確かめるようにしか歩けない。針葉樹が多いせいか、森はうっそうと茂っている。青々と、というよりは陰鬱として薄暗い。

 ゲルダは道の悪さに辟易としながら、ふーふーと肩で息をして歩く。頬は寒さに擦り切れたように上気し、口から出た息はあっという間に白い煙となり立ちのぼる。頭からすっぽりとかぶった毛布は少しの寒さも防いでくれない。さすような寒さが全身を覆う。疲れに足を止め見上げた空は、雲が立ち込めどんよりと陰っている。まるでゲルダの心を映し取ったかのようだ。

 それでも必死に足を動かし続けると道の果てに錆び果てた鉄門が見えてきた。

「ここね……」

 ゲルダは鉄門に手を触れる。ざらりとした錆の感触がもう何年も人が訪れていないことを告げているようだった。蝶番まで錆びつき凍りついているのか鉄門は押しても引いてもびくともしなかったが、人が一人通れそうな隙間ならかろうじて開いていた。おそらく閉じたまま凍りついてしまうと困るだろうと思った誰かが開けておいてくれたのだ。ゲルダは隙間に体をねじ込み、なんとか中に潜り込んだ。

 おそらく庭であったのであろうそこは森と区別がつかないほどに荒れ果てていた。様々な種類の草花や木々が渾然と入り混じり、そして、一部は枯れ果て、生命力の強いものだけが薄暗い太陽に向かって一心不乱に枝葉を伸ばし続けている。噴水やオブジェと見られる石作りの塊がごろごろと転がっているが、どれも風化し、崩れ果て、元の細工がまるで分からない。その石たちさえも覆い尽くそうと草木が絡みついているが、冬の寒さに負けたかのように茶色く枯れた細い枝葉だけがしぶとく残されていた。

 その庭の向こうにそびえ立つ城は……もはや城と呼べるかどうかも怪しい。高さと大きさこそ立派なものの、その外壁は一部崩れ、色という色はすべて剥がれ落ち、瓦礫の山と呼ばれてもおかしくはない外観だった。

 ゲルダは草と雪に侵略された足元の中から、石畳と思しきものを見つけ、それをたどることでなんとか城の扉へとたどり着いた。

 雪の女王の城は、城と呼ばれてはいるものの、彼女自身が統治者ではなかったためか、門番や兵士などが外を見張るような作りにはなっておらず、どちらかというと城のような見た目をした立派な家と呼ぶ方が相応しかった。

 カサカサに乾燥し、ささくれだった大きな木製の扉に手を触れる。扉も城門と同じように一人分の隙間が開けられていた。

 そっと中を覗き込んでみたゲルダは、立ち込めた埃とかび臭さに思わず咳き込んだ。挙げ句、目には妙な刺激を感じ、目を守るという本来の働きを発揮せんとばかりに涙がぼろぼろとこぼれでた。ひとしきりむせ目をこすった後、顔を上げると、ゲルダは思わず膝から崩れ落ちた。中はがらんどうであった。何もない。いや、かつてはあったのであろう。壁や床に家具の跡や古い染みが残されているし、埃の跡が異なる部分もある。おそらく一時期は宝飾品や豪華な家具が占めていたのではないだろうか。そして、すべて盗まれてしまったのだろう。

 外観から分かっていたことだ。ここは廃墟のようなところだ。人気はない。痕跡もほぼ残されていない。

 ゲルダは震える足をなんとかなだめると、生まれたての子鹿のようなおぼつかなさで立ち上がり城の中へと歩を進める。一歩踏みしめるごとにぶわっと埃が舞った。玄関部分を通り過ぎ、二階へと進み、メインルームと思しき大きな扉の部屋へと入る。そこはおそらく食卓。十人以上座れそうなほどの長い長い大きな机が部屋の真ん中にどんと置かれている。壁に据え付けられた食器棚のガラスは割られ、やはり中は空っぽだ。机に敷かれていたであろうテーブルクロスも、美しく飾られていたであろう装飾品も何一つ残されておらず、剥がされ、剥かれ、乱暴に扱われた跡だけ残されていた。そんな何もない部屋で、何もかも奪われた部屋で、扉から見た一番奥、机の最奥にぽつんと一脚だけ椅子が置かれていた。それほど大きくない女性用の椅子だ。ただ一つ、ただ一つだけ置かれていた。

