第13話 対話
最終章
翌日、契約書に記入してある保護者の電話番号を確認し、歌山の自宅に電話をかける。数秒の後、母親だろうと思われる声が電話に出た。
「はい、歌山でございます」
「こんにちは。私は歌山叶さんのプロデュースを担当している、宇喜田興業の末永未来と申します。少しお話よろしいでしょうか?」
完璧な営業トーク。だがその返答は、期待を裏切られる以上の衝撃だった。
「……あの、プロデュースというのは、どういうことですか?」
「え、お宅の娘さんがアイドル活動をしているのは御存じですよね?」
「知りません。悪戯電話なら切ります」
まさか歌山の両親が娘のアイドル活動について、何も知らされていないとは思わなかった。想定外の事実に焦りつつも、電話を切られて引き下がるわけにはいかなかった。
「ちょっと待ってください! 契約書の保証人は父親の名前になっているので、お父さんなら何か知っていると思います」
「しかし、父の方は留守なので……」
「それなら連絡先を教えてください。お願いします!」
十数分以上にも及ぶ懇願の末、やっと歌山の母親から父親の電話番号を入手した。さっそくその番号へ電話をかけたのだが、一向に父親が電話に出る気配が無い。
家族の深い闇を感じた俺は、迷惑を承知の上で何度も電話しまくった。着信拒否されても都内の公衆電話を捜し歩き、十円玉を両替して電話し続けたのだ。
そしてようやく父親が出たと思ったら、反応が歌山母以上の無関心だったため、俺は強硬手段をとった。
「まさか仕事場にまで押しかけてくるとは……」
社長と大越家の人脈を最大限利用して判明した歌山父の職業は、まさかの官僚だった。職場を突きとめて臆さず訪問したところ、すんなり個室に通されたのである。
「娘さんにアイドル活動を休めと言ってください」
「メールでいいですか?」
「駄目です。直に会って言ってください」
「そんな時間はありません」
「……最後に娘さんと話したのはいつですか?」
「よく覚えていません」
怒りを抑えろ俺。こんなところでスカした眼鏡を殴っても仕方がない。
「娘さんには興味が無いと?」
「年頃の娘とはそういうものでしょう。変に親しくする必要はない」
「このままだと娘さんが世間の悪意に晒されてしまいます。黙って見過ごすつもりですか?」
「娘が決めた事だ。僕には関係ない」
もう限界だった。間にある机を飛び越え、相手の胸倉を強く掴み上げる。
「関係ないことはないだろ! 自分の娘だぞ⁉」
「それならあんたは誰なんだ? 他人が家庭の事情に口出しするな」
「もう踏み込んじまったんだよ! 俺はあいつのプロデューサーだ! 家庭の事情なんざ、野球のスパイクでスライディングしてやるよ!」
「手を放せ」
俺がこれだけ激昂しているというのに、相手は顔色一つ変えることがなかった。その冷静さにつられてしまい、言われるがまま持ち上げていた体を床に降ろす。
「まったく、無作法な奴だ。話し合いにならない。さっさと帰ってくれ」
「直に会ってくれると約束してくれるまでは、何があっても絶対に帰りません」
「僕にメリットがない」
自分の娘に対してメリットがどうのこうのと、こいつは損得勘定でしか物事を考えられないのか? 無理やりにでも興味を向かせるため、俺はある賭けに出る。
「メリットではありませんが、報道の余波が仕事に響けば、それはデメリットとなりえるのではないでしょうか?」
「……それは脅しか?」
「いいえ、違います。もし直に会ってくれれば、俺が全ての罪を被ると言うんです」
「小癪な真似を……」
キャリア官僚ならば、政府のポスト争いは壮絶だろう。マスコミは第四の権力とも呼ばれるようになり、その影響力を軽く見ることはできない。
歌山父は逡巡した後に、答えを返した。
「分かった。話を受けよう」
「ウチの事務所で伝えてください」
「一緒に住んでいるんだ。僕の自宅でいいだろ」
「信用できないので、俺の前で伝えてください」
