第9話

   七


 坂田はジョイントを不器用に吸う飯島のすがたを見て、「ゴツイねたを吸わせて、大丈夫か?」と思った。飯島のツルツルに剃られた頭皮は脂汗を浮かばせ、丸い目を大きく開いてジョイントに口つけていた。肉厚のある唇をとがらせ、関節の太い人差し指と中指に挟(はさ)まれたしわのあるジョイントを吸う顔は、坂田にとってマヌケなひょっとこに見えた。大きく肺に入れるわけではなく、吸いこみを無駄なほど細かくきざみ、ちょびちょびと吸い、アダルトビデオに出てくる男優のように下劣な音をだした。


「うーん、これは、おいしグフォッ! ウゴホッ! ンゴホッ! オホッ! オホッ! ゴオホーッン! ゴッオホーッン! オエッ!」


 ジョイントを口から離し、あわてて感想を述べようとすると、飯島は大きい目玉が飛びでるほど激しく咳(せ)きこみ、鼓膜(こまく)をひっかく轟音(ごうおん)をたてて爆発し、口から色の濃い煙を吹いた。顔中にあるすべての穴が大きく咳きこみ、赤黒い顔に血管の筋をはしらせ、銅色をさらに赤く染まらせた。手でちじれ毛の生えた胸板(むないた)をおさえ、地面に食いつかんばかりに顔をさげ、内臓を吐きだそうとしていた。


「はっはっはっはっ、飯島さん、だいじょぶ?」


 坂田は大声で笑い、楽しそうに言った。


「ゴフォッ! ゴフォッン! ンンン! ゴフォッ! ゴフォッ!」


 飯島はこれ以上ないぐらいに目を開き、坂田の顔を見上げ、忙しそうに顔を振りながらかわいそうな咳をつづけた。


「はっはっはっはっはっはっ! 飯島さん、破裂させるとねえ、がっつり効きますよ!」


 坂田は腹をおさえて愉快に笑った。


「ざかだぐん! ゴフォッゴフォッ! ざがたぐん! ぼどをやけどしだ! ごぎゅうだゴフォッ! げきない!」


 飯島は訴えるように指でのどをさして立派な体を肩から揺らし、外見とは似てもつかない、ほそい、しゃがれた、悪魔の声をしぼりだした。坂田は呪われた人間を見るようで、飯島がかわいそうになった。飯島の血管はミミズのように太くなっていた。


「飯島さん! あぶない、あぶないって! ほら、チャイがあるよ、これ飲んで!」


 坂田はくすんだ銀色のコップを手に持ち、テーブルの横で上半身をかがめている飯島に近づいた。坂田は指に挟まれたジョイントをうけとり、かわりにチャイを手わたした。飯島に無意識になぶられたように、ジョイントはクニャッとやわらかくしぼんで折れ曲がっていた。飯島は銀色のコップを必死でにらみ、咳(せき)のタイミングをみはからってチャイを飲んだ。


「グボウォッ!」


 白茶色のチャイは火がついたようにとびだし、坂田の顔におそいかかった。ふいをつかれた坂田の右目にチャイがはいり、坂田はガバーッと背もたれによりかかり、イスとともにうしろに倒れた。坂田は壁に後頭部を打ち、鎖骨のあいだにささるほど首を大きくまげて、頭を壁にこすりつけたまま背中から地面に落ちた。


「イデー!」


 坂田は体勢を変えず、足をあげたまま大声をあげた。


「ざかた君、もうじわけない!」


 飯島はなみだを浮かべた真剣な顔つきで、坂田の細い足首を見て言った。右手に持っていたチャイの中身は半分になり、手はびしょびしょに濡れていた。


「はっはっはっはっ! 飯島さん、いやがらせでしょ! これはいやがらせでしょ?」


 坂田はゆっくりと体を横に動かし、ジョイントを持っていない手で地面を押し、体を起こした。


「もうじわけない、ほんど、もうじわげない! づい、咳きこんでじまって」


 飯島はのどのあばれをこらえているせいで、顔をピクピクと震わせ、まるで怒りをためているように見えた。


「はっはっはっ、もう、飯島さん、“グレート・ムタ”じゃないんだから、きゅうな毒霧はかんべんしてよ。もう、おかげで右目がやられちゃったじゃんか!」


 坂田は片目をつぶったままイスをなおし、おちつかせるようにジョイントを大きく吸って、飯島にわたした。飯島は小さく咳きこんでいたが、顔の赤みはとれかかっていた。


「ほんど、もうしわけない!」


 飯島は頭を下げて謝った。


「いや、いいって、いいって、飯島さん」


 坂田はそう言いながら階段わきの洗い場へ歩いた。すると、階段から黒いバックパックを背負った若い男が上がってきて、坂田と目があった。


「こんにちわ!」


 男の声は高かった。


「はっはっはっ、こんにちわ」


 坂田は右目をつぶったまま、うれしそうにこたえた。


「どうしたんです? 顔が濡れていますよ? パーティーでもしているんですか?」


 男は警戒せず、ずけずけと興味ありげに言った。


「いや、ちょっとさ、毒霧をうけて」


 坂田は肩をすぼめてあげ、首を一度かしげて言った。


「へー、毒霧ですか? 毒を吐く人がいるんですね? いや、それは困りましたね。ぼくも毒が大好きなんですよ!」


「はっはっ! なに、毒が好きなの? じゃあ、あそこに座っているハゲ頭の人のそばに行きな、毒を吹きかけてもらえるよ」


 坂田は目線で合図した。飯島がこちらを見ていたので目が合った。


「ひどいな! ワザとじゃないって! それにハゲじゃなくて、剃っているんだよ」


 飯島は額にしわを寄せて言った。


「あの人ですか、ああ、そうだ、どうです? ぼくクサを持っているんで、好きだったら一緒にボンしませんか?」


「あああ、ちょうど、ジョイントをまわしていたところなんだ」


「それはいいところです、ぼく、荷物を置いてきますね」


 男は大部屋に入り、坂田は洗い場で顔を洗った。そして、飯島はちょびちょびとジョイントを吸っていた。


 坂田が上着を着替えてテーブルへ戻ると、男はすでにイスにつき、しぼんだジョイントを吸っていた。男の短い髪には白い毛がまじり、顔はカサカサに荒れていて、顔は黒かったがアレルギー症状らしく水気がなかった。男は育ちのよさそうなくったくのない笑顔をみせ、やさしい目をしていた。だれとでもすぐに打ち解けられる雰囲気をもち、めったに人から憎まれなさそうだった。


「これ、いいクサですね!」男は素直な声で言った。


「そうでしょ? おれも気に入ってるんだ」


「これはそんなにいいのかい?」飯島の目はトロンとしていた。


「ブランドものに比べると質は落ちますが、インドで手に入るのなら十分にいいですよ。いや、いいの吸っているな!」


 坂田が口を開くよりはやく男がしゃべった。


「ああ、けど、これはもらいものなんだよ。今日知り合った人にもらってさ、明日おれの分が手に入るんだ」


 坂田は男からジョイントを受けとった。


「そうなんですか、いいな、ああ、そうそう、ぼくは山田って言うんですよ!」


「おれは坂田だ、よろしく!」


「ぼくは飯島だよ」


「それにしても、この宿よさそうですね! 宿に入ってびっくりしましたよ! なんですかあの本の量は? ここはマンガ喫茶じゃないですか!」


 山田は大げさなてぶりをまじえて言った。山田の目はたれかかっていて、愛嬌のある顔をしていた。


「ああ、ヤバイだろう? あの本の量は反則さ!」


 坂田は口から煙をこぼしながら言った。


「ほんと、危険ですよ! 『きみ! 沈没していきなさい!』って宿が言っているようなもんじゃないですか? それに、さっそくジョイントをまわしている人がいるんですからね、いや、もう、言うことなしですよ!」


「ここは“ガンジャ”が解禁されたマンガ喫茶だからな」


 坂田は飯島にジョイントを渡した。飯島はゆったりと頭を揺らしていた。


「けど、マンガの読みすぎはよくないから、てきどに体を動かす必要があるよ」


 飯島は赤い目をしていた。


「だいじょうぶですよ! ぼくは体を動かすのが好きですから、じっとしていることができないんですよ」


 山田は手を交互に振りあげ、コンポからながれる音にあわせて頭を振った。


「そういえば、飯島さんはマンガを読まないんですか?」


「ぼく? ぼくはもう読み飽きたよ。ここにある本はだいたい読んだからね」


 飯島はジョイントに口つけて、すぐに山田へ渡した。


「ああそうなの? おれてっきりマンガがきらいなんだと思ったよ。なんだ、好きなんですね?」


「べつに好きじゃないけど、ひまだからさ」


「へえー、飯島さんはどのぐらいここの宿にいるんですか?」


 山田はジョイントを吸いつくすように、大きく音をたてた。ジョイントの先端がピカッと赤く輝いた。


「ぼくは五ヶ月ぐらいかな」


「ながっ!」


 坂田は変な声をだした。


「飯島さん、五ヶ月ですか? そんなにこの宿にいるんだ?」


「ああ、そうだよ、おかげで、いろんな沈没者をここで見てきたよ。だからだよ、坂田君、きみにあんな注意をしたのは。インドのハードな旅に疲れてか知らないけど、大麻に汚染されて、宿にダラダラと沈没していく若者を、イヤってほど見たよ。バッドドリップって言うんだっけ? 死んだように近くの道で倒れて、宿に迷惑をかけたヤツがいたよ。ほかにも、大麻を勝手に吸った、吸わないでもめているヤツもいたね」


