第7話

   六


 坂田がアジャンタに戻ると、桜井はみあたらず、川内は大部屋のベッドのうえで足を広げて眠っていた。枕を抱くようにうつぶせになり、品のあるいびきをたて、大型動物が昼寝をしているように思われた。坂田は林にジョイントをもらったので、さっそく二人と一服いれたかったが、桜井がいないので川内はそっとしておこうと思った。


 坂田は自分の持っていた茶色い大麻をほぐし、水パイプで五回吸った。ポコポコポコと泡立つ音を聞いていて、ふと、水パイプはサックスに似ていると思った。竹の水パイプは吸い口から直接吸い込むのだが、中国雲南省にある街、ダーリにいた時は、腹の大きいキセル型の水パイプを使っていた。


 坂田はふと、ジャズが聴きたくなった。インドに来てからというもの、耳にする音はジャンベやタブラーなどの太鼓の音ばかりで、あとはシタールの幻想的な音色ぐらいだった。路上のインド人が吹く縦笛を聴くこともあったが、やけに音が澄(す)んでいて、雄大な山や草原をイメージされてせつなくなるばかりだった。金管楽器特有のこもった温かみのある音色はまったく聴くことがなかった。


 坂田は戸棚に設置されたミニコンポの電源を入れ、チェンジャーをひらいた。なかにはCD‐Rが入っていて、白い表面には“ジミヘン”と黒いマジックで乱雑に書かれていた。坂田はチェンジャーをとじて、プレイボタンを押した。それから、黒いつまみを左に回した。左右のスピーカーからギザギザしたギターの音がながれ、坂田は耳に意識を集中させて、つまみを右に回して音を調節した。坂田は大部屋の中で眠っている川内が気になったので、それほど音量は大きくしなかった。それに、大音量で音を聴くのはあまり好きじゃなかった。


 坂田は中庭のテーブルでマンガを読みつづけた。昼過ぎの部屋は灼熱と化し、湿気のないサウナは中にいる物の水分を容赦なくうばった。扇風機を回したところで温度が下がるわけではなく、気休めどころか、熱風が体をすべりイラだちをあおるだけだった。それにくらべて、大部屋の前のテーブルは屋根に陰(かげ)り、直射日光はさけられた。風通しはよく、扇風機よりもはるかにさわやかだった。


 六曲目のイントロがながれたころ、スキンヘッドの男が坂田のいるテーブルに近づいてきた。上半身は裸で、赤に黄色の縦のラインが入った短パンをはいていた。肌は黒く日焼けしていたが、坂田のような小麦色ではなく、あぶらぎった赤黒い色をしていた。そして、毛の見あたらない頭皮も同様の色をしていた。


 男は飯島という名で、坂田の隣の部屋に泊まっていた。飯島はあごのがっちりした精力あふれる顔で、やけに丸い眼が特徴だった。体も厚みのあるがっちりした筋肉質で、競泳選手というよりは、てきどに脂肪がのったプロレスラーだった。


「こんにちわ」


 飯島は人を馬鹿にした笑いをうかべて坂田に声をかけ、プラスチックのイスをひいて腰かけた。


「どうも、こんちわ」


 坂田は無愛想に声をだした。坂田は音楽を聴き、マンガに集中していたのを邪魔されて、とても腹がたった。坂田は音楽を聴いているとき、マンガを読んでいるとき、また、映画を観ているときなどに声をかけられるのが大嫌いだった。たいていは異常なほどの嫌悪感を前面にだし、相手の顔をろくに見ず、会話をうちきるけん制の言葉をはきだした。これは、飯島が声をかけたのではなく、桜井、もしくは川内が声をかけても同様な態度をしめしていた。坂田は普段からそういった性質があったのだが、大麻を吸ったあとは何倍もその傾向が強くなった。


「それにしても、今日は暑いね」


 飯島はテーブルに右肘をのせ、ほほづえをついた。


「そうっすね」


 坂田は飯島の顔を見ず、ぼそっと言った。


「ねえ、なんのマンガ読んでいるんだい?」


 飯島はとろくさい口調で言った。


「『火の鳥』です」


 坂田は一言で言った。たずねる前に、表紙を見ればわかるだろう、と思った。


「ふうん、おもしろい?」 


 飯島は遠慮なく、言った。


「おもしろくなきゃ、読まないっすよ」


 坂田はイヤミったらしく言った。


「そうだよね、ぼくも読んだよ、そのマンガ、とてもおもしろかったよ」


 飯島は口をなまずのように広げて言った。


「そうっすか」


 坂田は、ただそう言った。


「マンガを読むんじゃなくて、外に出なくていいの? 今日は天気が良いから、外に出ないともったいないもんね」


 飯島はねちっこく言った。


「いいんですよ。さっきまで外にいましたから」


 坂田はふてぶてしく言った。


「ああ、そうなの? ごめんね、それは知らなかった。ぼくはてっきり、外に出ていないと思ってね、ほら、いつもマンガばかり読んでいるでしょ? ぼくはね、心配して言ったんだよ」


 飯島は体を起こし、背もたれにもたれかかった。


「ありがとうございます」


 坂田は言葉の意味をもたずに言った。


「いえいえ、それよりもさあ、ねえ、それ、それさあ、大麻でしょ? ねえ、それ吸ってさ、頭おかしくならない?」


 飯島はからかうように言った。


「あん?」


 坂田は顔をあげて、飯島の顔をまじまじ見た。しまりのない笑いを浮かべ、小汚いタヌキのように見えた。坂田は飯島の顔が生理的に受けつけなかった。


 そもそも、坂田は飯島のことがあまり好きではなかった。飯島は隣の部屋にいたが、坂田はほとんど会話をしたことがなかった。朝、目が覚めると、たいてい飯島は廊下に座りこんで、ヨガをしていた。坂田はそんな飯島を見て、最低限のあいさつをするだけで、話しかけようとする気はまるでおきなかった。坂田は飯島の顔、体から放たれる雰囲気がなんとなく好きじゃなかった。


 そんな男が、マンガを読んでいる自分の邪魔をするのが気に入らなかった。だが、マンガが読みたかったので相手にせず我慢していたが、大麻のことを聞かれて、つい、カッとなった。


「あんたはなんなんだよ! 人がマンガを読んでいるのも気にかけず、醜(みにく)いつらの皮を厚くしてくだらないことをベラベラと話しやがって、あんたは目があんのか? 人がマンガを読んでいるだろう? 見えねえのか? その丸っこい眼でいったいなに見てるんだ? それになんだよ? あん? 人の頭がおかしいってか? まったくよ! ふざけんじゃねえ!」


 坂田はマンガを叩きつけて置き、腫(は)れぼったい目を精一杯広げて、声を荒げて言った。


「いやいやいや、そんなに怒らないでくれよ、悪気はないんだから。つい、ねえ、きみが心配になってね」


 飯島はひょうひょうとして言った。


「ああ? なにが心配なんだよ? あん? おれはなあ、あんたに心配される筋合いはねえよ。心配するなら自分の頭皮でも心配しやがれ。このひま人が!」


「髪の毛はよけいなお世話だよ、ぼくは好んで頭をまるめているんだから。それに、ひま人はきみだろう? 四六時中大麻を吸ってはマンガを読み、ろくに外も出ずにダラダラと一日をすごして、若いくせに、いったい、なんて無為(むい)な時間を過ごしているんだ?」 


「ああ、うるせえよタヌキおやじが、てめえだってインチキくせえヨガばかりして、外に出てねえじゃんかよ。おい?」


「なに言ってるの、ぼくは毎日外に出てるさ、一日中宿にいたんじゃねえ、心と体はなまけちゃうから、毎日海岸沿いを散歩しているよ」


「それがどうした? ただの散歩じゃねえか」


「いや、出ないよりはマシさ。それに、ぼくはきみたちみたいに大麻は吸わないからね」


「あああ? 大麻がなんだって?」


「ぼくは大麻は吸わないし、吸う気もない。きみたちみたいな中毒者と違って、健全な心と体をもっているからね。ぼくは大麻を吸って現実逃避するような弱い人間じゃないから、大麻を吸って自分を汚すようなことはしない。だからさ、ぼくは、君たちのような若い人間が大麻を吸って、怠(なま)けて時間を食いつぶすのを見ると悲しくなるんだよ。それに、どうだい? 朝から大麻を吸ってみっともないと思わないの?」