「強情な奴だ。承諾してやる代わりに条件がある。金輪際、僕の仕事を邪魔するな」
「分かりました」
最後に名刺を受け取ったのだが、歌山母に教えられた番号とは別物だった。仕事に差し支えが生じるのなら、番号まで変えるほどの用意周到さらしい。
まぁ、約束さえ取り付ければこっちのものだ。俺は日付を確認し、指定した時間に呼び出す段取りを決めたのであった。
× ×
歌山に親子対面させ、話し合えば解決に向かうと思っていた俺に対し、またもや腰を抜かしてしまうほどの社会的大騒動が勃発した。
それは大手芸能事務所を対象とする、連続脅迫事件である。犯人は大手事務所に所属するアイドルへ大量の脅迫文を送りつけ、多くのイベント開催を中止させたのだ。普段ならこんな嫌がらせには屈しないのだが、犯人は前の無差別連続殺傷事件に便乗し、〈ゲットバッグ ザ アナーキーズ〉の名前を出してきたのである。
これまた頭のイカレた野郎で、自分は〈ゲットバッグ ザ アナーキーズ〉のメンバーであり、資本主義の大手芸能事務所に鉄槌を下したと言うのだ。そんなことは誰も頼んではいないし、脅迫なんて正攻法で挑む俺たちを侮辱するものである。
しかし、世間の目はそのように捉えてはくれなかった。まだ前回の噂が消えきっていない内に別の事件が起きたせいで、〈ゲットバッグ ザ アナーキーズ〉をやり玉に挙げる風潮が高まってきたのである。ネットも誹謗中傷の嵐となり、今じゃすっかり悪役だ。大越家の情報操作は間に合わなかったのである。
それだけでなく、何を考えているのか大手芸能事務所はイベント中止の被害総額を、そのまま宇喜田興業に請求してきた。社長は無視を決め込んでいるが、ひっきりなしに報道陣は事務所に詰め寄るわ、電話はかかりっぱなしだわで休まる暇がない。
俺はその後始末に追われ、事務所で残業をこなしている。流石に疲れて集中力が途切れてしまった頃、仕事終わりらしい日向井が話しかけてきた。
「爆発するんじゃなかったの?」
フェスのライブで会話したことを言っているのか。迷いが生じている今の俺にとっては、容易に答えられない質問だ。
「……もう遅いぞ。早く家に帰ったらどうだ?」
「あんたこそ、辞表は家で書いたら?」
「勝手に見るな」
これは歌山父の約束である。なすりつけられた罪を庇いつつ責任を取るには、この程度の手しか思いつかなかったのだ。
「同じ事務所として言わせてもらうけど、そんなことで責任は消えないわよ」
そんなことは分かっている。脅迫事件の犯人は未だ捕まっておらず、まだ逃走を続けている。彼が俺たちと関係ないことを証明させればいいのだが、指をくわえて警察に捕まるのを待っていては、彼女たちの精神的不安が増加してしまう。時間が無い。
「歌山たちのアイドル活動休止だってそう。そんなことをしたところで、事態は何も収拾されないわ」
そんなことは分かっている。世間はアイドル活動を自粛させるムードなのだから、下手に動いたりはせず、落ち着くまで息を潜めるしかないんだよ。
「あんたさぁ、アイドルのためとか偉そうなことを言っておいて、本当はあの三人のために行動してない?」
「……何が悪い?」
「それなら三人のことを信用してあげなよ。あいつらがこんなので傷つく玉かっての」
「日常生活でのことを考えたら、いくらでも支障が出る」
「だから今更でしょ? あの子たちは良い大学に入るために、今までアイドルをやっていたわけじゃないもの」
あいつらは自分のやりたいこと、自分を変えたいためにアイドルを始めたのだった。社会体制などの枠組みなんて、元から外れていた彼女たちにとっては問題ではない。俺はそんなことさえ忘れていた。
「楽しい青春とか全部を捨てて努力して、アイドルに命を懸けてるの」
自律できない自分が嫌だから変わろうと思って行動していたのに、悪意に負けたら何も変わらなかったのと同じじゃないか。俺は休めと言うのではなく、果敢に立ち向かえと言ってやるべきだったのではないか?
