第4話 アリスと青い鳥
そこは広い草原だった。緑が一面生い茂り、白や黄色の花がそこかしこに咲き乱れている。太陽が絶えず振りまく光が目を開けるのもためらうほどにまばゆい。花たちはその光を反射してキラキラと輝く。まるで草原一面が光っているようだ。
その草原の真ん中にはなぜかテーブルと二脚の椅子が置かれていた。そのどちらもくもり一つないほど真っ白で、華奢で細い金属で繊細に形作られた足がそれぞれの天板を支えていた。テーブルの上にはこれまた真っ白なレースでできたテーブルクロスが広げられている。心地よい日差しを受けて輝くそれらは、まるで草原の中に現れた夢のようだ。
椅子には一人の男が腰を下ろしていた。緑の燕尾服に身を包み、緑の大きな帽子をかぶっている。帽子の隙間から覗く金髪のくせ毛に、青い瞳。いかにも育ちの良いハンサムな男である。ただ一つ異質なのは、その帽子からはふわふわの長い白耳が二本、空に向かってすっと生えていることだ。
男は手にティーカップを持っていた。時折口元に運ぶ様子から見て何か入っているらしい。よく見れば、テーブルの上にはティーポットとソーサーが並べられている。紅茶のようだ。
広い草原の真ん中で紅茶を飲むハンサムな男。
異質だ。
しかし、本人――ハッターはそんなことを意に会する男ではない。
久方ぶりに淹れた紅茶は、口元に近づけるたびにふわりと花のように香る。口に含めばわずかな渋みと深みのある味わいを舌に残していく。良い茶葉のようだ。もちろん、淹れている人間の腕が確かなのもある。おいしいね、と小さな声で一言、ハッターは自画自賛する。
目を閉じ、かぐわいながら紅茶を堪能していたハッターであったが、ふと何かの気配を感じて、ゆっくりと目を開けた。
光に包まれた草原。その向こうから確かに誰かの視線を感じる。
ハッターはかちりと小さな音を立てて、ティーカップをソーサーに置くと、よく通る声で呼びかける。
「そこにいるのは誰かな」
ハッターの声に呼応するように草原を踏みしめるがさがさという音が響く。やがて、草陰からひょっこりと何かが姿を現した。眩しい日差しの中、よく目を凝らすとそこにいたのは一人の幼い女の子だった。栗色の巻き毛にそばかすの浮いた顔をしたその女の子は、眉をしかめ、ぶしつけな様子で上から下までハッターを舐めるように眺めまわした。いかにも不審者を見つけたと言いたげな風情だ。女の子は両足を踏ん張るような姿勢で棒立ちになったまま、ハッターを黙ってにらみつけている。その様子に、ハッターはふふふ、と思わず微笑んだ。普段から小さな女の子を相手にしているせいだろうか。幼い子のそんな様子すら可愛らしい。
ハッターは足を組んで、女の子に向かって笑いかける。
「どちら様?」
その声を契機にしたように、女の子はぱっと身を翻すと、そのまま草原の向こうへと走っていってしまう。
「おやおや」
ハッターは少しも困った様子もなくそう言うと、ティーカップを取り上げ、再びゆっくりと口元へ近づける動作を繰り返す。
不審者がいると言いつけられると少し困るな。
そう思ったけれど、まあ大して困った様子も見せないのが彼である。ふふふ、と微笑むと、ティーポットから二杯目を注ぐのであった。
その次の日、彼は昨日と変わらぬ姿で草原の真ん中でお茶をしていた。
さんさんと降り注ぐ日の光はまばゆくはあるものの、焼け付くような灼熱さとは異なる、やわらかなぬくもりだけを地表に与え続けている。いわゆる春の陽気というやつだ。
ハッターはうっとりとしたように目を閉じる。春の日差しにおいしい紅茶、まさしく彼の求めていたお茶会だ。
そのとき、またあの視線を感じた。
昨日と同じようにカップをソーサーにおろすと、ハッターはそちらに顔を向けにっこりと微笑む。
少女は今度は隠れることもなく、草原の中に棒立ちになってハッターをにらみつけていた。小さな手は自身のワンピースをぎゅっと握りしめている。ほんのわずかだがその拳は震えているようだったが、決意の強そうな眼差しが強い圧力を秘めており、恐怖の震えというよりは、己を鼓舞する震えなのだと、ハッターには分かった。
少女の厳しい眼差しに臆することもなく、ハッターはおやおや、と言ってにっこりと微笑む。
「どうしたのかな、お嬢ちゃん」
「あんた、魔法使いなの?」
初対面から、あんた呼ばわりである。