 雪の女王はおそらくこの大きく豪奢な城の中で、たった一人でいたのだ。使用人の類はいたのかもしれない。しかし、家族や友人と呼べるものはいなかったのだろう。だから、椅子はただ一つ。ただ一つきりなのだ。

「可哀想……」

「本当にそう思う?」

 思わずつぶやいた言葉に返事があり、ゲルダは飛び上がらんばかりに驚く。ばくばくと音を立てる心臓をなだめるかのように胸の前に手を組み、振り返ると、部屋の入口に二つの人影があった。

「……アリス?」

 隙間から差し込む僅かな光をこれでもかと反射する金髪、何もかもを映し出さんとする青く大きな瞳。そこには間違いようもなくあの美しい少女が立っていた。その脇に立つのはもちろんあの男、ハッターである。

「も、もうびっくりしたじゃない。こんなところに来るなんて思わなかったわ」

 努めて明るい声で話すゲルダを無視するかのように少女はまた問いかける。

「本当に可哀想だと思う?」

 にこりともしない少女。疑問符に合わせるように少し小首をかしげる。金髪がふわりと揺れて、雪降る冬とは思えないほどの光を放つ。ゲルダはその真っ直ぐな視線から目を逸らしたかったが、逸らすことができず、なぜか震えだす足を必死に抑えた。声まで震えそうになるのを必死に堪え、喉から声を絞り出す。

「え、ええ。もちろん。こんな大きな城にこんな大きなテーブルまで置いて、一人ぼっちだったのでしょう。寂しいに決まっているわ」

「寂しかった……のかしら?」

「そうに決まっているわ!だからこそカイをさらって……!」

 ゲルダはその先を続けられなかった。少女の青い瞳の奥が光ったかのようで、吐いた言葉も何もかも吸い込まれそうな気がした。

 少女がゆっくりと言葉を紡ぎ出す。

「ねえ、さらったわけないでしょう。この城のどこにもあなたの幼馴染がいないことくらい見れば分かるでしょう」

 そうだ。そうなのだ。

 カイはこの城のどこにもいない。いるわけがない。こんな廃墟の城に人が居着いている訳がないのだ。

 そして、そう。

 もちろん、雪の女王だって住んでいないのだ。

 御者のおじさんに言われたことは頭の中に入っていた。すでに廃墟だ、と。分かっていた。それなのに、なぜか頭の片隅ではここに女王とカイがいると信じきっていた。

 なぜ、なぜ、なぜ――。

 頭の中心が薄ぼんやりと靄がかかったようで何も考えられない。ゲルダは知らず知らずのうちに足を動かしていた。部屋の出口へ向かって。何かが突き動かすように。

 しかし、その動きを少女の鋭い声が静止する。

「どこへ行くの?」

 足がぴたりと止まる。

「また、やり直すの?」

 やり直す――そうだ、やり直すのだ。またカイを探すのだ。雪の女王にさらわれた、あの可哀想な子を。

「そうよ、やり直すの。また村に戻って、私は幼馴染みを探すの。それが私の――」

 私の……なんだ?なんなんだ?

 その先が出てこない。口を開けたまま言葉を失う。

 そんなゲルダをアリスのこぼれんばかりの大きな瞳がしっかりととらえた。アリスがほんの少し小首を動かす。金色の美しい巻き髪がさらりと肩を這い、空中でふわりと弾む。そして、形の良いさくらんぼのように可愛らしい真っ赤な唇が、残酷に言葉を紡ぐ。

