トワイライト・ベッドタウン

スズミ円点

第1話 廻る団地

 それは浩太が隣街にあるゲームセンターへ遊びにいった帰りの出来事だった。

「十八時までには帰ってきなさい」

 それが母との門限の約束であり、そのせいで浩太はいつも遊び仲間達の誰よりも先に家に帰っていた。取り分けその日は、ゲームセンターから自宅までのいつもの道のりは自転車で四十分程であり、普段よりもずっと早く皆から抜けなければならなかった。ゲームセンターに残っている友人達は浩太よりも門限が一時間、人によっては二時間も遅い。それが浩太には、いつも羨ましく思え、また遊び足りないからこそ、より後ろ髪が引かれる思いだった。

 だから、だろうか。普段だったら見向きもしない道を前に、浩太は足を止めた。そこには、車の進入を禁止するポールがあり、その先には一本の大きな通りが伸びている。その両端には団地の建物が並び広がっていた。

 ユウガオ団地――それは浩太の通う学校では有名な団地であった。丘の稜線から麓までをなぞる様に広がる団地は、棟数が百を超えるマンモス団地。しかし、その大きさとは相反して入居者は僅かしかいないらしく、団地は既に廃墟同然という荒れ方をしている。煤けた外壁と放置された街路樹によって、団内は常に薄暗く、子供達は愚か、大人でさえ好んで近づこうという者はいなかった。が、それ以上に、浩太達小学生がこの地を避けているのには理由があった。

――呪いの団地。

 団地はそう呼ばれていた。一街区では夜中に幽霊が彷徨う。二街区に足を踏み入れると、二度と出られなくなる。三街区について話すと呪われる。などと言ったものが、若干内容を変えつつ声高に語られていた。

 当然、浩太も全てを信じてはいなかった。中には、団地には蜥蜴人間が住んでいるなんていう突拍子もないモノなど子供騙しの様な噂も多くあった。だがしかし、団地の持つ外観と世間から隔離された不気味な気配が、この団地には何かがあるという異様さを感じさせていた。

 浩太は、しばらく自転車に乗ったまま道の先を眺める。遠く朧気であるが、団地を抜けた所には自分の家がある住宅街が広がっている。いつもの帰り道は、この団地を周る様に通っているが、この団地を突っ切って帰れば、それより十分近く早く帰る事ができた。

……通ってみるか。

 ふと浮かんだ考えだった。遊び足りないという思いが冒険心をくすぐれば、このまま帰ってしまう事が癪に思え、何かデカい事をしてやろうという気概を沸かせる。明日の学校で、団地の中を突っ切った事を皆に話せばクラスの話題にはなるだろう。きっとゲームセンターに残ってるメンバーだって悔しい思いをするに違いない。そんな考えが過れば、不思議と団地の中は怖いようには思えなかった。

 幸い、目の前の道は街路樹は無く、夕日によってオレンジ色に染め上げられている。周りの団地は確かに汚かったが、別段目の前の道は、何ら変哲もない場所に見えた。

 腕時計を見れば、時刻は十七時二十分。近道できる事を考えれば、門限までには余裕で間に合う。

――行こう。

 浩太はハンドルを切ると、自転車を漕ぎだす。少しだけ脈打つ鼓動を感じながらペダルに力を入れれば、自転車はやがて徐行する様な速度で進みだした。焦る気持ちを抑えつつ、一定の速度を保ち続ける。胸の中は、ワクワクと不安が入り混じった複雑な状態だったが、なぜだか浩太にはそれが嫌な気がしなかった。

 不思議な高揚感を覚えたまま、気が付けば道半ばまで来ている。

 ぼーん。ぼーん。ぼーん。

 何もないと思った矢先、突然桃色のボールが目の前で左から飛び出して来た。慌ててブレーキをかければ、甲高い音が響いて急停止する。おかげでボールとぶつからずに済んだ。ボールは歩道の縁石に当たったのか、自転車の前輪の所までころころと跳ね返って、止まる。心臓は驚いたせいか、先ほどとは比べ物にならないくらいにうるさかった。