「どうしてそんな忠告をするんだ?」
「このままじゃいけないから。わたしは叶が間違っているとは思わない」
「なぜ言い切れる?」
「だって魂があるもの」
人間社会に対する怒り悲しみ、苦悩や葛藤など、表現に自分の魂を込めたのなら、それは覚悟となる。
「……もし彼女たちが解散したら、理想を引き継いでくれるか?」
「真っ平ごめんよ。でも、骨くらいは拾ってあげるわ」
十分すぎる返答だ。
× ×
日向井と会話をした次の日、俺は歌山を事務所に呼び出した。仕切りのある個人的なミーティングルーム内には、俺と歌山の二人しかいない。
「改まって何?」
大越家に泊まって以来、俺と歌山の関係はギクシャクしている。今日も棘のある物言いであり、説得させるのに骨が折れそうだ。さっそく本題に入る。
「お前の父親を呼んだ」
「はぁ? 何それ?」
「お前と三人で今後の話し合いをするためだ」
「あの人が来るわけないじゃん」
「ここにいる」
仕切りの影に身を隠していた歌山父が登場する。まさか本当に来ているとは思わなかった歌山は、あまりの驚きに目が見開く。
「え、どうして……?」
久しぶりに向き合ったというのに、親子らしい会話は一つも無い。そんなことよりも、歌山は明らかに狼狽えていた。
「仕事が忙しいんじゃ……」
「叶」
父親は娘の名前を呼び、真剣な顔で対面する。
「……何?」
後は父親の口から、娘にアイドル活動の自粛をするように伝えるだけだ。それで世間の悪意から彼女たちは守られ、平和な人生を送ることができる。
「アイドルを休――」
「やっぱり駄目だぁぁーーっ!」
日向井との会話がフラッシュバックし、俺は咄嗟に歌山父の口を手で塞いだ。
「何をする⁉」
「親が子供の願いを潰すようなこと言うな!」
「お前が言えと言ったんだろ!」
「そんなものは取り消しだ! 親なら現実の厳しさではなく、夢に燃えていた若き頃の情熱を教えろ!」
「こいつ無茶苦茶だぞ!」
「ちょっとどうしたのよ⁉」
騒ぎを聞きつけ、社長が部屋に入ってきた。俺が大声を出したら駆けつけるよう、予め打ち合わせしていたのである。
「みんな聞いてたの?」
社長だけではなく、呼んでいない大越とヘラまで来ていた。
「叶ちゃんの一大事に、じっとなんてしていられないよ☆」
「……借りは返す」
これで〈ゲットバッグ ザ アナーキーズ〉の関係者が一通り出揃ったものの、当初の作戦が変更されたために、誰も話の流れが分かっていない。口を開けないで硬直し、相手の出方を伺っている。
「じゃ、僕は約束を果たしたので失礼する」
「待てよ」
このまま帰らせては読んだ意味が無い。娘の叶が父親に何か言いたそうだったため、即座に帰ろうとした歌山父を慌てて引き止めた。
「まだ何か?」
「次は叶の番だ。話を聞け」
「くだらん。約束にない」
「原理主義者かテメーは? もっと臨機応変に対処してみせろよ」
またもや取っ組み合いの喧嘩になりそうだったところを、いい加減に見かねた社長が仲裁してくれた。
「私のために争うのは止めなさい!」
「争ってねーよ! 今はオカマ口調じゃなくてもいいですから!」
