第2話 承・決心

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 場所は白一色の壁によって作られた研究所。

 清潔感が漂い、いくつもの部屋があるその施設の廊下には、白衣を着こなす老若男女、年齢にして一番低い者は未だ一〇歳にも満たない幼児から一番高い者は一〇〇を超える超高齢者まで。国籍、人種、宗教すら問わず、有能な様々な人間が歩いている。

 そして、その集団の中では明らかに異彩を放つ金髪のアンニュイロングに透き通るような碧眼、まな板と言われて当然の憎々しい自分の胸に不満を持ち、入学したばかりの高校の制服を着ている少女が混じっていた。

「こんばんは、お嬢様。今日はどうされたのですか?」

 お嬢様と呼ばれた金髪少女に一人の日本人女性が近づいて来た。

 紅いフレームの眼鏡をかけた二〇代後半女性。キリッとした目と見事に着こなしたスーツからはクールな印象を受ける。

 十六夜叶(いざよいかなえ)、それが彼女の名前だ。

「こんばんは、十六夜さん。今日はパパに報告をと思いまして」

「そうでしたか、これはお邪魔しました。よろしければ話し相手にお供いたしましょうか?」

「いえいえ、大丈夫ですよ。すぐそこなので」

「そうですか……それでは失礼します」

 叶は少し残念そうな顔をしながらその場を後にした。

「さようなら」

「はい、さようなら」

 彼女らはそれぞれの目的地に向かうため、互いに背を向けて歩き出す。



 コンコンコンっと、お嬢様と呼ばれた金髪少女はある一室のドアをノックした。

「入りたまえ」

 中から聞こえて来たのは男の声だ。金髪少女はドアの横の指紋認証システムに慣れた手つきで人差し指を乗せると、目の前のドアが自動的に開いた。

「おお、クロエか。久しぶりだな、一週間ぶりくらいか? たまには親子のスキンシップで風呂でも入らないか?」

 部屋にいたのは三〇代後半のダンディな男性だ。無精ひげを生やし、ボサボサの黒い髪の毛を生やしている。かけている黒い眼鏡がとても似合っており、よりダンディさを出している。

「一ヶ月ぶりだよ、パパ。後、お風呂には入らない」

 クロエは溜息を一つすると部屋の中を見回した。そして更にもう一つ溜息をする。

「もう、またこんなに散らかして……また食事は全部インスタント? よかったら私が作ってあげようか?」

「いや、最近は毎日十六夜さんが手作り弁当を持って来てくれるよ」

「へぇ……十六夜さんが?」

 部屋に散らばるゴミを回収しながらクロエは聞き返す。

 普段クールな十六夜さんは仕事バカで家庭スキルと言われるものが全くない。やりたい仕事が出来れば出世にも興味がない。そんな彼女が何で自分の父親であり、ここの所長でもある変態にわざわざ手作り弁当を持って来るのだろう?

「ちなみにどんな弁当?」

 対抗意識が燃えた訳ではないが、何故かそんな質問をしてしまっていた。

「栄養満点だけどかなり不味い弁当」

「はっきり言うなあ~」

「流石に本人の前では言えないよ。あっ、でも玉子焼きは甘くて結構美味いぞ」

「玉子焼きねぇ~……」

 クロエは一通り部屋を掃除すると、

「あっ、そうだ。はい、今回は当たりだったよ。これが彼についてまとめたレポートね」

 クロエは懐から数枚のコピー用紙を取り出し、父親に渡した。

「おお、マジか⁉」

 父親は獲物に飛びかかる野獣のような速さでクロエの手から紙を奪う。

「良し良し良し良し良し良し! お手柄だぞ、クロエ‼ パパからのチュウだ‼」

「そ、そんなものはいらないっ‼」

 顔を真っ赤にしたクロエは、顔に自分の口を近づける父親をどうにか手で抑える。

「取り敢えず私は帰るから……いい加減離れて! 帰るから離れて!」

「じゃあ、チュウ、せめてチュウだけでも‼」

「だから嫌だって言っているでしょうが、この変態父親‼」

「嫌だ嫌だ嫌だ!」

「ごねるな!」

 その後、長らく親子のスキンシップが続いた。



 同時刻。

 街の端の方にある、いつもは静かな中華料理店が珍しく繁盛していた。

 食材を炒める匂いや、塩胡椒などの食欲をそそる匂いが充満するが、誰一人としてその匂い興味を示す者はいない。

 中華鍋を叩く音。水が蒸発する音。炎が燃え上がる音。

 中華料理店にはなくてはならないこれらの音が大勢の客たちの歓声によって消し去られた。

 客たちが囲んで見ていたのは二人の男女だった。二人共同じ学園の制服を着ており、男の制服には少々焦げたような跡があった。

 顔を見ようとしてもが、二人が食べたと見られる数々の料理の食器により、顔が見えない。

 二人は五杯目のラーメンの丼を持ち上げながらスープを一気に飲み干した。

「へいお待ち! 炒飯一〇人前!」

「「天津飯一〇人前!」」

「応よ!」

 ガシガシガシっと、二人の食べるスピードは全く落ちない。

 料理長らしき人物とスタッフ数人が一瞬にして空いた皿を片付け、そこに新たな料理を置く。そして新たな注文を受けると厨房に呼びかけ、自分たちも料理に加わる。

「ったく、やってられねえよ! なんだよあの金髪碧眼貧乳美少女は⁉ 家を壊すだけじゃ飽き足らず雅まで傷つけて逃げやがって‼ ああ~、次あった時にはあのないに等しい胸を無理矢理にでも鷲掴みしてやるうううっっっ‼‼‼」

「乃ちゃんとの愛の巣を壊したうえに誘惑した貧乳小娘許すマジ‼ そして乃ちゃんの前で恥をかかせたあの赤髪中性美少年も許すマジ‼」

 やけ食いの原因を口にした彼らの熱は更に燃え上り、それに合わせて周りの客たちのテンションも上がっていく。

「追加注文! 焼き餃子、水餃子、蒸し餃子! それぞれ一〇人前!」

「オーダー! 速く持って来なさい!」

 オオオォォ‼‼ と周りの客が感嘆の声を上げる。

 それが合図のように厨房の音が一際大きくなっていった。

 店の奥では休憩に入ったばかりのスタッフが涙ながらも強制的に餃子を作る事になってしまう悲劇が起きていたという。



「ふうぅ~、食った食ったぁ~」

「たまには外食もいいね」

 一通り腹が膨れた乃人と雅は中華料理屋で無料配布されていたニンニク口臭予防の飴玉を舐めながら、手を繋いで夜の繁華街を歩いていた。

 夜の街には学校の部活終わりの学生や、帰宅するサラリーマン、デート中の若いカップルがちらほら見える。

 周りの店の看板にはいろいろなネオンが光を灯し、昼間のように明るい。

 クロエが乃人たちの前から去った後、雨が降り出した。

 乃人は急いで雅を学校の保健室に運ぶと、丁度居合わせた女医に雅を診てもらった。

 異能の使い過ぎで倒れただけ、と聞かされ一安心した乃人は女医に許可を取ると雅をベッドに寝かせ、隣に椅子を持って来てそれに座ると、空気を読んだのか、女医は静かに保健室を出た。

 それから雅が目覚めるまで乃人は雅のそばから一歩たりとも離れなかった。

「でも起きてそうそう腹が減ったってリアルじゃなかなかないぞ?」

「乃ちゃんだって私が起きた瞬間にお腹を鳴らしたじゃん」

「ばっ、バカ、それは緊張の糸が切れたからであってなあ……」

 乃人が羞恥に顔を染めると、雅は小悪魔的な笑みを浮かべた。

「乃ちゃん可愛い♪」

「茶化すなよ、雅の方が可愛い」

「ふふっ」

 街のど真ん中で乳繰り合うバカップル。

 帰る家もなく、夜店を冷やかしながら泊まる宿を探していた二人のヴィホォンが突如、大きな音で鳴り始めた。

「「ッ⁉」」

 ヴィホォンは近くジオルが出現した時にしか起動しない。そしてこの二人のヴィホォンが鳴ったと言う事は国の方からジオル討伐の命令が出たと言う事だ。

 二人はすぐさまポケットからヴィホォンを取り出すと、顔を合わせ、画面に表示された場所へと向かった。



「キャアアアアアアア————」

 二〇代前半のOL女性が悲鳴を上げた。

 場所は人が横に二人並べるかどうかくらいの狭い道。

 一寸先も見えない闇。

 女性の目の前には巨大な影が仁王立ちをしている。身長は三m以上。一目で人間ではない事が分かる。そして雲が動き、月明かりがその影を照らし出した。

 頭にはライオンのような鬣と虫のような触覚が生えており、身体は筋肉隆々。両腕はイッカクの角のようになっている。

 動物的要素と昆虫的要素をおぞましく融合させた科学的には解明されていない異形の化物。

 ジオルだ。

「グウオォォォォォォォ!!!!!」

 ジオルはけたたましい咆哮を上げると女性に突進し、その鋭い腕で女性の身体を突き刺した。

「ぐはあっ‼」

 女性は激しく吐血すると、手足をブランと力なく下げ、それ以降動かなくなった。

 ジオルは腕を

一振りし、肉の塊を投げ飛ばす。投げ飛ばされた肉の塊は壁に衝突すると、空いた穴からダラダラと、血液と一緒に内蔵を噴き出した。

「グウオォォォォォォォ!!!!!!」

 ジオルは再び咆哮を上げると元来た道に戻り、闇の中に消えて行った。

「ちっ、遅れた……」

 ジオルが消えた咆哮とは逆の方から人の声がした。

 声の主である少女は女性だった肉の塊を一見すると顔をしかめる。

 白い髪を腰まで伸ばした少女はジオルが消えて行った闇を見つめる。そして、その闇に向かい右手を向ける。

「死ね」

 単純な一言で……。それはまるで言霊だった。

 だからと言って、その一言には一体いくらの怨みが詰まっているかも分からないような、聞く者を震え上がらせる声で。

 その一言でジオルは光の粒子へと姿を変えた。

 そして、それを見終えた少女は自分が出て来た闇に再び姿を消して行った。



 乃人と雅は息を切らしながらとある住宅街を走り回っていた。

「ったく、ジオルの野郎はどこにいるんだよ!」

「場所はここら辺なんだけど!」

 現場近くまでは来たのだが、肝心のジオルが見当たらない。

 もうかれこれ三〇分以上は走っていた。

「もしかして他の誰かがもう倒したんじゃねぇのか?」

「いや、それならヴィホォンに連絡が来るはずだよ」

「じゃあ、まだここらにいるって事か」

 二人は深呼吸をすると走るスピードを上げる。二人のヴィフォンが震えたのはその時だった。

 乃人は走りながらヴィホォンと手に取ると、画面を確認する。

「…………」

「乃ちゃん?」

 画面を見た途端、走るのを止めた乃人を怪訝に思い、雅も走るのを止めた。

「どうしたの?」

「…………」

 乃人は一言も言わず、ヴィホォンの画面を雅に見せた。

「…………」

 今度は雅も黙り込んでしまった。

 画面には、

『ジオル討伐に参加して下さった皆様、誠にありがとうございました。今回のジオルは消滅した事を確認致しました。どうぞご自由にお過ごし下さい』

 仕事が知らずの内に完了していた事を告げる一方的な連絡が届けられていた。

「「…………」」

 しばらく黙り込む二人。

 いや、別に戦闘狂でないからジオルと戦わなくていい事には変わりないんだけど、ここまで長時間汗水流して走り回っていきなりコレって……。

 その状態のまま五分が経過する頃。

「泊まる所を探すか……」

 何を諦めたのすら分からない乃人が雅に語りかける。

「……うん」

 雅が一つ頷くと、二人は夜の繁華街に戻って行った。



 ピピピピピピピピピピピピピピピピッ!!!!!


 朝、午前七時。

 学園の保健室のベッドで騒々しくアラームを鳴らす携帯電話に乃人が手をかけた。

「もう朝か……」

 乃人は眠い目を擦りながら誰に言うでもなく呟いた。

 隣には乃人に抱きつきながら寝ているワイシャツ姿の雅がいた。ワイシャツのボタンは全て外され、雅は下着姿同然だ。下手をすればただの下着姿よりも強烈かもしれない。

 柔らかく豊満な胸やいい香りを漂わせる身体、触り心地の良い髪が乃人の身体を包み込んでいる。

 あの後、寝る場所を探しても見つからず、困っていた二人は学園に潜り込み、保健室に泊まる事にした。

 ジオル被害の影響により各場所に監視カメラが設置された現代社会にて、泥棒や空き巣などは全滅したと言っても良かった。だから窓の鍵などが開けっ放しでも人に怒られるような事はほぼない程セキュリティー意識が下がっていた。乃人は出来る限り自分の知っている監視カメラを避けてこの保健室には侵入したが、特にこれといって悪さをした訳ではないし、ベッドを借りて一晩寝ただけだ。昨日は肉体的にも精神的にも疲れていて、本当にベッドを借りて寝る以上の事をしていた訳でもない。ジオル討伐命令が出され、その他の不幸な出来事(主に謎の金髪貧乳お嬢様)にあってしまったから仕方がなかったのだ。

 例え何を言われようが、義がこちらにあると思う。

「雅、雅、起きろよ。時間だぞ、朝だぞ」

「……うん? 朝?」

 時間も時間なので、自分を正当化する理由を考えながら雅を堪能する事を諦めた乃人は、雅を揺すり起こす。

「うぅ~ん……ちょっと待ってて……今から朝ご飯……作る……から」

「なに寝ぼけているんだよ、ここは保健室だ」

「ん? あっ……そうだった」

 雅は目を擦ると「うぅ~ん」と伸びをし、小さな欠伸を上げた。

「おはよう、乃ちゃん」

「おはよう、雅。まずは制服を着てくれ、そしたら朝飯にするぞ」

 乃人はベッドの下から昨日の内に買っておいたコンビニ弁当を出しながら言った。

「うん、分かった」

 その後、二人は朝食を食べ終えると、靴を下駄箱に入れ、出来る限り不法侵入がばれないように、知れぬ存ぜぬ顔で教室に向かった。



 キーンコーンカーンコーン……

 キーンコーンカーンコーン……

 

 ダダダダダダダダダッ!!!!!

 

 放課後。

「終わった~。雅、家の修理ってどこに頼めばいいんだ?」

「さあ、初めてだから分からないけど……取り敢えずインターネットじゃない?」

「おっ、そうか。文明の利器って凄ぇな~」


 ダダダダダダダダダッ!!!!!

 

「って、何だこの音?」

「さぁ、なんだろうね?」

 二日前の壊された家の修理についてあれこれと相談していると、廊下で誰かが走るような音が聞こえてきた。

 音は乃人たちの教室の前で止まると、バンッ‼ と誰かが扉を勢い良く開く音が教室中に響き渡る。

 突然の大きな音に教室に残っていた大半の生徒たちの視線が音源に一斉に降りかかる。

「何でここにいるのよぉぉぉぉぉっ‼‼‼‼」

 その音源は周りの視線に構わず、大声で叫ぶと乃人と雅にズカズカと近づいて行った。そして乃人と雅は音源の正体に気づく。

「「あっ、家壊しの貧乳金髪碧眼美少女」」

「違う! クロエ! クロエ・ガーマン! 二度とそんな風に言わないで! 美少女は認めるけど!」

 クロエと名乗った金髪少女は少しムキになりながら髪をなびいた。

 その美しさにクラスの男子たちの目が奪われた。中には目がハートマークにしている者までいる。

「今日、一日中校門の前で待っていたのに、何で校門を通らずに校内に入れているのよ!」

「テメェのせいだろうが! 王道な自己紹介パターンを使いやがって!」

「ひっ⁉」

「じゃあ、校舎裏ね」



 乃人と雅は流れるようなコンビネーションで涙目のクロエの身体を固定すると、そのまま校舎裏に向かった。はずだった。

「で、なんで俺たちは校長室にいるんだ?」

 校長室は然程広くなかった。いや、本当は広いのかも知れない。だが壁を占領する様に並べられている本棚により、真実は校長室のみぞ知るである。

「なんでって、クロエが日本のお偉いさんの家系でそれなりの権力を持っていた。その権力を使えば私たちを殺す事は簡単。校舎裏に連行している途中で、協力しなければ権力を使う、と脅された私たちは何故か分からないけど校長室まで連れて来られた。ってところかな?」

