第5話
五
林の持っていた大麻は上等な質だった。それは、朝から吸いつづけて大麻に慣れていた坂田の体に、また一味違った新鮮な効きをもたらした。甘みが鼻につくマイルドな煙は、ぞんざいに茶色く乾燥した大麻のようないがらっぽさはなく、気管をここちよくぬけていった。肺にためているあいだも香りが体に染みこみ、脳に変化をもたらすのを具体的に感じて、ふっと息を吐き出すと成分のぬけた柔和(にゅうわ)な煙を楽しめた。
「林さん、この大麻、ほんといいですね。心臓の音がドクドクと聴こえますよ」
坂田は酸欠をおこしたように頭をゆらし、にごった目で林の丸い顔を見た。
「それなら良かったよ」林はどこを見ているかわからないたれきった目を細め、かすかに笑った。
「やっぱり、大麻は量より質ですね、しょぼいのをいくら吸ったところで、上質なヤツの一発にはかないませんよ。大麻にはアルコールのようなチリツモ(塵も積もれば山となる)効果は期待できませんからね、せいぜい、頭が痛くなるのがおちですから。もう、効きの鋭さがぜんぜん違いますね。ガバメントショップで買ったねたなんて、のどを痛めるだけで、まったくやさしくないですから。いや、ほんとに、買う前に林さんに出会ってよかったですよ」
坂田はポリエチレンの袋を手に持ち、ゆっくりと顔の前に持ちあげた。すでに自分の手元に入ったように袋を見つめ、上質な大麻を肺一杯に吸える生活を思い浮かべて、ぶるっと武者震いをした。
「明日の昼ごろに買いに行くからさ、夕方には手に入ってるよ」
「値段はいくらですか?」
「五百ルピー」
「質のわりには安い値段ですね。林さん、おれ、今、金ないからあとで持ってきます」
「いいよ、ぼくが立て替えておくからさ、明日取りに来るときでいいよ」
「たすかります。この状態で取りに戻るのはきびしいですから」
「坂田君はどこに泊まっているの?」
「おれですか? アジャンタですよ」
「ははは、アジャンタだ、あそこに泊まっているんだ。どう? タメルさんは元気?」
「林さんも知っているんですか?」
「ああ、ぼくも二ヶ月前まで泊まっていたんだ。あそこはある意味で、居心地がいいからね。どう? 外に出る気がなくならない?」
「出る気もなにも、外に出る必要がないですよ。おれ、四日前にこの土地に来たんですが、一番の遠出がガバメントショップですよ。いや、さっき人糞(じんぷん)ビーチに行ったな、けど、そんなもんですよ。マンガと大麻にどっぷり浸かってますよ」
「ははは、あそこのマンガと本は強烈だからね」
「もう、スンゴイですよ! おれがアジャンタに来た理由が、そもそもマンガですから。コルカタで会った日本人の男が、アジャンタには『ブッダ』や『火の鳥』が置いてあるって言うから、もう、喜んで来たんですよ」
「ええ、なに? 手塚治虫が好きなの?」
「マンガで一番好きなのは? って聞かれたら、ダントツで『火の鳥』をあげます。あれは深いですから、読むたびに新たな発見がありますよ。林さんは読みました?」
「アジャンタに泊まっていたんだから、もちろんだよ」
「ならわかりますよね? あれはすばらしいですよ。だって、火の鳥全巻を三十回読破すれば、義務教育九年間で学ぶよりも、人間と世界について知ることができますよ。さらに、アジャンタには『ブッダ』と『アドルフに告ぐ』、『陽だまりの樹』もありますから、手塚漫画を読みつづければ、勝手に人生に強くなれますよ。宿代は安くて、二食三チャイ付、なにより、大麻は遠慮なく吸っていいのですから、アジャンタは最高ですよ」
「ははは、坂田君にぴったりだ! そのようすなら一ヶ月はかたいね」
「いやいや、そんなにいませんよ。マンガを読み終えたらとっとと南へ向かいます」
「ああ、そうなの? それはいいことだ。それなら、一週間以内に出たほうがいいよ、じゃないと、どんどん沈んでいくからね」
「はっはっはっ! 大丈夫ですよ! あと二日で目当てのマンガは読み終わりますから」
「ぼくはあの宿に三ヶ月間いたからね、いろんな日本人を見てきたよ。たいていの旅行者は宿の心地よさにとらわれてしまい、足から侵食されて、動く気力を奪われるんだ。あそこはタメルさんという魔法使いがいるからね、小さな気づかいで組み立てられたアジャンタのサービスは、インドの宿ではありえない体験をさせてくれる。インド旅行で体力をけずられた旅行者は、『ここはほんとにインドなのか?』とうれしい悲鳴をあげて、オアシスのようなアジャンタの魔法に魅了され、骨抜きにされてしまうんだよ」
「はっはっはっ! そうなんですか? そう言われると、タメルさん、やけにサービスがいいですよね。あれは日本人顔負けですよ」
「ほらほら、宿の扉はいつもカギがかかっているだろう? あんな宿ふつうある? 外出して戻ってくるたびに、チャイムを鳴らすなんてめんどくさいったらありゃしない」
「たしかにダルイですよ。初めておとずれた時は早朝だったから、たまたま開いていないのだと思ったけど、あれ、一日中ですよね?」
「そうだよ、あれがアジャンタの魔法の扉だよ。あの扉を開けて一歩踏みこんだが最後、部屋の壁を埋めつくしたマンガと本、そして陽気な日本語を操る魔法使いタメルさんの餌食(えじき)になるんだ。目的のないひ弱な旅行者はイチコロさ! なにせ、別名アリジゴク宿だからね」
「はっはっはっ! たしかにあの宿危ないですよね! じゃあ、おれは、もう餌食になっているんですかね? はっはっはっ!」
「ああ、膝(ひざ)まで砂にめりこみ、足首は食われているだろうね」
「イヤだー!」
「マンガと大麻に浸(つ)かっている時点でアウトさ! そうそう、あそこのタマゴプリンは食べている?」
「ええ、もう、一日一個は食べてますよ」
「あああ、トドメだね、あれは大麻よりも効くマジックプリンだよ。依存性はシャブの何百倍だよ? もう、ほっぺたがおちて宿から出られないよ、坂田君」
「今泊まっている日本人は、一日三個食べてますよ」
「いいぐあいに症状が進行しているね。その人、もうほとんど沈没しかかっているよ」
「でしょうね、いつから泊まっているのか、覚えてなかったですから、じゃあ、林さんは一日に何個食べてたんですか?」
「ぼくかい? ぼくも平均三個だったね、でも、終盤は一日五個食べていたよ」
「はっはっはっ! それ、食いすぎですよ! 皮膚がカラメル色になりますよ!」
「いやいや、気がついたらそうなるんだって! あれはタメルさんの魔力がつまったタマゴプリンだからね。それに、当時泊まっていた日本人が良くなかった、なにせ、一日七個食べるやつがいたから」
「もう、それはバカですよ! バカ! ただのバカですよ!」
「いやいやいや、坂田君、あの宿にいたらバカになるんだって! 大麻とマンガ、あとはくだらない会話、その繰り返しが人間をバカにさせるんだって! 言ってしまえばあそこは精神の牢屋だからね、外界から隔離されて常識がわからなくなるのも、しかたがないんだよ」
「ほんと、アジャンタはすばらしい宿ですね、もう、おかしくて、おかしくなって、より好きになっちゃいましたよ。それにしても、林さんはよく出られましたね?」
「さすがに三ヶ月もいると、宿に飽きてくるよ。一緒に泊まっている日本人達がうっとうしくなってさ、寝ても覚めても『ボンです!』という言葉とジョイントがまわってくるんだ。多い時で三十人ぐらいでボンだよ? さすがに自分の生活に疑問を感じたよ」
「そりゃ、多すぎだって!」
「だから、一緒に旅行している相方と宿を出たんだ。もっと自由に過ごせる、日本人のいない宿に行こうってことで」
「えっ? 林さん、誰かと旅行しているんですか? 相方って、女ですか?」
「地元の友達だよ。そいつが海外に行きたいみたいな話をしていたから、ぼくが誘ったんだよ。もともと、インドで沈没する予定だったからね」
「へー、沈没目的の旅行ですか?」
「そう。もうそろそろ、この土地に来て半年になるね」
「ええっ! ここ以外は行ってないんですか?」
「ああ、前に旅行した時にインドをまわったからね。今回は目的が違うよ」
「そうだったんですか、おれ、てっきり移動が目的だと思っていましたよ。じゃあ、アジャンタに沈没するのは別に悪いことじゃないですか」
「まあね、アジャンタで沈むのが目的だったから」
「おれ、海外に来た当初は、沈没している人が大嫌いだったんですよ。なんの目的もなく、日本の生活から逃げるように海外で時間をつぶしている人達が。けど、最近は、沈没にもいろいろあるんだと気がついて、考えをあらためましたよ」
「そうなの? 沈没はただの沈没じゃない?」
「いえ、沈没している人も様々だと気がつきました。はたから見たらただの沈没ですが、沈没の理由によっては、おれは一部の沈没を認めますよ。たとえば林さんのような沈没、まあ、理由は知りませんが、海外に来ている目的が沈没だと堂々と言えるのは、なによりも大切ですからね。自分の行為を隠してごまかしていない点では立派ですから」
「ぼくはシタールをやっているから、大麻を吸って楽器を弾いていれば楽しいんだ。理由はそれだけだよ」
「おれは林さんの沈没は認めますよ、目的がありますから。けど、おれが途中で会った沈没者のなかには、くそったれなやつがいましたよ」
「ふーん、どんな人?」
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