「シリアスな空気に耐え切れなくて……」
重苦しい雰囲気を緩和してくれるのはありがたいが、どうにも緊張に欠ける。
とりあえず仕切り直して、歌山が父親に話しかけられる状況を作り出した。名字が一緒でややこしいため、ここからは娘の方は下の名前で呼ぶことにしよう。
「父さん、話いい?」
「駄目だ。時間が無い」
親とは思えない接し方に、怒ったヘラが強く机を叩く。
「話を聞いてあげてください!」
「何だ君は?」
「叶ちゃんのお友達です☆ じゃなくて、叶ちゃんの話を聞いてあげてください!」
「他人には関係ない」
次は大越が机を拳で叩いた。
「……関係なくない。ちなみにボクは大越輿子。以後お見知りおきを」
「どうして他人の問題に首を突っ込む?」
彼からすれば、損得勘定以外で動く人たちの行動が理解できないのだろう。普通は他人の問題に踏み込んでも傷つくだけだが、友人のためなら理由はいらない。
「他人事じゃないから! ヘラとパパがそうだったように、叶ちゃんもパパと仲直りしたいはずだよ☆」
「ヘラ、お前まさか、あの話を……?」
どうやら、ヘラに非常階段での会話を聞かれていたらしい。あまりにも照れ臭い内容だったため、社長は決まりの悪い顔になった。
「パパはヘラの夢に反対してるんだって、ずっと思ってた! でも、本当は応援しているって知って、すっごく嬉しかったよ☆」
「ま、まだ俺は全面的に賛成したわけじゃないぞ」
「それでいいの! ヘラは一人で大きくなったわけじゃないもん! ヘラは皆のおかげで成長できたんだよ☆」
「ヘラぁぁ~~っ!」
「パパぁぁ~~っ!」
二人の親子は泣きながら抱き合っているが、知り合いである俺たちから見ても、それは残念ながら茶番にしか思えなかった。大越なんか、汚物を見るような目でファブリーズを吹きかけている。
「潔く叶の話を聞いた方が、仕事へ戻るのに効率的ですよ」
「手短に済ませろ」
俺と同じ考えに至った歌山父は、大人しく話を聞く態度になった。もう一度だけ気を取り直して、緩んだ空気を仕切り直す。
「母さんどうするの?」
「どうもしない」
「愛人いるもんね」
さらっと、衝撃的な情報が発覚した。これがもし本当ならば、同情の余地なく歌山父が全面的に悪い。
「……忙しいのに愛人を作る暇なんてあるわけないだろう」
「母さん鬱病なのに放って置いていいわけないじゃん」
電話口では割と丁寧な対応だったが、実は精神に病を患っていたらしい。それは浮気されたショックからだろうか?
「介護を雇えばいい」
「離婚した後も十分な生活費を払い続けてくれるならいいよ」
「離婚なんてしない」
「妻子を捨てるのは時間の問題でしょ。家庭崩壊してんだから」
「経済的に不自由はしていないはずだ」
「そういう問題じゃない。良家のお嬢様だかなんだか知らないけど、父さんのせいで母さんヒステリックなんだよ。あたしは人生を母さんの介護に費やしたくない」
やはり俺が電話で印象を受けた叶の母親像と、叶の言っている実際の母親像とのイメージが合わない。外と内で、仮面を使い分けているのだろうか?
「俺にどうしろと言うんだ?」
「母さんと向き合って。たまにでいいから、一緒に家族らしい時間を過ごして」
「そんな暇は無い」
「愛人とこに行く時間はあるだろが!」
歌山家の会話がエスカレートしたのを見計らって、またもやヘラが間に介入してきた。嫌な予感しかしない。
「どうして不倫なんかするの!」
「君の父親も分からないぞ?」
わざわざ挑発するようなことを言うとは、感情を読み取らせない歌山父も、内心ではイライラしてきているらしい。
「パパはそんなことしない! パパとママはラブラブなんだもん! 叶ちゃんも、パパとママに愛し合って欲しいはずだよ☆」
「ヘラ、お前まさか、あの話を……?」
「あんたらはもういいんだよ! 夫婦円満な家庭で、ようござんしたね!」
やはりこういうオチか。家庭のデリケートな問題を話している最中に邪魔するなんて、頭おかしいんじゃないのか? いくら俺でも擁護できない。
「シリアスな空気に耐え切れなくて……」
申し訳なく思うのなら、最初からやらなければいいのに……。気弱な社長を無視して、大越が行き詰った話を展開させた。
「……不倫相手といる証拠の現場写真はある?」
「あるけど、出していいの?」
「心当たりがない」
あくまでも白を切り続ける父親にムカついた叶は、鞄から大量の写真を机にばら撒いた。その中の一枚を、勢いよく目の前に突きつける。
「この女だよ!」
「これは僕の部下だ」
ここまでされて全く動じないということは、本当に愛人の心当たりがないのでは? 俺も一枚を手に取り確認する。
「信じられるか!」
「いや、本当だ。確かにこの女性は職場にいた」
この人は俺を歌山父との、面会を通してくれた女性である。見間違えるはずがない。
「職場でだって不倫はするだろ!」
「彼女とは仕事での相談を受けていただけで、これも業務の一環だ」
「そうだとしても、母さんを無下にしていたことに変わりない! あんたは母さんより、その女を優先したんだ!」
「優先したのは部下ではなく、仕事だ」
「同じことだろ!」
「全然違う。俺が仕事に携わるということは、この国を支えているということだ。家庭よりも優先するのは当たり前だろう」
世界は誰かの仕事で成り立っている。そんなことは大事だと分かっていても、親子喧嘩の前では通用しなかった。
「国よりも、まずは家庭を支えてみせろよ!」
「これは母さんとも相談して決めた事だ。子供が親の仕事に口出しするな」
「母さんとも相談って、母さんがそんなこと了承するはずがない! デタラメ言うな!」
「二人で決めた事だ」
「どうしてそんなこと勝手に決めたんだよ⁉」
「……お前には最後まで言わないつもりだったが、仕方ないから教えよう。母さんはもう、長くは生きられない」
「は?」
突然の告白に対し、叶は言葉を失った、俺でさえ、最初は何を言っているのか分からなかった。少しの時間を置いてから、叶はようやく言い返す。
「適当なこと言ってんじゃねーぞ。ただの鬱病だろうが」
「鬱病ではない。あいつは元々体が丈夫ではなかった。お前が無事に生まれた時には、二人で大喜びしたものだ」
自分の勘違いだったことと、娘に関する両親の幸せそうなエピソードを出され、すっかり彼女は毒気を抜かれてしまった。
「……何の病気?」
「原因不明だ。ただ分かっているのは病が進行するにつれて、徐々に新しい記憶から失っていくということだけ。若年性アルツハイマー病と似ているが、妻は脳だけでなく体全体が衰弱しているために、正確な診断ができなかった」
記憶を失うだと? そういえばあの電話での対応には、いくつものおかしな点があった。まるで自分は結婚しておらず、娘など産んでいないかのような……。
「母親の様子が変になり始めたのは、一体いつ頃だ?」
俺の予感が的中しているのなら、事態は深刻な上に最悪だ。
「……確か中学に上がる前くらい」
「そのくらいには既に、俺との記憶も無くなっていた」
歌山父でそのくらいだということは、娘の叶はもっと前から母親に忘れられていたということになる。
「道理で、あたしのことなんて眼中にないはずだよ……」
叶は立て続けのショックにより打ちひしがれ、放心状態で床に膝をついた。すかさずヘラと大越が介抱する。
親子との会話が終了したとはいえ、謎が全て解けたわけではない。俺にはまだ訊いておきたいことがあった。
「でもそれなら、なおさら妻の傍にいたいと願うのでは?」
「いや、妻は自分のことより、夫の夢を応援してくれた」
「夢って、今の職業のことですか?」
「そうだ。貧しい農家育ちの俺が官僚になるだなんて、周りの人間からは馬鹿にされた。しかし、大学で出会った彼女だけは違かった。婿養子になる時も散々嫌味を言われたが、俺が今まで頑張れたのは妻のおかげだよ。だからこそ俺は、妻の望むように仕事をしている」
奥さんとの約束を忠実に守るために、安心させようと仕事に精を出していた。それに婿養子ということは、歌山と言う名字は母方の性だったのか。ついでに、歌山母から聞いていた電話番号について尋ねる。
「あの、この電話番号は?」
「昔の屋敷のだ。とっくに今は引っ越して、義理の祖父母は隠居している」
それでなかなか繋がらなかったわけね。それなら俺は、しつこく間違い電話をしていたということになる。後で謝罪しなければ……。
「話は終わったな? じゃあ、俺はもう行くぞ」
もう歌山父を引き止める理由は無いが、残された叶のことを思うと、このままにしていいはずがない。まだ何も解決していないのだ。
しかし、引き止めたとこで俺にはどうすることもできない。今回は見送ろうとしたが、大越が歌山父の進行を妨げた。
「待って」
「まだ何かあるのか?」
これ以上、何も話すことは無いと思っていた歌山父に対し、繊細な大越ならではの意外な怒りが噴火した。
「ふざけるな」
「何もふざけてなどいない」
「奥さんの優しさに甘えないで」
「しかし、それは妻が――」
「こんなのは気を使っているだけ。本当は寂しいに決まっている」
大越の母親も最初は夫の顔を立たせていた。それはジェンダーだったり、関白宣言だったりするのではなく、女性特有の慎ましさや、包容力などの貴意に沿ったものなのだろうか?
「どうして分かる?」
「……女の勘」
「くだらん」
珍しく饒舌であった大越であっても、歌山父の考えを変えるには至らなかった。それでも、仲間たちが後押ししてくれる。
「女性のことは、女性が一番よく分かってるよ☆」
「俺にも家庭があります。後で後悔しても遅いですよ」
重い話で口数が少なかった宇喜田親子も、めげずに説得しようとしていた。
「俺からもお願いします! どうか、ご家族で過ごす時間を作ってください!」
誠心誠意の真心を込めて頭を下げる。だが、甲斐甲斐しい懇願はついに歌山父へ届かず、頑なに背を向けられた。
「父さん! 帰ってきてよ!」
父親の背中に向け、放心状態から回復した叶が叫んだ。歌山父はドアの前で歩みを止め、振り返ることなく返答する。
「……約束はできん。だが、近い内に必ず連絡する」
そう言い残し、彼は今度こそ仕事に戻ったのだった。
「じゃ、俺も仕事に行く。後は当事者で話し合ってくれ」
社長もそう言って部屋を出て行き、後には〈ゲットバッグ ザ アナーキーズ〉のメンバーだけが残された。
「良かったな」
歌山家の問題は改善に向かいそうになり、安心した俺は叶の頭を撫でる。
「プロデューサーが父さんを連れて来てくれたおかげだよ」
「……これからどうする?」
これからどうするか。一気に現実へと引き戻されるような大越の相談に対しても、叶は迷うことなく言い放った。
「ライブしたい」
「どうしてだ?」
「あたしは、母さんに見て欲しくてアイドル活動やってた。でも今は、そんな自分が許せない。あたしが前へ進むためには、ここで負けてなんかいられないんだ」
歌山は誰かのためのアイドルになりたいと言っていた。それは言い換えれば、誰かに見られたいということである。理由を他人に求めてはいけないのだ。
しかし、歌山には確固たる決意が芽生えていた。それは誰かに左右されたものではなく、自分が傷ついて獲得した信念である。
「念の為に確認するが、世間の風当たりは冷たいぞ。それでもやるのか?」
「もちろん!」
「OK☆」
「ボクも大丈夫」
彼女たちがこれから相手にしようとしているのは、社会に蔓延している深い闇である。油断していると自分が呑み込まれてしまうというのに、彼女たちの態度は一様に軽い。
「前々から思っていたが、お前らの信頼感はどこから生まれてくるんだ?」
そんなこと、今更になってから確認するまでもないかのように、彼女たちの答えは気持ちよく一致した。
自分よりも努力した人間がいるから。
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