「ナレーター並みの長い説明ありがとうな。本当に雑な設定なお嬢様だよな~」

 乃人は雅の頭にポンポンっと、手を乗せた。

「ふふっ」

 雅は目を猫のように細めると、自身の身体を乃人に傾け、密着させた。

「そろそろいいかな?」

 自分たちの世界を広げ様とした乃人たちだったが、ここに連行したクロエにより、それを阻止されてしまう。

「「ちっ、この疫病神が」」

「何か言った?」

「「なにも……」」

「そう、ならいいわ。ついて来て」

 そう言うとクロエは校長室の本棚のある一冊の本を傾けた。

 すると、ゴゴゴッ! と言う音と共に一つの扉が現れる。

「「こ、これは……」」

「どう、驚いた?」

 隠し扉に言葉を失う二人にクロエが得意気な顔を見せる。

「「な、なんて王道な……」」

「そうでしょう、そうでしょう! 驚いたでしょう! 凄いでしょう!」

 二人が驚いている観点が違うのに気づかず、クロエが得意気に胸を張る。

「この中はもっと凄いわよ。ついて来なさい」

 クロエが扉を開けると、そこはダンジョンの入口の様な光景が広がっていた。

 懐中電灯がなければ進めなさそうな石造りの穴。その中は暗く、一切の光が差し込まれない。恐らくこの中に長時間いれば時間の感覚がなくなってしまう。

「じゃあ、この先は迷路になっているから私から離れないでね」

「離れたらどうなるんだ?」


「永遠にこの暗黒の中で幽閉されたような気分で彷徨う事になる。ライスボール・ローリングみたいな」

 ……ん? おむすび? 回っている? ……あっ、おむすびころりんか。

 軽く質問したつもりだったのだが、真顔で言う真剣なクロエの回答により、乃人の背中に嫌な汗が流れ始める。

「いやぁ~ん、乃ちゃん怖~い♪」

 しかし一方、お化け屋敷気分の雅が笑顔で乃人の腕に抱き着く。

「ああ、俺も怖い……クロエ、お前は言ったよな? 私から離れないでねって」

「えぇ。言ったわよ、それがどうしたの?」

「いや、別にどうって事はない。ただ確認をしただけだ」

 乃人はそれだけ言うと後は何も言わず、雅を引きずりながら一歩一歩、クロエに近づいて行った。

 そしてある程度近づくと、

「獲ったどぉぉぉぉぉ!!!!!」

「キャッ⁉」

 クロエに抱きつく様にジャンプした乃人の姿に、小さな悲鳴が上がった。

 そして乃人は抱き着いた身体に存分に頬ずりすると、獲った獲物の身体の感触を存分に味わう。

「ほう~、これが貧乳の胸か……雅と違って柔らかさの欠片もないな、てか硬い。ここまでのまな板だと、流石に少し可哀想だな。萎えるぞ」

「乃人さんはやはり大きい方が好みですか?」

「そりゃあ、大抵の男なら大きい方がいいだろ。柔らかいし、挟めるし、揉める……って、え?」

 頭上から聞こえた第三者の声に乃人が顔を上げた。

「赤髪美少年⁉ って事は……」

 乃人は上げた顔を徐々に下げていく。

「はい、これは私の身体です」

「ゲロマズッ⁉」

「おっとっと」

 乃人は突き飛ばす様に翼から離れた。

 勢い良く押された翼はちょっとしたオーバーリアクションをしながたバランスを取る。

「いきなり押す事はないでしょう。それに、今度からは親しみを込めて『ハッシー』と呼んで下さい。私とあなたの仲ではありませんか」 

「変な言い方すんな! 野郎とフラグを建てた覚えはねぇよ!」

「おや、これは残念。これが結構建っているんですけどねぇ……ふふふっ」

「気持ち悪りな‼ ならそれを出せ。片っ端から全部折ってやる」

 冗談みたいに笑う翼に乃人が必死に抵抗する。

 そこへ雅が介入してきた。

「乃ちゃんは産まれてから死んでも私だけのものなのっ! あなたの様な美少年によって乃ちゃんをそっちの趣味に染める訳にはいかないの!」

「おやおや、これは好敵手(ライバル)と言うものですか。いいでしょう、子猫が獅子に立ち向かうその勇気は認めましょう。しかし所詮は子猫、獅子に敵うとでも?」

「こんのぉ~、一回勝ったくらいで~‼」

「えぇ、勝ちました。えぇ、勝ちましたとも。私は異能を使わずに圧倒的な実力差であなたに完全勝利しましたが何か?」

「う、うぅ、乃ちゃ~~ん‼」

「ああ、分かったから泣くな泣くな。羽島も雅をこれ以上いじめるな」

 乃人は抱き着いてきた半泣き状態の雅の頭をさすりながらなだめる。

 こうして、クロエは翼に強く、翼は雅に強く、雅はクロエに強いと言うジャンケンの様な三すくみの関係が完成した。

「遊んでないで行くわよ」

「御意」

「あっ、ちょっと待てよ!」

「な、乃ちゃん待って!」

 小走りで乃人がクロエたちの後を追うと、雅もそれにならい、後について行った。

 

 

 しばらく歩くと暗黒とも言える空間に一筋の光が見えて来た。

「あれが出口よ」

 出口に近づくにつれ、人々の話声が聞こえてくる。

 その数は一〇や二〇ではなくもっと多い。

 この先には何があるんだ? 

 乃人は目を眩しい光から手で庇いながら出口を通った。

「これは……」

「白衣の人がいっぱい」

 いくつもの部屋があるその施設の廊下には、白衣を着こなす老若男女、国籍、人種、宗教すら問わず、様々な人間が歩いていた。

「ここはとある研究所(ラボ)です」

「あなた達にはこの奥に来てもうわ」

 最低限の説明だけすると、クロエと翼がどんどん先に行ってしまう。

 いろいろ質問はあるが今聞いても答えてくれそうにない。

 乃人は目的地に着いたら聞けばいいか、と考えて雅と共に彼女らの後を追った。



 コンコンコンッ、とクロエは一室のドアをノックした。

「…………」

 中からの返事がない。

 ここにいる全員の頭に? が浮かぶ。

「おかしいわねぇ……」

 クロエはもう一度ノックするが、やはり中からの返事がない。

 仕方がなく、隣にある指紋認証装置で勝手にドアを開けると、中から何か大きな物体が飛び出し、クロエに抱き着いた。

「クロエクロエクロエ~、昨日ぶりなのにもうこんなに可愛くなって~、クロちゃんマジ天使~、食べちゃうぞ? キリッ」

「パ、パパ⁉ ……離れろ、この変態‼」

「痛ててて、もうクロちゃんはツンデレさんだねぇ~」

 顔を赤くしたクロエが突き飛ばすと、その物体は床に尻もちを着いた。

 飛び出してきたには三〇代後半のダンディな男性だった。無精ひげを生やし、ボサボサの黒い髪の毛を生やしている。かけている黒い眼鏡がよりダンディさを醸し出していた。

 クロエとの会話から察するに彼はクロエの父親らしい。

 クロエパパは尻をさすりながら立ち上がると、乃人たちと目が合い、初めて乃人たちの存在を確認する。

「おお~、君が乃人君か! 隣の巨乳美少女は雅ちゃんだね! 二人共資料で見せてもらったよ! 今回は協力してくれてありがとう! この恩は必ず何らかの形で返すよ! 私は春馬(はるま)だ、よろしく!」

「「は、はぁ……」」

 いきなりのクロエパパ——春馬の必要以上の友好過ぎる態度に頭がついていかない。取り敢えず曖昧な返事を取る。

「じゃあ、早速実験と行こうか!」

「ちょっと待ったぁぁぁぁぁぁ!!!!!!」

 春馬の話が飛躍し過ぎて、更に物騒な単語が聞こえた。流石にこれには乃人が待ったをかける。

「実験⁉ 何それ聞いていないんだけど⁉」

「おや? クロエから聞かなかったのかい?」

「何にも聞いていない!」

 春馬は一瞬呆けたような顔になると、それを元に戻した。

「え、えぇ~と……じゃあ、知っている事は?」

「ここが『とある』の研究所って事ぐらいですかね?」

 乃人は先程の翼の「ここはとある研究所です」と言う言葉から異能が存在するこのご時世、『幻想殺○』や『超電○砲』の能力者を現実に作り出そうとする研究所だと思っていたのだが、

「あっ、つまり何も知らないのね」

 どうやらそうではないらしい。

「クロエに説明する様に言っておうたんだが……」

「だ、だって普通説明したら誰もついてこないじゃん!」

 春馬は腕組をすると、どうしたもんかなぁ~、と一人で考え込んでしまった。

 って、さっきからなんか危ない会話になっていないか?

 すると翼がスッと手を挙げた。

「では僭越ながら私が要点を絞って説明させていただきます」

 全員の視線が翼に集中した。誰一人として物音を立てず、部屋には翼の声のみが響く。

「ここはジオルの研究をする研究所で、先日、こんな事が分かりました。『ジオルは平行世界から産まれた存在』だと……つまりジオルはこことは違う世界からの使者だったのです。そしてかくかくしかじか……この世界には平行世界と通じる異能を持った人が極わずかですが存在したのです。その一人が波佐間乃人さん、あなたです」

「……かくかくしかじかでまとめたれても分からん」

「そうですか……ならもう少し砕いてお話いたしましょう」

「始めからそうしてくれ」

「ではでは……平行世界に複数存在し、ジオルはそんな一つの平行世界からこの世界に来ているんです。我々はそれ仮に『ジオルの世界』と名付けました。その世界ではジオルが永遠と増殖し、この世界を含め、他の世界もジオルによる攻撃を受けている可能性が浮上しました。我々の目的は他の世界の住民と協力し、ジオルが無限増殖をする原因を消す事です。次に考えたのが他世界に行く方法ですが……そこで必要になったのが波佐間乃人さん、あなたの異能です。あなたの異能は『対象にした相手の異能の疑似コピー』ではなく正しくは『対象にした相手の異能を持って産まれた世界の自分の異能を使用できる』です。異能が少し変わってしまうのは不明ですが……おそらく個人差と言うものでしょう。そしてあなたは異能は常時、いろいろな平行世界と微弱ながら結合(リンク)しています。我々はそれを利用して平行世界へ行こうとしているのです」

「OK、かくかくしかじかよりも一〇倍は分かりやすかった」

 乃人は手をかざすと翼の説明を遮った。

 少し頭が痛くなる。じゃあ、俺が∞を発動する時に見るあの光景の平行世界のものか? それなら昨日見た光景が一つの平行世界って事か?

「つまり、俺は世界を救う鍵になればいいのか?」

「……まぁ、その考えで間違いはありません」

「そうかぁ……もう一つ、俺も平行世界に行くのか?」

「はい」

 乃人の問いに翼は小さく頷いた。

 部屋に沈黙が訪れる。

 全員が乃人の返事を待っている。もしここで、彼が首を縦に振ればこの世界の大きな一歩になるだろう。だが、ここで首を横に振れば……。

「俺は………………」

 全員が息を飲み、乃人の返事を聞いた。 

「俺は力を貸さない」

 待っているのは世界崩壊のカウントダウンだった。

 

 

 授業中。

 教室には静けさが満ち、教師の長々とした話を聞かされていた少年は窓の外を眺めていた。

 眺めていても今は授業中。この時間に外にいる生徒はおらず、動かない退屈な光景。それでも教師の話よりはマシだと思い眺め続けていると、二人の男女が帰宅路を歩いている姿を発見した。『読心術』の異能を持つ少年はそれを発動する。

