1-2.夢の中の少女

 魔王は夢の中にいた。


 目の前には住居らしき建物が道をはさんで所狭しと並んでいた。道幅はあまり広くない。表面は黒い。石畳でもなければレンガでもない。ましてや砂利道や砕石路とも違う。おまけに不自然なほど真っすぐで、行く先々に他の道が横切っている箇所がいくつも見えた。


 家々と道との境に丸柱が天を差して等間隔で並んでいた。魔王国内にある丸柱よりずっと細い。灰色の表面は継ぎ目もなくつるっとしている。明らかに石を積み上げたり木でできたものではない。てっぺんで何かを支えるでもなく空が広がるのみ。互いをロープ状の何かでつないでいる。魔王国内で丸柱といえば魔王城や神殿とかぐらいなもの。しかし見たところ丸柱のすぐ脇に普通の家々が立ち並んでいる。こんな組み合わせは見たことも聞いたこともない。話に聞く人族の王国の様子でさえも。


(ここはどこだ?)


 魔王にはこれが夢なことはおぼろげながら分かっていた。どうやらここは魔王国でも人族の王国でもないようだ。それどころかこれまで見聞きしてきたあらゆる物語世界にも、こんな奇妙な光景は出てはこなかった。


「だれか、だれかおらぬか」


 周りに向かって呼びかけてみる。普段なら即座にお付きの者らが現れるはず。しかしだれも現れない。返事のひとつもない。ここが夢の世界だからなのだろうか。この世界には魔王しかいないのだろうか。


 ふと魔王は気づいた。向こうからだれかが小走りにけてくる。

 小柄な体。腰から下あたりの衣服がひらひらと揺れる。


(女か?)


 たしかに髪は長そうだ。衣服からすらりと伸びる手足は白い。しかし夢の世界だからなのか、はたまた距離があるためなのか。顔はぼんやりとしていてよく分からない。しかし魔王にはなぜか確信があった。あの女は間違いなく美人、いや小柄な見た目からして美少女に間違いはないと。自分はあの少女をずっと前から知っていると。


 少女が口を開いた。


「○○さん!」


 魔王には少女が自分の名を呼んだと自然に分かった。だが何と言っているのかは分からない。声が小さいわけでも言葉が理解できないわけでもない。多分現実の世界では名前で呼ばれたことがほとんどなかったから、魔王はそう考えた。


 魔王にももちろん名はあった。しかし彼はそれを他者に明かすことはない。己の真名まなを他に教えるということ、それはすなわちその者の配下になるということに等しい行為なのだから。

 だから魔王国内で彼の真名を知る者は、親兄弟のほかには例外的なわずかな者しかいなかった。配下の者たちにはひとりとしていなかった。たとえ彼らが何らかの理由で魔王の真名を知ったとしても絶対に口にはしなかった。口にした者には魔王による粛正しゅくせいが待っている。


 加えて少女が呼んだ名は魔王の真名とは明らかに違っていた。魔王が配下から呼びかけられる場合の「魔王様」。その“様”を“さん”に替えたものに似ている気もした。だが少女が口にした名は“さん”を除けば2音に聞こえた。「まおう」なら3音。なのでこれも違うのだろう。


 魔王が口を開いた。


「○○○!」


 魔王には少女の名を呼んだ自覚があった。しかし自分で呼んでおいて、自分で何と呼んだのか分からない。でも不自然には感じない。ここが夢の世界なのだからだろう。現実には起こりえないことでも、夢ならば不思議には思わないものだから。


 少女が腕の中に飛び込んできた。歳の頃は十代なかばほどか。魔王の胸に薄紅の頬を押し当てた。柔らかく、ほんのりと温かい。上目づかいに見上げる目。満面の笑み。魔王がこれまでに見たあらゆる女よりも輝く美少女が目の前にいた。


「さあ、行きましょう」


 少女が魔王の手を引っ張る。すぐにも駆け出していきたいといった様子で。小さな手。優しく、しかも魔王の手を決して離さないと感じられる手。指の一本一本がいとおしく思われる。少女が向きを変えたとき、髪が風をはらんでふわりと陽光の中をきらめいた。


「行くって、どこへ?」

「ええっ、忘れたんですか。前から約束してたじゃないですか」

「ごめん。思い出せない」

「ひどーい。あんなに楽しみだと言ってくれてたのに」


 少女は頬をぷうっと膨らませた。比喩ではなく本当にまるで風船を膨らませるように。でもそれが少女の可愛さをよりいっそう引き立てる。


 しかし魔王は別のことに驚いていた。自分の口調に、だ。魔王として普段配下に接する時とはまるで違う。後宮こうきゅうで女たちに話しかける時のものとも異なる。まるで親しい友達に。いや、これはまるで……


(これはまるで付き合い始めたばかりの恋人同士ではないか。)


 少女が駈ける。手を引かれた魔王が続く。やがてふたりは長さのある馬車のようなものに乗り込んだ。しかし馬車にしては馬が見当たらない。何人もの客がいるからどう見ても乗合馬車。ふたりは空いている席に腰を下ろした。魔王がキョロキョロと辺りを見回していると、馬なし馬車は「ブオン」と低い音とともに動き出した。


「うふっ、まだ慣れないんですね、“バス”に」

「『バス』?」


 “バス”とはいったい何だ? 魔王の頭の中を疑問がぐるぐると渦を巻いた。乗り物の名前だということは分かる。現実の世界では見たことも聞いたこともない。しかし少女は「まだ慣れない」と言った。それはすなわちこの乗り物に魔王も何度か乗ったことがあるということ。それがこの夢の設定なのだろう。ならば無条件で受け入れるしかあるまい。


 “バス”の中で魔王と少女はいろいろな話をした。話している間ずっと魔王は心の中で舌を巻き続けた。この少女、話の端々に聡明そうめいさが見て取れる。後宮の女たちとはまるで違う。あの女どもはただひたすら魔王のご機嫌取りばかり。あの手この手、あの胸この腰を駆使してくるだけ。話は内容が薄っぺらく空虚。魔王の知的好奇心を満たしてくれる者などひとりとしていない。もちろん魔王の間違いをたしなめてくれる者がいるはずもなかった。


 しかし彼女はどうだ。魔王にとって彼女の話す事すべてが非常に興味深く思われた。ただ単に魔王がこの夢の世界のことを知らないからだけとは思えなかった。彼女は話が巧みなのだ。魔王がある話題にわずかでも興味を示すと、聞きたいという欲求を高めた上で満足のいく回答を与える。所々にジョークさえも。またある話題について魔王がうまく理解できないとみると、すぐに別の方向からやさしく説明を試みる。話題自体も豊富。すべてが彼女が非常に頭の切れることを示していた。


 “バス”が停まった。降りるふたり。駆け出す少女。彼女の行こうとする先に大きな施設が見えた。多くの人間が楽しそうに入って行く。出てくる者もみな笑顔だ。


「○○さん! 早く! こっちですよ!」


 先で待つ少女が魔王を呼んでいる。魔王は彼女の元へ歩みを進めようとした。


 突然、彼女の足もとに魔法陣が展開した。あっという間に緑の光が彼女を包み込む。彼女の顔が恐怖で引きつる。


「○○○!」


 魔王が彼女の名を叫ぶ。このままでは彼女が飲み込まれる。早く助けなくては。しかし脚が動かない。魔王の脚は地面に突き刺さったのかのように微動だにしない。


 彼女の足もとに暗黒の穴が開いた。時空の穴だ。彼女は落ちて行く。魔王は動けない。彼女を助けることができない。声すらも出ない。彼女の恐怖の表情、魔王だけを見つめ助けを求めるその表情。すべてが暗黒の中へと消えていく。魔王はただ見ていることだけしかできない。


「うおおおおお!」


 魔王は天を仰いで叫んだ。己の無力を呪った。頭をぐしゃぐしゃとかきむしった。


 その瞬間に目が覚めた。全身が汗でぐっしょりとれていた。

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