「そうだったんですか!」


 坂田は細いあごをのばし、口を広げていった。


「ああ、ぼくはね、若者が海外に来て違った文化を体験し、見聞を広めるのは良いことだと思うよ。けどね、せっかく海外に来たというのに、日本にいるのと変わらないような生活を送る若者を見ると、もったいなくてさ。海外に来る目的が見えないっていうのかな? 日本人同士でつるんで、大麻を吸っている人にね、なんか腹がたってくるんだよ」


 飯島の目はすでに小さかった。


「まあ、たしかに、いろんな国の人と交流したほうがいいですからね」


 坂田は山田からジョイントを受け取った。


「そうですよね! ぼくもそう思います!」


 山田は大きく息を吐いた。


「でも、どう? 飯島さん、大麻は効いてる?」


「ああ、なんか、頭がぼーっとしてね、ほら、音がながれているでしょ? なんか、音が違って聴こえるよ。こう、目をつぶると、音にあわせてイメージがうかんでさ。なんかふわふわした感じだよ」


「ああ、それならよかったよ、けど、飯島さんはそろそろ吸うのをやめときな。ゲロ吐いて地面にくちづけするはめになるからさ」


「ああ、そうだね」


 飯島はなにかを思い浮かべたように目を動かし、小さくうなずいた。


「どうしたんですか?」


 山田は坂田の顔をみて言った。


「いやさあ、飯島さんは大麻を吸うのが今日で二回目なんだよ」


 坂田はジョイントを大きく吸いこんだ。


「そうなんですか? いいな! 飯島さん、吸いはじめのとびはあとあと味わえないから、今はぞんぶんに吸ったほうがいいですよ!」


「おいおい、そんなこと言うなよ。バッドに入ったらお互いにめんどくさいだろう?」


 坂田はジョイントを石の灰皿に押しつけた。


「だって、うらやましいんですよ! ぼくなんて、いくら吸ったて最初のような新鮮さは味わえないですから、もう、最近じゃ、バッドだって味わえないですよ!」


 山田は手を頭の上でまわして言った。


「そりゃ、おまえだろう? まあ、たしかに吸いはじめの心地よさはたまらないけどさ、ムリに吸う必要はねえじゃん?」


 坂田は目を細くし、低い声で言った。


「ああ、いいよ、ぼくはこのへんでとめておくよ。さっきも坂田君に迷惑かけたしね」


 飯島はテーブルを見て言った。


「ああ、いいんですよ、飯島さん、べつに、楽しかったですから」


 坂田は飯島の頭皮を見て言った。


「毒霧ですか?」


 山田はポケットからプラスチックのケースを取り出して、テーブルに置いた。


「あああ、そうだよ」


 坂田は山田の動きを目で追った。


「じゃあ、飯島さん、最後に一服だけしましょうよ。せっかくですから、ぼくのクサも味わってください」


 山田はケースをうえに開き、中からタバコほどの大きさのジョイントを取り出した。


「おいおい、飯島さんをあおるなよ」


 坂田は山田を責めるように言った。


「いやいや、だいじょうぶ、あと一服でとめておくよ」


 飯島は大きな手のひらをみせて、坂田にむかって数回振った。


「坂田君はもちろん吸いますよね?」


 山田は慣れた動きで、ジョイントの先に火をつけた。


「ああ、おれはもちろん無制限だよ!」


「じゃあ、いきますか?」


 そう言って、山田はジョイントの先をいっきに光らせた。大きな煙があがり、ピンとしたジョイントを坂田の手へ静かにわたした。坂田は二三度、煙の輪をたてて吸い、うかがうように飯島の前へ出した。飯島は慎重にジョイントをつまみ、何度も小さくジョイントを吸った。飯島は口を一本に閉め、山田の顔をみながらジョイントをわたした。山田はジョイントを持ったまま息を止めていた。


「ぷはー、これはガツンとくるねえ!」


 坂田の景気のよい声と同時に飯島も息を吐いた。山田も大きく息を吐き、間髪(かんぱつ)をいれずにジョイントを吸い、何度か首を縦に振った。ちょうど、ミニコンポから流れていた音楽はとまり、あたりは静かになった。遠くからインドの生活の音が聞こえた。


「坂田君、大麻もそう悪いものじゃないかもね」


 飯島はぼそっと言い、大麻を吸った。


「そうですよ、飯島さん、いちがいに悪いとは決めつけられませんよ。どんなものだって、それじたいは悪くないんですから。もし、悪いと言うなら、使う人間の、使い方が悪いんですからね」


 坂田は飯島から大麻をうけとった。


「うん、そうかもね」


 飯島は淡い煙を吐きながら、自分に向かってうなずいた。山田は顔をふくらませたまま、ゆっくりとうなずいた。


「あとは、タマゴプリンを食べれば大麻がよりわかりますよ」


 坂田は目を細くしたままジョイントを吸い、宙になめらかな筋を浮かびあがらせた。

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