「流石乃ちゃん! この商売上手!」

「まぁ、それ程じゃあねぇよ!」

 乃ちゃんと呼ばれている少年の腕には明らかな巨乳美少女が満面の笑みで抱き着いている……羨ましい……。

「乃ちゃ~ん、これから何する~?」

「う~ん、雅は何したい?」

「乃ちゃんが喜ぶ事なら何でもいいよ♪」

「俺も雅が喜ぶ事なら何でもいいよ♪」

 バカップル力全開の二人は互いの顔を見合わせると、

「「遊園地に行こう!」」

 ……きっとあれは不良だ。将来はろくな事にならない不良だ。超絶可愛かった娘も見なかった事にしよう……。もしそうだった俺は自分を励ませる。

 少年は自身の異能を解くと、授業へと集中した。



「俺は力を貸さない」

 その場にいた雅と乃人以外の全員の顔が固まる。まるで世界の終わりを見るような表情だ。クロエに限っては一、二歩後ずさり、我に返ると同時に乃人の襟首に手をかけた。

「何でよ⁉ 何で断るの⁉ 世界のため、正義の味方、世界の英雄になれるのよ⁉ どこに断る要素があるのよ⁉」

「俺が死ぬかもしれない」

 クロエの必死さに対して乃人は淡々と答えた。

「もし俺が行く平行世界がこの世界よりもジオルの出現率が高かったら、俺の死亡率も上がる。俺の望みは雅が幸せに暮らす事、ただ一つだ。そして雅は俺を必要としている。わざわざ死地に行く必要なんてないんだよ」

「出現率はこの世界よりも低いかもしれないじゃない‼」

「確かにな……だが別にこの世界の出現率でも俺と雅は現にこうして生きていける」

「じ、じゃあ、一体どうするのよ⁉ この世界に住んでいる人たちは今、この瞬間にも愛する人をジオルによって殺されているのよ‼ あなたはそんな人たちの前でも同じ事が言えるの⁉」

 クロエの悲痛な叫びを乃人は聞く。しかし、

「言える」

「ッ⁉」

 乃人は言い切る。それはなぜか? 

「俺は雅が幸せならそれでいい。他人がどんな目に合おうが結局は他人、知った事じゃない」

 波佐間乃人にとって美鈴雅の存在はそれ程に大きい、大き過ぎる。幼馴染、バカップル、いつでも新婚、そんな安いものではない。もし神と言われるものが存在したらそれと同等。いや、その神さえ超える『概念すら存在しない』もっと神聖をも超えるものだ。乃人は雅が死ねと命じれば一瞬の迷いなく死ねる。

 クロエの美しい瞳に涙が溜まり、それを見た翼は黙っていた口を開く。

「では雅さんはどうなのですか? あなたは乃人さんが平行世界に行かない事でこれからも大量の死人が出ても構わないのですか?」

 この言い方は汚い。そして重い。翼の口調は普段のものとは違い、明らかに重かった。表情は変わりないが、内心焦っているのがいち高校生の乃人でも分かる。

「う~ん……そんな言い方をされると確かにと思っちゃう部分もあるんだけど、私は乃ちゃんが幸せに暮らせればそれだけでいいし。乃ちゃんの願いを叶えたい……乃ちゃんと同じ答えかな」

「で、でも⁉」

「クロエ、もういい……」

「でもパパ!」

 興奮しているクロエの肩に手を乗せ、春馬が彼女を制す。

「パパは強制が嫌いなんだ。分かるだろう? ママの様な人をこれ以上作ってはいけないんだ」

 春馬の目にはクロエの姿は映っていなかった。彼の目に映っている光景は先程出会ったばかりの乃人には到底分からなかった。しかし、春馬とクロエ、二人には乃人の知らない光景を共通認識していた。

「ごめんね、乃人君、雅ちゃん。強制するつもりは僕にはさらさらないよ。ただ僕には君の力が必要だっただけなんだ……なあに、気にする事はない。また違う方法を探すさ、なんたって僕は科学者だからね。これが仕事であり、生き甲斐でもあり……使命さ」

 春馬は笑顔で話す。だがその笑顔はまるで子供がやせ我慢をしている様な顔に似ていた。

「翼くん、彼らを出口にまで案内してやってくれ。僕は研究に戻る」

「ち、ちょっと待って下さい!」

 力なくその場を離れようとした春馬を乃人が呼び止めた。

「うん? なんだい?」

「え? あ、ああぁ~……えぇ~と……」

 あまりの力ない春馬の後ろ姿を見た乃人は、思わず彼を呼び止めてしまった。自分でも無意識に、反射的に、乃人は春馬を呼び止めてしまった。春馬とクロエの間に何があったのかは分からない。しかし二人の反応からして口に出しただけでも辛い事があったのは事実だろう。それに関しては可哀想に思う。が、それはそれ、これはこれ。二人の事を可哀想に思うが雅よりも大切という訳ではない。いくら可哀想と言っても所詮は赤の他人。


 雅が幸せならそれだけでいい。


 これは嘘偽りのない乃人の本音だ。しかし……。

「お、俺の複製品(クローン)は使えないんですか?」

「「「「⁉」」」」

 乃人の突然の提案に再び四人の表情が固まる。

「俺が体細胞を提供すれば、複製品を作れる。その複製品を作る段階で洗脳すれば問題なく力を借りる事が出来るでしょう! 人間の複製品を作る技術は確か二〇〇四、五年には既に完成していると聞きました。問題ないはずです!」

 自分でも名案かと思った。これなら誰も損せずに平行世界に行ける。

「そうか! その手があったか!」

 春馬は先程の表情が嘘のように満面の笑みを浮かべた。

「で、でもそんな非人道的な事……それに法律的にも……」

 クロエが反対の意を表すように顔を俯かせる。が、

「こうしてはいられない! 乃人君、君の体細胞サンプルを提供してくれ!」

 クロエの声は聞こえていない。聞こえたとしても心には届いていない。

 興奮状態の春馬の世界にクロエが入る場所はどこにも存在しなかった。

「いいですよ。でもこれは雅のためじゃないから取引です」

 乃人は雅のために動き、雅のために生きている。雅のためになる事は少しでもやっておくべきだ。

「いくらだ⁉ いくら出せばいい⁉ ここは国が作った施設だ! 金なら腐る程ある!」

「そうですねぇ~……サラリーマンが稼ぐ総金額の平均が約二億円なので取り敢えず(・・・・・)三億円でどうですか? ついでに家の修理が終わるまでの貸家も」



 現在に戻る。

 時刻は午後一〇時。

 黒一色の空に小さな星々が点々と浮かぶ。いつも見ているはずの空なのに幻想的な景色に見えるのは一生自由に暮らせる金(自由)を手に入れたからか。


 本遊園地はただいま午後一〇時をもちまして閉館させて頂きます。

 本日はご入場頂き誠にありがとうございました。

 またのお越しをお待ちしております。


 澄み切った女性の声が扉の閉じた遊園地から永遠と聞こえる。

 周りには若い男女が多く、おそらくほとんどが大学生やフリーターだろう。制服姿の乃人と雅もその中に溶け込んでいた。

 二人は帰りの電車に乗るために駅に向かっている途中だった。

「やっぱ平日だけあって空いていたな」

「でも次々にいろんなアトラクションに乗れて楽しかったよ?」

「確かにな。ちょっとばっか疲れたが」

 乃人は帰り際に買ったチュロスを一口かじる。

 駅までは徒歩一〇分程度。

 乃人と雅はその間、今日の思い出に花を咲かせた。


 3


 気づけば一週間が経っていた。

 三億円を手に入れたあの日から乃人と雅は学校にも行かず、昼間はぶらりとどこかに遊びに行くか家でだらだらと、夜は互いの身体を求め合う肉欲の日々が続いていた。

「ふわあ~、寝た寝た」

 ベッドから上半身だけ起こした乃人は軽く伸びをする。

 隣には全裸姿の雅が乃人の腰にしがみつく様にして寝ていた。

 乃人は微笑ましそうに雅の頭をなでると、静かにベッドから抜け出す。

「おっと」

 そこで自分も全裸の事を思い出した乃人は昨夜にベッドインする前に脱ぎ捨てた服を着ると朝食を作るため、静かに部屋を出て台所に向かった。

 この貸家の場所は乃人の家から徒歩三〇分くらいの場所にあった。

 二階建ての一軒家。

 始めは家の構造の違いから戸惑っていた二人だったが今ではもう慣れていた。今では乃人は台所にある泡だて器の場所が一瞬で分かる程だ。

「今日はジャガイモの味噌汁とご飯、ベーコンエッグってところでいいか」

 冷蔵庫を開けながら乃人が呟く。

 最近、夜は乃人より雅の体力の消耗が激しく、朝は外部からの刺激では決して起きない。自分から起きるのを待つしかない。そのため、乃人が毎日二人分の朝食を作っていた。

これが男の甲斐性ってやつか?

