第4話

   四


 坂田は村から離れるようにビーチを適当に歩いてから、土の道を歩いていた。まわりは建物がすくなかったが、村に比べると立派な民家が点々としていた。坂田の泊まっている宿、アジャンタへつづく一本の通り沿いに大麻の売っている小屋があり、勘(かん)をたよりに坂田はジョイントを吸いながら歩いた。


 だんだんと背の高い建物を見かけるようになり、通りに近づいているのだと思った。小道を歩いていると白い外壁の宿があり、その外観をぼんやり眺めていると、二階のベランダの手すりにモジャモジャ頭の日本人の男がいた。男は両腕を手すりにのせて、うつろな目で坂田の顔を見た。


「こんにちわ」男は覇気(はき)のない声で言った。


「こんにちわ」坂田はふてぶてしい態度で言った。坂田は歩き疲れていたので、機嫌が悪かった。さらに、桜井にたいしての怒りがたまっていた。


「どうです? 一服していきません?」


「ええ、それは良いですね。遠慮なくいただきますよ」


「そこの階段を上がってきてください」


 坂田は敷地内に入り、やけに白い階段を上った。


 階段を上りきると、背の低い男が立っていった。坂田よりも頭一個分低い男は、丸い顔をしていて、インドにいる日本人にしては肌が白かった。ただ、顔半分をおおうひげと、背仲までつながっていそうなうなじの毛を見ると、童顔ともいえる顔が気味悪く見えた。それに、男は赤いにきびがいくつもあり、とくに左ほほに大きくふくらんだひとつは、膿(うみ)がたまっていて、すこしふれただけで破けそうだった。


「あそこで吸いましょう」


 男は口元をもぞもぞさせて、ベランダの端にある水色のテーブルへ歩いた。男はサンダルをはいておらず、ペタペタと足の裏の皮膚がひっついて離れる音がした。


「ああ、はい」


 坂田は男の歩くうしろすがたを見て、「この男はなにかに似ている」と思ったが、瞬時に思い出せなかった。坂田は考えながらうしろからついていき、テーブルと同じ素材であるプラスチックのイスに座った。


「部屋から大麻を持ってくるので、ちょっと待っていてください」


 男はそう言って、ペタペタと奇怪な小動物らしく奥の廊下へ歩いていった。坂田は男の目を見ずにうなずいただけで、内容が耳には届いていないらしかった。イスの背もたれに重心をよせ、右手をあごにそえたまま、テーブルのうえを見ているようでその先を見つめていた。


「あれはなんだっけ?」


 坂田は男に似たものを必死で思い出そうとしていた。大麻が効いた状態である坂田は、異常な集中力を発揮して深い記憶の底を探っていたが、大麻が効いた状態である坂田は、穴のあいた虫取りアミで記憶をすくっているので、なに一つすくえておらず、ただ、すくう行為を楽しんでいるだけだった。


「いや、まてよ、まてよ、あいつはなんだっけ?」


 坂田はいっこうに思い出せていなかった。虫取りアミの柄(え)はすでにボロボロに折れかかっていた。


「おまたせしました」


 男はペタペタと小走りでテーブルに戻り、左手に持っていたポリエチレンの袋をテーブルにふわっと投げ、イスに座って右手に持っていた赤いリズラの巻紙とマールボロのタバコを置いた。


「あっ! ピグモンだ!」


 坂田は男の一連の動きを見てはっきりと思いだした。それは、『ウルトラマン』に出てくる小さな怪獣だった。坂田は頭を揺らして、ニヤニヤと細い口元をゆがめた。赤い目はむくんだへの字になり、髪の毛先から足の小指の爪まで笑い出しそうで、必死にこらえたが、無理な抑制によって体中がピクピクと震えだし、今にも爆発しそうだった。思い出すため思考して止まっていた体は、反発して全身でその陽気な感情を表現しようとしていたが、かろうじて残っている理性がそれをなんとかくいとどめていた。


「これ、いい大麻じゃないですか!」


 坂田はポリエチレンの袋を勝手につかんで、ろくに見もしないで声にだした。男に怪しまれるまえに先手を打ち、自分の体の異変から注意をそらそうとした。それに、男に自分の発見をうっかり言ってしまいそうだった。坂田は今の喜びを、一緒に分かちあいたいという欲求にとりつかれていた。しかし、それは相手を侮辱(ぶじょく)する行為だった。


「そうでしょ? ここらへんのガバメントショップでは売っていない、良質な大麻なんですよ」


 男はマールボロの箱からタバコを一本取りだし、指先を舌でなめ、その指でタバコの腹を湿らせた。


「どうりで、はっはっはっ、ガバメントショップじゃあ、こんな大麻見かけませんでしたからね、はっはっはっ、いやー、はっはっはっ、いい大麻ですね、こんなねたが吸えるなんてうれしいな! はっはっはっはっはっはっ、スイマセン、朝からボンしていたからついうれしくなっちゃって、もう、感覚がおかしくて! はっはっはっ、スイマセン!」


