幕間

怠惰

AG.3433年 9月

 

「――」


 セニーリはペッシュから借りている、シュレーナ郊外の土地で暮らしていた。

 グリア人であるダンとミィは勿論のこと、セニーリも未だジン帝国の市民としては認められておらず、今はペッシュの使いということで一時の居住権を得ている。

 なので手狭な石の小屋で生活していた。

 そうした中でセニーリは机に肘をかけて座り込み、目の前の食事には手を付けずただボウッとしていた。


「――おい」

「……」


 彼に声をかけたものがいたが、聞こえていないようで微動だにしない。


「おい!」

「――痛っ」


 頭を叩かれてようやっと存在に気が付き振り返ると、そこにいたのはミィだった。


「ああ、お前か。帰ってたのな」

「あたしに気が付かないとか……、まだ呆けてるのかよ」


 シュレーナに戻ってから約一月、セニーリはずっとこの調子だ。


「そりゃあ、仕方ないだろ」

「……まあな」


 オジン村で起きた怪異、悪夢のような事件はそこにいた全員に多大なる衝撃を与え、辛うじて生き残ったものたちにも強いトラウマを植え付けた。

 村人たちは夜に怯え、寝ることもままならない有様であった。

 セニーリも例外ではなく、なんとかシュレーナに戻ってからというものの震えて日々を過ごし、多少改善した今でも思い出しては後ろに恐怖を感じては縮こまっている。


「今回はなにしてたんだ?」

「いつも通り、ペッシュの野郎から受けた仕事をしてたさ。今回もあいつのとこの帳簿を書いて手が疲れたよ」

「やっぱり字が書けるのは羨ましいな」


 田舎出身で、高度な教育を受ける機会のなかったセニーリは文字を書くことができない。読む方は多少出来るが、それでもそれで仕事を請け負えるほどではない。


「あたしだって苦労したんだ」


 ミィはほぼ独学で識字を身に着けた。小間使いの傍ら、持ち前の人懐こさで貴族の客などから教えを請いたのである。

 そうした場合、普通の女は閨に誘われるものだがグリア人を求めるのはよほどの変わり者でない限りいなかった。代わりに嘲笑を浴びることもあったが、歯を食いしばり耐えていたのだ。


「……ダンは」

「まだ戻ってないよ」

「そうか……」


 九頭の怪物に襲われ、一度は挑んだものの容易くあしらわれたダン。それは彼にとって耐え難い恥辱であり、シュレーナに戻ると同時に行方をくらましていた。

 ペッシュは逃げ出したのだと言うが、セニーリはそうは思わない。必ず戻ってくると信じ、ここで待っていた。

 短い旅の中であって、セニーリが持ったダンへの印象は鮮烈で、誰よりも誇り高い戦士だと理解している。一度の敗北で心折れるような人間には思えなかった。


「それよりも街の様子は?」

「素晴らしく“平常”だよ」

「バカ野郎がよ……、なんでわからねえんだ」


 シュレーナまで来たのはセニーリたちと、ラングル傭兵団の面々だ。団員の半数を失い、さらに道中で離れたものもいたが、ラングルの存在によってなんとか傭兵団の体を保っていた。

 オジンの住民は途中にあった他の村に預け、そこの住民も幸運にも理解をし受け入れたのだった。当然詳細を説明せず、野盗に襲われたとだけ伝えている。

 ちなみに傭兵団もダンたちも、居ると話がこじれるので交渉は村人たちだけで行った。

 そうしてシュレーナに着いたラングル傭兵団は、依頼の報告に行ったと同時に起こった出来事、九頭について話した。

 それはジン帝国を揺るがす脅威で、緊急の挙兵を求めるものだ。

 しかしながら九頭を見てもいない者たちにとっては妄言のたぐいであり、到底聞き入れられるものではなかった。

 それでも食い下がったラングルは危うく狂人で、国家に仇なす罪人として捉えられかけた。リュミルがなんとか制したので大事には至らなかったが、結局理解は得られなかったのである。

 だが事実を知る者にとっては紛れもない世界の危機であり、堅牢な城壁のあるシュレーナにいてさえ安全を確信できないほどだった。


「あれは今どこにいるんだか」

「少なくともまだここには来てないし、それらしい噂も聞かないな」


 あれほどの存在感を放ってながら、まるで消え去ったかのようにどこにも姿を表していない九頭。

 オジンに現れたのは偶然なのか、それとも遥か遠くへ行ったのか。

 わからない以上恐怖は拭えず、まるで安心とは遠かった。


「まあ姿が見えないにはどうもないさ」

「そうだけどな……」

「まあそれは置いとけ……ないが置いておいて。お前に依頼だ」

「……ペッシュから?」

「そう」


 これは当たり前であろう。セニーリの姿を見たペッシュは、説明こそ鼻で笑っていたがセニーリの状態には同情を覚えて今までそっとしておいた。

 けれどもいつまでもタダ飯を食わせるほど寛容ではない。むしろミィの知人であるからこそここまでの待遇である。

 だがそれもいい加減だ。


「内容は?」

「書簡……だったんだがな、どうせ読めないだろうと言伝を請け負ってやったぞ」


 恩着せがましく胸を張るミィ。豊かな盛り上がりに目を奪われかけたセニーリだが、そうした際の悲惨な末路はすでに味わっているのですぐに逸らす。


「はいはい、感謝しますよ」

「それでだ、なんでもある人間の調査だと」

「ある人間?」

「そ」


 これだけで嫌な予感がするセニーリ。大商人のペッシュが問題視する人間とは、間違いなく常人ではない。盗賊のたぐいか、それとも――。

 そうしてミィが口にした三名の名前、短いシュレーナの暮らしであるセニーリには聞き馴染みがなかった。


「そいつらはどんな身分なんだ?」

「貴族。それも大のつくな」

「やっぱり――」


 恐れていたこと、セニーリの予想が的中した。

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