第10話
八
アジャンタの夕食の時間は決まっていた。夕食の用意が整うと、働いている若いインド人の男が宿泊客の部屋をまわって、用意ができたと告げた。客は一階にある長細い食堂に集まり、テーブルにつくと、それを待っていたように料理が運ばれた。このとき、宿に泊まっている人間が全員そろうので、今はどんな人間がいるのか知ることができた。宿泊客どうしが会話に花を咲かせるようなことはほとんどなく、たいていはお通夜のようにそれぞれが黙々と食べていた。かといって、食べることだけに集中しているわけではなく、お互いの食事を確認して、それぞれの富裕をなんとなく読みとったり、小声で会話する人間に聞き耳をたてて、どんな人同士がくっついているのかを確認していた。
坂田は桜井と川内以外の日本人と話していなかった。日本人を見ることのない辺境の地で出会ったのなら、お互いの旅の過程を喜んで分かちあっただろうが、アジャンタでは日本人が珍しくなく、日本人しか泊まることができなかった。たとえ欧米人がアジャンタのチャイムを鳴らして扉を開かせたとしても、タメルがうまい口を開き、遠慮なく断ってしまうのだった。
アジャンタは日本人であふれていて、坂田はすすんで日本人と親しくする必要を感じなかった。それは、坂田と同様、宿泊している客のほとんどがそうだった。
若いインド人が夕食を知らせに来たとき、三階の中庭には坂田と飯島、山田、そして川内がいた。
四人で食堂へ行くと、顔の幅が広い女性がいた。鼻は小さく、低く、モスグリーンのキャミソールからあらわになったたくましいにの腕をたるませて、頭をかがめてカレーを口に運んでいた。また黒い縁のメガネに前髪のかかった文学青年らしき男は、背筋をピンとたて、蝋(ろう)人形のように料理が来るのを待っていた。また、頭の側面を刈りこみ、あごの角ばった男は、筋肉隆々(りゅうりゅう)とした両腕をテーブルにのせ、鼻息を荒くしてじっと待っていた。
食事をとっていると、遅れて桜井が入ってきた。坂田は桜井が遅れた理由が気になったが、あとで聞くことができるだろうと思い、とくに尋(たず)ねることはせずに、静かに食事をした。ほかの人間も一度ふりかえっただけで、すぐに食べている料理に目をむけた。
坂田と川内はさきに食事を終えて、三階の中庭に戻った。飯島はマンガを借りたいと言う山田につきそって、図書室に行った。桜井は急ぐことなく、のんびりと食事をしていた。
坂田と川内がテーブルに戻ると、見知らぬ男が一人でギターをさわっていた。二人はテーブルにつき、団塊の世代らしき男に話しかけた。男はギターを黒いハードケースのうえに置いて、桜井に連れてこられたと笑いながら言った。
男は角田と言い、古代の中国人を思い起こさせる立派な髭を胸にたらし、頭は白く、はげていた。顔は細かったが、目は大きく、むかいあう者の注意をひく力強さを持ち、勇敢な男らしさがあった。鼻はすこし丸みがあったが、うまく顔を引き立てていた。角田の端正な顔は、若いときは美男子だったのではないかと思わせた。
桜井が戻ると、角田はうぐいす色の布袋から重厚なチラムを取り出し、柿色の麻のズボンからビニールに包まれた黒いかたまりをだした。黒いかたまりは大麻樹脂をかためた、いわゆるハシシだった。
角田は布切れを桜井にわたすと、桜井は洗い場に歩いた。角田はこぶしほどの大きさのハシシから一つまみちぎると、テーブルに転がっていた安全ピンにプスッとさし、ライターの火であぶった。ハシシのまわりから細長い火があがり、角田がふっと息をふくと、香ばしい煙がたちのぼった。
角田は左の手のひらにハシシを押しつけると、黒糖色の中身を表してくずれた。それにタバコの葉をふりかけ、右手の親指でこねるように混ぜあわせた。角田は桜井から湿らせた布切れを受けとると、水滴を一滴たらし、さらにこねてから、かたまりをチラムの口につめた。
角田は太いチラムと湿った布切れを桜井にわたし、小さくうなずきながら桜井の細い目をみつめた。桜井は子供っぽさの残る笑顔をうかべて受けとった。大部屋の壁にはりついた黒ずんだ蛍光灯はぼんやりと光り、大きな羽虫を呼びよせて、コツッコツッっと音をたてていた。
「桜井君、それは大事なチラムだからね、気をつけて吸ってよ」
角田はかすかに、深みのある微笑みを浮かべて言った。
「はい、わかってますよ」
桜井は古墳から出土しそうな土器を両手に持ち、自信ありげに角田に返事した。土器は男性器が膨張(ぼうちょう)したぐらいの大きさで、黄土色をしていた。ゆるやかに先端にむかって筒は広がり、胴体は簡素な彫刻がほどこされ、なにやらなまめかしさがあった、桜井は筒の吸い口に濡れた布切れをかぶせ、右手の指で挟み、左手で隙間を埋めるように手をかぶせた。両手がつくった小さい穴に口をつけて、首をななめにかたむけ、クラリネットのような先端を上にむけた。