 いったい何だとボールがやって来た方角を見れば、一人の男の子が号棟の間に通された歩道に立っていた。臙脂色のセーターと青い短パンという恰好をし、足首のソックスはぴっちり脛まで上げられておりその白い色が目立っている。顎の輪郭がやや丸みを帯びた顔立ちと綺麗に切り揃えられた前髪に、浩太はどこか古臭さを覚えた。背丈や顔つきから、自分と同じくらいらしい。おそらく小学校五、六年生くらいの子ではあったが、何だか目の前の子の雰囲気が自分よりも年上の様に感じた。

「これ……君の?」

 ボールを指さして尋ねれば、彼は小さく頷いた。その少年の顔は、浩太には見慣れないものだった。自分の学年にこんな子はいなかった。となれば、上の学年の子かとも思ったが、目の前の子は、まるで教科書の白黒写真から飛び出してきた様な雰囲気である。悪い意味で学校で目立つに違いないが、やはり、浩太には見覚えの無い。

「君は、この団地に住んでるの……?」

問いかければ、男の子は静かに頷く。その答えに浩太は内心驚いた。団地に入居者がいる事は聞いていたが、見るのは初めての事である。本当に人が住んでいたという事実に、一種の感動を覚える。

「君、五年生かな? オレは田千間第四小学校の五年生なんだけど」

 質問してすぐに浩太は違う学校の子かと考えが過った。だが、このユウガオ団地に最も近い小学校は浩太の通う学校である。だとすれば、自分と同じ学校に通っている筈であった。

「……もしかして転校生?」

 それなら自分に見覚えが無い事にも納得がいく。けれども、彼は首を縦にも、横にも振らないで黙ったまま。

「まぁ、もしそうなら、今度遊ぼうよ」

 人見知りな子なのか、それとも緊張してしまっているのだろうか。反応を示さない彼に、浩太は困惑したがひとまずはそう声を掛けた。仮に本当に転校生だったとしたら、自分がいの一番に遊ぶことができる。そうなれば、クラスの話題の中心に自分が居れるのが明らかであった。

「約束だよ」

 浩太は自転車から降りると、前輪のそばにあったボールを掴み上げてやる。

「ほら」

 そう言って顔をあげると、そこに男の子の姿は無かった。

「あれ?」

 周囲を見渡すが、やはり誰も居ない。浩太は不思議に思いつつも、彼が立っていた脇道への入り口に歩み寄る。すると、団地の間を縫うように蛇行し舗装された道の先に、男の子が立っていた。彼は黙ったまま、浩太を見つめている。

 いつの間に。浩太は訝し気に彼を見た。先ほど変わらず、背筋を伸ばし立ったまま。まるで、此処から今いる場所へそのまま移動した様な錯覚すら覚える。

「ボール、いいのー?」

 声をあげて呼びかける。けれども、彼は反応を示さなかった。筋金入りの人見知りだなと苦笑いしつつ、浩太はボールは投げて渡そうと身構える。その直後、耳元に不思議な音が聞こえてきた。

 カラカラカラ。

 何だと周囲を見渡せば、丁度、右側の団地の側で倒れている自転車が目に入る。風雨に晒され、すっかりと錆びてしまったボディが酷く汚れており、タイヤは既にボロボロに破けて中が剥き出しになっていた。そのうち、スタンドのおかげで地面に接触しないで済んでいた骨組みだけの後輪が、風に吹かれて回り、軋んだ音を立てていた。それをさらによく見てみれば、それは古い年代モノの様であった。ハンドルは弧を描く様に曲がっており、サドルと同じ高さ。カゴはなく、代わりに大仰なライト。荷台には、やはりライトの様なモノとエンジンの排気口を模したパーツが付いていた。まるで車を無理やり自転車にあてはめた様なデザインで、思わず浩太はそのダサさに苦笑する。

 変な自転車だなぁ。

 化石を見た様な不思議な気分を覚えつつ、今度こそボールを投げようと向き直る。が、そこには既に少年の姿は無かった。

「あれ!?」

 思わず声が漏れる。体を傾けて辺りを見渡してみるが、やはり少年はいない。が、そのすぐ近くに、団地を避ける様に、右折の曲道がある事が分かった。どうやら彼はそっちの方へ移動したらしい。仕方がないので、また少年が立っていた所まで足を進めれば、やはり角の先に少年がいた。

 団地の僅かな敷地にある公園。そこには小さなベンチと、浩太ですら乗れないであろう小さな滑り台が一つだけあった。その真ん中で彼は立っていた。

 浩太は辺りを見渡す。手入れのされていない街路樹がいくつか茂っており、通りの道とは違い、流石に薄暗さを感じる。それでも夕日が当たるおかげか、日向はしっかりと茜色に染まっていた

「おーい! ボール」

 声をかけるが、やはり先程と変わらず、彼はこっちを黙って見ているだけ。

「話聞いてるの!?」

 じれったい態度に、浩太は思わず語気を強めて叫んだ。すると男の子は、ヒヒッと、短く肩を揺らして笑う。それからくるりと反転すると、突然、団地の奥へと駆け出した。

「あっ! 待てって!」

 慌てて浩太はその背中を追いかける。面倒くささと煩わしさに若干の苛立ちを覚えながら、足に力を込めた。足の速さならクラスで五本の指には入る浩太。追いかけっこならそれなりに自信があった。

 だが、男の子との距離は一向に縮まらなかった。浩太がどんなに速度をあげても、それに合わせる様に向こうの足も速くなっていく。ボールを持って走りにくいとはいえ、余裕すら感じさせる彼の後ろ姿は、浩太が見てきたどんな子よりも足が速く見えた。

 走り過ぎてゆく景色の中、1―30、35、40、と団地の号棟番号が流れていく。夕日に照らされ、建物に映った一人分の影が浩太と同じ様に動いている。

 気が付けば、奥へ奥へと進んでいた。番号をなぞる様に団地を駆けてゆく中、浩太は、横目でちらりと建物を眺めてみた。やはりどこも荒れ果てているような有様であり、人の気配は無い。

 追いかけっこは、団地の奥まで続いた。団地の脇を走り抜けたかと思えば、時には団地の正面を横切る道を通っていく。浩太はその後ろ姿に必死に食らいついた。そうやって、どれくらい走っただろうか。ようやく少年が立ち止った姿が見えた頃には、汗だくになっていた。

 額を拭い、脇に立つ建物の壁をみれば、1―49と書かれていた。その先、僅かに開けた空間があり、また建物が広がっている。その入り口に、男の子は立っていた。

「やっと……追いついた」

 肩で息をしながら、少年を見つめる。団地へと足を踏み入れた道とは違い、そこは小さな斜面と建物に挟まれていた。斜面には、雑草が伸びたままになっており、境として設けられた金網を裕に超え、舗装された道へと首を垂れる様に入り込んでいる。建物は、一街区で見た物と変わらないデザインをしていたが、コンクリートの色合いがより黒い。その建物が、右へ三つ程、順々に建ち並んでいた。そしてその三つが、列の起点とでもなる様に、並んで小高い山の稜線を跨ぐように、山の上へ上へと段々に並んで立っていた。

 足速いな。と賞賛しようとした言葉を、浩太は思わず飲み込んだ。少年がいる場所が、そして後ろに続く道が、驚くほどに暗い。夕焼けに染まっている今までの道とは違い、薄く青い色に染まった道は、奥に向かうにつれ、その色を濃くそして暗くしている。建物によって西日が遮られ、体は見えたが、脇にある斜面の藪のせいか顔には一際暗い影が落ちており、表情はおろか、顔のパーツすら見る事は叶わなかった。