(いつも相手にしているお嬢さんはお嬢さんで強烈な子だけれども、この子はこの子で、まあなかなか)
そんなことを心中でひとりごちたハッターは、いや、そんなことではない、と独り言を振り払った。気にするべきはそこではない。
ハッターは悠然とした動作で足を組み替える。
「魔法使いとは、いったいまたどうしてかな?」
「それ」
少女があごをしゃくって、お茶会の道具たちを示す。
「空中から出したでしょ」
「おやおや、見ていたのかい」
軽く肩をすくめてみせたものの、ハッターの口調に困った様子は少しもない。むしろ楽し気に微笑んで見せている。そんなハッターを少女は不躾に睨みつける。
「質問に答えてよ」
「質問?あぁ」
ハッターはこらえきれないというようにくつくつと笑うと、幾分柔らかな視線を少女に送る。
「僕は魔法使いではないよ。ほんの少し不思議な力を持っているだけさ。それもごく限られたわずかな力さ」
「ふーん」
少女は興味なさそうな口調をしながらも、上から下までじろじろとハッターを舐めるように見た。それからパッとワンピースを翻すとどこかに行ってしまった。
「おやまあ、元気な子だ」
ハッターはゆっくりと目を閉じると、少し冷めてしまった紅茶をゆっくりと飲んだ。
また次の日。同じ花畑。ハッターは今日も変わらずお茶会の用意をしていた。いつもの杖でこんこんと地面を叩くと、白い光がぱっと生じ、目の前にお茶会の道具が現れる。なんのことはない。時空の向こうにしまっているものを引っ張り出しているだけだ。
白い光の向こうから踊るように現れたお茶会の道具たちを一つ一つ手に取って、ハッターは定位置へと並べていく。白いテーブルと白い椅子。綺麗に畳まれたレースのテーブルクロスをその上へふわりと広げる。ほんの少しお茶の染みがついているのを見つけて、ハッターは少し目を細める。昨日、こぼしたのだろうか。気が付かなかった。
「人に見られているというのは意外にストレスになっているのかもしれないね」
テーブルクロスを汚すなど、らしくない。ハッターはふふっと微笑むと、ケトルからティーポットにお湯を注ぎながら、ちらりと遠くの茂みを横目で見やる。
「お嬢さん、出ておいで」
ハッターの声に答えるように、茂みががさがさと音を立てる。顔を出したのはやはり昨日の少女であった。相変わらずの険しい顔をしている。服装は昨日と同じシンプルなワンピースだ。あまり裕福な家庭ではないのかもしれない。
ハッターから三メートル以上離れたところにじっと突っ立っている少女をハッターは手招きする。
「こちらへどうぞ」
椅子を引いて示してやると、少女は驚いたように目を丸くしてハッターを見たが、すぐにふるふると首を横へふった。
「いい」
「なぜ?」
「知らない人に近づいちゃいけないってお母さんが」
ハッターは微笑みながら引いていた椅子をしまう。
「いいお母さんだ。ちゃんと言うことを聞いている君も偉いね」
ハッターの誉め言葉に少女は少し照れたような様子を見せたが、それはほんの少しであった。用心深い子なのだろう。幼すぎてまだ分からないが、賢い子に育つに違いない。
「……あんたはなんでここで毎日お茶をしているの?」
少女の問いかけにハッターはティーポットのお湯を捨てながら答える。
「僕は人を待っているんだよ」
話している間にティーポットは十分温まったようだ。慣れた手つきで茶葉をティーポットに入れ、ケトルからお湯を注ぐ。それから、愛用の砂時計をひっくり返す。細かな砂がさらさらとガラスの中を落ちていく。
淀みないハッターの手つきをじっと眺めながら、少女は尋ねる。
「待ってるのはお茶会の相手?」
「そんなところかな」
ふーん、とまた気のない返事。ハッターはゆっくりと椅子に腰を下ろす。
「君はなぜ毎日ここへ?」
少女がしばし黙り込む。ハッターはその間、砂時計をじっと見つめていた。太陽の光を反射してきらきらと輝くガラスの中で、砂は人間など知らぬ様子で、自分勝手に流れていく。時の流れは黙っていても止まらない。それでもハッターには少女の発言を十分に待つ余裕があった。
「……青い鳥を探しているの」
少女がぽつりと言った。
「青い鳥?」
ハッターの言葉にこくりと頷くと、少女はまたどこかへと走っていってしまった。ハッターの視線の先で、細かな砂粒の最後の一粒が転がりおちた。
