第2話

   二


 坂田の巻いた四本のジョイントはまたたくまに煙となり、三人の体に染みこまれた。三人の目は腫(は)れぼったくふくれ、白目は紅しょうが色に染まり、なんともだらしのない目つきをしていた。口元を張っていた糸はすっかりやわらかいゴムになり、締まることのない笑みをうかべて、緊張のない精神を顔に表していた。

「いやー、それにしても、今日も、暑い!」


 坂田はうすら笑いを浮かべて、誰に話すでもなく、頭上をみあげて言った。


「まったくですよ。インドの太陽はやさしくないですね」


 桜井は背もたれによりかかりながら、狐よりも細い目をして坂田を見た。


「おれの部屋は窓がないからサウナだぜ? それも、湿気たっぷりじゃなくて、カラッカラだぞ。小さい扇風機があるけどよ、熱風をまわすだけでなんの気休めにもなりゃしねえ、外の日なたのほうが涼しいからおかしなもんよ。おかげで大麻はスカスカに乾燥するし、ぬるいチャイの温度は保たれちまう」


「それはいいことじゃないですか! よぶんな脂肪をおとせて身が軽くなりますよ」


「バカいえ! これ以上軽くなってどうすんだ! おれはな、ただでさえ栄養失調気味なんだぞ?」


 坂田は二人に納得させるように、皮のはりついたあばら骨をトントンと指さした。


「たしかに坂田君はひどいガリガリようだな」


 川内はココナッツの欠片に盛られた大麻をいじりながら言った。


「ほんとですよ、色が黒くて線が細いから、安い大麻にまざった小枝のようですよ」


「黒い傷の入った豆もやしに言われたかねえよ」


 坂田がそう言うと、階段からふっくらしたインド人の男があがり、三人のいるテーブルに近づいてきた。インド人はタメルといい、三人が泊まっている宿、アジャンタのオーナーだった。耳にかからない黒髪のタメルは、濃いひげを鼻下にはりつけ、精力あふれる白い目で気品のある顔をしていた。いっけん怖そうに見える風貌(ふうぼう)だが、人情あふれる微笑みをかならず浮かべていたので、近づきがたい恐怖よりも、安心して信頼できる印象を与えていた。眼と同様に真っ白なえり付きのシャツを着ていて、ズボンは紺のスラックス、そして、丸々と肥えた大きな腹がタメルの豊かさを何よりもよくあらわしていた。


「オハヨウ! キョウハナニタベル!」


 タメルは頭の芯まで響く声をだした。とりわけ声が大きいわけではなく、人に伝えたいことを届かせるコツを知っているようだった。宿泊客に夕食のメニューを尋ねるのが、タメルの毎日の仕事の一つだった。


「ああ、おはようタメルさん」


 坂田はだらしない顔に、むりやり笑顔をうかべて言った。


「おはようございます、ぼくはねえ、今日はカレーを食べます」


 桜井はタメルの白い目を見て言った。タメルの白目の面積は、桜井の二十倍以上ありそうだった。


「アナタカレーネ!」


 タメルは首をかしげて言った。


「チャーハンおねがいします」


 川内は充血した目で、まじめな顔して言った。それがやけに不自然だった。


「アナタチャーハンネ! アナタハ?」


「えっと、どうしようかな、あれ、おれもチャーハンで」


「アナタモチャーハンネ! ホカハ? イラナイ? ホラ、アナタタチ、ボンシテルデショ? ゴゼンノデザート、タマゴプリンハタベナイノ?」


 タメルは怪しささえおぼえる、魅惑の笑顔をうかべて言った。


「あああ、ぼくプリンたべる!」桜井はしおれたわき毛をさらし、腕を真っすぐにあげて言った。


「アナタタベルネ? ホカハ? アナタタチハ、タベナイノ? イッコタベタラサンコタベルヨ!」


 タメルの黒い肌にうかぶ白い目と白い歯が、インドのぎらついた太陽に光った。


「ああ、おねがいします」川内は気がぬけたように言った。


「タメルさんずるいよ、そうやって小銭をむしりとるんだから」


 坂田は分別のない笑いをうかべて言った。


「ナニイウノ、タマゴプリンオイシイデショ? イチニチイッコ、タマゴプリンネ! アナタモタベルネ?」


 タメルは白い目をクリクリさせて言った。


「わかったよ、おれも食べるよ。それから、夕飯に鶏の唐揚げもつけてよ」


「カラアゲネ、ホカハイル?」


 タメルはやわらかく首をかしげて言った。


「坂田君やせすぎだから、もっとたのんだほうがいいですよ、ねえ、タメルさん? ぼくは天ぷらおねがいします」


「オーケー、テンプラネ。ソウネ、チョットヤセスギヨ、マルデ、リキシャマンネ、モットタマゴプリン、タベタホウガイイネ」


「いや、だめだってタメルさん、もうっいいって」


 坂田は頭と手を振りながら言った。


「タメルさん、あと、魚おねがいします」


 川内はニヤニヤしながら言った。


「アナタサカナネ、オーケー!」


「ねえ、タメルさん、そのふっくらしたおなかはどうすればなるんだい?」


 坂田はタメルの突きでた腹をうれしそうにさわって言った。


「コレネ? コレハ、タマゴプリンネ! ナガイジカンカケテツクッタヨ! アナタタチハマダマダアマイネ!」


 タメルは腹をさすってさらに笑顔を浮かべていった。


「ジャア、タマゴプリンモッテクルヨ、アトデネ!」


「あっ、タメルさん、水パイプこぼしちゃったから、なんかふく物ないですか?」


 桜井は同情をひくようにタメルの顔を見あげ、テーブルを指さして言った。


「オーケー、オーケー、スグモッテクルネ。デモ、キヲツケテボンシテヨ」


「わかりました、タメルさん。もうこぼしませんから」


 タメルはテーブルを離れて、スキンヘッドが泊まっている部屋に入っていった。桜井は竹の水パイプを持って席を立ち、階段のそばにある洗い場へ歩いていった。


「それにしても、タメルさんは恐ろしいな、あの人が来るとふところぐあいを忘れちまうよ」坂田はさきほどからのだらしない笑いを浮かべたまま言った。


「まったくだ。気がつく前に料理の注文をしている」


 川内はうなずいて言った。


「そういえば、川内さんはこの宿に来て何日になるんだい?」


 坂田はテーブルに肘をついて言った。


「忘れた。いつだっけ? あっという間に日が過ぎていくからな、たしか、いつだ? わからないな。けど、一ヶ月は過ぎているんじゃないかな」


「一ヶ月か、おい! 桜井、おまえはどのくらいだ?」


 坂田は横を向き、腰をかがめてパイプを洗っている、タトゥーのはいった背中にむかって声を出した。


「今日で三週間です」


 桜井は振りかえらずに、高い声を大きくして言った。


「二人とも長いな、すっかり沈没しかけているじゃん」


「坂田君は来て何日だっけ? まだ来たばかりだったはずだ」


 川内はのべーっとした表情を変えずに言った。


「おれ? おれは、たしか、四日だよ」


「いや、違います、坂田君はもう六日目になりますよ。ぼくが大麻を仕入れた日に来たんですから、はっきりと覚えています」


 桜井がテーブルへ歩きながら言った。


「おいおい、坂田君、うそはいけない」


「あれ? そうか? まだ四日ぐらいな気がするけどよ」坂田はうかない顔をした。


「それがこの宿の魔法なんですよ、坂田君、本人が気がつくまえに走って日が過ぎていくから、わからなくなるんですよ。ぼくもこの宿に来て、一週間が過ぎたぐらいに気がつきましたよ。だから、一週間ごとに大麻を仕入れるようにして、泊まっている日数が混乱しないように防いでいるんです。そうしないと、ずるずるひきこまれていきますからね」


「まめな男だな」川内は感心したようすで言った。


「だって、それぐらいしないと、川内さんみたいに宿の魔法にどっぷりとつかって、気がついたら身も心も宿と同化していた。そんなことになりかねないですからね。そもそも、ぼくは沈没しに海外に来たわけじゃないんですから、将来の投資のために、大麻を吸って見聞を広めにきたんですよ」


 桜井はイスに座って思い出したように言った。


「そいつあいい心がけじゃんか、でもよ、おまえ、三週間泊まっているなら川内さんのことは言えねえぞ。まだ、四日目のおれならまだしも」


「なに言ってるんですか、六日目ですよ、坂田君の時間間隔が狂いはじめている立派な証拠ですよ。それにね、坂田君、ぼくが宿に来た時も、川内さんは一ヶ月ぐらいだって言っていたんですよ」