 坂田は男の発言を聞いて、ふきだしそうになった。笑いの感覚はピグモンを思い出したことで狂い、過敏に反応していた。自分がうれしそうにニヤニヤしている真相を知らずに、どうでもいい質問にたいして何の疑いもみせず、まじめに答える男のすがたが滑稽(こっけい)に見えてしょうがなかった。だが、大麻を吸っていない通常の状態だったら、けっして笑うようなことではなかった。質問にたいして、まじめにこたえるという人間としてあたりまえの礼儀を、坂田はあたりまえに見えずにいた。


「そうですか? あなたも好き者ですね? なーに、そんなに喜んでくれるなら、一服を誘ったかいがありますよ。それに、吸えばさらに良さがわかるはずです」


 男は満足そうにタバコを横に持ち、ライターの火であぶりながら言った。


「はっはっはっはっはっはっ、いや、ほんと、スイマセン! うれしくて笑いがとまらないですよ、はっはっはっ、誘ってくれてほんと、ありがとうございます」


 坂田は男が大麻について話し、ジョイントに混ぜるタバコのニコチンをとばしているのを見て、さらにおかしくなった。腹はぎりぎりとよじれていた。坂田は腹をすかせた人間がなにを食べてもおいしく感じるように、男のどんな言動も最上の笑いを与えてくれた。それに、自分が笑っている真相を知らずに、うれしそうにしている男のすがたを見て、別に悪いことをしているわけじゃなく、むしろ相手が喜ぶ行為を自分はしているのだと思っていた。坂田は朝から吸いつづけていて、常識の感覚がにぶっていた。


「おれは坂田って言うんですよ、はじめまして!」


 坂田はだらしない顔をピクピクさせたまま、手を前にだした。


「ぼくは林です、よろしく」


 林はライターをテーブルに置き、坂田の手を握った。坂田の手は大きくて指は繊細(せんさい)なぐらいに細かったが、林の指はさらに細かった。


「林さん、おれ、今日はラッキーですよ、そこの道を通りかかってほんと良かったと思う」


「ずいぶんと大げさだね、そう思うのはまだ早いよ。ジョイントを吸ったらさらに良くなるから、もうちょっと待ってて」


 坂田は林が自信ありげに言うので、袋を目の前にちかづけてまじまじと見つめた。坂田が普段吸っている大麻よりも色は緑色に染まり、湿気を多くふくんで粉をふいていた。中をあけてその臭いをかぐと、野暮(やぼ)ったい枯れた臭(にお)いはせず、ふわっとしたやわらかな香りが鼻の粘膜をついた。坂田はニタニタとした顔から急にきりっとした顔つきに変わり、鼻の穴を開かせて何度もその香りを嗅いだ。林の持っていた大麻は、坂田が海外に来てから嗅ぐことのなかった、豊潤(ほうじゅん)な香りをしていた。


「林さん、こんなねた、どこで手に入れたんですか?」


 坂田はあいかわらずうれしそうだったが、他人を卑下(ひげ)したうすら笑いをやめて、おどろきを持って林に尋ねた。


「ほら、ちょっと行くと大きな寺院があるでしょ? あの近くで売っているんだよ」


 林は持っていた厚紙のカードをちぎって、ローチを作っていた。


「そうなんですか、いや、ほんと吸うのが楽しみですよ」


 坂田はそう言って、林に袋を手わたした。


「でしょ? 坂田君も欲しい? 明日ちょうど買いに行こうと思っていたからさあ、もし気に入ったら買ってきてあげようか?」


 林は手なれたてつきで大麻をほぐしはじめた。


「いいんですか? おねがいします! いや、もう、この大麻なら吸って確かめるまでもないですよ。子供を育てきった干からびたばあさんじゃなく、温室で育てられたお嬢様まではいかなくても、自然の中で自由奔放(ほんぽう)に育てられた純潔な乙女の香りがしますよ。種はないし、しおは吹いている。元気な処女である証拠じゃないですか!」


 坂田は手ぶりをまじえ、ちからげに話した。坂田はピグモンがおもいがけない幸運を運んできたと思ったが、すぐに林をピグモンだと思うことをやめようと思った。見知らぬ自分に一服を誘ってくれて、なおかつ大麻を買ってきてくれるという、林の気前の良い心にたいして申しわけなさを覚えた。だが、林が大麻をほぐすかわいいすがたを見ると、「ピグモンが大麻をくずしている!」と思い、笑いが再びこみあげてきた。しかし、さきほどまでの分別のない笑いではなく、節度をわきまえた親しみのある微笑みが顔にうかぶだけだった。

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