第3話 名前。
川辺へつくと少女の体を日陰に寝かせる。
水をすくい、彼女の口元へ零した。
すぐに少女は気がつき、瞬きをくり返した。
綺麗な丸い瞳だ。
ゆっくりと座ると、きょろきょろと辺りを見回していたが、
川を目にとめると驚くほどの勢いで水をむさぼった。
しばらくの間水から離れようとはしなかった。
僕は水に顔をつけている彼女を見ながら考えた。
どこかのグループからはぐれたのだと思うが、この先どうすればいいのか。
年は同じぐらいだと思われる。
白いワンピース、長い髪、なめらかな肌。
彼女はまるで絵画の中から抜け出してきたような少女だった。
夏の乾いた風が髪をさらっていく。
僕はその時になって彼女の薄着に気がつく。
慌てて川の中へ入って着ていた上着を彼女の肩へかける。
こんな薄着では簡単に感染症や肺患いになってしまう。
「大丈夫?」
たずねると、僕の存在に気がついて水から離れる。
上着を握り締めながら口元をぬぐう。
何とも艶かしい。
「ありがとう」
柔らかい微笑み。
まさに恋に落ちた瞬間だった。
「っ困った時はおたがいさまだよ」
「ここはどこ?」
「え?」
小さな顔を動かし、不思議そうに観察している。
どこか上の空のようだった。
「ごめんなさい、その……私記憶が少しおかしくて……よくわからないことばかりなの」
「ここは廃墟の森。あ、そんな薄着じゃ体に障って危ないよ」
ばっと上着を投げ捨てる。
僕の声など聞こえていないようだった。
たたたと小走りに歩いていき、上を向いて目を閉じていた。
直射紫外線の当たる危険な場所だ。
僕は注意しようとゴーグルをかけるが、思わず見惚れてしまう。
「ああ、なんて太陽がまぶしいのかしら。風もきもちがいい。森の鼓動が聞こえる」
ゆっくりと両手をかかげ、陽だまりに立つ彼女は生命そのもののようだった。
僕は迷ったが、彼女を自分のグループへ連れ帰ることにした。
本人も行き場がわからないのでかまわないと快諾してくれた。
「とりあえず上着を着ていないと危険だよ」
そう言い、さっき放り投げた上着を強引に渡す。
「でもあなたは?」
「少しぐらいなら大丈夫」
少なくとも彼女よりも体は頑丈だ。
直射日光も少しなら平気だ。
自分よりも彼女の方が心配でたまらない。
「優しいのね」
ふっくらとした唇で笑う。
どきっとする。何と返せばいいのか戸惑う。
「名前、なんていうの?」
僕は思い切って聞いてみた。
「名前……?」
彼女が驚いた表情に変わる。
しばらく彼女は考え込む。頭に手をやり、目を閉じる。
「……名前、覚えていないの」
「えっ名前を?!」
思わず聞き返す。
彼女は気まずそうに目線を反らす。
記憶喪失とかいうやつだろうか。
自分の名前を覚えていない不安さなんて僕にはわかりかねない。
「どうしてかしら……なにかあったのに……思い出せないわ。どうして…どうして……」
がくりとひざを折り地に手をつく。
「どうしたの?」
屈みこみ、彼女を見る。
大きな瞳から、ぼろぼろと大粒の涙がこぼれる。
落ちた涙は土がすぐに吸収していく。
「私は誰?どうしてこんな場所にいるの?
どうして思い出せないの?自分のことなのに、何も覚えてない。何もわからない。どうしてっ」
僕は彼女の肩を掴み、目線を合わせる。
「そんなに急がなくても平気だよ。しばらくしたらきっと思い出すよ」
「思い出せなかったら?」
不安な感情を隠さず、少女がたずねる。
動揺し震えている。
肩を掴む手に思わず力が入る。
「思い出せなくてもいい。無理しなくてもいい。後から思い出すかもしれないだろ?」
「そう…かな……」
彼女を立たせ、その手を引きながら歩き出した。
「でも名前が無いと不便だね」
僕が言うと、彼女は黙って頷いた。
「何か無いかな……グループのみんなに説明する時困るしな」
「あなたがつけて……私の名前…」
恐る恐る、彼女は僕を見る。
「君の名前を決めるなんて僕にはできないよ」
強く言うと、視線を反らす。
「じゃあどうすれば……」
語尾が聞き取れない程の小さな声で彼女は呟いた。
「……ユキ、はどう?」
「ユキ?」
真剣な目で見つめられる。必死さが伝わってくる。綺麗な瞳だ。
「その服の色、雪の色だから。って安直かな、ごめん」
「ううん。気に入った。私の名前、ユキ。ありがとう」
「本物の白い雪は見たこと無いんだけどさ」
照れ隠しで下を向く。
実際に吹雪く雪は汚れた色だ。
しかし、太古の雪は白色だったと習った。
「私も見たこと無い。こんな色なのね……素敵。名前ありがとう。すごく嬉しい」
にこっと笑う。
僕の心臓は今にも破裂しそうだった。
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