第2話 アリスと木彫りの人形
彼は時計屋である。
小さな町の小さなログハウスに彼は一人で住んでいる。太い丸太を組み上げて作った屋根裏部屋付きの一階建てのログハウス。一階は店になっており、屋根裏部屋が寝室となっている。屋根裏部屋からは人一人通るのがやっとな狭い階段が伸び、店のカウンターの奥につながっている。階段の裏側――店のカウンターの奥は小さな台所。最低限の食器が小さな食器棚の中に並べられ、小さな流しと一口のコンロがついている。台所からカウンターを挟んだ向こうは時計屋としてのスペースである。木の机がカウンターに向かって左右に二つ置かれ、その上や下にところ狭しと時計が並べられている。ごちゃごちゃとしているように見えて、埃一つ積もっていない。手入れが行き届いているのが見て分かる。カウンターから正面に見える壁についているのが外へのドア。ドアには大きなガラス窓が埋め込まれている。外の様子がよく見えるようにだった。
家はとても静かで、響くのは時計たちが立てるこちこちとした音だけだ。時計以外に唯一音を立てそうなものはドアの上に取り付けられた小さなベルのみ。ドアが開けばカラコロと音が鳴り、彼に来客を告げる。左右に机が置かれているため、カウンターとドアの間には、人が四人も入ればいっぱいになってしまう程度の空間しかない。木目の床は踏めばぎしぎしと音を立てるほどに古いが、彼が毎日掃除しているためか、塵一つ落ちていない。
家の中はこれで全部。本当に小さな小さな家である。しかし、彼はこの家がとても気に入っている。一人で暮らすには十分な大きさだし、維持するのに手間もかからない。もうかなりの高齢であるため、足腰が弱ってきたが、この大きさなら大して歩かなくてもすむ。
彼は毎朝、日の出とともに起き、軽くストレッチをすると、一階の職場へと降りる。そして、熱く濃いコーヒーを入れて、近くの店で買ってきたパンを頬張りながらその日やらねばならない仕事を確認する。彼の店にはたくさんの時計が売られているが、それを売って得られる利益はごくわずかである。そもそも時計を新しく買う客はあまりいない。彼の主な仕事は時計の修理である、古い置き時計から小さな懐中時計まで、彼はたくさんの種類の時計に精通していた。
彼は毎朝、預かっている時計の数を確認し、それらの修理期限から優先順位を定めると、カウンターの前に置かれた安定性の悪い椅子に腰を下ろす。少しぐらつく椅子だが、長年座っているため、そのぐらつきすら彼はよく知っている。ほっと息をつく間もなく、彼はカウンターの引き出しから老眼鏡を取り出すと、優先順位の高い時計をカウンターの上に置き、工具で丁寧に蓋を開ける。
いつもどおりの朝。いつもどおりの日常。
何十年も繰り返してきた。人はそれを退屈だと言うが、彼にとっては穏やかで心落ち着くルーチンだった。
彼が一つ目の時計の修理を終え、二つ目の時計を手に取った時だった。ドアに取り付けていたベルがカランコロンと音を立てた。彼は老眼鏡を外すと、そちらへと目をやる。
「いらっしゃい」
そう声をかける。
そこにいたのは一匹の白いうさぎだった。彼の腰くらいまでの身長であろうか。長い耳に赤い目、細いひげを幾本か口元にたくわえている。
長年時計屋をしているが、人間以外の客など初めて見た。
彼は内心ではわずかに驚いたが、年齢ゆえか表情に出るほどの驚きではなかった。
白いうさぎはひげを震わせながら言った。
「時計の修理を頼みたい」
甲高いトーンを含みながらも、渋く深みのある声だった。きっと彼と同じくらい歳を重ねた男に違いない。
見た目がうさぎであること以外は、他の客と同じ様子だったので、彼はうさぎの見た目について特に尋ねないことにした。いつも他の客にするのと同じように、深く頷いて、カウンターの前に来るように促す。
うさぎはうさぎらしくない動作で二本の足を使って器用にカウンターの前まで来ると、手にしたものをそっと差し出してきた。うさぎが持っていたのは銀の懐中時計だった。うさぎの手のひらとちょうど同じサイズくらい。懐に入れるのには少し大きいサイズの懐中時計であった。銀蓋には幾何学的な模様が彫られている。彼はその懐中時計を手に取ると、老眼鏡を掛け、懐中時計についた突起を押した。すると、懐中時計の蓋がゆっくりと開いた。
蓋の裏には蓋の表と同じ幾何学的な模様が彫られており、文字盤は透明なガラスで覆われている。文字盤にはローマ数字のようなものが十二個均等に円周上に描かれている。しかし、そのローマ数字のような文字は通常の文字とは確実に異なっていた。本来であれば一から十二を示す数字が描かれているそこには、数字のような、しかし見たこともないような文字が描かれていた。そして、さらに、その懐中時計には本来あるはずの、針がなかった。
