沈没

酒井小言

第1話

   一


 坂田は左腕をのばし、汚れがめだつ座卓のうえの扇風機をとめた。力のぬけたはねの回転を見て、座卓にイギリスのアダルト誌を置き、右手に持っていたポリ エチレンの袋から茶色く乾燥した大麻をひとつかみして、ひざをついた赤いビキニ姿の金髪女性の表紙に出した。あまったるく、だらしない女性の顔を茶色いく ずが隠した。坂田はたんねんに種と小枝を取りのぞいて、そばにあったハサミで大麻を細かくきざんだ。空気の流れのない部屋がぼんやりと蒸しだした。


「おいおい、なんだよこれ、カラッカラじゃん。すっかりミイラになりやがって」


 坂田は袋のジッパーを閉め忘れたことを思いだした。インドの乾燥した空気は残りわずかな大麻の水分を一晩のうちに奪っていた。


 坂田は大麻が飛び散らないよう、ていねいにハサミを動かした。すると、いきなりかがめていた体を起こし、黒いTシャツを脱いでベッドに放り投げた。白くかすれたTシャツはふにゃっとシーツのうえに落ちた。黒く日焼けしたガリガリの体はうっすらとしめりはじめ、ベッドに沈んでいた尻とももの裏はわずかにぬれていた。


「うおー! 朝っぱらからひでー暑さだ!」


 坂田は枕元のタオルを首にかけて、顔を三度こすってから大麻をきざみはじめた。ハサミの動きはさきほどよりも早かった。


 坂田は左手で細かくなった大麻をつまみ、親指と人差し指でこすった。念のためさらに十何度ハサミをくわえてから、アルファベットで書かれた名刺で一ヶ所に集めた。厚い唇とたれた眼の顔が見えた。黒いバックパックからB六サイズのガイドブックを取りだし、厚手の表紙を横長の長方形に小さく切り取り、紙切れをダンゴ虫のように丸めてローチを作った。リズラ社製の青い巻紙を一枚抜き、指でつまんだ大麻のくずを紙のうえに均等にならべ、丸めたローチを端にのせて慎重に巻きはじめた。坂田は呼吸をおさえていると、顔に汗のしずくが線をひいた。


「グッモーニング! グッモーニング! アサダヨ! チャーイ! チャーイ!」


 インド人の若い男が声をあげて部屋に入ってきた。坂田は手に持っていた巻紙を揺らしてしまい、大麻がすこしこぼれて地面に落ちた。


「おい! びっくりさせんなよ! もっと静かに入ってこれないのか?」


 坂田は両手に持った巻紙から目線をあげ、眼の白さが目立つ顔をにらみつけた。


「ナニイウノ! チャイモッテキタヨ。アナタ、アサカラ、ボンネ?」


「見りゃわかるだろう」


「マッタク、ドウシヨウモナイネ。チャイハドコオク?」


「よけいなお世話だ! そこに置いてくれ」


「ワッカタヨ」


 若いインド人は扇風機のそばに銀色のコップを置き、笑いながら坂田の顔を確かめるように見た。問題なさそうに見えたのか、細い首を一度横に傾(かし)げてから部屋を出て行った。


 坂田はアダルト誌から大麻をつかみ、再び巻紙にふりかけた。右手でローチの部分をゆっくりところがして、両手の人差し指と親指を使って隙間なく巻き、均一に巻かれた胴を口元にちかづけ、舌先をのばし、両手を横にひいて紙を濡らした。湿った部分を胴にピッタリと貼りつかせ、坂田は吸い口であるローチをしたにして座卓にトントンとはずませた。それから、大麻のつまっていない先端部分をつまみ、手首を動かして数回振ってから、余った先端部分の紙をねじった。


 坂田は出来上がったばかりのジョイントの先端にライターの火をちかづけ、ジョイントまわしながら火をつけた。炎はカッと燃えたち、すぐにひょろながい白い炭が残った。飲み口の黒ずんだ空き缶に、灰をトンッと落とし、坂田がジョイントを口にくわえて大きく吸いこむと、先端はマグマのように光り、太い筋の煙が浮かびあがった。坂田は呼吸を止め、ジョイントの先を空き缶にふれないように置き、新しい巻紙を取り出した。坂田が大きく息を吐くと、芯のぬけた薄い煙が力なく流れた。背骨の浮きあがった背中には小さい玉の汗が浮かびあがっていた。


 坂田は同じように数本ジョイントを巻いた。金髪女性のあまったるい体が現れるころには、すっかり成分は全身をめぐり、見えるものは神々(こうごう)しく、聞こえる音はイメージをふくんでいた。


 坂田はやることを終え、思い出しように銀色のコップを手にとって口につけた。チャイはぬるかった。それだけでなく、味はうすく、甘さも中途半端で、低脂肪牛乳にのこりかすのティーパックで煮だしたのではないかと坂田は思った。屋台で飲むような、カルダモン入りのあまからいチャイが飲みたかったが、しかし、それでもおいしく感じられた。


 坂田は首に巻いたタオルで顔をふき、枕元に積まれたマンガを手にとって、あおむけになって読みはじめた。体にういた汗はしわだらけのシーツに吸いとられ た。


 三十分ぐらいすると玉子焼きとトーストの朝食が部屋に運ばれた。坂田は味気のない玉子焼きをいそいで食べ、パサパサのトーストをチャイで流しこんだ。昨日も、一昨日も同じ朝食のメニューを食べ、坂田はとっくに朝食に飽きていた。それでも、外に食べに行く手間が省けたので、なんの文句もなかった。


 ベッドに寝ころがり、再びマンガを読もうとすると、眉毛の濃い、体格のしっかりした男がのそっと部屋に入ってきた。


「おはよう、坂田君、どう? あっちで朝のボンしない?」


「おはよう川内さん、ああ、いいね、さっきジョイントを巻いたところだ。ガッツリとボンしようか」


「桜井もさっき起きたばかりだから」


 坂田はマンガを積まれたうえに置き、座卓にころがった四本のジョイントを持ち、サンダルを履いて外に出た。


 坂田の泊まっている部屋は三階にあり、中庭につづく廊下に面していた。シャワー室が隣にあり、窓はついていなかった。また、逆隣にも部屋があり、スキンヘッドの中年男性が泊まっていた。中庭の中央付近には木のダイニングテーブルが置かれ、六人ほどで囲むことができた。テーブルの前にはドミトリーの部屋があり、壁には棚が置かれてミニコンポが設置されていた。大部屋には若い男が二人泊まっていた。


 坂田と川内は向かいあってテーブルについた。テーブルのうえにはタバコの吸殻がつまった石の灰皿とトタンの灰皿があり、黄色がかった竹の腹にアルミの管がささった水パイプと、赤茶色のチラムが置いてあった。また、そのそばのココナッツの欠片(かけら)には茶色い大麻のくずがこんもり盛られていた。


 坂田はジョイントをテーブルのうえに投げ、肩にかかる黒髪を手に束ねて黒いゴムで結(ゆ)わいた。やせ細った長い首が目立ち、あごがとがって頬(ほお)がこけていたが、眼は大きく、力強さがあった。


 川内はココナッツの欠片から大麻を太い指でつまみ、水パイプの管に押しこんでいた。白いタンクトップ姿の川内は細すぎず、太すぎずという筋肉質の立派な体をしていて、それにみあった頑丈なあごを持ち、短い髪の毛がとても男らしく似合っていた。


「おはようございます」


 大部屋から上半身裸のもやしが出てきた。もやしは狐のように細い眼をこすっていた。もやしは桜井といい、カールのかかった髪と背中一面に彫られたトライバル模様のタトゥーが曲線を描いていた。また、背中も丸まっていた。


「おお、おはよう。おいおい、なんだよその顔、ずいぶんとしまりがないじゃねえか」


 坂田はうすら笑いを浮かべて言った。


「ええ、頭がぼーっとしてますよ、だって、寝たの遅かったですから。でも、坂田君だってずいぶんとみっともない顔してますよ、もうボンしたんですか? 眼がカエルになってますよ」


「みっともないのはおまえだろう? 一筆書きしたような野狐の眼しやがって」


「うるさいですよ。両生類に比べりゃマシです」


「まあまあ、とりあえずボンしようじゃない。ほら、座りなよ」


 川内は茶色のイスをひいて言った。桜井はイスに腰かけ、背もたれによりかかって大きくあくびをした。


「ぼくが哺乳類の狐の眼で、坂田君が両性類のカエルの眼、川内さんはなんだろうな? トロンとしたやさしい眼をしているから、象の眼かな?」


「いやいや、桜井、それはほめすぎだって。川内さんは昆虫だよ。ほら、よく見てみ、眼のうえにブットイ毛虫がはりついているじゃねえか。さわったら全身かぶれちまうようなヤツがさ」


「ははははは、そりゃそうですね! すいません、見慣れすぎて見えなかったですよ」


「なに言ってる! 立派な眉毛じゃないか!」


「おい、桜井、川内さんの眉毛さわってみろよ、いい経験ができるぞ。川内さんはな、おだやかでおおらかな人だけどよ、眉毛だけに毒をもっているんだ。さわってみろよ、かゆみでぶっとべるぞ」


「イヤですよ! 坂田君さわってください。かゆみでとべるほど変態じゃありませんから」


「おいおい、二人ともおれの眉毛に触りたいのか? なら遠慮するな、ほら」


 川内は桜井のかぼそい腕をつかみ、ひっぱって顔にちかづけた。桜井の体はぐんっともっていかれ、桜井の手の甲に硬い毛がつきささった。


「イテー!」桜井は大声をあげて腕を振りはらうと、竹の水パイプを倒してしまい、鼻をつく茶色い水と大麻のくずがテーブルにこぼれた。


「おい! バカ桜井!」坂田が笑いながら声を出した。


「だって、川内さんが」


「ははは、眉毛をバカにしたバチがあたったんだ」川内は誇らしげに言った。


「バチって、川内さんの 大麻じゃん!」


「そうですよ、なに言ってんですか。まったく、水パイプは倒れるは、ぼくの手はかぶれるわ、朝からさんざんですよ。もう、川内さん、変なことしないでくださいよ」


「おまえの手はどうだっ ていいんだよ。それよりも川内さんの大麻がこぼれたじゃねえか。おまえ、川内さんに謝れよ」


「まあ、大麻はいい、まだ大量にあるしな。それよりもボンしようじゃない」


「ああ、そうだ」坂田はそう言い、一本のジョイントに火をつけた。


「坂田君、そのジョイントにタバコ混ざってます? 混ざっていたらぼく吸いませんよ、混ざっていたら自分のジョイント吸います」


「わがままなヤツだな、だいじょうだよ、今日は入れていない」


「ああ、よかった」


 坂田はジョイントを三度大きく吸いこみ、左にいる桜井にわたした。桜井はうれしそうにジョイントに口をつけ、細い目をめいいっぱい開いて吸いこんだ。 ジョイントはジリジリと燃え広がった。坂田は口をふくらませて息を止めていた。


 桜井は川内にジョイントをわたした。川内は静かにジョイントの先を数回光らせた。やわらかい煙がいくつもただよっては、ぼやけていった。


 川内は腕をのばして正面の坂田にジョイントをわたした。坂田はジョイントを受けとり、石の灰皿のうえでジョイントをかるく中指で叩くと、先端の白い灰はかたまったままポトリと落ちた。坂田は止めていた息をふうーっと吐くと、宙を浮いていた煙はたちまち吹きとんだ。坂田は次の息継ぎでジョイントを吸いこんだ。


「ウッ、ウッ、ブホンッ! ゴホッ! ゴホッ! ウゴホッ! ゴホッ!」


 坂田は煙とともに激しく咳(せ)きこみ、胃の中の生ぬるいチャイを吐き出しそうになった。のどが焼けつくようにヒリヒリとして、息を吸う間もなく地面に向かって咳をづつけた。


「ははは! 坂田君、がっつきすぎだ」川内はあわい煙をだしながらのろまな口調で言った。


「軟弱ですね! 坂田君、肺が弱すぎですよ」


「う、ぶるせー」


 坂田は咳きこんだままジョイントを持つ手に注意して、桜井にわたした。褐色に焼けた上半身は急激に汗がにじみだし、頭がカーッと熱くなった。眼には涙がうかび、耳がキーンとした。


「グフォッ! グホッ! グホッ!」


 桜井は弱々しく咳きこんだ。しかし、坂田ほど体を揺らすことなく、首からうえを動かすていどだった。


「おめーも咳きこんでるじゃねーか」


「ぼくはワザとですよ。坂田君みたいに胃をぶちまけるほど真剣になっちゃいませんよ。ほら、むせたほうが、ガツンとくるじゃないですか? だから、わざとむせるように吸ったんですよ。ぼくの肺は北海道産ですから、自由自在なんですよ」