坂田は待っていたとばかりに火力の強いライターをつけて、横から先端に近づけると、ゆらめいていた火はするどいはやさで筒に吸いこまれ、まが玉のような形に変わった。炎の線はいっさいのむだがなく、ツヤがあった。すぐに煙の輪とともに火は体を起こしたが、瞬くまに筒に飛びこみ、再び体を起こして煙をたてた。火は桜井の呼吸にあわせて機敏に踊った。
「おおお、いい吸いっぷりだね!」
角田は顔をゆるませて、感心したようだった。桜井は横目で角田を見てから、機関車のように鼻から大量の煙を吐き出した。
「おお、桜井、すげーな!」
坂田はバカにしたような声を出した。桜井はそれにこたえて得意げな顔をしてから、左隣に座っている川内にチラムを渡した。
「あったりまえじゃないですか! ねえ、角田さん?」
桜井は角田の顔を見てあいずちを求めた。角田は一度うなずいた。
「それにしても、おまえ、すげー人つれてきたな」
坂田は鼻をひらかせ、角田をちらっと見て、桜井に言った。
「でしょ? でも、角田さんを最初見たとき、日本人だってわからなかったですよ」
「そうなのか?」
角田はほほづえをついて、にやけた顔つきで言った。
「だって、インド人にまぎれて踊っていたんですから、わかりづらいですよ」
「踊っていたって、おまえ、どっかのパーティーにでも行っていたのか?」
「そうですよ、パーティーですよ! もう、パーティー! というのはですね、ほら、坂田君は昼前に外に出かけたでしょ? ぼくはそのあと、川内さんと一緒に昼メシを食べに行ったんですよ。ですよね? 川内さん」
川内はチラムを吸おうとしていて、うなずくだけだった。坂田はライターの火をつけた。
「近くの食堂でターリを食べたあと、ぼくは近くの寺院に行こうと川内さんを誘ったんですよ。川内さんぜんぜん外に出ないし、すっかりぼけはじめていますからね。ちょっとしたリハビリですよ」
「ゴフォッ! ゴフォッ! ゴフォッ!」
川内は小さく咳(せ)きこんだ。
「それなのに、川内さんは宿に帰って昼寝すると言って、さっさと歩いて戻っちゃうんですよ。もう、まるで聞く耳もたないんですから。でも、せっかく外に出たから、ぼくは戻りたくなかったんですよ。それで、チャリンコを借りて一人で寺院周辺をサイクリングしていたんですよ」
「おまえもひま人だな?」
坂田は川内からチラムを受けとりながら言った。
「なに言うんです、ぼくはマシなほうですよ。それで、寺院周辺でインドスイーツをたくさん食べて、満足して宿にむかって走っていると、びっくりですよ! インド人の群れが前から近づいてくるんですから、それも大音量をはきだす軽トラックと一緒に! 見るからに次元がゆがんでいるじゃないですか、びっくりしてぼくは道のはじによって、群れが通りすぎるのを待っていたんですよ。そうしたら、黒いインド人達はなれなれしさをこえて、家族同然にぼくに声をかけてくるんです、ぼくはチャリンコのハンドルを持ちながら適当に返事をしていると、インド人と一緒に踊っているヒゲもじゃの人が話しかけてきたんですよ」
桜井はライターを坂田に近づけた。
「ああ、桜井君のあっけにとられた顔がじつにおもしろくてね」
角田は子供を見るような目で笑って言った。
「それでいきなり、ぼくの返事を待たずていねいにチャリンコのスタンドをおろし、カギをかけて、ポケットにしまうんですよ。ぼくは、『なにすんだよ!』と怒るまえに、状況がはあくできず、ぼうぜんとしましたよ。そうしたら、『さあ! 一緒に踊ろうか!』と言って、ぼくの腕をひっぱって群集の中に引きこむんです。そして、どこからかジョイントを取りだして、うまそうに吸いはじめるじゃないですか!」
「いやいやいや、若い子と一緒に踊りたくてさ、ついつい楽しくてね」
角田は坂田からチラムを受けとった。
「ついついじゃありませんよ! いきなり、インド人が踊るなかに放りこまれたぼくの身になってくださいよ!」
「じゃあ、つまらなかったのかね?」
「いえ、楽しかったです」
「じゃあ、ノープロブレムだろ?」
「はっはっはっ、とんでもないじいさんだな!」
坂田は煙を吐き出しながら笑った。
「まったくですよ! ぼくはああいった、バカげた踊りが好きじゃなかったんです。顔を気味悪くニヤニヤさせて、脳を使わないサルのように踊る人間の気がしれなかったですよ」
桜井はライターに火をつけた。
「なに言ってんだよ、おまえだって、たいして脳を使ってないじゃんか」
「坂田君と一緒にしないでください」
「ボン、ボレナ」
角田は静かに言葉を唱え、野獣が雄たけびをあげるようにチラムを吸いこみ、異常な量の煙を鼻から吐きだした。煙はテーブルにいた全員の顔をやさしくさわった。
「はっはっはっはっはっはっ! 角田さんの吸いっぷりはいかれてるよ!」
坂田は太ももを叩きながら笑った。
「角田さん、ほんと、かっこいいですね」
川内はたちこめた煙に鼻をヒクヒクさせて言った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます