第3話
三
坂田は埃(ほこり)っぽい黄土の道を歩いていた。今泊まっている宿、アジャンタに来てからというもの、坂田は昼食を食べるか大麻を買いに行くしか外に出ておらず、外出したのは今日で四回目だった。たいていは大麻を吸ってマンガを読み、タメルが夕食のメニューを聞きにくるとき、ついでに昼食をたのんでいた。むしろ、坂田の気づくことのない技術で注文するように誘導されていた。そして、マンガに飽きたら宿にいる日本人達と大麻を吸ってはたわいもない話をして、再びマンガを読んだ。それだけで坂田の一日は終わっていた。
というのも、アジャンタは朝晩の二食付きで、一日に三回チャイが用意された。朝食のメニューは決まっていたが、夕食はカレーやチャーハン、オムライス、おかゆなどから選ぶことができ、また、サイドメニューで焼き魚、刺身、マリネ、天ぷら、ロブスターなどを注文することができた。それに、インターネット接続のパソコンが完備され、一階の図書室には膨大(ぼうだい)な量の本とマンガがそろえられていた。これで宿代が安いときたものだから、多くの貧乏旅行者は感嘆(かんたん)の声をあげ、喜んでアジャンタに沈んでいくのだった。
あとは、大麻が販売されていたら完璧だと坂田は思っていたが、さすがに大麻は用意されていなかった。連日吸いつづけているせいで大麻は砂時計のように減り、坂田の持っている大麻は一グラムもなかった。今読んでいる途中の『火の鳥』を終えたら、次は『アドルフに告ぐ』を読もうと思っていたので、そのための準備として大麻を買いに外へ出たのだ。読んでいる途中で大麻がなくなるのは、考えただけでマンガを壁にたたきつけたくなるほど、坂田にとって我慢できないことだった。
坂田は大麻を買いに行くついでに、歩いて十分ほどの海へ行くことにした。海は好きでも嫌いでもなく、むしろなんの関心もなかったのだが、桜井が、「ここのビーチはすばらしくきれいですよ!」とうれしそうに言っていたのを思いだし、坂田はなんとなく寄ってみようと思った。さすがにマンガばかり読んでいたので、ほんのすこしだけ観光客らしい好奇心を取り戻していた。
容赦ない太陽は頂点にさしかかるまえで、朝方の気温をさらに燃えあがらす直射日光が坂田の体をまっすぐに照りつけた。歩いて二分もしないうちに、坂田は海へ向かったことを後悔した。“カンナビス”と白いアルファベットがプリントされたTシャツは汗ばみ、あせた黒い背中には斑点が浮きあがり、点が結びついて広がっていった。坂田は友人達からもらったTシャツをたいへん気に入っていたが、今このTシャツを着ていることに腹が立った。さすがに誕生日プレゼントらしく、生地はしっかりしていて安っぽさはないが、バンコクの露店で売られている物に比べるとわずかに重みがあった。
坂田は他に三枚のTシャツを持っていた。一枚はベージュにブルース・リーのヌンチャク姿がプリントされ、もう一枚は群青(ぐんじょう)色にチェ・ゲバラの顔、三枚目は白に赤い十字のロゴが大きくはいっていた。人物の顔がプリントされたTシャツはタイで購入したが、赤十字のシャツはもらい物だった。それはラオス北部の街、ルアンパバーンで献血をした時にもらったもので、生地は薄っぺらく、ところどころに虫食いのような穴があいていた。坂田は赤十字のTシャツを着てくれば良かったと思い、友人達の思い出のTシャツは今ではなんの感傷も持たなかった。
日光に水分を奪われた砂利道を歩きつづけると、前方に連(つら)なった長屋が見えてきた。坂田はすぐにビーチへたどり着くと思っていたので、もしかしたら道を間違えたのではないかと疑った。だが、地面が土っぽい砂に変わっていることにすぐ気がつき、海に向かっていることがわかった。
砂のうえに小道をつくっている両端の長屋は、都市の川沿いや線路沿いに見られるあばら家で形成され、木やトタンなどの材料をノリでつなぎ合わせたように組み立てられていた。それはインドの混沌とした世界、複雑な階級制度をまざまざと証明しているようだった。坂田はそういった最下層の人々が生活する場所を遠目で見たことはあったが、じっさいになかを通り過ぎたことはなかった。坂田は正直言って長屋で形成された村を通りたくなかったが、かといって、引き返すという軟弱(なんじゃく)な行為はしたくなかった。
村には多くのインド人が生活しており、家の前で魚を干(ほ)している者がいれば、漁に使う網をなにやらいじっている者もいた。また、褐色(かっしょく)の裸でたわむれる子供の集団や、頭に荷物を乗せて歩く汚れたサリー姿の女性達、短いズボンから枝のような長い足が伸びた少年達がいた。長屋を歩いていて、坂田は息がつまりそうだった。そこは日本ではけっして見ることのない異質な世界が広がっていた。家々はさびれていたが、それに反して人の数はむだに多く、みな元気で陽気にみえた。
坂田は周囲を観察しながら歩いた。「いったいなんだここは?」と繰り返しつぶやいた。最下層の人々の生活に興味があるわけではないが、落下した物は下に落ちていく自然の法則のように、否応なしに目をひきつけられた。また、それにこたえるように、ほぼ全員のインド人が大きな白い眼で坂田の姿を凝視した。
坂田は朝から大麻を吸いつづけていたおかげで、頭はすっかりぼけてしまい、冷静な思考能力が著(いちじる)しく低下していた。「おれは動く見世物小屋じゃねえぞ!」と思ったが、そんな叫びはインドで何度も繰りかえして、結局、見世物であることを受け入れざろうえなかった。坂田はそれを知っていたので、自己本位な考えを頭からすぐに捨てた。インドはしつこい国だと坂田はすでに学んでいた。
だが、長屋は迷路のように入り組んでいて、なかなか目指す海は見えてこなかった。坂田は頭ではインド人をすこし理解していたが、感情はインド人に対して単純な反応をしめしていた。白い目から浴びせられる磁場をもった視線は、坂田の機嫌に水をたしていった。また、灼熱の太陽が坂田を熱くさせた。
坂田はやむことのない白い目に敵意をむきだして睨(にら)みつけ、胸を変につきだして堂々と歩いた。量産された白い目は前方から横に流れ、後方からも感じられた。
「ハロー」
家の前に立っていた青年が坂田に声をかけた。
「うるせー!」
坂田は低い声でむやみに反応した。青年は大きい目を開き、首を横にかしげて陽気に笑った。
「ヘロー、ヘロー」
裸の子供が無邪気な笑顔を浮かべたまま、坂田のうしろから声をだした。
「うるせー!」
坂田は歩(あゆ)みをとめずにうしろをふりかえり、目線を下にやって言った。子供はキャッキャと笑い声をあげた。
坂田は気にせず歩きつづけた。坂田のうしろには数人の子供が一緒になって歩いていて、海へ向かう勇敢で滑稽(こっけい)なパーティーが出来あがっていた。先頭の男は顔をしかめて注意を払い、しっかりとした足取りで進んでいたが、後方の小粒達はおちつかず、動きまわりながらついていった。
「おい、クソガキども、うるせーぞ! 何もでねえからついてくんな!」
坂田はうしろからついてくる子供達に向かって、ぶっきらぼうに言った。もちろん坂田は日本語しか話せなかった。子供たちは健全な喜びの声をあげながら、散るようにうしろへ走り、砂をけりあげていった。
「ったくよ、これだからガキは」
「ハロー」右手で頭の荷物を支えたまま、骨の細い若い女性が前から声をかけた。
「ハ、ハロー」
急に声をかけられた坂田は、つぶれた不完全な笑顔をうかべて声をだした。唇はうすく、鼻筋がしゃんとした女性は横を通りすぎ、坂田は足を止めてふりかえった。赤いブラウスのしたにはほっそりした褐色のくびれがながれ、黄色いサリーの腰元はなまめかしく、優雅にゆれていた。女性は歩きながらふりかえり、艶(あで)やかな瞳で坂田の顔を見て、にっこりと微笑みをうかべ、再び前を向いた。その横から小さな子供達が走って坂田に近づき、声をあげ、再びうしろへドタバタと走っていった。
長屋の迷路を抜けると、らくだ色の砂浜が広がっていた。坂田は砂浜を眺めてあぜんとしていた。桜井が言うような、“すばらしくきれいなビーチ”はどこにもみあたらなかった。高いヤシの木が並び青い芝がみずみずしい、静かな風景はなく、大小さまざまなインド人がそこらじゅうでうろつく、喧騒(けんそう)な砂浜があった。赤や緑、青のまじった色の濃い漁船が砂の上に並び、腰をかがめて魚を仕分けしている者がたくさんいた。また、砂の上に寝転がっている者もいた。なによりも、木の棒を持ってクリケットをしているインド人達が坂田の目をひいた。
「あいつ、どこがすばらしんだよ!」
坂田はあきれはてて、笑い声さえあがらなかった。というのも、砂浜には人糞(じんぷん)がいたるところにおちていて、潮の香りと魚の腐った臭(にお)いが混ざって異様な臭気が漂っていた。じっさい、それほど臭くはなかったのかもしれないが、目の前の風景だけでじゅうぶん臭(にお)いそうだった。
坂田は足元を気をつけて、海へ近づいた。透きとおるような海水はなく、白い波がドミノ倒しに走り、蒼くにごった海水が泡をふいていた。「もしかしたら海に入れるかも」と、心の奥でわずかに期待していたのだが、坂田は海水に足をつける気にもならなかった。人糞が海水に溶けていて、足にこびりつくのではないかと思うと、おもわず胃の中身を吐き出しそうになった。
坂田は大麻を買いに行くことにして、砂浜を歩いた。坂田は歩きながら夏の江ノ島を思い出し、あの海岸がとてもきれいに感じた。ここの砂浜は江ノ島のように人がいてうるさかったが、やけに生活感があふれていた。ゲーム性のないビーチバレーに興じる水着すがたの若い男女はおらず、褐色の少年達が純粋な声をあげ、素っ裸でクリケットを楽しんでいた。
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