敗走

「早く! 持てるだけでいい、まずはここを離れることを最優先にして!」

「おいおい、なんだってんだ……!」


 村の中をよろよろと走るセニーリは混乱の極みにあった。

 無理もない、全速力で走ってきた二人。今の今まで決闘をしていたはずの二人が揃って走っている。

 戦いの行方に注目していたミィらや村人たち。全員が驚きにざわめいていたが、それも気にすることなくリュミルが開口一番に、村を捨て逃げるように言い張ったことだ。

 当然のごとく理由を問う村人だったが、リュミルは必死の形相で説得した。

 それでも飲み込めない、飲み込めるはずのない彼らは拒むばかり。そうしていたがダンが一喝し、追い出すように半ば恫喝するように声を張った。

 恐れおののく村人たち、しかし二人の焦りをあざ笑うように九頭が村に姿を表した。

 一度はその冒涜的な形を目にしたはずの二人でさえ、恐怖にこわばり内心を隠せぬほど動揺していた。それなのだから初めてそれを見た人間が現実と向き合うには相応の勇気が必要だ。

 呆然としていた村人。そのうちの一人、九頭に近かったある男性は九頭と目があった瞬間に理性を失い、狂気に囚われ失禁した。

 指一本動かせぬ状態の男だったが、九頭が杖をダンにしたように掲げると、そのほうに引き寄せられ最後は塵となって赤い宝石に吸い込まれていった。

 薄々とそうなると思っていたダンとリュミルだったが、実際にそれを目の当たりにしては一層の焦燥に駆られ逃亡を呼びかけた。

 村人たちや傭兵団も、そうしてようやっとことの重大さに気が付き、また本能が呼びかける原始的な防衛本能に基づき方々に逃げ出し始めた。

 秩序とは程遠いものが村を取り巻いていたが、ラングルだけはほんの少しの冷静さを持って一定の道筋を指し示した。

 命令を出されることで、人は思考を鈍化させ心に余裕が生まれる。村人たちもそうして持つものも持たず、這々の体で村を飛び出していった。


 そのはずだった。


 動き出した村人、傭兵たちが次々と地面にうずくまりだす。ダンも体に異変、生気が抜けていくような感覚に陥りだした。

 その人々を九頭はゆっくりと近づきながら、一人ずつ杖の宝玉に収めていく。散歩のような平然さで、母のような柔らかさで一人、また一人と包み込むように消し去っていった。

 やがて彼らも逃げることを諦めだし、絶望の中で倒れ伏していった。

 しかしダンだけは未だ体力を残し、再び九頭に向かっていく。

 不意を突かれたのか、はたまた眼中になかったのか。ダンが打ち付ける円盾は九頭の胴体に直撃し、少しだけ後退させることが出来た。

 それで全員に僅かな希望を抱かせた。九頭は超常の化物であっても、触れ得ることのない神ではなかったのである。

 もう一度大声で逃亡を促すダンに、リュミルやミィも同調し続く。

 それから全員、なんとか動けるものは必死で村から離れていった。

 セニーリもその中におり、喚きながらもつれる足を動かしている。


「わからねえ、なんにもわからねえ……!」

「黙って走れ!」


 少し前を走るミィがセニーリに言う。


「考えるのは全部あとだ、今はなにも考えず、とにかく走れ!」

「……くそ、わかったよ! くそったれ、神様は見てるのかねえ!」


 九頭はそれでなおゆったりとした動きを変えず、たおやかにさえ見える仕草で残った人間を消していく。

 ダンたちや傭兵団、アネーカの怪異を知るものたちは言わずともわかりあった。

 あれが原因であり、火急の対処が必要な、世界の危機だと。


「俺はなにをしている――」


 ダンは震えるほど拳を握りしめ、血を出すほど唇を噛み締めていた。


「なぜ俺はこんな無様を晒して――」


 ローの仇であり、敵と定めた存在に対し情けなくも背中を見せ逃げている。

 ダンのプライドは砕け、最後の一欠片が心をつなぎとめていた。


「くそおおお!」


 空にダンの声が響き渡る中、彼含む人々は九頭の脅威から逃れることに成功する。

 三百人いた村人はわずか九人になり、ラングル傭兵団も半数を減らし壊滅に近い打撃を被った。

 ダン、セニーリにミィもなんとか生き延び、全員はシュレーナに向かって歩いていく。

 それから丸一日は疲労と恐怖で誰一人声を発さず、人間らしい態度を取れるようになったのはさらに二日のあとだった。

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