「壊れてしまったようなんだ」
うさぎは白い鼻をひくひくと動かしながら言った。
「いくら時間を集めても集めても足りなくなってしまうんだ。きっとどこか壊れているのだと思う」
彼はうさぎの言葉の真意が分からずに、ただもう一度懐中時計を眺めた。ひっくり返し隙間から覗き込もうとしたが、この懐中時計には内部を見るための裏蓋がないようだった。どんなに眺めても、裏蓋を取り外すための凹凸やネジがないし、そもそも裏蓋と表部分はしっかりと溶接されているようだった。彼は老眼鏡をはずすと、姿勢を低くしてうさぎに目線を合わせながら話した。
「申し訳ないがね、うちじゃこれは直せないようだ。せめて、この蓋を開けることさえできれば、見ることはできるがね」
彼の言葉にうさぎはふむと言って、口元をもぞもぞと動かした。何かを思案しているようだ。うさぎはしばらくそうしてから、赤い目で彼を見た。
「今その蓋を開けることはできない。修理はまたにしたいと思う」
それからその赤い目を細くさせ、にたぁっと笑った。
「君の時間は取らないでおくよ。そもそもそんなに多くないみたいだしね」
子供が見たら泣いてしまいそうな笑みだな、と彼は思った。彼自身はもう歳のせいか、恐怖もおもしろさも感じなかった。うさぎが何のことを言っているのかもよく分からなかったが、最近の人は思わせぶりなことをそれらしく話すのだろう、と勝手に納得した。そんな彼の様子を見向きもしないで、うさぎはほう、と声をあげた。
「貴重な時間を割いてしまって申し訳なかった。お詫びにこれを置いていこう」
うさぎが取り出したのは男の子をかたどった一体の人形だった。赤ん坊ほどの大きさの木彫りの人形。彼は欲しいとも欲しくないとも思わなかったが、好意はありがたく受け取る人間だった。
「ありがとうよ」
彼が人形を受け取ると、うさぎは満足気にひげをふるわせた。そして、そのままくるりと踵を返すと、背すじをすっと伸ばして店のドアを開けた。
「それでは、また会うことがあれば」
うさぎは出ていきざまに振り向いてそう言った。からんからんというドアの鐘の音が響き、うさぎの姿がガラスドアの向こうに消えた。
彼はゆっくりと腰をさすりながら立ち上がると、人形を抱き上げた。つぶらな瞳をした丁寧な仕上げの人形だった。木彫りの体はしっかりと磨きこまれ、艶やかさを誇っていたし、関節部分は木を組み合わせることで曲がるように作られていた。彼は人形をどこに持って行こうかしばらく悩んだ後、店に並べてある置き時計の間にその人形を座らせた。その人形は店内の雰囲気にぴったり合っていて、もう何十年もそこにいるかのような風情を漂わせていた。
彼はそんな人形をじっくり眺めると、カウンターの椅子に戻り、また作業を始めた。
それから一週間ばかりが経過した。彼の日常は何一つ変わることなく、穏やかに過ぎていた。毎日起きるとコーヒーとパンを食べ、日がな一日時計の修理をして過ごし、質素な夕食を食べて眠りについた。時折、お客さんが訪れては、時計を買ったり、修理に出していた時計を引き取ったり、壊れた時計を修理に出したりしていった。何も変わらぬ穏やかな日々。ただ木彫りの人形だけが彼の仕事をずっと見届けていた。
この日も彼はいつもどおり、時計の修理を行なっていた。
カランコロン
ドアにつけたベルが鳴り、彼は老眼鏡の上からドアを見やった。
「いらっしゃい」
「こんにちは、時計屋のおじいさん」
鈴を転がすような美しい声音。彼は老眼鏡をはずすと、声の持ち主を見た。それは可愛らしい少女であった。ふわふわの金髪に、青い目。青いワンピースからすらりと伸びた手足は日光を知らぬかのように白い。少女は踊るような足取りでカウンターの前へと来ると、形のよい唇をそっと動かした。
「お仕事中にごめんなさい。白いうさぎを見ませんでしたか?」
彼は何のことか分からずにしばし思案したが、やがてすぐに先日のうさぎのことだと思い至った。
「ああ、一週間くらい前に変わった時計を持って来たうさぎのことかな」
彼の言葉に少女の瞳がわずかに揺れる。美しいとも可愛いともつかぬ少女だな、と彼は思った。綺麗なのだが、妙に大人びていて妖艶さを感じる。かと思えば、こちらの言ったことに対して素直に反応するような幼さも持ち合わせている。話を促すかのように彼の顔をじっと見つめる少女に彼は記憶を探るようにゆっくりと言葉を続ける。
「修理を頼まれたんだがね……そう、私には直すことができなかったから、出て行ってしまったよ。どこに行ったかは知らないね」
「そう」