「幼馴染みを探していたのはあなたじゃないわ」

 ぴくりとゲルダの肩が跳ねる。

「それはあなたが時間を奪った『ゲルダ』の話でしょう」

 そうよ。

 いえ違う。

 相反する答えが頭の中心から湧き上がり、言葉にならずに霧散した。

 何も言えないゲルダの様子にも、アリスは無表情だ。まるで彼女が言葉を発せないことを見通してたかのように。

「昔々の話よ」

 アリスがゆっくりと話し始める。

「この城には一人の少女が住んでいた。彼女は生まれながらに氷の魔法が使えた。人々は彼女を『雪の魔女』と呼び、恐れ、この城になかば幽閉した」

 アリスの一つ一つの言葉が、ゲルダの胸に重しのように沈んでいく。聞きたくないと思っているのに、なぜか耳をふさぐことができない。

「雪の魔女は一人だった。ずっとずっと一人で寂しかった。そんなある日、カイと呼ばれる少年に出会った。彼の心は悪魔の魔法で暗く冷たく、氷のように閉ざされていた。雪の魔女は彼にとても強い共感を、そして、仲間意識を持ち、この城に連れてきた。そこにやってきたのがカイの幼馴染みの『ゲルダ』だった」

 アリスが一歩ゲルダの方に足を踏み出す。ゲルダはうつむいたまま動かない。ただ神妙にアリスの言葉を聞いていた。

「『ゲルダ』はカイを助けに来た。皆が恐れる雪の魔女から幼馴染みを救いに来た。それはまるで正義の主人公だった」

「そうよ、『ゲルダ』はまさに主人公のようだった」

 知らず知らずのうちにゲルダの口から言葉がこぼれ出る。

 そう、『ゲルダ』は素晴らしい少女だった。正義感に溢れ、強い志と一途な心を持ち合わせていた。覚えている。あまりの眩しさに目眩がしたのを。

「だから私は」

「「『ゲルダ』の時間を奪った」」

 アリスとゲルダは同時に答えた。ゲルダは震える声で、アリスは強い断罪の声で。

 そうだ、ゲルダ――雪の女王は覚えていた。何百年も前のこと。震える手で、魔法陣を描いたことを。カイを取られたくない一心で。一人になりたくない、それだけをつぶやきながら。

 いけないことだと分かっていた。それでもカイとずっと一緒にいたかった。二人の時間を永遠にしたかった。

 強い眼差しを持った少女が城の扉を開けて、カイの名を呼び、走ってきた。その姿に恐れおののいた。雪の女王が持たないものを持つ少女だった。皆に愛されて育った眩しい少女だった。少女がカイにたどりつく前に、魔法陣を発動させた。少女の時間を奪い自分のものに、そして、カイのものにしようとした。だがしかし。

 そこにうさぎがやってきた。

 時間を吸い取ったまさにそのとき、白いふわふわの毛並みを持った大きなうさぎが城の扉からするりと入ってきた。なんだと思う間もなく、その赤いぬらりとした瞳が女王をとらえ、にやりと気味悪く弧を描いた。笑ったのだ。と次の瞬間、うさぎが首から下げた大きな懐中時計をぱかりと開けて女王に向けた。その懐中時計には針がなかった。奇っ怪な文字が十二個、文字盤かのように並んでいるだけだった。そして、女王にはその文字盤がなにか分かった。

 文字盤が光を放った。雪の女王が発動した魔法陣と同じ光。時間を奪う魔性の光。

「やめて」

 震える声で叫んだ。そのとき。

 雪の女王の前に誰かが飛び込んだ。かばうように両手を広げ、背中を向け、うさぎと女王の間に立ちはだかった。

 カイ。

 名前を呼ぼうとしたが声にならなかった。

 うさぎの文字盤が放つ光がカイを包み込む。眩しくて目が開けられなくて、それでもカイの背中を離したくなくて、もがくように両手を伸ばしたが、その手はむなしく宙をかいた。

 カイの時間は全て食われ、カイの姿はいなくなった。そしてうさぎも。

 あとに残されたのは、ゲルダの時間を食べた雪の女王だけ。一人ぼっちになったのに、生きる時間を伸ばしてしまった、ただ一人の愚かな女だけ。

 震える両肩を抱きしめたのは、過去か今か。いや、両方か。

「私たちがうさぎを追って駆けつけたとき、全てが済んだあとだった」

 アリスの淡々とした声ががらんとした部屋に響き渡る。

「そして、あなたは数百年この地をさまよい続けている。自分をゲルダだと思い込み、カイを探すふりをして」

「すう……ひゃくねん……?」

「そうよ、数百年。あなたの時間もゲルダの時間もとっくに使い果たしている……何人かの時間を奪ったわね?」

 そうだ、奪った。カイを探さなければいけないから。

 最初に奪ったのは親切な素振りで近づいてくるおじさんだった。カイを探すのを手伝うかのような口ぶりでついてきたのに、気を抜いたところで押し倒してきたので、そのまま時間を取った。