 乃人はふとそんな事を思いながら慣れた手つきで卵を割る。

 しばらく料理していたら目向け眼の雅(パジャマ着用)が台所に入って来た。

「おあおう(おはよう)、乃ちゃん……」

「おう、おはよう、雅。今朝飯出来るからテーブルに座っていてくれ」

「……うん」

 雅は聞いているのか、いないのか、分からない怪しい動きで椅子に座った。椅子に座ったのを見る限り、聞いていた様だ。

 雅は近くにあったリモコンでテレビをつける。

 ぼおっと雅が眺めていたテレビのモニターには、美人女子アナウンサーが慌ただしく手に持った原稿を早口で読んでいた。


「緊急連絡です‼ 昨夜から世界的にジオルの出現率が瞬く間に上昇していき、現在では通常の三倍に達しています‼ 出現率はまだまだ上昇する模様です‼ 危険ですので民間人の方は強力な異能者と行動し、最寄りの避難施設に避難して下さい‼ 異能者の方々も危険ですので単独行動は控えて、ツーマンセル、スリーマンセル、もしくはそれ以上での行動を心がけて下さい‼ ただいま確認されている負傷者は国内だけでも一〇〇〇人を超えています‼ 繰り返します‼」


 テレビの画面は変わり、生放送なのか、ジオルに破壊された家々や、規制がかかってもおかしくない死体などが次々と映し出される。

 それはまるで映画のワンシーンの様だった。それを見て雅の眠気が一気に吹き飛ぶ。

「乃ちゃん……」

「雅……」

 二人は互いの顔を見つめ合うと、

「「ここら辺は出なくて良かったな(ね)」」

 笑顔で答えた。

 基本、二人は自分たち以外の事ならどうでもいい。自分たちが幸せに暮らす。それが彼らのただ一つの願いだ。

 他がどのようになろうが、二人の生活に影響が出なければそれでいい。

「そんな事より、朝飯食おうぜ」

「わ~い! 今日はなに?」

「ジャガイモの味噌汁とご飯、ベーコンエッグだ」

「ふふっ、美味しそう」

「雅の方が美味しそうだよ」

「もお~、乃ちゃんのエッチ♪ 毎晩すっからかんになるまでやっているのに回復早くない? まあ、乃ちゃんにならいつ食べられてもいいけどね♪ 性的にも、物理的にも。逆に食べてあげよっか?」

「って、おい。何か怖いものが混ざっていたぞ?」

「ふふっ」

 雅は笑顔を絶やさず、乃人が運んできた味噌汁を美味しそうにすすった。

 

 

「やっぱ、どこも開いていないなあ」

「まあ、ジオルの大量発生なんて前代未聞だからね」

 乃人と雅は冷たいそよ風が吹き抜ける繁華街を歩いていた。

 いつも繁盛している繁華街だが、本日は嘘の様に周りの店はシャッターが閉まっていたり、建物自体が滅茶苦茶に破壊されていたりで人の気配が全くなかった。

 家からここまで来るのに普段は出会うはずのないジオルに一〇体くらい出会った。二人が出会っただけでこの数だ。実際はこれでも氷山の一角。それを考えればこのありさまは簡単に予想出来ただろう。

 ここまでジオルを倒したのは雅だけで乃人はただ傍観していただけ。

 雅の異能は強力で応用性もある。それに比べて乃人の異能は自分が死ぬ瞬間にしか発動しない欠陥異能。勿論そんな事は雅がさせないため、結局乃人の出番はなかった。

 そしてここまで異能を発動し続け、平気な顔をしている雅自身も大したものだ。

 二人がブラブラと繁華街の中心を歩いていると、突然ヴィホォンが本日一一度目のサイレンを鳴らした。

「お、またか」

「本当、今日は多いよねぇ」

 

 ガラリ……。


 背後で瓦礫が崩れる音が聞こえた。

「グウオオオオオオオオオオオオオオオッッッッッ!!!!!」

 現れたジオルがけたたましい咆哮を上げる。

「『中刃物』!」

 雅は瞬時に自身の周りに大量のナイフを展開させる。そして乃人を背中で庇い、即座に臨戦態勢に入った。

 ジオルの身長は五mを裕に超え、身体は闇夜に紛れれば区別がつかない程に黒い。例えるならば影。その二つの紅く輝く眼がある部分だけが顔だと分からせる。

「『行け!』」

 雅が命じるとナイフたちは一斉にジオルに向かって飛んで行った。

「グウオオオ‼」

「「なっ⁉」」

 今までのジオルならこの一撃で決まっていた。

 しかしこのジオルはそれを片手で弾き飛ばした。

 今までのジオルとは明らかにレベルが違う。

「『消去』! &『大刃物』!」 

 弾き飛ばされたナイフは光の粒子となり、主の元に帰るかの様に集まると数本の剣となった。

「『行け』!」

 姿を変えたナイフたちは雅の命により、再びジオルに襲いかかる。が、

「グウオオオオオ!」

 ジオルは危険を感じ取ったのか、その剣の攻撃を全てかわした。腕などにかすり傷がついたがすぐに再生してしまう。

「ちっ!」

 雅は舌打ちをし、次の攻撃に移ろうとするが、

「グウオオオオオ!」

 その前にジオルが両手を剣の形に変形させ、雅に襲いかかる。その剣は人間二人分の胴体くらいある大剣だった。

「雅‼」

「これくらいなら大丈夫!」

 乃人が雅に手を貸そうとするが、雅がそれを制止する。

 ジオルが雅に剣撃を繰り出すが、雅は即座に両手に剣を生成し、ジオルの両腕を受け止めた。二人の動きは鍔迫り合いの状態で硬直する。

「ううう……」

 片方は化物。片方は異能が使えるだけの女の子。腕力には差があり過ぎる。力勝負ではどちらに武があるのかは明らかだ。

 雅が小さな悲鳴を上げると、次第に彼女の身体が後退を始める。

 踏ん張る雅の靴により、地面が抉れていく。

「雅ッ! 刃物を造ってヤツの目を狙え! 足止めにはなるはずだ!」

 完全になめていた相手。だから虚を突かれ、劣勢になった。ならば一時撤退する事が最優先事項だ。しかし、当の雅は全く新たに刃物を造り出す事はなかった。

「ご、ごめんね、乃ちゃん。実は余裕の振りをしていたけど私の異能が限界に達しているの」

「⁉」

今日は予想外の連戦だった、考えてみれば当たり前の事だ。

 雅が何故今までその事を言わなかったのか。それは乃人にはすぐに理解出来た。

おそらく自分に心配をかけたくなかったのだろう。雅が戦えなくなれば乃人が死ぬかもしれない目に何度もあいながら戦わなくてはならない。だからと言って、それを黙っていた雅を乃人は許せなかった。

雅が自分を思ってくれるのは嬉しい。しかし、雅自身が危険な目にあっては意味がない。

目潰しが無理になり、他の作戦を考えていると、突然、寒気が背筋に通るのを感じた。

 反射的に前を見てしまう。

「⁉」

 目の前に見えるのは相手の攻撃に耐えている雅、それと乃人を見つめる真紅の二つの眼だった。

 目が合った。

 そう思った瞬間、

「うわっ⁉」

「おおっ⁉」

 雅がバランスを崩し、前のめりに倒れた。

「あれ?」

「……どこに行きやがった?」

 目の前から突如姿を消したジオルに警戒しながら乃人は雅を立たせる。

「取り合えず……助かったのか?」

「そうみた——ッ⁉ 乃ちゃんッッッ‼‼‼‼‼」

「うん?」

 雅は振り返りざまに乃人を突き飛ばした。

「痛ぇなあ……一体なんだよ……⁉」

 地面に強打した頭をさすりながら立ち上がる乃人の目の前には、

「グウオオオオオオオオオオ!!!!!」

 先程のジオルが立っていた。

じゃあ、雅は俺を庇って⁉

「雅!」

 乃人はジオルから視線を落とすと倒れている雅を発見した。

「雅! おい、雅ッ‼」

 気を失っているのか、返事がない。ジオルの方向に倒れているため、表情の確認も出来ない。

 乃人の背筋に再び寒気が走った。先程よりも冷たいものだった。

 思わず唾を飲んでしまう。嫌な汗が流れ出し、呼吸が荒くなり、心拍数がドンドン上がっていく。雅が持っていた剣が形を失い光の粒へと変わっていく。

 それ以上彼女を見てはいけない。近づいてはいけない。

 直感がそう伝えている。

 つい先日もクロエ絡みで似た状況があったとはいえ、明らかに違う……何だ……この感覚は……。

 この恐怖に似たなにかに縛られ、乃人は彼女に近づくかどうか迷っていると、

「グウオオオオオオオオオオ!!!!!」

「ッ⁉」

 ジオルの咆哮が空間を支配した。

 それはまるで野生動物が勝利した時に発する遠吠えの様にも聞こえた。

 その遠吠えに答えるかのように、先程までのそよ風が強風となり乃人に吹きつける。

 

 ゴロン……。


 強風に煽られた球体状のものが乃人の足元に転がってくる。

 それを目にした瞬間、乃人は呼吸が出来なくなった。あまりの刺激に脳が耐え切れず、地面に膝から倒れてしまった。視界も歪み満足に前が見えない。

あれはなにかの間違いだ。あれはなにかの間違いだ。あれはなにかの間違いだ……。

 必死に現実逃避する乃人は顔を上げ、這いつくばりながらも震える手でそれを手にした。

 その球体状のものは上から茶色の長い髪を伸ばしている。真ん中には少し幼さを残した顔があり、庇護欲を掻き立てられる。何度も乃人が目にしたもの。何度も乃人が愛おしいと思ったもの。

 美鈴雅の首だった。

 一瞬、乃人の頭の中は白で染まり思考が停止する。

「あ、あ……ああ……」

 かすれながらどうにか出した声がそれだった。

 乃人は少しずつ雅の首を抱いていった。そしてしっかりと胸に抱きしめる。

「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっっっっっっっっっっっっっっっっ⁉⁉⁉⁉⁉」

 空気が震えた。

 その絶叫は重く、脆く、儚く、悲しさか悔しさ、はたまた怒りか……何が含まれているのかは乃人自身でさえも分からなかった。

 ただ叫びたかった。今の彼が思うのはそれだけだった。

 世界で一番愛している幼馴染が殺された。その残酷な現実を突きつけられ、乃人の心にはポッカリとした穴が空いた。それは乃人の生き甲斐、生きる意味を失った事を意味していた。

 そんな今の乃人にとって目の前のジオルなど、もうどでも良くなった。

 ジオルは抵抗する事なく、うずくまる無防備な乃人に近づきその大剣となった腕を上げ、躊躇なく振り下ろした。

 

 ガチンッ‼‼

 