 明らかにさっきまでの気配と違う様子に、浩太は建物の壁に目をやった。黒ずみ、風雨でできた染みが酷い。その上部には、擦れた字で、2―1と書かれていた。つまり、此処から先は、頭が二から始まる団地群――二街区と呼ばれる区画が広がっている事を意味していた。

――二街区に足を踏み入れると、二度と出られなくなる。

 浩太は自分の背筋に悪寒が走るの感じた。これが噂の二街区なのかと驚愕する。一街区も薄暗い印象であったが、こちらはその比ではないのが直ぐに理解できた。山肌を埋める様並ぶ黒い壁がまるで迷路の様で、一歩でも足を踏み入れたら、確かに出てこれなくなる印象であった。

「ねぇ、遊ぼう」

 少年の声が、団地に木霊する。その突然の音に浩太は思わず飛び上がった。団地の持つ雰囲気にのまれたせいか、神経が過敏になっている。浩太は恐る恐る少年の顔を見たが、やはり陰に覆われており、その表情は伺い知る事はできない。

「さ、流石に今からは無理かな……帰らないといけないし」

元々、門限が厳しいから皆より早く帰らなければいけなかった。団地を突っ切るのもほんの暇つぶしの様なものでしかなく、遊ぶ時間の余裕などない。

 何より――と浩太は、団地を眺める。煤けた外観。荒れ果て割れた窓や置き去りにされ風化し原型を無くした何か。放置され草が伸び放題の斜面や街路樹。人がまともに住んでいるとは思えないこんな空間で、遊ぶ気になど到底なれやしなかった。

「ごめんね……これ、返すよ」

 そう言ってボールを投げる構えをする。が、彼は微動だにしない。ただ、静かな息遣いだけが聞こえた。表情が見えないせいで受け取ってくれるのか、全く分からない。怒っているのか。残念がっているのか。顔が見えない事が恐怖がじわりと沸いてくる。

「それじゃあ、帰るね」

 仕方がなく、ボールを足元に転がす。ころころと進み、彼の足元に軽くぶつかて止まる。が、やはり彼はそのボールに手を伸ばすことは無い。ずっと変わらず、立ち尽くしている。その顔は全く見えないが、何だかじっとこちらを見つめているような気がして、浩太は目を逸らす事ができなかった。

「じゃあ、また……」

 小声で挨拶し、後ずさる様に下がっていく。一歩、また一歩、と距離が離れるにつれ、彼はどんどん遠のきやがてぼやけて見えなくなる。ようやくそこで浩太は身を翻して、小走りで走り出した。

 一刻も早くあの二街区から、少年から離れたかった。言い知れぬ不安と恐怖が胸に湧き上がっていた。あんな所、二度と近づきたくない。先程の光景を思い返す度、浩太は何度も心の中でそう呟やいた。

 来た道を団地の番号をなぞる様に進んだ。1―40、1―35、1―30と見てきた棟番号を遡っていく。そして、先程も見たみすぼらしい公園を抜け、いよいよ見覚えのある曲がり角が見えてきた。

 早く出よう。浩太は足に力をいれ、駆け足気味に道を曲がる。すると、そこには、少しだけ開けた空間が広がっていた。

 あれ……?

 思わず、その足を止める。本来ならば、見えるはずの蛇行する脇道が見当たらない。建物と建物の間に挟まれた入り口が無い。その代わりに見えるのは、ついさっき自分が後ずさりながら脇を通った一―四九号棟の壁だった。そして目の前には、今し方自分が駆けた道が続いている。

「ねぇ、遊ぼうよ」

 声がして、咄嗟に振り返った。すると、そこには別れたばかりの少年がいた。影に覆われた顔とその後ろに続く薄暗い道。そして聳え立つ幾つもの黒い団地群。目の前に広がる二街区の光景に、浩太は絶句した。