 その次は若い女だった。泊めてくれるとの話だった。その夜、荷物に手を出し、金品を盗もうとしてきた。

 それから、街の暗がりに引きずり込もうとした男、奴隷商人に引き渡そうとしてきたおばさん、ナイフで頬を切り裂いてきた青年……。危なくなるたびに時間を奪った。初めは震える手で描いていた魔法陣もすぐに素早く描けるようになった。カイを探さなければいけない、そう心に言い聞かせながら。

「人は……残酷よ」

 雪の女王は震える声でアリスに言う。

「自分のためならなんだってする。殺しも略奪も自分の快楽を満たすことも……怖いというただそれだけの理由だけで子供一人を街外れに閉じ込めることも。私は生きるのに必死だった。心の拠り所にすがり続けることに一生懸命だった」

「そう、ね」

 答える少女の声に逡巡があったのは気の所為ではない。常に自身の本心を覆い隠すかのように見開かれた大きな青い瞳が、ほんの少し揺らぎ視線が僅かに逸れた。その人間らしい仕草に雪の女王は驚きを隠せず、思わず息を飲んだ。しかし、それは一瞬のことであった。すぐにいつものアリスに戻る。そして、その瞳にさらに強い輝きを宿らせ、雪の女王を射抜くように真正面から見つめる。

「あなたのつらさも悲しみもとても理解できる。それでも、人から時間を奪うのはいけないことよ。それは罪なの。いつかあなたの大嫌いなうさぎと同じになってしまうのよ」

 アリスはゆっくりと雪の女王に近づき、その頭からはらりと毛布を取った。寒さと飢えで傷んだ髪の間から、雪より白いふわふわの長い耳がすっと顔を出す。天を目指す長い長い耳。うさぎの耳。罪人の、証。

「もうやめたいのでしょう。こんなこと」

 幼い少女の声。それなのに諭すような大人びた響きをなぜか含む。

 少女の小さな手が雪の女王の頬を覆う。そうされて初めて、頬に涙がぼろぼろとこぼれていたことに気がついた。

 ずっとやめたかった。悪いことだと分かっていた。誰かに許しを請いたかった。それなのに、許しを請う相手も、止めてくれる誰かもおらず、ただただ壊れた心で走り続けるしかなかった。自分の心に蓋をして、数百年もさまよい続け、自分をゲルダだと思い込み、でも心のどこかで分かっていた。

 涙はとめどなく頬を濡らし、アリスの手を滝のように濡らした。それでもアリスの手は決してひるまず、温かく、そして優しかった。雪の女王はアリスの手をゆっくりと掴んで目を閉じた。

「もう終わりにしたい……もう……」

 アリスの手が雪の女王の頭を優しく包みこんだそのとき、鼓膜を切り裂くような甲高い声が、嫌らしい自分勝手な響きをはらんだ声が場の空気を揺らした。

「なんとまあ!終わりにしたいのかい?」

 アリスの腕が一瞬びくんと震えたが、自分を律するかのような強い力でその震えを抑え込んだのが分かった。一方、雪の女王は全身の震えが止められなかった。彼女は知っていた。この声を。

 雪の女王が目をこじ開けると、アリスの向こうににたにた笑いの真っ赤な目が見えた。血のように赤いべったりと淀んだ瞳。真冬でも暖かそうなほわほわの白い毛皮に、ちょこんと口からはみ出た前歯、そして、首からさげられた金色の懐中時計。