少女は美しい瞳を悲しげに曇らせて小さく答えた。少女の大きな瞳はしっとりと濡れ、それを縁取る長いまつげが落胆のためか伏せられた。歳のためか誰かに感情移入することなどしばらくなかったが、このときばかりは力になれなかったことを大層申し訳なく思った。少女は落胆したことを押し隠すかのように、すぐにりんとした表情に戻ると、ふんわりと微笑む。
「おじいさん、ありがとう」
そう言うと、少女は彼に背を向ける。この歳にしては、落胆を隠すのが上手いが、彼の方が歳を取っている分、一枚上手である。りんとした表情で押し隠していた落胆が背中にはっきりと現れている。
「すまないね」
おじいさんの言葉に、少女は、いいのよ、とつぶやく。大人びた力強い声音である。何が彼女の中身を、こんなに見た目に不釣り合いな大人にさせたのだろう。彼は疑問に思ったが、それは聞かないことにした。人には触れてほしくないことがたくさんある。そのことを彼は知っていた。
少女は落胆を振り払うかのように手で髪をかきあげると、ふと、店の一角に目を止めた。少女が息を飲むのが分かった。背中に張り付いていた落胆が急に忘れられたかのようである。少女は、あら、とつぶやいて一つの机に歩み寄る。
「――かわいいお人形さんね」
少女は華奢な手を並んだ時計の向こうに延ばすと、木彫りの人形を抱き上げた。元々このくらいの年頃の子供のために作られた人形だったのか、人形は少女の腕にぴったり収まった。人形は首をくったりと傾けたまま、少女の腕にもたれかかる。
「ああ、その人形。件のうさぎが置いていったんだよ」
彼の言葉を受けて、少女は大きな目でじっと人形を眺める。華奢な白い手に薄汚れた人形なんて、不釣合いなようだが、人形はまるで何年も前からそこにいたかのように少女の腕の中に違和感もなく収まっていた。少女は鈴を転がすような声で笑う。
「ふふ、木彫りの人形さんね」
少女はにっこりと微笑むと、続ける。
「嘘をつくと鼻が伸びるんだわ」
「木彫りだから、鼻は伸びんよ。木が膨張することはあるかもしれんが、その人形はしっかり処理されているようだし、伸びたとしても微々たるもんだろう」
彼が現実的な返事をすると、少女はあどけない笑顔を浮かべた。
「いいえ、この子は鼻が伸びたのよ。この世界ではない別の世界、この子の鼻が伸びてしまう世界で」
彼はわけが分からずに、愛おしげに人形をなでる少女の横顔を見つめた。人形は少女の腕にぴったりと収まり、美しい少女と古い人形の姿はまるで一枚の絵のように様になっていた。彼は思わず口を開いた。
「その人形、持ってお行きよ」
少女は青い大きな目をきょとんとさせて、彼を見て、それから人形を見た。しかし、すぐに柔らかなほほえみを浮かべる。
「ありがとう。でも、いいわ。もしかしたら、この子の鼻の伸びる世界にこの子を連れていってしまうかもしれないし……この子の鼻は伸びない方が綺麗よ」
そう言うと少女は人形の額にくちづけをして、すぐに元の場所に戻した。
「おじいさん、ありがとう。もう行くわ……うさぎを探しに」
少女はくるりと背を向けると、ふわふわの金髪をなびかせてガラスの埋まった扉を開けて出て行った。からんころんという鐘の音が店内に寂しく響く。ガラスの向こうに、少女が父親というには少し若すぎる帽子の男に走り寄るのが見えた。薄暗い店内とは裏腹に少女たちのいる外はとても眩しく明るく感じた。少女は美しく微笑みながら、男と手をつなぐと、光の中に溶けるように去っていった。
ひだまりのある外。薄暗く少しカビ臭い店内。
彼はゆっくりとした動作で老眼鏡をつけると、また時計修理を始めた。
***
まるでスキップを踏むかのように、いつにもまして軽やかな足取りで歩く少女にハッターは優しく声をかける。
「ごきげんさんだね。なにかあったのかい」
アリスはふふっと微笑む。
「彼がいたのよ。嘘つきの彼が」
アリスの言葉に、ハッターはしばし考えこむと、やがて思い至ったかのようにあぁと声をあげた。
「彼か!鼻は伸びていたかい」
「いいえ。でも、いつかまた伸びるのかしら」
「さあね」
ハッターは再度考えこむと、おどけたように答える。
「……まあ、耳が伸びるよりマシじゃないかな?」
ハッターの言葉にアリスは微笑むと、そうねと答えて、その場でくるりと回る。その足取りはとても軽い。溶けるように淡い日差しの中で少女の青いドレスがふわふわと踊る。
「たまには、いいわね。知っている人に会うのも」
幼い雰囲気で言われたその言葉。しかし、その言葉の意味をハッターはよく知っている。
「そうだね」
悪くない、ハッターはぽつりとつぶやく。
木漏れ日の中、軽やかに跳ねる少女はまるで人形のように美しかった。
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