「ああ、まったく思わねえよ。おれは好きで大麻を吸っているんだからな。たとえ、はたから見て現実逃避していると思われたって、んなの、知ったこっちゃねえ。おれは好きで吸っているんだ。それによ、てめえみたいにジャンキー呼ばわりするたいていのやつは、吸ったこともねえのに、わかったつもりで説教をたれるんだよ。おい、知ったか野郎、薬物という固定観念にとらわれて、大麻を吸う勇気もねえくせに、頭でっかちの頭を無駄につかってまとはずれな批評をくだすんじゃねえよ。みっともねえのは、てめえだろう? おい、はげ、知ってるか? 経験のない人間の言うことなんてただの空想でよ、真実からおおきくはなれているんだぜ。食ったことのない料理の味を、うまそうに解説したってそんなのはニセモノなんだよ!」


「まあ、たしかにきみの言うことには一理あるだろう、けれど、それは犯罪者特有のエゴイストな理屈だよ。大麻は悪いものだと法律で決まっているんだ。だからやってはいけない。そんなこともわからないのかい? それに、記憶力の低下や、行動意欲の減退、精神障害がある。きみの行動をみればわかるだろう、動くことなく一日中マンガを読んでいる。立派に症状が表れているじゃないか。このまま吸いつづけていたら、あとあと後悔することになるよ」


「はあん? それは、おれがマンガを一日中読んでいるからか? バカバカしい! おれはなあ、ものおぼえのつくころからマンガを読みはじめ、マンガで育ってきた人間なんだよ。月水木はコンビニで最低一時間は立ち読みして、マンガ喫茶に行けば最低五時間はいる、『三国志』のような長編物を読みだせば、全巻読み終えるまで毎日かよう、それも、気に入った漫画家がみつかれば、ほとんどの作品を読み終えるまで気がすまねんだよ。おれはなあ、昔からマンガ中毒なんだよ、せまい視野で見て、理解した気でいるんじゃねえよ! だいいち、てめえは大麻を吸ったことはあんのか?」


「ああ、むかし、一度だけ吸ったことがあるよ。けど、ぼくには効かなかったね」


「はっはっはっ、それは良かったな! てめえ、バカじゃねえのか? 効いていなきゃ吸ったうちに入らねえよ。それに、効かねえって言うやつがよくいるけどよ、それはなあ、びびって肺に煙をためずに吐き出すからだ。それか、質の悪い大麻を吸っているからだよ。えらそうに誇ってんじゃねえよ! クソはげが!」


「なにを言うんだ、ぼくはちゃんと肺にためたよ。それでも、効かなかった。ぼくは効かない体質なんだよ」


「はっ? じゃあ、今試してみようぜ? あんたの目の前にはたくさん大麻がころがっているんだ。効かないというなら、目の前で吸って証明してくれよ」


「い、いま? いいや、遠慮しておくよ、ぼくはきみたちみたいになりたくないから、それに、法律で禁止されているんだ。ぼくは犯罪者の仲間入りはしない」


「あああん? あんたびびってんの? 吸うの怖いんだ! いやー、でかい図体しているくせに、ずいぶんと肝っ玉は小さいんだ」


「なにを言う、そんな安い挑発にのらないよ。ぼくはきみの思惑にだまされない、そうやって人を大麻で汚染するんだろう? わかっている。ぼくは吸わない」


「あんたなに言ってるんだ? おれはそんなこと考えちゃいねえよ。おれは、あんたが偉そうに大麻について批判するからよ、より理解をしめしてもらいたいだけなんだ。おれは、あんたが大麻を批判することについて、べつに悪いと思っちゃいねえ、立派なひとつの意見だからな。ただ、それがよ、どこにでもありふれた一般的な意見でつまらないんだよ。おれを言いくるめたいのなら、もっと、説得力を持った言葉を言うんだな。あんたなあ、自分の言葉に力を持たせたいなら、ここで大麻を吸うべきなんだよ。わかる? あんたの言葉はうすっぺらなんだよ」


「それが挑発なんだよ! そうやって、知り合った人をだましてきたんだろう? ぼくにはわかるぞ!」


「あんた、疑いすぎだよ。よっぽど頭が固いんだな。べつに吸わなくてもかまわねえけどよ、ここで吸ったほうが経験になるんだぜ? 大麻を吸えばコンクリートの頭も、プルプルにやわらかくなるぜ? だいいち、あんた、自分が強い人間だと思っているなら、大麻を吸っただけで、とらわれることはないだろう? あんた、ほんとは自分に自信がないんだろう? 正直言えよ、『ほんとは怖くて吸えません』とはっきり言えよ」


「ばかいうな、怖くはない。ただ、いけないことなんだよ。法律で決まっている悪いことなんだ」

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