「きもちわりーヤツだな。『ぼく、わざとむせました』だと? おまえはふざけてる! 大麻をバカにしている! おまえな、大麻は頭で吸うもんじゃねーぞ、体で吸うもんなんだよ」坂田はしゃがれ気味の声で、憎々(にくにく)しげに言った。


「バカにするもなにも、大麻は大麻じゃないですか。ぼくは坂田君みたいな、宗教じみた考えや、大麻吸引哲学はもちあわせていません。どうやって吸おうが、人の勝手じゃないですか。それに、頭で吸おうが体で吸おうが、口で煙を吸って肺で吸収するだけじゃないですか」


「おいおい、おれは複式呼吸だから腹と背中で吸収しているぞ。それに吐くときはロングトーンを意識しているぞ」川内はあごをしゃくって言った。


「川内さん! ジョイントはクラリネットじゃないですよ!」桜井はすぐに反応した。


「はっはっはっ! 川内さんは体使いすぎだよ」


「桜井、おれはクラリネットじゃなくてオーボエだぞ! そこ間違えるなよ」


「どっちだっていいですよ! ジョイントを楽器にみたてないでください」


「じゃあ、おれはトロンボーンだ! 川内さんが高音の木管なら、 おれは低音の金管であわせるよ。こうやって、ジョイントを前後にスライドさせて煙を吐き出してやる」


 坂田は左手を口にあて、右手を前後に動かした。


「おお、それいいな! だけどホルンのほうがおれはいいと思うぞ」


「川内さん、ホルンは丸まっているよ。ジョイントが折れ曲がっちまう。トロンボーンのほうがジョイント向きだよ」


 坂田は両腕で宙を囲って、大きな輪を作った。


「たしかに」川内は腕を組んで、三度うなずいた。


「じゃあ、ぼくは? ぼくは? ぼくはなににしようかな」桜井はえくぼをうかべて、おどけて言った。


「おまえはトライアングルだよ。淡白で冷たい頭のおまえにはピッタリの楽器じゃねえか」


「管楽器がイイです! そんな、はじっこでチンチン鳴らす、みそっかすのような楽器イヤですよ!」


 桜井は左手をうえにあげ、右手に持ったジョイントで叩くように横へ何度も振った。


「おい、桜井、トライアングルをバカにするな! あれほどシンプルで澄んだ音色はないんだぞ!」川内は多少の怒りをふくんだ真剣な顔つきで言った。


「はっはっはっ!」坂田は顔をうしろへそらしながら笑った。


「いや、川内さん、ぼくはそんなつもりで言ったんじゃないんですよ。呼吸を使う楽器がイイだけです。勘違いしないでください。そんな、バカになんかしちゃいませんよ」


「じゃあ、あれでいいじゃねえか、なんだっけ、あれ、川内さん、口元でビヨンビヨンするやつ、あれなんて名前だっけ?」


 坂田は口元で人差し指を前後に動かした。


「口琴(こうきん)か?」


「そうそう、それ、貧乏旅行者必需の三種の神器、口琴でいいじゃねえか、なあ桜井、あれなら呼吸を使うぜ?」


「でも、あれ、ビヨンビヨンじゃないですか、それに、ジョイントの形から離れていきますよ」


 桜井は顔をわずかに顔をしかめて言った。


「おい! 桜井!」川内はスタッカートのきいた声を出した。


「いやいや、川内さん、なんでもないです、文句ないですよ。ははは、口琴だ、とってもうれしいな、はははは」


 桜井は顔をひきつらせて、調子のはずれた声をだした。


「おお、よかったじゃねえか桜井、楽器が決まってよ。それによ、口琴が一番大麻と相性よさそうじゃねか、なあ?」


「まあ、そう言われるとそうですね。ちなみに三種の神器って、ほかはなんですか?」


「ほかか? ほかはな、パチカと竹笛だよ」


「ああ、なるほど!」


「ジャンベは入らないのか?」


「あれは、でかいから手軽じゃないじゃん。タブラーやシタールクラスの物でもないから、ジャンベは中途半端だよ」


「たしかに中途半端だ」


「じゃあ、これからは、ぼくが口琴で、坂田君はトロンボーン、川内さんはオーボエってことですね」


「ああ、そういうこと だ、これからは意識して吸うんだぞ?」坂田はえらそうに言った。


「おい、桜井、ジョイントが止まっているぞ!」


「あっ、川内さん、すいません」

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