恐怖
鎧を脱ぎ、持っていた布で脇腹の傷を簡単に手当てしたダン。それから立ち上がりリュミルに寄っていく。足取りは確かで、怪我はそれほど酷くないようだ。
ダンは屈んでリュミルの顔を覗く。
「……なんですか」
「おお、生きていたか」
リュミルは困惑した表情でいた。
「はい。運が良かったようです。……痛っ」
鼻を押さえるリュミル。それで初めて鼻血が出ていることに気がついた。
「拭いたほうが良いぞ」
笑いながら指摘をするダン。
「……優しいんですね」
「楽しかったからな」
「楽しかった……、ですか」
暗い顔を覗かせるリュミル。戦っている最中にも思ったことであるが、ダンにはかなりの余裕があった。それこそ、戦闘を楽しむだけの精神的ゆとりが。
それは彼のプライドを傷つけることであり、また至らなさを自覚せざるを得ない事由である。
「貴方から見て、ぼく……私に足りないものはなんでしょうか」
「経験」
即答だ。
「俺のような体格のやつと戦ったことがなかっただろう、それに力のある剣も受けていないように思えた」
「仰るとおりです……」
リュミルはそのために家を飛び出たのだから当たり前でもある。
「まあ、俺も人のことを言えないがな」
腕を組むダン。
「そうなのですか?」
「うん、つい最近国の外へ出たのだから」
こうしていくつか言葉をかわした後、ダンはすくっと立った。
「村に戻るか、お前は立てるか?」
「大丈夫です、なんとかですが」
その時、ごうと強い風が森を吹き抜けた。いやに冷たく、思わず身震いしてしまうほどだった。
「――なんだ、今の。まあいい、俺は先に戻って……、どうした」
目の前にいるリュミルの顔が固まった。呆気にとられたようで、不思議なものを見るような。とにかく納得がいっていないような、そんな表情だった。
よくわからないのでダンはその視線の先を追う。
「――なんだ、あれ」
ダンが見たのは、この世にはあってはいけないものだった。
「信じられない……」
リュミルが呻く。
二人が釘付けになっているのは森の合間、暗がりにボウっと浮かぶ影。
這うように、漂うように黒い影がうごめいている。
ダンの肌が粟立つ。昂ぶる気持ちは少しもなく、生命の根源的な恐怖が警鐘を鳴らす。
リュミルも、ダンも判断が下せぬまま影はいつの間にか直ぐ側まで来ていた。それでようやっと影の全体が把握できた。
「――?」
けれどもそれがなんなのか二人にはわからない、理解できない。脳が、心がそれを拒むのだ。
黒いのは靄ではなくローブ、体長は二メートルもあるダンよりさらに一回り以上大きく、近づくに連れその威容は彼らを圧倒する。
「ひそひそ……」
「クスクス……」
それはなにかを話している。そう、『話している』。
森に現れた怪異は一つの個体ではあるが、ダンたちに話しかけているでもなく会話を行っていた。
なぜならそれは一つで完結しているから。
「なにかいたよ」「いましたよ」「小さいですね」「子供ですか?」
それも一つ、『一人』ではない。
「なんという……!」
リュミルが堪らず叫んだ。
森の木に並ぶ体躯に九つの頭、すべてが干からびた、死人の頭が並んでいる。首があるべきところにはやけに豪奢な藍色の台座がある。縁の装飾の多さはまるで『玉座』だとでも言いたげである。
当たり前だろうか、九つの頭それぞれは顔が違い、もともと別々だったものたちが“寄り集まった”ようにも見えた。
「横のは獣ですか?」「この前の翁が言っていた『ぐりあ』とかいうのでは?」「ああ、あの可哀想な」「娘を亡くした……」「私が殺した……」
大げさに泣き真似をしている九頭の化物。
「――閑かに」
「……」「おお、怖い怖い」
中心格であろう真ん中の顔が一声出せば、それ以外は急におとなしくなる。
顔自体は他と同じように乾いているが、頭には上等な真紅の頭巾を被っている。
九頭はダンたちのことを気にも留めずに会話を続けていたが、リーダーの頭が指示を出した。
「――では回収しよう」