 何でと、どこかで道を間違えたかと、自問する。が、直ぐにそんな事ありえないと気づく。団地の番号を辿っていたのだ。間違えるはずなど無い。

 浩太は嫌なモノを感じながら少年を見た。相変わらずその表情は見えないまま、その場から微動だにしない。まるで固まってしまった様に、じっとしている。

「あのさ……大通りってどっちかな」

 恐る恐る尋ねる。すると、彼は左腕をゆっくりと持ち上げ、腕だけを斜め後ろに指さすように持っていた。その指先は、二街区の中を指し示している。

 そんな訳無いだろ……僕は一街区から来たんだぞ。

 声に出そうと思ったが、その異質な雰囲気に喉元で言葉がつっかえた。顔の見えない彼の行動が、冗談には思えずそして酷く不気味だった。

 返事をせず、浩太は逃げる様に走りだした。先程と同じ番号を辿り、同じ道順で進む。

 どうか、間違いであってくれ。どうか勘違いであってくれ。

 そう心の中で何度も何度も必死に呟やいた。脳裏には、団地に纏わる数々の噂話が浮かんでくる。それを必死に振り払う為に、腕に、足に力を籠める。そうして、また公園を抜け先程と同じ角を曲がった。

「なんで……!」

 2―1という数字が入った壁が目に入り、浩太は思わず声が漏れる。またしても二街区の入り口にやって来てしまった。どこで道を間違えたのかと必死に思い返すがやはり自分には間違いなど無い。どう考えても、ぐるりと団地を周るような道を辿ってはいなかった。

 二度と出られなくなる――脳裏に過った言葉に、嫌な汗が頬を流れる。と、同時に浩太は泣きたくなった。

 あの噂が本当で、自分はそれに巻き込まれてしまったのかもしれない。

 馬鹿な考えだと思いたいが、けれども目の前で起きてる出来事を説明づけるには、今の浩太には二街区の噂しか思い浮かばなかった。

「ねぇ、遊ぼう」

 少年は相変わらず立ったまま、同じ言葉を投げかける。思い返せば、彼に付いていってしまったのが、この団地に迷い込む原因だった。そして振り返れば、振り返る程、彼の異質さを実感する。その瞬間、浩太には目の前の彼が全ての元凶の様な気がしてきた。

 この団地から逃げなきゃ。

 浩太はもう無我夢中だった。疲労を感じ始めた足に鞭打ち、一街区の中へ駆け出す。しかし、今度は団地の順番を辿る事無く、とにかく真っ直ぐに道を進んだ。団地の出口は一つではない。何処でもいいから、この団地を出たかった。だが、二街区から男の子から離れたい気持ちもあった。そのため、とにかく真っ直ぐ、二街区とは正反対を目指して一心不乱に走る。自分の自転車の事など既に頭には無かった。

 やがて、目論見通り、団地の最後の号棟が目に見えた。その先には、街路樹に挟まれた歩道が弧を描いて続いている。浩太は頭の中で地の全体像を大まかに描けば、その道の先は自分が見慣れている車道にぶつかる筈であった。

 初めて見る風景に、浩太の期待が膨らむ。それに合わせて必死に腕を振った。既に息も絶え絶えであったが、歯を食いしばる。そのまま勢いよく歩道へ突っ込むと、全速力で駆け抜けた。街路樹が無くなり、視界が開ける。

「ああ――」

 目の前に広がる先程と変わらない光景に、浩太は悲鳴をあげた。茜色に染まる一街区と暗い影を落とす二街区、その境界線にまたしても自分はやってきてしまった。

 いや、引き戻されてしまったという方が正しいのかも知れないと、浩太はそう直観した。そしてそれは自分が噂通りここから出られないという事でもある。どの道を通っても、どの場所から団地を抜け出そうとしても、必ず此処にやって来る。そして、それは少年が指さした二街区に足を踏み入れるまで続くのだろう。そうなったら、最後、きっとおぞましい事が待っている。と、浩太にはそこまでが容易に想像ができた。

「ねぇ、遊ぼうよ」

 無機質に聞こえる少年の声は、最早、生気を感じる事はできなかった。蝉の鳴き声と混ざり、まるで団地の一部になってしまったようにも思える。

「……お前なんだろ!」

 浩太は、今度は逃げずに叫んだ。

「お前が、俺を閉じ込めてるんだろ! そうなんだろ!!」

 泣きたくなるほどの悲しみと、感じた事の無い怒りに心が追いつかない。どうなるかもわからず、それでも浩太は喚き続ける。どうやったらこの団地から抜け出せるかなど皆目見当もつかず、感情の思うがままに叫ぶ事しかできなかった。

「俺が何したって言うんだよ! ここから出してくれよ!」

 声が虚しく団地に響き渡る。目の前の少年は、それでも身じろぎ一つしない。ただ、そこで浩太が二街区に入っているのをいつまでも待ち続けている様であった。

「頼むよ……」

 どっと疲労感が押し寄せてきた。感情の波が去り、あれだけ強気に出いた浩太の声も弱弱しくなっていく。何も変わらない、どうしようもない現状に、浩太の心は折れかけた。

 それでも、祈る思いで言葉を口にする。

「家に帰りたいよ……」

 絞る様な声で呟やいたその瞬間、空気が変わるのを浩太は肌で感じた。直後、それがまるで合図の様に、団地のそこかしこからカラスたちが一斉に飛び上がった。幾つもの鳴き声が団地の中でに反響し、羽ばたく音が地面を揺らすかの様に体に伝わって来る。黒い群れが夕焼け空を覆い、幾つもの羽根が舞い散った。やがてカラスが過ぎ去れば、蝉の音も無い静寂だけが残った。

 うるさいくらいに脈打つ心音を聞きながら、浩太は少年の顔を見つめていた。影で黒色に染まったその顔は表情など見えない筈なのに、それでも浩太は、目が合っている様な奇妙な感覚になる。真っ直ぐ自分を射貫く瞳が想像できれば、それはまるで餌を見定めている蛇の様であり、自分は差し詰め餌の蛙といったところである。

 嫌な汗が全身から吹きだす。激しい悪寒に襲われ、本能が危険だと知らせていた。それでも足は竦んでしまい動くことができない。

 何かが来る……

 今までとは違う気配に、酷い胸騒ぎがする。一体何なのか、何が起きるというのか。言い知れぬ不安が募る中、それは直ぐにやって来た。

――ざわめきが聞こえる。道の奥、藪の中、部屋の中、団地のあちらこちらから届く声。それは男性なのか女性なのか、大人なのか子供なのか、分からない。ただ、数多大勢の囁くような声が重なり合って、団地の中で反響していた。

 浩太には、それが何を言っているのかは正確には聞き取れなかった。だが、決して良くない言葉なのだという事は分かる。

 早く此処から出ないと。

 だが足は動いてくれない。目線も少年から外せないままでいる。そうやって戸惑っている内にもざわめきはその音を大きくしていく。やがて、聞こえていた筈の鼓動すらを呑み込む喧騒が、浩太を包んだ。

 恐怖心で、胸はいっぱいだった。不安は頂点に達し、自分の目元が熱を帯びるの感じる。我慢の限界を迎えそうになった時、目の前の少年の口元が、ぱっくりと三日月の様に開くのが見えた。影に覆われたままの顔で、本来ならば、そんな事はあり得ない。けれども、目の前の彼が口を開けているのだと浩太には理解できた。

 何かを話そうとしている。

 ざわめきの中で、彼の口が動いているのを感じる。その途端、一瞬の静寂が訪れ、浩太の耳が音を拾った。

「こっちに来いよ」

 重く響く低い声。全身が粟立ち、真横に誰かが立っている気配がすれば、左手首を誰かが強く握った。

「うああああああ」

 それが合図かの如く、喉が張り裂けんばかりの声をあげ浩太は全力で腕を振り払った。掴んだ相手が誰なのかも、目も暮れず一街区へ逃げ出す。火事場の馬鹿力なのか分からないが、浩太は自分の身体が動けなくなっていた事も忘れてただただ一心不乱に走る。

 逃げなきゃ。逃げなきゃ。

 うわ言の様に何度も繰り返しながら、団地の中を駆け巡る。ただ危険から逃げるという本能のまま、ただ我武者羅に走った。そうしてどれだけ走ったのかも分からない中、ふとした瞬間に、その足は動きが鈍くなった。

 どこへ逃げればいい?

 脳裏に過った言葉。このまま走り続けても、自分はこの団地から出られない。来た道を戻っても、別の出口から出ようとしても、また二街区の入り口に戻される。その事実に気が付くと、やがて走る速度は完全に勢いを無くした。

 夕焼けの中、気が付けば団地の中で一歩も動けなくなっていた。もしあの角を曲がったら、もしこの道を進んだとしたら、またあの場所へ戻されるかもしれない。

 左手首を見れば、握られた跡が黒い痣となってくっきりと付いていた。――次は無い。そう伝えるかのように掴まれた感触がまざまざと蘇る。あの時は咄嗟だったから振り払えたが、次はそう簡単にはいかない。がっちりと見えない何かに掴まれて、引き摺られる様に二街区の中へ連れていかれるだろう。黒く薄暗い、まるで怪物の喉の様なあの路地に――そう想像が付けば、血の気が失せていくのを浩太は感じた。

 最早、進む事もできず戻る事もできない。それはつまりこの場所で、一人で飢え死にする他ない事を意味しており、その事実は、小学生を絶望させるには十分であった。

 浩太は膝から崩れる様にその場にしゃがみこんだ。顔を腕に押し付けて声を挙げて泣く。今まで我慢していたものが遂に限界を超えていた。緊張や恐怖心が胸の中に溢れかえり、嗚咽が漏れる。声にならないしゃくり声で、父や母、そして誰でも良いからと呼び助けを求める。だが、返事など来やしない。団地は静寂に包まれ、人の気配が一つもしないままであった。

――カラカラカラ

 もう終わりだと諦めかけた時、耳に不思議な音が響いた。何だと顔を挙げてみるが、目の前には、何も変わらない見慣れた団地の光景のままである。

 浩太には、一瞬何の音かは分からなかった。が、耳を澄ましていると、それは自転車の音だと気が付いた。この団地の中へ入る蛇行した道の途中に置かれた古臭いボロボロの自転車。その後輪の軋んだ音だと思い出す。その瞬間、浩太には一つの考えが浮かんだ。

 団地に囚われてから、まだ一回もあの自転車を見ていない。そしてあの自転車の置いてある脇道は、自分が入った入り口に繋がっている。つまり、自転車の場所までたどり着ければ――

――戻れるかも知れない!

 湧き上がる希望に、浩太は自ずと立ち上がった。音は、未だ鳴り続けており、まるで自分を導いているかの様にすら感じる。その音に急かされる様に、気が付けば浩太は走り出していた。もしかしたら罠かも知れない。そんな考えもあったが、今の浩太にはそれを熟考する余裕など無かった。

 耳に全神経を集中させる。なるべく景色や号棟番号に惑わされない様に、視線は地面に落とした。音だけを頼りに、右に左に進む。そうやって、必死に走り続ければ、やがて、その時は突如訪れた。

 細い道に入り、左手に件の自転車が横たわっているのが視界に入る。その前方には、自分が自転車を止めた通りが見えた。

 出口だ!