「グウオッ⁉」

 鋭い金属音が辺り一面に響き渡る。

 ジオルの大剣は乃人を覆うように展開した金属に弾かれ、乃人本人に傷をつける事はなかった。

 ジオルは警戒し、一度後ろに大きく跳んで距離を取る。

「グウぅぅぅぅぅっ!!」

「……うるせぇ……」

 警戒するジオルの唸り声を乃人が立ちながら黙らせる。

 その声は小さいながらも覇気を持っており、ジオルを金縛りにした。例えるならば『蛇に睨まれた蛙』が適当だろう。

 立ち上がった乃人は鎧を着ていた。その鎧は角々がとても鋭くなっており、そこに触れただけで大抵のものは斬れる鋭利さ。その他に、全体にも鋭い棘が無数にあり、近寄るもの全てを拒むかのような、刃物そのものを連想させる銀色のフォルムだった。

 雅の首を地面に置いた乃人は一度、深呼吸をする。

 乃人の異能——∞が発動可能になった時、乃人は平行世界の光景を見る。今回見たその光景はジオルに攻撃されながらも乃人と雅が笑い合っていた。それは昨日までの乃人たちをそのまま映したようにも思えた。

 この瞬間、乃人の空いた心の穴を埋めるようにある思いが生まれた。

 それはジオルの完全排除。

 この世界の雅は死んでしまった。だが平行世界にはまだ雅がいる。それは自分の知っている雅ではないが雅である事に変わりない。これ以上雅を死なせる訳にはいかない、それが例え別の世界でもだ。美鈴雅を救う。その第一関門は、

「……殺す……」

 目の前のジオルの排除。この程度のジオルを排除出来なくては他のジオルを排除出来る保証などどこにもない。

 甲冑により、顔が隠された乃人の表情は見えない。

 だが言葉を発する。この行動だけで効果は十分だった。

 通常、ジオルは人間の言葉を理解する能力、知力は持っていない。

 だが、それでも。いや、だからかもしれない。ジオルは本能のまま破壊を繰り返す生命体だ。つまり本能の塊。本能が危険信号を発している。簡結に言うとジオルは……。

 恐怖した。

「グウオオオオオオオッ!!!!!!」

 ジオルは反対方向に走りながら雄叫びを発っする。それは明らかに今までの雄叫びと違っていた。

 聞くもの全員に恐怖を与える。不安、後悔、懺悔などの悲痛に満ちた声、悲鳴だ。

 この黒いジオルの身長は裕に五mを超えており、歩幅もそれに比例しているためかなり大きい。人間が単純に走っても追いつけるはずがない。

「『巨大刃物(ビッグソード)』……」

 乃人は雅のように虚空から大剣を出現させるとその上にスケボーのように乗る。

 そして一言。

「『行け』……」

 乃人を乗せた大剣はまるで重さを感じさせない速さで逃げるジオルの後を追った。そして距離がある一定にまで縮まると乃人は更に二本の剣を出し、それをジオル目がけて放った。剣は回転しながら飛び、

「グウッ⁉」

 逃げるジオルの速度を超え、ジオルの大木のような足をそれぞれ切断する。ジオルは突然足がなくなった事により、走る勢いが消えずにそのまま前に盛大に転がる。

 そして数秒すると遅れて乃人がジオルに追いつく。

 乃人は大剣から下りると、倒れるジオルに近いた。

 ジオルは少しでも離れようと残った腕だけで這いずり周る。乃人は新たに大剣を作ると、それをジオルの背中に刺し、地面に貫通させた。

「グウオオオオオオオオオオオオオオッッッッ!!!!!」

 生への執念か。ジオルは腕で地面を抉りながら進もうとするが身体が地面に固定され、一歩も前に進まない。更に乃人は暴れるジオルの両腕を新たに出現させた剣で昆虫採集の標本の様に固定した。

「グウオオオオオオオオオオオオオオッッッッ!!!!!」

お前は雅の首を切断した……。

 宙に浮いたままの大剣を持つと乃人はそれを大きく振りかぶった。

「だから俺はお前の首を切断する……」

 躊躇なく振り下ろされた乃人の巨大な刃によって這いつくばるジオルの首が胴体と切断された。

「…………」

 切り離された首を乃人が無言で見下ろす。その首は次第に胴体と共に小さな光となり、空の彼方へと消えていった。

 それを確認した乃人はきびすを返すと雅の首が置いてあるところまで戻り、そのまま雅の首を自分の目線の高さに合わせた。

「……雅、仇は取ったぞ」

 手で雅の瞼を閉じる。

 剣の鎧は光の粒となり虚空に消え、中から白髪となって現れた乃人は雅の首を抱きしめる。その彼の頬には一筋の滴が流れていた。


 4


「どうしたものでしょうか……」

 学園に隠された研究所の一番奥の部屋。

 赤髪の中性的な顔をした羽島翼が溜息交じりに紅茶を飲んでいた。

 彼の表情は曇っており、ただ事ではないのは一目瞭然だった。

「本当にどういたしましょうか……」

 翼がもう一度溜息を漏らし時、彼のスマホが鳴った。

 翼はそれを耳に近づけ、電話に出る。

「はいもしもし……それは本当ですか? ……分かりました。ただちに向かいます」

 翼は学園の知り合いからの電話を受け、死体を持った謎の白髪少年を出迎えに向かった。



 乃人が通る廊下には数多の悲鳴が交差した。

 彼は首のない女の死体を背負い、その女の首を抱きしめながら学園の廊下を進んでいる。服は女から噴き出す血で半分以上が真紅に染まっていた。

 その彼のおぞましい姿に学園に避難してきた住民とその住民を守るために残った異能者たちが次々に道を開けていく。そんな中、一人の勇気ある少年が彼の前に立ち塞がった。

「と、止まれ‼ 止まらなければ攻撃するぞ‼」

 乃人より歳が一,二つ上くらいの少年は右手を構える。するとそれに続けと言わんばかりに周りから続々と異能者が現れ、あっという間に彼を囲んだ。

 だが乃人は止まらない。

「オイッ‼ 止まれと言っているのが聞こえないのか‼」

「…………」

「いいのか‼ 殺るぞ‼ 本当に殺るぞ‼」

「……なら殺れ……」

 彼は少年の右腕を掴むと自分の心臓に向けた。

「そうすれば俺の異能がお前らを無差別に殺す。俺はそう言う欠陥異能なんだよ」

 欠陥異能だから……雅が死んじまった……。

「ッ⁉」

 少年と彼を囲む異能者たちの表情が固まる。

「それでも構わないのなら……殺ってみろ。こちとら目的が出来てなあ、ちぃっとっばっか急いでんだよ。例えるならここにいる人間全員が俺の人質だ。その中には勿論お前も含まれている事を忘れるな」

「このクズ野郎が……ッ」

 二人の会話に周りの空気が鎮まる。今なら先程交差していた悲鳴が嘘のようだ。

 みんなが肩唾を飲み、その後の展開に震えを隠せずにいる。


「双方それまで! 互いに矛を収めなさい!」


 その時だった。

 集団の中から一際大きく発せられた声が場の静寂を壊した。

 海のように広がった人々の塊が割れ、その中から一人の中性的な少年が現れた。

 これは先程、乃人が歩いていた時と同じような光景だが、明らかに異なる点が一つあった。それは乃人は人々から畏怖、恐怖の対象に見られていたのに対し、この少年はその逆。高尚、信頼の対象として見られていた事だ。

「羽島様が来てくれたぞ!」

「羽島様助けて下さい!」

「羽島神様!」

 翼の登場により、避難民、異能者たちの声援が嵐のように吹き荒れた。そんな事に動じない翼は周りの異能者たちを下がらせ、白髪の乃人と一対一で向き合う。

 翼は一度手を上げるとみんなの声を制す。

「…………」

「…………」

 翼は彼の持っている嫌でも目に入ってしまうものに目を向けると、全てを悟ったかのような表情を浮かべた。

「乃人さん……」

「何だ?」

「奥でお話ししましょう」

「願ったり叶ったりだ」



「なるほど……そんな事が……」

 翼は淹れ直した紅茶をすすりながら、対面に座っている乃人にショートケーキと紅茶を出していた。

 現在に乃人の服は血に染まっておらず、翼の私服を着ている。

 筋肉質な、豚に間違われるような覆面をした男が黒い仮面をしている男にダイナミックな関節技を決めたところがデカデカとデザインされた服だった。

 話している途中に誰かが入ってきて、血だらけの乃人を見たら(研究所でも)騒ぎになり、一大事と言う翼の考えだ。実際、ここに到着するまで二人は隠れながら移動したのだが五,六人の研究員と遭遇し、騒ぎになりかけた。

 もう一つは衛生面的な問題。言葉的になんだか雅が汚いみたいで一瞬イラついたが、衛生面的な問題では否定出来ないので黙っておいた。

 そして、騒ぎの原因の半分となった雅の首と身体は現在、部屋にあった冷凍ボックスに収納されている。

 翼は手に持つ紅茶をテーブルに置くと立ち上がり、その場で、

「乃人さん、誠に申し訳ありませんでした」

 土下座した。

「……どう言う事だ?」

 翼による謎の土下座に乃人は首を傾げる。

「今回の件は全て我が研究所の失態です」

「……いや、意味が分からねぇ。なんで雅が死んだ事がお前らの失態なんだよ?」

 純粋に質問する乃人の顔を捉えながら翼は言いにくそうに事の真相を話し始める。

「事の始まりは一週間前に遡ります。乃人さんが我が研究所に体細胞を提供してから我々はすぐに複製品を造り、模擬実験に移りました。そして昨日、本番。何度も模擬実験をしました。しかし、結果は失敗。複製品の異能が不安定で暴走。平行世界への扉が予想よりも巨大になり、ジオルが異常にこの世界に出現してしまったのです」

 翼は苦虫を噛んだような顔をしながら事の経緯を話し終わるとそのまま土下座を続けた。

「つまり今回、ジオル出現率が跳ね上がったのはここの研究所のせいって事か?」

「……その通りです……」

 乃人はショートケーキを一口サイズに切るとそれを口に運び、紅茶を飲んだ。

 殺したくなった。この研究所にいる人間を今にでも皆殺しにしたくなった。けれど……。

「そうかぁ……羽島、取り敢えず頭を上げろ。俺は別に誰も恨んでいない」

もしも恨んでいるなら俺自身だ。あの時『雅が幸せならそれだけでいい』という考えが本当だったらジオルを一匹残らず殺し、誰もが安心して平和な世界にするために協力し、雅をそこの住人にするのがベストだったのかもしれない。それに俺が始めから力を貸していればジオル出現率の増加なんて馬鹿げた事にはならなかったかもしれない……。

 乃人はその可能性を考えながらもう一度紅茶を飲んだ。

 そしてある事に気がつく。

「クロエと春馬さんはどうした?」

「ッ‼」

 そもそもこの部屋は春馬の研究室。その本人がいない事も気になるし、クロエの執事である翼が一人でここにいる事自体がおかしい。クロエの姿がここには見当たらない。

「こちらです……」

 翼は一瞬硬直すると、頭を上げ、暗い顔をしながら部屋を出た。乃人は彼の後に続いた。

 徒歩五分、無言のまま廊下を進む翼がある一室の前で止まる。

「こちらです……」

 おそらくクロエの部屋。

 その部屋は他の部屋と比べて目立った特徴のない部屋だった。きっと、ここだと言われなければ気づかずに通り過ぎてしまうだろう。

「少々お待ち下さい」

 翼は後ろに控える乃人に一度振り向くと、部屋のドアをコンコンコンッとノックした。

「クロエ様、乃人さんがみえましたよ」

「…………」

「クロエ様」

「…………」

 この場にはシイ~ンと言う擬音が最適だろう。誰の声もせず静まり返っている。聞こえてくるのは遠くを歩く研究者たちの小さな足音だけだ。

「……はぁ……」

 クロエからの反応がない事に翼が溜息を漏らす。

「何かあったのか?」

 ジオルの出現率増加とは他に、クロエ関連の面倒事が起きたと察した乃人は翼に聞く。

「実は今回の件で責任を感じた晴馬(はるま)様が首吊り自殺をなさいまして……晴馬様を溺愛されていましたクロエ様はかなりのショックで引きこもってしまったのです」

「……そうか……春馬さんが……」

 乃人は心ここにあらずという風に呟いた。

 始め、翼の言っている意味が分からなかった。一度しか会っていないが、あんなどこまでも前向きな印象の人が自殺をする……この状況を作りだした彼にとって背負ってしまった重みにきっと耐えられなかったんだろう。そして、最愛の実の父の自殺で引きこもってしまったクロエ……生きる気力がなくなってしまったのか。これは俺の妄想だが、もしそうだったら俺は春馬さん、クロエの親子二人の気持ちが分かる。

 雅が死んでしまったこの状況を作りだした自分が自分へ与えた罪の重み。

 最愛の恋人が死んでしまった事により生きる気力がなくなってしまった事。

 過程は違えど、俺は二人の感情が分かるような気でならなかった。

「羽島、変わってくれるか?」 

「はい……」

 翼はドアから一歩離れると、乃人はドアの前に移動した。乃人も翼同様にドアを三回ノックする。

「クロエ、俺だ、乃人だ。今回の事、これからの事で少し話したい。ドアを開けてくれないか?」

「…………」

「返事はなしか……確かに今回の実験で晴馬さんが自殺をしたのは残念だ。隠れツンデレファザコン娘のお前がショックを受けるのは十分に理解している。でも考えてみろ。晴馬さんは自分の責任から逃げたんだ、愛娘のお前を残してな」

「…………ッ」

 クロエは依然沈黙を貫くが、反応が表れた。それを察知した乃人は次に言う台詞を考える。

「晴馬さんが失敗し、この世界ではジオル出現率が増加した。思わないか? 今、この瞬間、晴馬がするべき事は自殺? 世界のみんなに謝罪? いや、違うな。この状況をどうにかする事だ。一見、マッチ&ポンプに見えるかもしれないがそっちの方が何百、何千、何億の命が助かる。自殺なんてその後にやりやがれって話だ」

「…………ッ」

「でもあの野郎はそんな事はお構いなしに自殺しやがった。この場合、どうなるか分かるか? お前は『世界に破滅をもたらした男の一人娘』とこの先、未来永劫に語り継がれるんだぞ。でもあの男はなにもせずに死にやがった……もう一度だけ言う」

 乃人は息を大きく吸い込むと、声を大にして、


「晴馬さんは自分の責任から逃げたッ‼」


「止めて!」

「うおっ⁉」

 部屋のドアが勢い良く開き、中から飛び出したクロエが乃人とぶつかった。二人はそのまま乃人を下にするように倒れ、倒れた乃人が顔を上げると目の前には涙でグチャグチャに濡れたクロエの顔があった。

「止めて! それ以上パパの悪口を言うのは止めてよ! そ、そもそも……あんたが協力すれば成功していたかもしれないじゃない! このバカ! バカバカバカバカバカ! ば……か……っひ……っひく……っひ……」

「…………」

 クロエの言う事は乃人自身も考えていた事だ。乃人に反論する権利もないし、するつもりもない。

 乃人を倒し、その上で泣き崩れるクロエに乃人は静かに語り出した。

「ごめん、クロエ。さっきは言い過ぎた、こうでもしないと出て来そうになかったからな……初めに言っておく、雅が死んだ」

 クロエの震えが止まる。次第に顔を上げていくクロエの目と乃人の目が合う。

「ジオルに殺された、俺の目の前で首チョンパされてだ。かなりのショックだったよ。見ろよこの髪。知っているか? 人間に限らず動物はストレスの許容量を遥かに上回ると白髪になるんだぜ」

「ッ⁉」

 雅の死亡と乃人の変化を見てクロエの目が見開かれる。その目からはすでに涙はこぼれておらず、新たな情報の刺激に耐えているように見えた。

 乃人はそんなクロエの頭を優しく撫でながら言う。

「クロエ、晴馬さんが亡くなったのは残念な事だ。お前の母親もジオル関連でお前と離れ離れになったのは詳しくは知らないが予想は出来る。だけどな、俺はこれまで家族を五人も殺されたんだ。俺の両親、雅の両親、雅。でも俺は今、こうして次の行動に出ている……さっきも言ったけどよ、俺は雅が死んでかなりのショックを受けたんだ。それで俺は気づいた。俺はもっと強くならなければならない。そしてジオルを一匹残らず、殺す。きっと俺の異能はそのためにあるんじゃないかってな……俺なんて女好きで最愛の幼馴染みを目の前で殺されるような貧弱野郎だ。強いならまだしも、決して主人公なんておこがましいキャラじゃないのは分かっているし、なれもしない。でもよ……俺は男だ。仇(ジオル)を皆殺しにしたい。だから頼む、俺に力を貸してくれ。この通りだ」

 乃人はクロエに遠回しに元気を出せと言いながら立たせる。そして立たせると次に土下座をした。しかし、土下座と言っても所詮は頭を下げて謝意を示しているだけ。つまり、

「そ、そんなのあなたのただエゴじゃない! 事が起こった瞬間に心変わりをするなんて最低よ! あなたのせいでパパが死んだと言っても過言ではないわ!」

「クロエ様!」

 クロエが溜まっていた不満をぶちまける。その中には圧倒的な理不尽さを持つものもあり、翼がそれを制止しようとするが溜まりに溜まった不満はこれくらいでは抑えられない。それは雨水が限界にまで貯まったダムが決壊し、洪水が起きるような、暴走と言っていいような……そんなものだった。

「ジオル出現率が上がったのも、街が半壊したのも、世界が悲鳴を上げているのも、沢山の人たちが苦しみながら死んでいくのも、パパが自殺したのも、雅が死んだのも……」

 強気だったクロエの顔が犠牲になったものを上げていくにつれ、次第に緩み、我慢していた涙腺は再び崩壊を始めた。

「全部……全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部!!!!!」

クロエは右足を大きく後ろに上げる。

「あなたのせいなんだからッッッッッッッ!!!!!」

 土下座する乃人目がけてのサッカーボールキック。その蹴りには怒りが乗っていた、悲しみが乗っていた、理不尽が乗っていた。それ故に乃人に激しく響いた。

「ッ⁉」

「クロエ様⁉ 乃人様⁉」

 クロエはそのまま部屋に戻ると、ドアを閉め、また部屋に閉じこもってしまった。

 部屋の前には蹴りを喰らいながらも未だに土下座を続ける乃人と、乃人に全てを託し、ポツンと立つ翼の姿があった。部屋の中からはクロエの泣き声が聞こえてくる。

 クロエの声が次第に聞こえなくなり、しばらくして、

「なあ、羽島……」

「なんでしょう、乃人さん?」

「クロエの様子をドア越しに覗いてくれないか?」

「かしこまりました……どうやら泣きつかれて寝てしまったようですね」

「そうか……ならもう我慢しなくていいか……」

 乃人はクロエに蹴りを喰らった。それは乃人の心にしっかりと響いた。しかし、響いたのは心だけとは限らない。

「もう……限界……だ……」

 完全な不意打ちで喰らったクロエの全力の蹴りに肉体的にも響き、視界が揺らぐなか、乃人はその言葉だけを言い残し、気を失った。



 一週間後、乃人は研究所への入口である校長室を訪れていた。

 あの後、目覚めた乃人は引きこもったクロエの代理である翼と今後の方針を話合い、ジオル出現率を元に戻す事に決めた。すでに出現してしまったジオルは各支部の異能者が相手をし、その間に戻すと言う算段だ。と言ってもこの時点では乃人のする事は皆無に等しい。出現率を元に戻すのは簡単で、平行世界の扉を開ける機械に複製品の異能を使ったから平行世界への扉が巨大になり過ぎ、出現率が上がった。なら今度は、本人(オリジナル)の異能を使い、扉の大きさを元の大きさに戻す。と言う考えだ。