また次の日、ハッターは相も変わらず美しい花畑でお茶をしていた。視線を感じるのもすっかり慣れっこになってしまったようだ。黙ったまま手招きをすると、また草の影からおずおずといった様子で少女が出てきた。
「やあ、お嬢さん。青い鳥は見つかったかい」
ハッターの問いかけに少女はふるふると首を横にふる。
「まだ」
そう、と言ってハッターは紅茶を口に含む。今日は少女はどこにも行かないらしい。ただ黙ってそこに立ち尽くしている。
ハッターがティーポットから二杯目の紅茶を注いだ時、ワンピースを握りしめたままの少女がぽつりと口を開いた。
「お母さんがね、幸せに生きるには青い鳥が必要だって」
「幸せに、かい?」
少女はぎゅっと自身のワンピースを握りしめ、うつむく。
「うん」
頑なに表情を崩さない少女にハッターは優しく問いかける。
「幸せってどういうことだい?」
「分からない……でも、お母さんは毎日祈っているの」
「青い鳥が来ることを?」
「うん」
ワンピースを握る少女の手がわずかに震えているのをハッターは見逃さなかった。少女自身は気が付いていないのだろう。少女は静かに返答を続ける。
「青い鳥が来るのが『しんこう』が実った証なんだって。だから来るまで祈り続けなきゃいけないんだって」
そして、ぱっと顔をあげる少女。大きな黒い瞳はうるみ、必死に零れないように我慢しているのか、口元はわなわなと震えている。その表情には焦りの色が見える。
「探さなきゃ」
少女がぱっと身を翻す。その後姿を見届けることもなく、ハッターは空中に向かって、ふむ、とつぶやく。
「大人は残酷だね」
ハッターはティーポットからカップに紅茶を注ぐ。赤みを帯びた透き通った茶色の液体が湯気とともに溢れだし、辺りにふわりと華やかな香りが立ち込める。静かになった花畑でハッターは一人、紅茶を飲み続けた。
次の日もまた次の日も少女はやってきた。
ハッターが飽きずにお茶会を続ける横で少女はぽつりぽつりと言葉を発する。
母親のこと。
亡くなった父親のこと。
自分のこと。
そして、家に溢れる青い鳥にまつわる道具たちのこと。
ハッターは常に優しい口調で聞いていた。ただ聞いていた。
そしてまたある日、ハッターはいつもどおり紅茶を楽しんでいた。今日は準備中には誰も来なかった。白と黄色の花が咲き乱れる中、白いテーブルと椅子が日の光を反射して眩しく光る。花畑は静かだった。
が、またすぐに静寂は乱される。かさかさと草をかきわけ踏みしめるかすかな音がハッターの長い耳に飛び込んでくる。今日は声をかけずとも姿を現してくれるようだ徐々に近づいてきた少女は、ハッターから少し離れたところに立ち尽くした。
「やあ、お嬢さん」
ティーカップ片手に声をかけたが、返事はない。相変わらず睨むような目つきをしていたが、その視線はハッターではなく地面に送られていた。
その次の瞬間、少女がたっと駆け出した。いつものように身を翻すわけではなく、ハッターの方へとぐんと近づいたかと思うと、ハッターの脇にあった杖をぱっと奪い去る。それからみるみるうちに花畑の向こうへと走り去ってしまった。
ハッターは別に驚いた様子もなく、焦る様子もなく、ただ黙って花畑の向こうへと消え去った少女の後姿を眺めた。その顔は恐ろしく無表情だった。ゆっくりと口元にティーカップを近づけ一口飲む。ふわりとした香りが口の中にあふれ、しっとりとした水分が口元を濡らした。
「おやおや」
ハッターはかちりとティーカップを置いて立ち上がる。
「このままではアリスに怒られてしまうね」
帽子を被りなおすと、長い耳をぴょこぴょこと揺らした。お茶会は中断だ。
「紅茶が冷める前に戻ってきたいな」
ハッターは無表情のままつぶやいた。
少女は花畑を駆け抜けると、その向こうの森の中を必死に走っていた。全身を躍動させながらも、両腕でしっかりとハッターの長い杖を抱えている。少女の身長に対して長すぎる杖は、足元の悪い森では邪魔でしょうがない。時折抱え直しては、引っかからないように逐一気をつけなければならなかった。
森の木々をいくつか抜けたところで少女は立ち止まり後ろを振り向いた。すでに花畑は影も形も見えない。このくらい離れれば土地勘のない人は、そうそう見つけることはできないだろう。
少女は肩をはずませるように荒い息を吐きだすと、手の甲で額に浮き出た汗をぬぐう。心臓が破裂しそうな勢いで跳ねている。走ったせいだけではないだろう。緊張と不安が胸の内を駆け巡る。