 そう確信すると、浩太は、残された気力を全て足につぎ込む。一気に加速し、路地を駆け抜けると、唐突に視界が真っ暗に染まった。

「うわっ!」

 突然の出来事に、慌てて足を止めようとする。が、勢いそのままに浩太は何かにぶつかって盛大に転んだ。大きな音が響き、足に固い異物がぶつかって痛みが走る。

 歯を食いしばりながら、必死にもがく。足の下にある異物を手で触れば無機質な感触。その形から、それが自転車だと分かった。と、同時に、視界の端に淡く光る街灯が揺らめいているのが分かった。

「ここって……」

 立ち上がって辺りを見渡す。最初こそ暗くて見えなかったが、暗闇に目が慣れてくれば、そこが自分が自転車を止めた大通りだと気が付いた。

 団地から抜け出せた。それは喜ばしい事であったが、浩太にはそんな事を感じる余裕もなく、茫然と足元に目を落とす。どうやら、飛び出した勢いで、自転車にぶつかってこけたらしく、自分の自転車が横たわっていた。それはひどく懐かしい様に思え、後を追う様にどっと疲労感がやって来る。既に、周りは夜の帳に包まれていた。空には、僅かながらの星が光っている。団地の中に居た時はまだ夕暮れであっただけに、浩太はその時間の変化に理解が追いつかなかった。

 ぞくぞくっと背筋に寒気が走る。慌てて振り返れば、真っ暗な細い路地の入口に何かが立っている様に感じた。その姿は夜目になったとしても輪郭すら見る事ができない。ただ、何かが、そこでじっとこちらを見つめている。浩太にはそれが例の少年の様な気がした。

 追ってきたのか。

 また恐怖が湧き上がる。だが直ぐにその気配は消えてなくなり、代わりに遠くから男性の声とライトが浩太に届いた。

「いたぞ!」

 その声と共に、一人の警察官が駆け寄ってくる。肩を掴まれ、怪我は無いかと確認されると、程なくして何人もの警察官といくつかのパトカーがやって来た。

 それからはあっという間の出来事だった。浩太は警察に保護され、自宅まで届けられた。どうやら、門限を過ぎても帰ってこない彼を心配して両親が学校、友人宅、そして警察へという順で連絡したらしい。団地に入った時は五時過ぎであった筈だったが、浩太が発見されたと時は既に十時を過ぎていたらしい。

何があったのか、何処にいたのか、当然、両親や警察官に尋ねられたが、浩太はどんな受け答えをしたかはあまり覚えてはいなかった。というものの、その夜は直ぐに高熱を出してしまい、そのまま三日間は寝込んでしまった。だから、記憶が曖昧で、まるで全てが夢だったようにも思える。

 ただ、一つだけ鮮明に覚えている事があった。それは、保護してくれた警察官が、親としていた会話の内容で、あの団地では過去にも何度か子供が行方不明になる事があり、団地の中の古い貯水池に落ちて亡くなった事故がある、という事であった。もし、自分があのまま二街区に入っていたら……きっとその子供達と同じ結末を迎えたかもしれない。そう思うと、浩太は生きた心地がしなかった。

 あれから、団地には入るなと両親に釘を刺された。警察から、管理がされておらず危険な場所が多いという話を受けたかららしい。無論、浩太もあんな思いをしたのだから、二度と足を踏み入れる気などない。

 だが、快方するなり浩太は真っ先に、団地の近くまで足を運んだ。あの日あった事が本当だったのか、夢じゃなかったのか、眺めただけでは分かる筈もない。でも、たった一度だけもう一度団地を見て確認したかった。

 自分が自転車で抜けようとした通りの入り口に立つ。昼間でも薄暗く、生活音が全く聞こえない静寂だけが感じられる道。何故、あの日、あそこを通ろうと思ったのか、今では不思議に思えてならない。

 ふと、左手に痛みが走る。熱が引いてもなお、消える事が無い手首の黒い痣。それが、あの日あった出来事が夢ではないと告げる様に痛みだす。

『こっちに来いよ』

 団地の中から聞こえるその声に、浩太は踵を返して、家路を急いだ。ずきずきと軋む左手首。それはいつまでも消える事無く、まるで誰かに引っ張られている様な感覚だった。

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