アリスと時盗みのうさぎ

とき わかな

第1話 ある夏の日の白昼夢

 うだるような夏の暑さ。アスファルトが蓄えた熱で地上はゆらゆらと蜃気楼のように揺れ、太陽はじりじりと首の後ろを焦がす。あちらこちらの木からは、セミの大合唱が止まる気配すら見せないほどに延々と鳴り響いている。セミ――姿は木の皮にまぎれてよく見えないのに、声のみで存在を主張する迷惑なやつ。その耳障りさが夏の風情――ひいてはその暑さを余計際立たせている。

 マキは帽子を少し上に上げると、手の甲で額の汗をぬぐう。

 ノースリーブのワンピースにサンダル。これ以上ないほどの薄着なのに、なぜこんなに暑いのか。

「ちきゅーおんだんかってやつよ」

 蒸し暑い教室で、同級生のチカが得意げに言っていたのを思い出す。

「地球の温度がどんどん上がっていくのよ。人間が車とかエアコンとか使ったせいで、悪いガスがたくさん出てるんだって」

 自身満々に言った彼女の熱量とは裏腹に、へーとか、ふーんとか、気のない返事がされていた。得てして小学生とは自慢をしたがるものだ、そして得てして人の話を大して聞かないものだ。マキも適当に返事をしたうちの一人だったが、記憶の端にはしっかりと刻み込まれていたようでこの暑さの中、急にその言葉を思い出してしまった。

「ちきゅーおんだんか、か……」

 ぽつりとつぶやく。言葉の意味は分からないが、声に出してみるとなんだかしっくり来る気がする。

 汗が一筋つっと頬を伝って、ぽたりとアスファルトの上に垂れる。乾いたアスファルトはすぐにその汗を吸収し、わずかな水分も表面に残さない。マキは手で顔周りの汗を拭うと、手に持ったプールバッグを握り直す。夏休みのプール実習を終え帰宅しているところだ。家まであと少し。歩き慣れた道をひたすら進む。車二台がぎりぎりすれ違えるような小さな道。道の両脇には各家々の塀が迫り、歩道と車道の区別もない。蜃気楼がゆらゆらと立つ。学校のプールで涼んだはずなのに、あっという間にこんなにも汗ばんでしまった。

 ふぅと軽くため息をついたそのとき、数メートル向こうの角からふわりと何かが姿を現した。

 マキは思わず立ち止まった。

 角から現れたのは一人の少女。マキより少し年上だろうか。丸い大きな青い目、すらりと通った鼻筋。こんなに暑いのに、腰まである金髪を結ぶこともなく背中におろしている。その金髪は柔らかくふんわりとカールされており、少女の動きに合わせて揺れる。瞳の色と同じ青いワンピースに白いエプロン、そこから長く細い手足が伸びている。

 暑苦しそうな格好なのに、少女は汗一つかいていない。まるで絵本の中から出てきたかのよう。そこだけ時間の流れが違う気さえしてくる。

 少女の大きな瞳がマキを見る。優しく可憐な眼差しなのに抗えない強さを感じてマキは息をのむ。少女が立ち止まり、少し小首をかしげる。その動きに合わせて、ふわふわと揺れる金髪。小さく形のいい少女の唇が静かに動く。

「ねえ、うさぎを見なかった?」

 その姿に似つかわしい、幻想的な甘い声。マキは声を出すこともできず、ただふるふると首を横にふった。

「……そう」

 少女はそう言うと、少し目を伏せ視線を地面に落とす。長い睫毛が少女の大きな瞳を縁っている。その目が見ているのは、この熱いコンクリートではなくて、マキに見えないどこか別の世界ではないのだろうか。そんな気さえしてくる。

 少女はしばし落胆したように地面を眺めていたが、すぐに目を伏せるのをやめると、つっと顔をマキの方に向ける。蜃気楼でゆらぐ世界の中、少女だけが切り取られたかのようにはっきりとした輪郭をしていた。マキは息をすることも忘れたかのように少女を眺めていた。そんなマキに少女はゆっくりと告げる。