汗で滑ってずり落としそうになったステッキを地面に立てる。少女のちょうど背丈くらいの長さだ。茶色の柄をしている。木製のようだが、表面はしっかりとコーティングされており木目でありつつも光沢がある。手を添える部分は柄とは別の素材でできており、黒くつややかだ。握りやすいようにかぎ状になっている。
少女はしばらく杖をためつすがめつした後、ハッターがしていたように片手で杖を握りしめる。ふーっと息をついて、その杖の先端を見つめる。
悪いことをしたことは分かっていた。ただ、これさえ手に入れればきっと、という強い思いもあった。
ほんの少し借りただけ、ほんの少しだ。なんら悪いことではないし、悪いことに使うつもりもない。
心の中で自分を正当化すると、杖をぎゅっと握りしめる。走り終わったというのに手の汗ばみが取れず、杖が滑りそうだ。むしろさっきよりも汗をかいているのかもしれない。
少女は目を閉じる。
思い浮かぶのは常に母親の姿だ。
父親が亡くなった後、ふさぎこんだ母親。少女が声をかけても部屋から出てこず、薄暗い中でただひたすらに背中を震わせていた。
そんな母親の顔をあげさせたのは知らない大人たちだった。
ある日突然やってきたその人たちは、母親と長い話をしていた。何の話をしていたかは部屋の外に出されていた少女には分からない。ただ、あまりよくない気配だけはひしひしと感じていた。少女の不安と比例するように、その次の日から、母親は見違えて明るくなった。
そして、常に『青い鳥』と口走るようになった。
青い鳥は幸福の使者よ。
青い鳥が来るのは信心深い証なの。
青い鳥が来るように祈らなきゃいけないの。
青い鳥のために生きるの。
青い鳥が見えないわ。
青い鳥はまだ来ないの。
青い鳥が来ないのは私の心が足りないからよ。
気が付けば、家は青い鳥を呼ぶための何かに溢れていた。母親はしょっちゅうどこかに出かけるようになり、帰ってくるたびに何かを抱えてきていた。安くはないもののようで、いつの日か食べるものにも困るようになっていった。
母親はいつの間にか少女の名前を呼ばなくなった。少女の方を振り向かなくなった。
口を開けば、いつも『青い鳥』。
「きっと今は青い鳥に夢中なだけ」
青い鳥さえ見つかれば、また元の母に戻る。
少女は彼がしていたように、ゆっくりと杖を持ち上げ、地面をこん、こんと二回叩く。少女の心に立ち込める暗い思いとは裏腹に、木製の杖が生み出す軽く柔らかい音が森の中に響き渡る。
それだけだった。
何も起こらない。
白い光があふれだすのを期待したが、視界には何ら変化がない。もう一度こんこんと叩く。何も起きない。少女の視界にあるのはただただ普通の杖だ。
「なんで……ダメなの」
叩き方が悪いのか、それとも彼だからこそ可能なのか。
青い鳥は出てこない。
もう少女には手段がない。
半泣きになった少女が思わず杖を投げ捨てると、杖の持ち手がぽろりと取れた。柄と持ち手がバラバラになった杖は、ころころと地面を転がると、少女の足元でその動きを止める。
「こわ……れた……?」
少女は青ざめる。壊すつもりなどなかった。目的を達成したら、あの不思議な男にちゃんと返すつもりだったのに。
慌てて持ち手と柄を拾い上げた少女は、くっつけようと両者を近づける。そのとき、柄の上部が目に付いた。
柄は上部を持ち手の中に隠すように接合されていたのか、持ち手がついていたときよりも長い。そして、持ち手がついていたときには見えなかった部分が露出している。柄の上部は見えていた部分と同じようにコーティングされた木目調であったが、その上に何かが描かれていた。黒い墨のようなもので描かれているそれは、手書きのようで線の太さがまちまちである。柄の部分を回しながら、描かれているものの全景を見ると、どうやら円のようだ。円の内側には、均等に十二個の文字が描かれている。その文字が何を意味するのかは少女には分からない。まだ習っていない文字なのかもしれない。
「なに……これ……」
「ふふふ」
ぽつりとつぶやいた少女の後ろから、突如笑い声がする。背筋が泡立つような恐怖を感じて、少女が慌てて振り向くと、そこには花畑でお茶をしていたあの男が立っていた。森の中だというのに何の物音もしなかった。草木を踏みしめる音もかきわける音も何一つ。何気ない様子でそこに立って笑う男。少女は全身に震えが走るのを感じた。