「いつもと同じように」「情けはかけまい」「哀れみもいらない」「ただ粛々と」
九頭は手に厳かな杖を持っていた。人よりも一つ節の多い腕に持つそれは、曲がりくねった形状で鈎状になった先端にダンも、貴族であったリュミルさえも見たことがない赤い宝玉がついていた。
血のように赤く、吸い込まれそうなほどに美しい。
「宜しい」
「では前へ」「恐れるな」「悦ぼう」「杖の先へ」「宝珠を此れへ」
中心の頭の掛け声のあと、その杖がリュミルの方を向いた。
「え……?」
正常な思考ができていないリュミルは、ただそれを見ているだけだ。
「馬鹿野郎!」
僅かに足の浮いていたリュミルをダンが蹴飛ばす。
そして九頭の化物と対峙したダン。九頭は物珍しそうにダンを見る。
「ぐりあだ」「ぐりあか」「やはり獣の如き」「なぜ我らの邪魔をしたのだろう」
「なんなんだ、テメエは……!」
なんとか己を奮い立たせダンは問いただす。しかし九頭は変わらずダンの言葉には無関心でいた。
「しかしどうして中々……」「似ているな」「似ている」「似ているなあ」
「金色のぐりあに」
「――、なんと言った……?」
ダンをしげしげと眺めた九頭が口にしたこと。彼には聞き捨てならなかった。
「ああ痛い」「あれに受けた傷が痛む……」「哀しい」「恐ろしい」
「貴様ら、まさか……!」
ダンの中で合点がいった。そして腑に落ちた。これならば確かに、あのローが殺されたとしたらこれしかない。
「うおおおあ!」
熱が昇る感覚がダンの体を動かし、自然と腕に盾を構えていた。
けれども九頭は相変わらず静かにダンを見下ろしている。
「これはどうしたのか」「やはり獣だ」「驚いた」
「やかましい!」
ダンの頭の少し上、九頭の胸元に目掛けて円盾を打ち付けに掛かる。
「煩わしい」
「な……! ――うがっ!」
ダンが下から突き上げられた。
「どこから……!」
九頭のみぞおち付近、ローブの切れ目から覗く腕。それは左右のどれでもなく、第三のものだ。
「化物め……!」
「やはり似ている」「下品なところもそっくりだ」「蛮族だ」
「くそ……!」
悪態をつくことしか出来ないダン。確かに三つ目の腕は想定外だったが、それ以上に突き上げてくる速度が尋常ではなかった。
防御も、反応も出来なかった。それは戦士のそれではなく、単純に怪物がゆえのただならざる筋力が為せるものだ。
ダンは考える、どうしたらこれに届くのか。
しかしダンに話しかけてきたもの、リュミルが少し冷静さを取り戻していた。
「逃げるぞ!」
「――なにを……!」
ダンの肩を掴み引き寄せるリュミル。それが通常の反応であり、正しい判断だ。
しかし怒れるダンは素直に聞かない。
「逃げるなら一人で逃げろ、俺は……!」
「もうよいか?」「話は終えたか?」「黄泉へ逝く準備は?」「遺言は」
「なんだと!」
二人を嘲る九頭。そして杖を掲げると、宝玉が艶かしく輝いた。
その途端に風がざわめき、木の葉が舞い出す。ダンは全身に怖気が走り、今までの昂ぶりが霧散していくのを感じていた。
そして体に浮遊感が襲い、事実体が地面から浮き出していた。しかも徐々に九頭の方、宝玉の方へ吸い寄せられている。
「なにが、まずい……! ――ぬおお!」
ダンが剣を九頭に向かって放り投げた。頭に目掛けて飛ぶそれを防ぐために、九頭の動きが止まった。簡単に弾いたが、ダンの体は地面に戻った。
「行くぞ!」
「……あ、ああ!」
ダンもひるがえり、リュミルとともに村へと走る。
九頭は急いで追うことはせず、そこに立ち尽くしていた。
「逃げた」「愛らしい」「小動物のように」「けれども無駄」「遍く生物は此の元へ」「命を宝珠に」
真ん中の頭が口にする。
「忘れるな、我らが目的はそこに非ず」
「そうだ」「よもや忘れるまい」「真なる玉を」「究極の宝」「ああ何処」
やがてゆっくりと、また蠢くように動き出す九頭。その先にあるのはオジン村だ。
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