「ありがとう」

 少女はにっこりとマキに微笑みかける。とても美しい笑顔なのにどこか物悲しい雰囲気が漂う。なにかあったの?そう聞きたかったのに、やはり声が出なかった。

 少女はそのまますっと道の反対側へと顔を向ける。金髪がそれに合わせて、空中をたなびき、はずむように揺れた。そして、少女はそのまま道の反対側の角へと軽やかな足取りで消えていってしまった。

 少女の姿が視界から消えた瞬間、マキは思わず息をはいた。それと同時に、セミの羽音がうるさく鳴り響き、どっと汗が吹き出す。夏の暑さをたった今まで忘れていたかのようだ。

 マキはたたっと走ると、少女が消えた角を覗きこむ。アスファルトの道が延々と続き、蜃気楼がゆらゆらと揺らめいている。それだけ。人っ子一人見えない。

(かわいい子だったな)

 くりくりとした青い目にふわふわの金髪。この辺りに外人さんが住んでいるという話は聞かない。夏休みで遊びに来たか、あるいは引っ越してきたのだろう。

 明日のプールはきっと大騒ぎになる。ここは小さい町。見知らぬ人が来ればすぐ話題になる。きっと少女を見かけた子たちが騒ぎ出すに違いない。マキだって友達に話したくて――自慢したくてたまらない。

 夏の気だるさを吹き飛ばすような事が起こりそうな気がして、マキは嬉しくて少しスキップを踏んだ。


「なにそれ」

「知らない」

 水着に着替えながら、チカとユミがきょとんとした顔でマキを見る。マキの予想に反して、マキ以外に少女を見かけた人はいなかったようだ。昨日見かけた少女の話をしても、誰も同調してくれない。マキは着替え用の巻タオルを取りながら、本当だって、と声をあげる。

「見たんだもん!外国の女の子!すっごくかわいかったよ」

「どこでよぉ」

砂上すながみ公園の近くの角。砂上公園の方に向かって歩いて行ったの。本当よ」

 ユミとチカはうさんくさそうに二人で目配せをすると、マキの方に向き直る。チカが少し唇をとがらせながら言う。

「昨日のプールの帰り、ユミと二人で砂上公園にいたけど……そんな子見なかったわよ」

 マキは困ったように言葉をつまらせる。あの可愛い少女が曲がっていった方向に歩いて行くと、必ず砂上公園の前を通る。途中に抜け道はない。

「そんな目立つ子歩いてたら、絶対気づくよ」

「ねー」

 マキは水泳帽をかぶりながら、本当だもんと小さくつぶやいたけれど、ユミもチカも別の話を始めてしまい、もうその話に興味を示さないようだった。さっさと着替えて、更衣室を後にしてしまう。マキも慌てて支度をすると、二人の後に続く。

「見間違えたんだよ」

 ユミがプールへと移動しながら、優しく言ってくれたが、マキは納得できなかった。

(今日の帰り、少し寄り道をしよう)

 あの子を探そう。

 マキは小さく心に決めた。

 小学生にとって、嘘つきになるのはとても耐えられないことなのだ。ましてや、嘘でないのに嘘つき扱いされるのは、たまったものじゃない。

(あんな目立つ子だもの。すぐに見つかるに違いないわ)

 マキは期待を胸に秘めて、プールへと向かった。


 しかし、物事というのは思ったように進まないのが常である。

 昨日の曲がり角、砂上公園、周辺の団地。どこを探しても少女はおろか、外人と思しき人さえ見当たらない。

 マキはプールバッグを右手から左手に持ち帰ると、右手で顔を仰ぐ。せっかくプールに入ったのに、歩きまわったせいでまた汗をかいてしまった。濡れた髪はプールからあがった直後は涼しいが、それ以降は湿気がこもり頭皮が蒸し暑くなる。それが汗を吸ってさらに重苦しくなるため、暑さ倍増。悪循環だ。

「家に……帰ろう」

 昨日はたまたま巡りあっただけなのだ。運が良かった。そうに違いない。

「小さい町だもの。きっとまたすぐに会えるわ」

 マキは自分の心に言い聞かせると、踵を返す。暑すぎるせいか、公園の中に他の子どもたちはいない。ついこの間までは、セミを取りに来る男の子たちがいたが、こう暑くなると家の中でゲームをする方が楽しいらしい。マキは薄く砂が敷き詰められた公園を横切り、自転車防止の柵が設けられた出口を抜ける。

 砂上公園の脇の道を家に向かって歩こうとしたそのとき、公園の中を白い何かが走り抜けるのが視界の端に映った。砂場の辺りから、滑り台の裏へと何かが通り抜けた。

「犬?」

 よく見ようとしたその時、白い二本の長い何かが、アスレチックの向こうをさっと横切った。木で作られたアスレチックは、子どもたちが登って遊べるように複数の木をボルトでつなぎ合わせて形作られている。木の柱同士の感覚はかなり開いているため、木の柱の隙間から向こう側が見える箇所がある。その隙間のうちの一つから白いものがはっきりと見えたのだ。白いものはふわふわの毛皮のようであったし、中心はほんのりピンク色をしてた。

「動物の耳?」

 ぽつりとつぶやいてから、はっと思い出す。白い二本の耳。長い耳。昨日の少女はうさぎを探していなかったか。

 うさぎ。

 あれはきっとうさぎだ。

 マキはプールバックを抱えると、アスレチックへ向かって走りだす。

 あのうさぎを捕まえれば、きっと少女に会える。そうに違いない。マキは自分に言い聞かせながら、走る。根拠はない。でも。

(あの子はうさぎを探していたもの)

 アスレチックの裏手に回りこんで、きょろきょろと辺りを見回す。どこに行ったのだろう。そのとき、がさりという茂みの音が背後からした。マキは慌てて振り向く。白い長い耳が茂みをくぐり抜け、公園の柵の隙間からするりと公園の外に向かって出て行くのが見えた。

 マキは茂みに駆け込み、柵に飛びつくと、プールバックの持ち手を肘まで通し、柵を乗り越える。乗り越えながら柵の向こうを見ると、白いものがぴょんぴょんと跳ねていくのが見えた。

 その後姿は紛れもなくうさぎだった。白く長い耳。もこもことした体。ばねのついた足で跳ねていくその姿勢。しかし、一箇所だけマキの知っているうさぎと違う点があった。うさぎはかなり大きかった。両手では抱えきれないほど、おそらく立ち上がればマキの胸くらいまであるのではないだろうか。そんな大きさをしている。

 うさぎは跳ねながら、向こうの角を曲がっていく。

 マキは柵の上から一気に外に向かって飛び降りると、慌てて走りだす。昨日の少女のように角を曲がったら、見失ってしまうのではないか。そう思って少し怖くなったのだ。

 前のめりになってつんのめりながら、道の角を曲がると、数メートル先でうさぎが立ち止まっているのが見えた。

(捕まえられる!)

 そう思ったそのとき、ひとりごとのようなものが耳に飛び込んできた。

「……足りない、足りない。時間が足りない」

 マキは思わず立ち止まる。ひとりごとはうさぎから聞こえるようだった。よく見ると、うさぎは二本の後ろ足で立ち上がり、前足で何かを持っている。金色の金属のようなもの。うさぎは片方の前足で金属の上の部分を押す。ぱちんと音がして、貝が開くように金属が開く。それは懐中時計だった。マキも一度だけおじいちゃんの家で見たことがある。金属の蓋のついた小さな時計だ。

 うさぎはまじまじと時計の文字盤を眺める。マキの位置からだと文字盤が見えない。うさぎはひくひくと鼻を動かし、ひげをふるわせると、またひとりごちる。

「足りない……足りないなぁ」

 うさぎがすっと振り向く。赤い大きな二つの目。それがゆっくりと動き、マキをしっかりと捉える。

「時間が……足りない」

「マキ!何してるの?」

 明るく甲高い声がして、マキははっとしたように振り向く。ユミがにこにこしながらこちらに走りよってくるところだった。マキはもう一度振り向くと、うさぎを見る……が、そこには何もいなかった。ただアスファルトの道が延々と続いているだけだ。

「マキ?」

 駆け寄ってきたユミがきょとんとした顔で、マキを眺める。

「なんでも……ない」

 ためらいがちにそう言うマキにユミはしばし小首を傾げたが、すぐにいつもの笑顔に戻る。

「プールバック置いたらチカも公園に来るってさ。遊ぼうよ」

「うん」

 にっこりと返事をするマキにユミは行こう、と声をかけると、踵を返して、公園へと走る。その背を追いながら、マキはちらりと後ろを振り返る。何もないアスファルト。暑さでゆらゆらと蜃気楼がゆらぐ。

(時間が……足りない)

 その言葉の真意が分からず、少し悩んだが、ユミやチカと遊ぶうちに考えることを忘れてしまった。


「足りない、足りない」

 男の声がする。低い声だが、それでいてどこか甲高さを感じる不思議な声。

 ここはどこだろう。辺りを見渡しても、何も見えない。真っ暗で自分の足元さえ見えない。空中に浮いているかのような気分がしてくる。

 真っ暗闇の中、声だけがあたりにぼんやりと響く。歌のようにリズムをつけて、声は繰り返す。

「足りない、足りない、時間が足りない」

 ぽてぽてと軽い足音がする。そちらを見ると、暗闇の中、真っ白なうさぎがふわふわの毛を揺らしながら、二本の後ろ足で歩いていた。うさぎの毛は薄ぼんやりと光を放っているかのようで、暗闇の中でもその姿をはっきりと見ることができた。前足にはしっかりと懐中時計を抱え、一心不乱に文字盤をのぞき込んでいる。

「足りない、足りない」

 その声は何か切迫するような、それでいてどこか切ないような気配をはらんでいた。うさぎは立ち止まると、空を仰ぎ、ひげをふるわせながらため息をついた。そして、再びうつむくと、文字盤を見つめる。

「足りない、足りない、時間……」

 うさぎがゆっくりと振り返る。赤い大きな目がしっかりとこちらをとらえ、じっと見つめる。瞳がどこかすら分からないべったりと赤いその目。うさぎは鼻を数回ひくひくと動かすと、突然にたぁっと笑う。

「見ぃつけた」


 マキは慌ててベッドの上に起き上がった。

 肩で荒く息をしながら、胸の辺りをぎゅっと手でおさえる。全身にびっしょりと汗をかいている。それは暑さのせいだけではない。

 マキは息を整えるように深く吸ったり吐いたりを繰り返しながら、恐る恐る周りを見回す。まだ真夜中のようだ。窓から差し込むのは月明かりだけ。部屋は真っ暗で、朝の兆しはまるでない。

 にたりと笑ううさぎの顔を思い出して、マキは身震いをする。

(夢。そう、あれは夢)

 胸をおさえる手に力をこめて、きつく自分に言い聞かせる。

(実際に会ったときだって、笑ったりしてなかったじゃない)

 そうしているうちにだんだん落ち着いてきて、マキは大きく息をつきながら、額の汗を手の甲で拭った。額だけでなく全身に汗をかいているようで、パジャマがぐっしょりと濡れている。夜風にでも当たろうとマキは部屋の窓を開けた。熱帯夜特有の生暖かい風がむわっと押し寄せるが、汗で濡れた体にはそんな風でも気持ちよかった。マキは風に当たりながら、窓から身を乗り出す。マキの部屋は二階であるため、ほんの少しであるが、辺りの道を見渡せる。もちろん、真夜中なので閑静な住宅街の道路には、人も車も通っていない。暗い道が家々を縫うように続き、ぽつりぽつりと所々街頭が照らしている。

 そのとき、視界の端で何かが動いたのにマキは気がついた。こんな真夜中に動くものなんてほとんどいない。そのせいで目に止まったのに違いない。マキは暗闇の中で目をこらす。白い塊が上下運動を繰り返しながら進んで行くのが見える。跳ねているようだ。真っ白い体。そこからにょっきりと伸びる二本の白く長い……耳。

「うさぎだ!」

 マキは思わず叫んだ。そうしてから、真夜中なのを思い出し、慌てて口をふさいで辺りの様子を伺う。静かだ。親が起きた気配はない。マキは再度外を見る。マキの叫び声が届いているのか、いないのやら、うさぎは速度を変えることなく住宅街を跳ね進んでいく。

 マキは大急ぎで部屋を飛び出すと、家族を起こさないようにそっと階段を駆け下り、靴を履いて外に出た。パジャマのままだが、この時間ならどうせ知り合いには会わないだろう。汗で濡れたパジャマが外気にさらされて、涼しいというより少し肌寒い。しかし、そんなことに構っている余裕もなく、マキは辺りを見渡すとうさぎが見えた方向へと駆け出す。真っ暗な道を街頭がほんのりと照らしている。家々は暗く物音一つしない。マキが走る音だけが住宅街に密やかに響く。角を二つ曲がったそのとき、やっと夢にまで見た後ろ姿が目に入った。

 白い巨体はばねのついた足を蹴りあげながら、道を一心不乱に進んでいく。丸いしっぽのついたおしりが跳ねるたびに揺れる。

 マキは荒く肩で息をしながら、遠くへと進むうさぎの背中に向かって叫ぶ。

「うさぎ!」

 静かな住宅街にりんと響き渡ったその声に、うさぎがはたと足を止める。マキはもう一度叫ぶ。

「うさぎ!」

 うさぎがゆっくりと振り向く。白い大きなうさぎがすっくりと二本の足で立ち上がり、マキをその目に捉える。赤い大きな目。幾本も生えたひげがふるふると震える。ひこひこと小刻みに鼻が動くたびに、口元からげっ歯類特有の歯が見え隠れしている。初めて見たうさぎの顔。夢で見たのと同じ顔。その顔が夢と同じようににたぁっと笑った。

「見ぃつけた」

 背筋をぞくりと悪寒が走る。気のせいかと思いたかった。しかし、その声は紛れもなくうさぎの口から発せられた。その証拠のように、うさぎのべったりとした赤い瞳はマキの姿を捉えたまま、きゅっと物欲しげに細められている。逃げたかったが、足がすくんだようになって動けなかった。蛇ににらまれた蛙のように、マキは怯えた顔をしてうさぎの顔を見る。

 うさぎは笑いながらマキを見つめたまま、首から下げた懐中時計の蓋をぱちんと開ける。

「足りない、足りない、足りない時間」

 うさぎが歌うように言いながら、懐中時計を片手に近づいてくる。

「足りないなら、集めましょう」

 うさぎがあと数歩のところまで来る。そのとき、懐中時計の文字盤がちらりと見えた。文字盤には針がなかった。だからいくら見つめても、時間なんて分からないのだ。

 では、うさぎは何を見ていたのだ。

 答えのない疑問に、マキは恐怖を募らせる。足が動かない。アスファルトに溶けてくっついたかのようだ。ひざががくがくと震える。

 うさぎはなお一層にたぁりと笑う。

「かわいいかわいいあの子のために。愛しい愛しいあの子のために」

 うさぎの手が招くようにマキに向かって伸びる。

 もうだめだ。

 何が駄目なのかも分からないまま、マキは思った。

 逃げられない。

 うさぎのにたにたとした顔が近づいてくる。その手がマキまであと少しのところまで迫る。捕まる。もう駄目だ。そう思った、そのとき――

「ダメよ」

 高い声がりんと響き渡る。うさぎの声でもマキの声でもない。その声はマキの後ろから聞こえた。

「時間を集めてはいけないわ」

 声はだんだんと近づいてきて、マキの横に並ぶ。マキの横に立ったのはあの少女だった。長いふわふわの金髪は月の光を反射して美しく光っていた。白い肌は暗闇の中でよりいっそう白い。長い睫毛の奥の青い目は鋭く光り、うさぎの顔を睨むように見つめている。うさぎは少女をじっと見つめたまま、そこに立ちすくんでいた。少女の小さな唇がゆっくりと動く。

「それは、罪よ」

 少女はしずしずと音を立てずにうさぎの方へと歩く。まるで少女の周辺が光っているかのようだ。静かに歩いているだけなのに、言葉にならない圧力を感じる。

 少女はゆっくりとうさぎに向かって両手を広げる。

「やめましょう」

 両手を広げた少女のしぐさは、何かを抱きとめるような優しさを秘めているのに、その表情はひどく険しい。少女の足が一歩出るたびに、うさぎが気圧されたかのように少し後ろへ下がる。しかし、少女の決意のほうが固いのか、あと少しでうさぎにたどり着くところまで来た。少女は両手を広げたまま、闇を切り裂くように告げる。

「さあ帰りましょう、うさぎ」

 りんと響いたその声に、うさぎは突然飛び上がる。

「うさぎ!うさぎだって!」

 うさぎは大声で叫ぶ。

「違う!僕は罪人じゃない!長い耳なんて持ってない!うさぎじゃないよ!」

 うさぎは慌てたように懐中時計を覗きこむと、辺りをぴょんぴょんと跳ねまわる。その動きに少女が警戒するようにうさぎの動きを目で追う。そんな少女など目に入らないかのように、うさぎは叫びながら跳ねまわる。

「あの子は?あの子はどこへ行ったんだ!時間がないんだ!」

 うさぎがくるりとこちらに背を向ける。

「あの子はどこだい!……アリス!」

 甲高い声で叫ぶと、うさぎは白い足でアスファルトを蹴り、たっと駆け出す。うさぎの叫び声に呼応するように、突如として懐中時計が光を放つ。光は真っ白で目を空けられないほど眩しい。光はどんどん広がり、うさぎを包み込む。それと同時に、うさぎの周りの空間がぐにゃりぐにゃりと歪み、うさぎの体を飲み込もうとする。その様子に、少女がその美しい顔を険しく歪め叫ぶ。

「ハッター!」

 民家から道路上に伸びた木からがさがさと音がして、黒い影がうさぎに向かって躍り出る。しかし、うさぎの方が早かった。影がうさぎに飛びつく前に、歪んだ空間はうさぎをしっかり飲み込んだ。うさぎの姿は空間の隙間に消え、後に残された白い光もやがて吸い込まれるように消えた。道路の上にはうさぎの姿も懐中時計もなく、ただ街頭の明かりのみが道端を照らしていた。

 躍り出てきた影は道の上で止まると、ゆっくりと立ち上がった。それは背の高い男であった。百八十センチをゆうに超えているであろう体にひょろりと細く長い手足。手にはその身長にふさわしい長いステッキを持ち、緑の燕尾服に身を包み、高さのある帽子をかぶっていた。その帽子からは、二本の長い白い耳がにょっきりと生えている。男はまるで浮いているかのようにひょいひょいと軽い足取りで少女の元へと歩み寄る。

「すまない、遅くなってしまった」

 少女の目線に合わせるかのように、少し身を屈めながら男は言った。しかし、少女の耳に男の言葉など耳に届いていないようだった。ただ、じっとうさぎがいなくなった跡を見つめながら、少女はぽつりとつぶやく。

「また次の世界に行ってしまったわ」

「なぁに、次の世界で捕まえればいいだけの話さ」

 男はあっけらかんとした表情で言うと、少女の体をそっと抱き上げながら続ける。

「早く捕まえて、お茶会の続きをしなきゃいけない」

 まるで問題などないかのように飄々と言う男に少女は眉をしかめる。

「女王に叱られるわよ」

「それはそれでまた一興」

 男の言葉に少女がくすりと微笑む。

 男は少女を肩に担ぎあげるようにして自身の左腕に座らせると、右手に持ったステッキで地面を三度叩く。静かな住宅街にターンという勢いのいい音が三つ響き渡る。と同時に、男が叩いた地面がぱっと白い光を放つ。その光はうさぎの持った懐中時計が放った光と同じ色をしている。少女と男の周辺の空間がぐにゃりと歪み始める。

 そのとき、少女が男の肩越しにマキを見た。青い大きな瞳がマキをしっかりと捉える。人形のように美しい顔。少女は形のいい唇をそっと動かして、歌うように告げる。

「違う世界に惑わされないで」

 少女はどこかさみしげに微笑む。

「珍しいもの、美しいもの、たくさんあなたを惑わすわ」

 空間の歪みが男と少女を飲み込み始める。少女の白い手、ふんわりとした髪の毛。全てがだんだんと歪んでくる。夢のような世界が、終わりを告げだす。

「気をつけて。綺麗なものには棘がある。追いかけてはいけないわ」

 男の姿はすっかり歪みに飲み込まれてしまい見えない。少女の顔だけが唯一歪まずに見えた。白い光を浴びて、少女の顔はなお一層美しく輝く。

「気をつけて……私のようにならないように」

 切なげなほほ笑みを空間の歪みが飲み込む。少女の体も男の体もすでに見えない。空間の歪みに最後に残された光が吸い込まれていく。ただ声だけがマキの耳に届く。

「私の名前はアリス。さよなら、この世界の人」

 光が消えるのと同時に、少女の声も消えた。道は暗く、街頭の明かりのみが辺りを照らしている。何の痕跡もない。少女も男もうさぎも、何もかも消えてしまった。

 それはまるで夢のよう。

 それはまるで童話のよう。

 形に残らないのに、心に残る記憶。

 マキはしばらくの間、動くこともできずにそこにただただ立ち尽くしていた。

 

「ねえ、マキ。この間の外人さん、見つかった?」

 いつものプールの更衣室。濡れた帽子を頭から取ってぎゅっとしぼりながら、ユミが尋ねた。マキはタオルで体を拭きながら答える。

「ううん」

 しずくをなるべく残さないように丹念に体をタオルでぬぐいながら、マキは、あのね、と続ける。

「夢だったみたいなの」

「夢?」

 ユミとチカが怪訝そうに声を上げる。そんな二人にマキはこっくりと頷いてみせる。

「そう、暑かったせいで、白昼夢でも見ちゃってたみたい」

「なにそれー」

 チカが信じられないといったように声をあげる。

「あーあ。私もその可愛い女の子、会ってみたかったのに」

「なによぉ、あのときは信じてなかったくせに」

 マキが茶化したように言うと、チカがくすくすと笑った。チカは髪を結んでいたゴムを解くと、濡れた髪をばさばさと揺する。

「マキが嘘をつくことなんてないし、本当かなぁって半分思ってたの」

「そっか、ありがとう」

 マキはにこにこと笑いながら、着替えを手に取る。ユミもチカも話を進めながら、着替えを続ける。別の話題に移ったようで、きゃっきゃっとした二人の声が響く。マキはそんな二人の会話を聞くこともなく、ぼんやりとあの夢のような時間を思い出していた。

 美しく不思議な少女。妖艶で魅惑的でどうにも惹かれてしまうあの少女。

(違う世界に惑わされないで)

 忘れようにも忘れられない、あのりんと鈴を転がしたような声。

 信じていれば、また会えるかな。

 マキはぎゅっと着替えを握りしめる。あの少女が忠告したように自分からは追いかけない。でも、信じていたい。夢のようで夢じゃないあのひとときを――

「マキ、早く着替えなよー!置いてくよ!」

 チカに言葉にマキははっと我に返る。チカもユミももうほとんど着替え終わっている。

「ごめん、ごめん。すぐ着替える」

 マキは慌てて頭からシャツをかぶる。

 信じていよう。

 忘れないでいよう。

 そう密かに心に決めた。


            ***


 視界を包み込んでいる白く眩しい光がゆっくりと消えていく。それと同時に不安定だった体が急激に一点に収束してくるのを感じる。もうすでに何度も体験した感覚。世界から世界へ渡るとき特有の浮遊感、そして収束感。どこを漂っているのか分からなかった体に重力の感覚が訪れてくる。アリスの体の重みがずっしりとハッターの腕へとかかるが、彼にとってアリスの重みなど大したものではないようだ。姿勢一つ変えずに、涼しい顔でアリスを抱えている。