 算段は見事に成功。出現率はほどなくして元に戻った。しかし、平行世界に機械を繋げる事が出来るのは一週間に一度が限度。それ以上の頻度で次元の壁に穴を空けてしまうと、予想がつかない事態になってしまうらしい。

 そして今日、乃人にとって待ちに待った一週間が経った。

「一週間ぶりです、乃人さん」

「おう、久しぶり」

 校長室にはすでに翼が待機しており、いつでも乃人を出迎える準備が整っていた。

 翼はボディガードたちに待機するように指示を出すと、乃人を連れ、研究所に向かった。



「この一週間は一体なにをしていらしたのですか?」

「そうだなぁ、雅の葬儀とか、雅のアルバムの整理とか……ふふっ、このアルバムが三九七冊もあってな……ふふっ予想以上でそれに時間を費やしていたよ」

「そうですか……」

 半分以上何の事だか分からない翼は静かに相槌をした。

 そうこうしている内に二人は研究所に着いた。

 平行世界に行く機械はこの研究所の中央の一際大きな部屋にあり、二人はそこに向かっていた。



 二人がたどり着いたのは大きな広間だった。ざっと見ただけでも、軽く野球ができそうだ。

 そして広間の中心には弧を描くような大きな機械が設置されており、その周りには白衣を着た科学者たちがせかせかと忙しそうに、小走りをしている。

 そんな様子を遠目で見ていた乃人がふと立ち止まり、翼を引き止める。

「なあ、羽島、もう例のものは出来ているんだろ」

「例のもの? ……ああ、そうでしたそうでした。はい、乃人さん。こちらになります」

 翼はポケットから小さな箱を出し、それを乃人に渡した。乃人は箱を開けると、中身を確認し、それを箱ごと自分の胸ポケットにしまう。

「お守りですか?」

「まあな、俺にとってはこれ以上ない最高の守り神様だよ……サンキューな」

「いえいえ、お安い御用ですよ。それよりも本当に出発の準備は整いましたか?」

「ああ、そんなものは一週間も前に出来ている」

「これから行く場所は戦場なのかもしれませんよ?」

「こちとら死よりも苦しい現実を味わったんだ。死なんて怖くねぇよ。それにジオルどもを皆殺しにしたら俺は自殺でもして、雅に会いに行くよ。本当は今にでも逝きてぇが、そしたら平行世界にいるかもしれない雅がこの世界の雅の第二、第三になっちまうかもしれない。それだけは絶対に嫌だ。だから俺はジオルを皆殺しにして、ジオルの世界を破壊するまでくたばる訳にはいかねぇんだ」

 乃人の頭の中には、直接見てもいないのに雅が首を切り落とされる映像が流れる。乃人の言葉には怒気が含まれているが、それは目から流れ落ちそうな涙を必死に隠すため。おそらくこれは本人も気づいてはいない。その証拠を隠そうとするはずの目はしっかりと翼を見ていた。

「そう……ですか……」

 それだけ言うと、翼はそれ以上何も言わずに、顔を伏せた。

「あっ、翼様! 準備はもう出来ていますよ!」

 しばらくして、翼に気づいた一人の男性科学者が声をかけてきた。

「分かりました、今行きます。乃人さん」

「ああ」

 二人は中央の大きな機械に近づいた。

 機械は大きな弧をなぞるように青い光に満ちていた。

 翼が大きな弧の中に入り、乃人もそれに倣い、弧の中に入る。

「では、そろそろですね……乃人さん、くどいようですが再度問います。準備は出来ましたか?」

「準備は出来た……が一つだけ聞きたい事がある」

「はい、なんでしょうか?」

「クロエはどうしている?」

「…………」

 乃人は暗い顔をすると、最後の心残りを翼に聞いた。

 一週間前、自分はクロエを泣かせてしまった。そして自分の勝手な考えで、引きこもりになった彼女が一度は部屋から出たのもつかの間、自分のエゴを聞かせたらまたすぐに引き込もってしまった。

 もし、これで彼女の心に一生の傷が残ってしまったら。

 乃人には一生の心の傷がある。だから分かる。それはかなり痛い。この傷は人間の許容範囲を遥か超えている。今の乃人にはジオルを皆殺しにすると言う目標があるため、どうにか正気でいられるが、それでも痛いものは痛いし、苦しいものは苦しい。

「クロエは……泣いていたか?」

「…………」

 静かに問う乃人。そんな彼に翼はなにも言わずにスマホを取り出すとクロエから聞いたのか、乃人に一通のメールを送った。

 乃人は送られてきたメールを見る。メールの中身は一,二分程度の短い動画だった。乃人は? を浮かべながらそれを再生する。

 動画にはクロエが映っており、その顔にはもう涙の跡や腫れは消えていた。その代わりに頬が少し赤いように感じられた。生活感を感じる背景からしておそらく自室で録画したものだろう。

『え、え~……こ、コホン。そ、そうねぇ……じ、実はあなたに謝りたい事があるの。この間はいきなり蹴って……ごめんなさい……わ、私、なんだかモヤモヤした気持ちをどうすればいいか分からなくて……あっ、で、でも‼ 謝ったけど完全にあなたを許した訳じゃないから! 戻って来たらあんなものじゃ済まないくらいにギッタンギッタンにするから‼ だから……戻って来なさい‼ いいわね‼』

 動画はこれで終わった。

 乃人は止まった動画をしばらく眺めると、

「許されたの?」

「おそらく……?」

 翼と一緒に矛盾だらけのビデオレターに首を傾げた。

たぶん許されたんだよな……? ……うん、ツンだなこれは。

 乃人は話が進まないので、許された事にすると「そろそろ出る」と翼に伝えた。

「分かりました。では乃人さん、健闘を祈ります」

「え? 羽島は来ないのか? もしかして俺一人?」

「はい、そうですよ……言っていませんでしたっけ? この機械には乃人さんしか飛べないと言う制限があるんですよ」

「聞いてねぇよ! 俺一人で平行世界のお偉いさんたちと協定を結ぼうとか言うの⁉ 無理無理そんなの絶対に無理!」

 乃人は政治に興味がないと言われる日本人で尚且つ政治に関しては素人だ。相手の出してきた条件で簡単に契約すると、足元をすくわれる可能性が十分にある。

 乃人は慌てると、挙動不審になりながら「あわわわわ」と言い出す。

「仕様がないですね」

 それを見た翼はどこから取り出したのか、一つのレンズの付いた球体を乃人の肩の上に乗せた。

「これは?」

「超バランスが優れ、超レンズで、超長持ち電池の私の試作品カメラです。これなら平行世界に行っても乃人さんと同じ視点で風景が確認出来、通信もできます」

「へぇ、それは便利だな。ってお前やっぱり凄いな……でも本当にこれ落ちないのか?」

「おそらく大丈夫でしょう。電源を入れたので試しに逆立ちをしてみて下さい」

「さ、逆立ち?」

「さあさあ、やってみて下さい」

「お……おう」

 なぜか一気に迫力の増した翼に少し後づさった乃人は何も言わずに頷いた。

 乃人は子供の頃以来の逆立ちが出来るかどうか少し不安になりながら地面に両手をつけると、思いっきり足を上げた。

「おっとっとっとっとっと……」

 あちらこちらへと、多少ふらつくが逆立ちは見事に成功。カメラの何故か物理法則に従わずに乃人の肩に付いたままだった。

「へぇ~、こいつは凄ぇな。どうなってんだ?」

 乃人が逆立ちを止めた時、

 

 ピーン! ブウゥゥゥゥゥゥゥゥンンンンッ!!!!!!


 ヤバい事をしてしまった。

 下した足が装置にぶつかり、機械全体が震え、嫌な音が鳴り始めた。足元からは白い光が発光する。

 機械を囲んでいた科学者たちが大声でなにかを言っているが、遠くにいるからなのか、機械の音に遮られて聞こえない。

「な、乃人さん⁉ なにをしているんですか⁉」

 その音にいつも冷静でクールなはずの翼は似合わない大声を上げた。

「い、いや、俺はただ足が当っちまっただけで……」

 その冷静ではない翼の声に流石の乃人も冷や汗をかきながら、当たった部位を確認する。そこには「それでは平行世界へGO!」と書かれた赤いボタンが押されていた。

「なんでこんなところにあるんだよ⁉」

 乃人はこの機械の設計者を呪いながら奥歯を噛みしめた。

 そうこうしている内に白い光は更に眩しく発光する。

「おい、羽島、ここから離れるぞ!」

「乃人さーん、頑張って下さーい!」

「て、テメェ!」

 いつの間にか機械から離れていた翼が、科学者たちに交じって手を振っていた。

 一瞬でも心配した自分が馬鹿だったと思いながら乃人は、更に眩しさを増す光に耐え切れずに瞼を閉じた。

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