男は笑顔を浮かべたまま、少女のそばまで来ると恭しく首を垂れ、少女の手元をのぞきこむ。
「おやおや、それを見てしまったのか」
杖を手に凍り付く少女の手から、男は杖の柄と持ち手を取り上げる。
「本来なら密告しなきゃいけないけれども……黙っておいてあげよう」
にっこりと笑いながら男は柄を持ち手の中に収納する。あの不可思議な円が持ち手の中に隠れ見えなくなる。
再び一つになった杖を、男は曲芸のようにくるりと回して持ち直す。杖はぴったりと違和感のない様子で男の腕の中に納まった。深く帽子を被りなおした男は人差し指をすっと立てて口元に持ってくる。
「誰にも言ってはいけないよ」
帽子の向こうから覗くぞっとするほど怖い瞳に、少女はひっと小さな悲鳴をあげる。凍り付いたように動かなかった足が反射的に飛び上がり動き出したのをこれ幸いと、少女は勢いよく森を駆け出す。何が怖いのかもよく分からなかったが、一目散に森の外を目指した。後ろを振り返ることもできなかった。振り向いたら、そこにいるかもしれない。その恐怖だけが彼女を支配していた。
ここで見たことは誰にも言わない。
そう固く心に誓う。
言ったら、家に戻れなくなるかもしれない。
根拠もないのに、なぜか、そう思った。
太陽光がきらきらと降り注ぐ中、ハッターのお茶会は今日も続いている。一面に広がる白と黄色の花。暑くもなく寒くもない、やわらかで暖かく吹き抜ける風。真っ白なレースのテーブルクロスの裾がふわりと揺れ、曇り一つないティーポットが日の光を静かに反射する。その中で長い足を優雅に組み、ティーカップを音もなく持ち上げる金髪の男。細く長い繊細な指に白い肌。まるで彫刻のように綺麗だが、彼が被る緑の帽子からは白い毛に覆われた長い耳がにょっきりと伸びている。
時折吹き抜ける風の音以外、何の音もしない。草原は驚くほど静かだ。
そのとき、ふとかすかな音がした。風の音と違うそれは容赦なくハッターの耳を揺らす。
ハッターはふふっと笑うと、そっと立ち上がり、もう一つのティーカップにポットから紅茶を注いだ。そして、優雅な仕草で彼が座っていなかった方の椅子を引く。
「お嬢さん、お茶はいかがかな」
ハッターが微笑んだ先にいたのは一人の少女。腰まである長い金髪に青いドレス。愛くるしい大きな目は、春の光の中でなお一層美しく輝いている。白すぎるほど白い肌は今にも日の光の中に溶けてしまいそうだ。
アリスはハッターの姿を見ると、ほんのわずかに微笑んでみせた。
「まったく。のんきなものね」
「まあまあ、アリス。こうしてまた出会えてよかったよ。うさぎには会えたかい?」
アリスが座るのに合わせて椅子を動かしながらハッターは答える。アリスはふぅと小さくため息をつく。
「残念ながらうさぎはいなかったわ……女性しか入れない国だなんてあるのね。あなたがいなくて不便だったわ」
アリスは再びため息をつくと、ハッターを見上げて、あなたはどうだったの、と尋ねる。ハッターは自身の椅子に腰を下ろしながら、楽しそうに微笑んだ。
「そうだね……青い鳥を探す少女に出会ったよ」
「まあ、青い鳥?」
好奇心旺盛そうな大きな瞳が一際大きく瞬いて、ハッターの顔をのぞきこむ。ハッターはティーカップを持ち上げる。
「そう、青い鳥。彼女の母親が欲しがっているらしい」
「なぜ?」
アリスはさらにぐっとハッターの方へと身を乗り出す。ハッターは優し気に微笑むと、アリスのふわふわの巻き毛をそっとなでる。
「今日は質問が多いね……そうだね、彼女が言うにはね、青い鳥は『信仰が実った証』らしいよ」
「まあ、それは」
アリスは目を丸く広げたが、それ以上何も言わなかった。小さな手をティーカップに伸ばし、ゆっくりと一口お茶を飲む。お茶を飲むのに合わせて伏せられた長い睫毛がまるで人形のようだ。アリスはかちりと音を立てて、ティーカップを戻すと、柔らかそうな金髪を揺らして微笑んだ。
「彼女のお母さまが早く気が付くといいわね。幸せはすぐ隣にあることに」
「そうだね。青い鳥はいつだってすぐ隣にいるんだよ」
ハッターがこつんと杖で地面を叩くと、小さな青い鳥が一羽、二人の頭上を静かに飛び去って行った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます