第2話 繰り返す影
飯沼葵の朝の日課は、下駄箱に押し込まれた手紙の処理から始まった。折り紙や便せんに書かれた文章に目を通せば、死、呪い、不幸といった言葉が羅列されている。その一つ一つを確認すると、葵は手紙を、持ってきたビニール袋へまとめてしまい、安堵のため息を付いた。
良かった。今日はどれも普通だ。
いわゆる呪いの手紙といわれるこれらは、その大半がただの偽物に過ぎないが、たまに本物が混じっていることがある。以前、よく確認せずに捨ててしまった為に痛い目を見ており、それ以来、葵はこれらの手紙は念入りにチェックすることにしていた。
手紙をしまい、持ってきた上履きに履き替え、教室へと向かう。葵の所属する五年二組は三階の西側にあり、五年生の下駄箱は、東側に位置していた。億劫になる廊下を歩けば、道すがら、何人かの同級生とすれ違う。が、誰もが葵とは目を合わせず、会話を止め、視線を逸らしては息を殺す様に脇を通り過ぎていった。
教室の扉をなるべく音を立てずに開ける。すると、自分の机の上に花瓶があり、そこには名も知らない一輪の花が差し込まれているのが、目に飛び込んだ。既に学校へ来ていたクラスメイト達の視線が一斉に葵に向けられる。背中に冷たい汗を感じながら、葵は、慣れた手つきで花を手折ると先程と同じビニール袋に突っ込み、花瓶は教室の隅の元ある場所に戻しておいた。その間ずっとくすくすと笑う声が聞こえていた。
葵が一部のクラスメイトからいじめの標的にされたのは、小学校四年生の頃からだった。きっかけは、教室で体質故に嘔吐したことだった。初めは、汚い臭いといった嘔吐を理由にしたものだったが、時間が経つにつれウザいキモイも加わり、やがて目つきがムカつく、声が腹立つといったものになっていった。今思えば、いじめるきっかけは何でも良かったんだろうと、一年経って葵は気づいた。
いじめの標的は、クラスメイトのきまぐれで変わった。運が良ければ別の子が狙われ、自分は無視されるだけで終わるが、そうでない時は私物を隠されたり悪戯されたり、酷い時は、怪我にもつながりかねなかった。だからこそ、葵はなるべく目立たず自らの存在感を消すように努め、少しでも彼女達の目に留まらないことを願った。
片づけを終えた葵は、自らの席にランドセルを降ろすと、それから机の中を覗きこんだ。つい半年前、中に生ごみを入れられる嫌がらせを受けて以来、机の中の確認も日課になっていた。
今日も何もないと良いなと願うが、しかし、中には一枚の紙が入っていた。その途端、葵は嫌な胸騒ぎを感じる。大抵、こういう時は碌でもない悪戯が仕掛けられているということを、経験から分かっていた。恐る恐る紙を取り出せば、そこには見慣れた丸みのある字で書かれていた。
『筆箱は、ユウガオ団地1-19 501号室にある』
一瞬何のことか分からなかったが、すぐに葵は理解した。慌ててランドセルを確認する。けれども、中にはあるはずの筆箱が入っていない。焦る気持ちが募っていく中、今度は教科書を全部引っ張り出し、ランドセルの他のポケットまで確認する。が、やはり筆箱は見当たらなかった。
昨日、帰る前にしっかりとランドセルの中に筆箱を入れたのを覚えており、決して学校に置き忘れた訳ではない。でも、間違いなく筆箱がなくなっている。
どうして――
くすくすと、またクラスメイトの笑い声が聞こえた。いつものいじめっ子グループの五人が、面白い物でも見るかのような目で、葵を見ている。犯人は自分たちだと自供するようにずっと笑っているが、その態度は、バレたところで葵など怖くないといった様子であった。
「今頃気づいたよあいつ」
「やっぱどんくさいね」
「だからキモいんだよ」
わざと聞こえるように声が大きくなる会話。葵は、たまらず下唇を噛んだ。嫌な汗が背中を伝い、血の気が失せていくのを感じる。それと同時に、今すぐこの場から消えて居なくなりたい衝動に駆られる。けれども、逃げ出すこともできず、何も言えず、葵は席に着いてただじっと小さくなることしかできなかった。
席で俯いたまま、どうして筆箱を盗られたのか考えていれば、すぐにその答えは出た。おそらく筆箱は、昨日の帰り際に抜き取られていた。水曜日恒例の帰りの会前の全校集会。当然、全生徒はランドセルなんて持って行かないし葵も教室に置いたまま。そこを狙われた。全校集会後は、特に筆箱を使うこともなく、また水曜日ということもあって宿題もなく、木曜日と授業が殆ど被っていたため、放課後から帰宅しても碌にランドセルを確認することもしなかった。だから、今になってようやく気付いた。早く学校から帰りたいと、授業が終わってすぐに帰り支度を済ませてしまっていたことが仇になった。
結局、その日は地獄の様な一日だった。
筆箱がないなら近くの席の子から、筆記用具を借りなければいけない。けれども、クラスメイトは葵がいじめられていると知っているため、快く貸してくれる子はおらず、葵自身もそれをよく理解していた。結局、授業が始まって先生に言われるまで、葵は誰一人にも声をかけることができなかった。
そして、これからあのユウガオ団地に筆箱を取りに行かないといけないということに、その日はずっと吐きそうな思いだった。
〇
ユウガオ団地は、
葵は、そんなユウガオ団地の前に足を運んでいた。陽は西にかたむき始め、建物は夕焼けに染まっている。遠くから家路につく人々や車の音が聞こえて来るが、反対に目の前に広がる団地は、静寂に包まれていた。人が殆ど住んでいないと証明するように、ありとあらゆる生活音が聞こえず、また人の気配も全くと言っていいほど、しなかった。
目の前に建つ目的の場所――1-19号棟は、麓に広がる一街区と呼ばれる区画の外れ、団地のもっとも端に建っていた。立地の都合なのか、升目上に並ぶ建物から一つだけ余ったように飛び出している19号棟は、車道に面しているせいで、他の棟と比べてひどく煤け、より黒ずんでいる。それは外壁に書かれた棟番号をかき消してしまうほどであった。だが、番号が見えなくても、この建物が19号棟であることは、葵には分かっていた。
それはユウガオ団地にまつわる有名な話だった。かつて一街区に住んでいた女子高生が、飛び降り自殺をして亡くなり、幽霊になっているという。だから葵は、血まみれの女を見た。頭がつぶれた少女がいた。そういった噂を今の小学校に転入してから何度も耳にしてきた。そして、その女子高生が住んでいた部屋がなんでも1-19号棟らしく、通学路から見える、公衆電話がすぐそばにある一際黒い建物がそれである、という噂が葵を含めた多くの子供達に伝わっていた。
葵は一度、深く深呼吸して団地を見渡す。
「うぅ……」
突然こみ上げてくる吐き気に思わず呻いた。胸の中に不安が渦巻き、息苦しさを覚える。背中に冷や汗が流れるが、それは学校で感じたものとはまるで違う気持ち悪さだった。体を這うに伝わる悪寒に、本能的にその場から離れたくなる。
いつ見ても、やっぱりここは嫌。
ナニカが潜んでいるような気配と、得体の知れないものに団地全体が包まれている雰囲気を、葵はユウガオ団地をいつも見る度に感じていた。言いようのない重圧感が胸を押さえつける様で、恐怖すら感じる。正直、葵は今すぐ此処から帰りたくて仕方がなかった。
でも、筆箱取って帰らないと……
そう何度と自分に言い聞かせる。筆箱が無いと授業に困るのは当たり前だが、それ以上に祖母に迷惑をかけたくなかった。筆箱は中身も含めて全て祖母が買ってくれたもので、葵にはとても思い入れがあった。だが、いじめられてから既に二回、台無しにされている。一回目は、泥塗れにされ、二回目はトイレに捨てられていた。その都度、祖母には無くしたと嘘をついていたが、それもそろそろ限界である。
葵は祖母に心配を掛けさせる方が、ユウガオ団地に入ることよりも何倍も辛かった。
階段口の右隣にある各階の郵便受けは、風雨で剥がれかけているものもあるが、どれもガムテープで塞がれている。入居者のいない部屋にビラが投函されないようにするための処置だと分かった。
だいじょうぶ。だいじょうぶ。
葵は意を決して、団地の五階を見上げた。壁の黒ずみは、団地の内部まで進んでいるらしく、外から見える階段も、踊り場も、部屋の前も真っ黒なのが分かる。おそらく、夜に来ればとてつもない暗闇になるのは容易に想像がついた。だが、幸い今の時間は差し込む西日が強く、建物内部も夕日に照らされ、中は明るかった。
葵は、すぅーと息を吐くと、静かに、団地の階段を一歩登った。埃臭さと言い様のない肌寒さを感じるが、それでもひるまず、また一歩足を進める。
団地は、一つの階段の両端に部屋が一つずつあり、猫の額ほど狭いフロアが赤い扉に挟まれていた。扉は既に色褪せ所々ペンキが剥がれており、時の経過を感じさせた。扉の上部には不法侵入を防ぐための南京錠が付けられているが、これも錆びによる劣化が激しく、空き部屋であることを示している。葵は、階段を登る度に各扉を眺めてみたが、予想していた通りどの部屋も同じような有様で、空き部屋であった。
ふと足元を見れば、階段に溜まった砂埃の上に、一人分の足跡が付いていた。それがいつ付けられたものかは判断できるはずはないが、葵にはそれが筆箱を置いた人物のものだと思った。足跡は行きと帰りの二つ分、しっかりとあったが、帰りの跡は、ひどく乱れ慌ただしく駆け降りていった様子だった。
五階にたどり着くと西日が地平線の向こうに見えた。日差しがどの階層よりも差し込んで明るく、僅かに舞った埃が光を受けて漂っているのが分かる。相変わらず全く音の聞こえない奇妙な静けさの中、葵は、部屋の前に立つ。
赤い扉の左上に付けられた表札は、日に焼け、インクが擦れている。それでも501という数字は、しっかりと確認することができた。数字の下にはおそらく世帯主の苗字を記入する欄があるが、空白のまま。他の部屋と同じく空き室であるが、扉の上部にある南京錠は見えず、錠を取り付けるための出っ張った金具が剥き出しのままであった。
「本当に、入れるんだ……」
思わず葵は、声を漏らす。501号室が空室なのは有名であったが、と同時に中に入ることができるという噂もちらほら耳にすることがあった。肝試しに、この部屋へ入ったことがある、なんていう自慢をしている男子も何人かいたことを思い出す。彼ら曰く、昔に肝試しに来た不良たちが細工して鍵が開いている状態になってしまったままだという。
葵は、ゆっくりとレバー式のドアノブに手をかけた。アルミの冷たさとザラザラした砂っぽさを肌で感じながら、力を加えるとするりとハンドルが下へと回る。
ガチャという音が、部屋に響いた。
「お、おじゃましまーす」
少しだけ扉を開けて中を覗けば、がらんどうな部屋が葵を出迎えた。家具は何もなく、部屋を仕切る扉もない。かつて襖があったであろう枠組みが辛うじて分かるだけで、玄関から奥まではっきりと見通せた。
葵は、深呼吸をする。怖い気持ちはあるが、それでも行くしかない。葵は、なるべく扉を開けないようにしてするりと体を滑り込ませる。空室とはいえ不法侵入していることに、罪悪感を覚えた。
土足で室内を歩くという違和感を感じながら、葵は音を立てない様に部屋の中を歩き始める。中は外と同様、陽の入りがよく、窓から差し込む日差しを遮るものがないおかげで、全体が明るく夕焼けに染まっていた。特に玄関から入って数歩先にある二部屋のうち、西側にある和室は、特に昼間のような明るさである。葵は、反時計回りに家の中を探そうと、まずは東側に大きく広がる洋室に向かうことにした。玄関から一番近いのは、すぐ左真横にあるトイレと風呂場であるが、流石に此処まで来てもそこへ足を踏み入れるのは、怖くて気が引けたので後回しにした。
洋室は、いわゆるダイニングキッチンとリビングだった。家具は入り口から見えない所にも何もなく水場として棚と一体になったシンクが置いてあるだけ。埃が積もった床には、外とは違い足跡らしきものは見当たらない。そして筆箱もなかった。
洋室に足を踏み入れれば、ぎぃと軋んだ音が鳴る。右側の窓には、団地の中の景色が広がっており他の号棟やこの団地の裏庭に当たる芝生が目に入る。少しだけ近寄って眺めてみるが、やはり人らしい姿もなければ気配もない。そして生活音も一切聞こえない。
不気味なまでの静寂。分かっていたことであったが、改めて、人が居ない、ということを実感すると背筋が思わず震えた。
早く見つけて帰ろう。
果たして本当に此処にあるのだろうか。そんな不安が今更ながら過る。もしかして、この部屋に隠したというのも悪戯の一つではないか、と。素直に彼女達が返してくれるとは限らない。しかし、そんな心配も他所に、筆箱は直ぐに次の部屋で見つかった。
奥にある入り口から左隣の和室へと入る。すると部屋の奥にある大きな窓が葵を出迎えた。遠くに広がる街や地平線の夕日が見える。筆箱は、そんな西日に照らされた中、部屋の中央にに投げ捨てられたように置かれていた。
和室もまた同じように何もなかった。左側の壁は、全面押し入れになっており、襖が取り外されて大きな空洞がそのまま晒されている。反対の壁は、手前半分が玄関へと続く出口になっていた。どうやら玄関から見えていた和室は手前だけで、筆箱が置いてあった場所は壁で塞がれて死角になっていたらしい。
「あった!」
たまらず声が漏れる。見た限りでは、幸い今までのような一目で分かる様な汚れもないらしく、無造作に置き捨てられていた。
葵は、早速、筆箱に手を伸ばした。腰を屈め、指が触れる。その瞬間、葵の動きが止まった。猛烈な悪寒が走り、腹の底から這い出すような嗚咽がこみ上げてくる。だが、そんな不快感を気にする余裕は葵にはなかった。
スッ――スッ――
それは、突然、静寂の中に響いてきた。ゆっくりと、背後から近付いてくる。それが畳を擦っているとだと気が付いた時、身体全身が粟立つような恐怖を感じた。
誰か、いる。
一瞬、葵は振り向こうとしたが、それよりも先に、視界が足を捉えた。細い足首と、病的なほど白い素足が目に入る。屈んでいるため身体全体を見る事はできないが、スカートの襟がわずかに視界にちらついてることから、葵はそれが女性だと分かった。足は引き摺る様な緩慢さで、葵の脇を通りかかる。その瞬間、凄まじい臭気が漂った。
この人、死んでいる……
本能的にそう直感すれば血の気が失せていくのを感じた。恐怖が募り、体が強張る。と、同時に頭を万力で締め付けられるような酷い頭痛がし始めた。その痛みの強さに、顔を思わず歪める。
スッ――と畳をする音と共に、視界の隅にいた女性がそろりと動き続ける。葵はそれを、身を屈めたまま、黙って見続ける。
動いてはいけない。
本能が、張りつめた空気が、葵にそう告げていた。心臓の音がやけにうるさく聞こえるほどの静寂の中、息を殺して、ただひたすらに我慢する。物音一つ、身じろぎ一つでも立てようものなら、今にでも女がこっちへと向かってきそうな予感がした。
女は、窓際を沿う様に進んでいく。その動きは、非常にゆっくりで、どこか静止画を見ているような、画像をコマ送りにしたような違和感。葵はそれが、人が歩く時に発生する揺れが一切ないものだということに気づいた。
やがて女は、窓の真ん中までやって来ると、その足の動きをぴたりと止める。既に、葵の恐怖と緊張は限界を迎えていた。呼吸が荒くなっていく。それでもただじっと、今はそのくるぶしまではっきりと見えるようになった女の足を凝視していた。足は、またゆっくりと窓の方へと向きを変える。その途端、風が走る様な音が響き、畳に積もった埃が、舞った。それが顔に掛かり、たまらず目を瞑る。
静寂の中、心臓の音だけが聞こえる。何が起きたのか分からず、葵はしばらくの間、固まっていたが、やがて恐る恐る確かめるように目を開いた。すると、そこにあったはずの女性の足はない。慌てて顔を挙げてみれば、目の前にある窓が大きく開け放たれていた。そこから見える外の景色は相変わらず夕焼けに染まっている。
「いない……?」
思わず声に出す。と、同時に、強張ってた体から一気に力が抜ける。葵は、その場に腰が抜けるように座り込んだ。
ぐふっ。と喉が唸りをあげる。胃の中にあったものが口から漏れだせば、葵はたまらずその場で、嘔吐した。せりあがってきた酸が喉に染みて、痛みが走り、視界が涙で滲む。ここぞとばかりに葵は、自分の体質を恨んだ。
あれが噂の幽霊だったのかな……
開け放たれた窓をぼんやりと見つめる。自殺したという少女。噂では、飛び降り自殺であったが、どこで身を投げたのかは分からない。団地の中にあるという小学校や丘の上にある給水塔など様々な場所が噂されている。そして自宅の部屋もまた――。
もしかして、この部屋が。そんなことを考えていると、葵はひどい寒気を感じた。と、同時に背後から音が聞こえて来る。
スッ――。スッ――。
慌てて筆箱をひったくって、葵は玄関へと向かった。今度は、一切目も暮れず、耳をふさぐように玄関を飛び出す。
まだ居たんだ! まだ居たんだ!
体が震え、足取りがおぼつかなくなる。それでも必死に踏ん張る。途中、何度と転びそうなりながら、それでも壁や手すりを伝い、何とか一階の階段口までたどり着いた。
開けた視界、夕暮れの町並みに、団地の入り口とその脇にある公衆電話が見える。
早くこの団地から出なきゃ。
より一層足に力を込めた時、目の前に黒い影が落ちた。たまらず葵は小さく悲鳴をあげる。
ばしゃり、と水を含んだような破裂音が、辺り一面に響いた。突然のことに、その場で尻餅をついた葵。一体何が起きたのか。それを理解する間もなく、すぐに前に広がった光景が目に入った。
それは女子高生だった。血だまりの中、紺のセーラー服に身を包んだ少女が倒れている。その手足は、あらぬ方向へ曲がり、ひしゃげ、折れている。葵はその足やスカートが目に留まった。先ほど、部屋でみた女性と全く同じ。つまり落ちてきたのは、あの部屋で見た女性。
あの女性は幽霊で、だから突然消えて、でも今目の前で、飛び降りて……
理解できないことに、葵は言葉を失う。頭は混乱し、考えはまとまらない。だが、すぐにそんなことなどどうでもよくなった。
アァ、アァ……
うめき声が聞こえる。死体が小刻みに震えている。その光景に、葵は後ろへと後ずさった。逃げなくては。そう思っても、足も腰も完全に力が入らず立てない。葵は、恐怖で塞がらない口を手で覆うが、擦れた息が漏れ続ける。
やがて血濡れた手が、ぺたりと地面につくと、血だまりの中からゆっくりと少女が起き上がった。長く綺麗な髪が赤黒い血と共にどろりと垂れる。衝撃で潰れた顔面が顔をあげる。鼻も唇も形をなくし、皮膚という皮膚が裂け、真っ赤に染まった顔。その中で、黒い瞳が二つ、真っ直ぐ葵を見据えていた。
そうして女性が口を開いた時、葵は声にならない悲鳴をあげた。
〇
葵が正気に戻ったのは、自分の家の前に着いた時だった。少女の顔を見てからの記憶は曖昧で、自分がどうやって逃げられたのかはあまりよく分からなかった。怖くて、恐ろしくて、ただ無我夢中だったことは、心の中に残った胸やけにも似た消化不良の感情から理解できた。そしてあの場から家までずっと走り続けていたらしく、足は翌日には筋肉痛になるほど疲労していた。
それから数日間、葵は茫然自失にも似た日々であった。何をしても、ずっとあの団地の出来事ばかりが思い出される。夢だったのではないか。幻を見たのではないか。やっぱり現実で、じゃあ、彼女は何をしたかったのか。そんなことばかり考え続け、最後はあの時の記憶が鮮明に蘇り、その都度、吐きそうになった。結局、葵が元の生活に戻れたのは、団地に行ってから、一週間ほど経ってからだった。
だが、落ち着いてからも、葵はあの団地のことが気がかりだった。祖母の家へ引っ越して来た初めての日から、ユウガオ団地にずっと感じている気持ち悪さ。今更ではあったが、どうしてなのか、原因が気になった。だけど結局、伝手も当てもなく、どうすることもできなかった。
ただ団地については、葵は一度だけ、祖母に尋ねてみた。あれはどういう場所なのか。昔からこの街に住んでいる祖母なら何か知ってそうな気がした。だが、祖母の答えは期待した結果にはならなかった。
「昔は賑わってたんだけどねぇ……あそこの団地の小学校なんかは、お母さんも通ってたのよ」
祖母はそういって、懐かしむばかりであった。
あれ以来、葵はほぼ毎日団地に目を向けていた。通学路からでも見える19号棟。それを眺める度に、葵は後悔した。あの部屋に行かなければ、きっとこんなものを見る必要はなかったのだろうと。
夕焼けに染まる団地、その五階から人影が飛び降りている。
――彼女は、今日も自殺をしている。
その確認が、葵の新しい日課になった。
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