 白い光が消え去ったとき、目の前には鬱蒼と茂る木々が広がっていた。森のようだ。ハッターは自分の膝下まで草が生い茂っているのを見ると、アリスを下ろそうとしていた腕を止め、再度アリスを抱え直した。

「この世界は初めて?」

 アリスはハッターにたずねる。

「二回目かな」

「そう」

 アリスはハッターの頭を抱え込むように腕で包むと、帽子から伸びる白く長い耳を小さな手でそっと撫でる。

「長い間、世界を渡り歩いているから、分からなくなっちゃったわ」

 ざっと風が木々を揺する。ハッターは微笑を浮かべたまま、アリスに撫でられるがままにしていた。そのとき、アリスとハッターの真上から声がした。

「うさぎは見つかったかい?アリス」

 アリスは頭上を見上げる。太くたくましい木々の枝が無数に広がっている。そんな中、風のたてる音と違うがさりという音がした。アリスがそちらを見やると、一本の枝の上に一人の男が座っているのが目に入った。男はにやりと笑って鋭く尖った歯をアリスに見せつけると、木から飛び降り、しなやかな動きで音もなく着地した。黒いタートルネックのシャツと黒い細身のズボンに身を包み、黒い髪をしているその男。その髪からは三角の耳が二つぴょっこりと顔を出している。ズボンから伸びる長いしっぽはゆらゆらと揺れ、細いつり目は薄暗い森の中で怪しく光っている。

「ネコ……」

 アリスは質問に答えずにぽつりとつぶやく。代わりに、ハッターが男に向かって声をあげる。

「女王のネコが何の用だい」

 ネコと呼ばれた男は、ハッターに呼びかけられると、笑みを引っ込め鋭い目つきでハッターをじろりと睨んだ。

「黙れよ、耳長。俺はアリスに聞いてるんだ」

 アリスはその言葉に軽く首を傾げる。

「見つかったけど捕まえられないの。うさぎの足は早いのよ」

「早く捕まえるんだよ、アリス」

 ネコはにやにやと笑い、歯をむき出す。大きめの口の中に尖った白い歯がずらりと並ぶのが見える。ネコは目をさらに細く細くし、笑みを深くすると続ける。

「女王は待ちくたびれてるよ。早くしないと処刑の準備が無駄になる、とさ」

「じゃあ、女王によろしく伝えておいて」

 アリスはそう言うと、もう興味ないと言うようにネコから目線を逸らし、ハッターの頭を抱え込む。

「行きましょう」

「そうだね、アリス。うさぎを追わなくちゃ」

 アリスを抱え直し、ネコに背を向け歩き出そうとするハッターにネコが呼びかける。

「うさぎを捕まえることが、罪滅ぼしだと思わないほうがいいぜ、ハッター」

 ネコは意地悪そうににやにやと笑い続ける。

「女王は気まぐれだ。それじゃ許してくれないかも」

 アリスはハッターの肩越しにその意地悪な笑顔を見る。それから、その形の良い唇をゆっくり動かす。

「女王は約束を守るわ。だって、約束を破るのは罪だもの……そういう意地悪はよくないわよ、ネコ」

 淡々と言われた言葉にネコは笑みを引っ込めると、肩をすくめた。そして、何も言わずにひらりと一番近くの木の枝に飛び乗り、アリスを見る。そのときにはいつものにやにやとした笑みが、猫の顔には浮かんでいた。

「お行きよ、アリス。早くうさぎを――罪人を捕まえておくれ。長い耳は罪人の証なのだから」

 ネコはそう言うと、枝葉の間に溶けるように消えた。森の奥に行ったのか、別の世界に行ったのか、どちらか分からない。しかし、アリスはどちらだろうと興味はなかった。求めるものはうさぎ。長い耳をした白い白いうさぎ。

「行きましょう、うさぎを捕まえに」

 アリスの言葉にハッターは僅かな微笑を浮かべた。

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