「ハッター!」

 アリスの急くような声が空気を切り裂く。いつも冷静な少女がこれほどまでに切羽詰まった声を出せたのかと、驚きを覚えて、その驚きで少し冷静になれた。

 アリスの隣で存在感なく立ち尽くしていたハッターがアリスの声に呼応するようにしゃなりと動き出す。アリスとうさぎの間に入り込み、手にしたステッキをたんと地面に打ち鳴らす。すると、彼を中心に地面に光の輪が広がる。その光の環の中から幾本もの影のように真っ黒な蔦のような触手のようなものが飛び出し、うさぎに向かって飛びかかる。捕らえようとしているのだ。しかし、うさぎは持ち前の跳躍力でひらりひらりとそれらをかわし、なんのことはないかのように地面にすたんと着地をしてみせた。うさぎの方が一枚上手に見えた。ところがうさぎが着地をした場所を中心に一つの魔法陣がふわりと展開された。

「かかったわね」

 アリスが怖いほど低い声で言った。

 アリスの手が何かを握り込むように宙をつかむのと同時に、魔法陣も急速に狭まり、うさぎの足を捕らえる。うさぎは宙に飛ぼうとしたが叶わない。ただ彼に慌てた様子はない。

「なんだい、なんだい。一体これはどういうことだ」

 見た目に似合わない年配の男の声でうさぎは言う。きょとんと可愛らしく片耳を折り、首を傾げる。

「あぁ、力不足というやつか。最近時間が足りなかったからね。そうそう、そうだそうだ」

 そして、首をきゅっとアリスの方に向け、にたーっとおぞましく笑った。

「あそこに美味しそうな子供がいるじゃないか」

 ぱかりとうさぎの懐中時計が開く。その文字盤はアリスの方に向いている。アリスは目を丸くしていた。うさぎの言葉に怯んだかのようだった。

 危ない。

 雪の女王は心の中で叫んだ。声は出なかった。声よりも先に体が動いていた。少女の前に躍り出て、両手を広げ彼女をかばった。

(あぁ)

 開きくる文字盤。見覚えがある。

(あなたもこんな気持ちだったのね、カイ)

 無我夢中で、なにも考えられず、ただただ守ろうとした。ただ、それだけ。

「ありがとう」

 小さくつぶやいたそのとき、また別の声がした。

「打て!」

 次の瞬間、懐中時計が閉じられた。と、同時に懐中時計があった場所に矢のような何かが次々に降り注ぐ。それらは懐中時計の蓋に当たってはじき飛ばされた。うさぎが鼻をひくひくさせながら答える。

「ひどいじゃないか!文字盤が壊れたらどうしてくれる!」

 そして、うさぎの足元が光り輝くと同時に、地面に別の魔法陣が展開する。時空を超える魔法。あれもまた、禁忌とされるもの。うさぎはアリスの捕縛魔法をするりと抜け出し、時空の向こうへと消えていく。

「大事な文字盤壊されてたまるか!これはアリスのものなんだ!」

 うさぎの言葉に、雪の女王は目を見張る。

 アリス。それはこの少女のことでは。

 しかし、疑問に答えてくれる人はいなかった。真っ白な光がうさぎを包みこんでいく。それと同時に光は急速に収束し、空中へと消えた。そこには元のがらんどうの薄暗い部屋しか残らなかった。

 辺りは静寂に包まれた。だがそれは一瞬のことだった。

 すぐにどやどやと音を立てて、部屋の入口からトランプの体に頭と手足が生えた不格好な兵隊たちがなだれ込んできた。先程矢を放ったのはおそらく彼らだ。それぞれ手にはハートやスペード、クラブ、ダイヤをかたどった弓矢を携えている。

 そして、トランプ兵の後ろからぬっと長身の男が姿を現した。トランプ兵たちは敬うかのように道を開け、その男を通した。

「あんたが罪人か」

 男は雪の女王の前に来ると、ふんと鼻を鳴らしながら言った。黒と紫の縞模様の服、目を覆い隠すほどに長い黒いくせ毛に、ぴんと頭に生えた猫耳。トランプ兵の様子から上官のように思えるが、その姿は兵とはほど遠い。それでもなんとなく理解できた。この男はこの世界の秩序を守る側の人間だ、と。