「なにっ? おれはそんなことを言っていたのか?」


 川内は本当に驚いたようすで言った。


「川内さん、あんたがうそついているじゃねえか。なに言ってんだよ」


「違いますよ、坂田君、川内さんはうそをついてないです。ほんとに、一ヶ月ぐらいだと思っているだけですよ」


「スグ、プリンモッテクルヨ!」


 タメルが部屋から早足で出てきて、笑顔を浮かべたまま階段を下りていった。


「ああ、お願いしまーす」桜井はふりむいて言った。


「そうか、おれは一ヶ月前もおなじようなことを言っていたのか」


 川内は問いかけるようなまなざしで桜井を見た。


「そのようすだと、二ヶ月前もおなじこと言ってそうだな」坂田はぼそっと言った。 


「そうですね、川内さんは足どころか、頭まで宿に食われかかっていますから」


 桜井は静かにうなずき、冷静な口調で言った。


「まあ、そんなこと、どうでもいいじゃない。ボンして忘れてしまおう!」


 川内はいきなり水パイプを手にとり、タンクトップのすそでアルミの管についた水分をふきとった。白いタンクトップは茶色くにじんだ。


「そりゃそうだ! とりあえずボンしよう! そうすりゃ、川内さんの頭に煙がまわって調子がでてくるだろう」


 坂田は顔をくしゃくしゃに大笑いして、バカにしたように適当な口調で言った。


「ああ、そうだ、いつから泊まっているか、きっと、思いだすぞ。思い出してみせるぞ!」


 川内は野太いおたけびをあげ、ラッパ型の管の先端をライターでかるくあぶった。


「これだから忘れるんですよ。まあ、覚えていたからって時間が戻るわけじゃないですが」


「いや、戻るかもしれない、ほら、桜井、おまえもこの宿に来て三週間になるんだ、一階の書庫で『火の鳥』を借りただろう?」


 川内はココナッツの欠片から大麻をなぶるようにつまみ、強引に管の先端につめた。大麻のくずが濡れたテーブルのうえにぱらぱらと落ちた。


「ええ、もちろん、全巻借りて読みましたよ」


「坂田君は読んだか?」


「ちょうど、今借りて読んでいるところだよ。それがどうした?」


「なら、話は早い、ほら、あれ、『太陽編』は読んだか?」


「えっ? 『太陽編』ってどんなんでしたっけ?」


「おい、あれだよ、狼の顔したやつが出てくる話だ」


「ちがう! それじゃない!」


 川内は両手を振って否定した。


「えっ? 違うのか? いや、あってるはずだぜ、だってよ、さっきまで読んでいたんだ」


「なんです? 坂田君、知ったかぶりですか? ソクラテスに叱(しか)られますよ」


「ばかやろう! そんなやつ知るか! 川内さん、『太陽編』は狼だって、ほら、つらの皮をはがされた話だ、間違いないって」


「そうか? 尼(あま)さんが羽を振って、妖怪の怪我を治す話じゃないのか?」


「ああ、あれですか! ぼく覚えています。川内さん、違いますよ、あれは『復活編』ですよ!」


「てめえが知ったかぶりじゃねえか! 尼さんが出てくるのは『異形編』だよ。『太陽編』でも出てくるが、ほんのわずかだ。なあ、川内さん『異形編』じゃないのか?」


「ああ、それだ、それ、それだよ、それでな。なんだっけ? なんの話をしていたんだ?」


「川内さん! 覚えていてくれよ! あれだよ、あれ、あれ? なんだっけ? おい、桜井、なんの話をしていたか覚えているか?」


「いいえ、狼の顔までは覚えています。でも、なんでしたっけ? なんで狼の顔がでてきたんでしたっけ? ちょっと、順を追って思い出してみましょう」


「じゃあ、わかりやすい、竹の水パイプから話を思いだそうぜ。ほら、川内さんが水パイプに大麻をねじこんでいたとき、どんな話をしていた?」


「いや、覚えていない」


「ああ、川内さんはだいじょうぶだ。まったくあてにしていないから、安心して話を思い出すのに集中してくれ」


「たしか、タメルさんがプリンを持ってくると言って階段を下りて行きましたよ」


「タメルさんがプリンか、タメルさんはなんでプリンを持ってくるんだ?」


「坂田君がやせすぎているからだ」


「いや、川内さん、黙っていてくれ」


「坂田君、プリンはたぶん関係ないですよ。プリンを考えると、タメルさんの立派な腹が邪魔して思い出せません」


「そうだな、悪かった、関係ないプリンを注文してよ。じゃねえよ! ボンしようって話じゃねえか!」


「ああ、そうだ! ボンするためにおれは大麻をつめたんだ」


「そういや、そうですね、ついつい話に夢中になって、すっかりボンするのを忘れてましたね」


「じゃあボンするか!」


「ああ、川内さん、忘れないうちにとっとと火をつけてくれ」


「タマゴプリンモッテキタヨ! ホラ、テーブルフイテネ」


 陽気な声と共にタメルが現れ、汚れた雑巾(ぞうきん)を桜井に手わたした。左手に持った木のおぼんのうえには、扇形に切られたプリンが白い皿に三個のっかっており、こげ茶色のカラメルあたまがプルプルと揺れていた。

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