 雪の女王は抵抗する意思はないことを示すように膝をつき、頭を垂れた。その姿に、男はさらに面白くなさそうに舌打ちをして見せる。

「お前は我が国にて女王陛下が裁く。覚悟しておけ耳長」

「分かっております、いかようにも」

 凛として答えたその声は、かつて女王と呼ばれていた理由を匂わせるものがあった。そんな二人の様子など意にも介さないかのようにハッターが口を挟んだ。

「遅いじゃないか、猫。どうせ毛づくろいでもしていたんだろう」

 猫は威嚇するように長い犬歯を剥き出しにした。

「こんな寒い辺鄙なところに呼び出しやがる方が悪い。そもそも、俺たちのおかげで雪の魔女の時間が守られたんだろ。文句を言われる義理はない」

「本当にそうか?もっと早く来てくれれば、うさぎだって捕らえられたんだ」

「それは自分の力だけじゃ捕まえられないってことかい?はん、何のために追い回してるんだか」

 小馬鹿にしたように言う男――ネコに、ハッターがぎりと音がしそうなほど奥歯を噛みしめる。アリスが優しげな口調で口を挟んだ。

「やめてちょうだい、ふたりとも。大の男が口汚く罵るのなんてみっともなくて見たくないわ」

 声音は優しいが内容は辛辣だ。あまりの直球さに二人は思わず口をつぐんだ。そんな男どもには目もくれず、アリスは雪の女王の頭を優しく撫でた。

「ここでさよならね」

「また会えるかしら?」

 アリスはただ微笑んだ。声に出さずとも、二人にはその答えは分かっていた。ただただ見つめ合い、お互いの答えを確かめあった。

 腕を組み壁にもたれかかっていたネコは、二人の様子をしばらく見た後、ふいと目線を横にそらし、その裂けそうなほど大きな口に似合わない小さな声でトランプ兵に命じた。

「もういいだろう。連れて行け」

 アリスが少し身を引くのと同時に、トランプ兵がしっかりと女王を両脇から抱え連れて行く。だが、そのようにしなくともいいと思われるほどに彼女に抵抗の意思は感じられなかった。

 ネコがだらりと長い腕で空中に円を描くと、魔法陣が生じ、光の輪が扉のように彼らの眼前に現れた。雪の女王を引き連れたトランプ兵は次々とその光の輪に飛び込んでいく。最後のトランプ兵が飛び込むのを見届け、自身も光の輪へと入るかのように見えたネコだったが、ふと足を止めて振り向く。

「可愛い可愛いアリス。あの大罪人を早くつかまえておくれ。妙な情に流されるんじゃないぞ……お前に限って、そんなことはないと思うがね」

 彼の口元はいつものようににたにた笑っていたが、長い前髪で顔の半分が隠されているせいか、彼が真実どのような表情を浮かべているのかは分からなかった。そして、彼はそれ以上なにも言わなかった。ただしゃなりと音を立てそうなほど、隙のないしなやかな動きで後ずさると、光の輪の中へ飛び込んだ。すっと足元から溶け込むように消え、最後に三日月のような口元だけが宙に浮かび、それもまた光の輪が閉じるのに合わせて掻き消えるように消えた。後に残されたのはアリスとハッターだけ。埃と黴まみれの食堂はまるで何事もなかったかのように静まり返っている。廃墟の中に差し込む光はいつの間にか傾き、夕暮れを告げていた。赤く燃えるような光が、アリスの白い頬をなめるように照らす。

「……あの人、私の時間を奪おうとしたわ」

 空中の一点を見つめたまま、アリスがぽつりと漏らす。その表情には驚くほどなんの感情も浮かんでおらず、ただ言葉のみがするりと飛び出たようだった。

「彼はもう彼ではないんだ。かつての彼を重ねるだけ無意味だよ」

 ハッターは詩を読むかのように美しい声で答えつつ、帽子のつばを強く引きその目元を隠した。

 アリスは何も答えなかった。二人は無言のまま、その場に立ち尽くした。ただ夕日だけが刻々と角度を変え二人を赤く染め続けた。

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アリスと時盗みのうさぎ とき わかな @wakana_t

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