第5話 蚊け
俺と妹、そして弟が俺の部屋に入るとそこには俺の姿をした何者かがベッドの上であぐらをかいていた。
奴は俺たちが来たのを目で確認すると、ニヤリと笑った。
「その様子だと“悪魔の蚊”の仕組みは理解したようだな」
「悪魔の蚊?」
弟が聞きなれない単語に戸惑う。
「そうだ。血を吸うと蚊と人格が入れ替わる、そんな悪魔みたいな蚊だ」
奴はにやにやと顔をゆがめながらいった。
「偶然、見つけたんだ。ダチと。道端で」
「そんなのどうだっていいわよ!お兄ちゃんの体を返しなさい!」
妹は奴のヘラヘラとした態度に不安を覚えたようだ。奴に迫る。
「私と弟でこいつの体を抑えるから、お兄ちゃん血を吸って!」
「おいおい、ちょっと待ってくれよ。少しは俺の身の上話を聞いてくれって。それともこの蚊について知りたくないのぉ?」
奴はゆるりと妹を押しかえす。
「悪魔だったんだよ」
「悪魔?」
「初めて血を吸われたのは俺のダチだった。突然あいつの様子が豹変して俺はビビったよ。で、ダチに乗り移ったそいつは言ったんだ。私は悪魔です。人界を混乱に陥れるために蚊として顕在しました。ってよぉ」
「そんなことって…」
本当にあるのだろうか?しかし現状として信じられない超常が起きている。それが常識の外の存在のせいだとしてもおかしくはないだろう。
「俺も最初は信じられなかったよ。ダチがふざけた演技をしてるんだってな。でも次に刺されたのは俺だった。ダチは俺の体になり、俺は蚊になっちまった。わけわかんなかったよ。でも一番わけわかんなかったのは…」
男は天井を仰ぎ見る。
「その悪魔がバカだったってこと。
奴は俺たちの慌てふためく姿を見て大笑いして、道路でひっくり返って…、
車に引かれた」
あっ!と妹が声をあげる。
たしかテレビでは近隣の交通事故が報じられていた。
「ダチの体と悪魔の魂は死んだ。もう俺たちは元どおりになることなんてできなくなった。そして俺に体を取り返されることを恐れたダチは俺を殺そうとした。俺は小さな蚊だぜ!?本当に殺されるところだった…。どうすることもできず、逃げ惑っているうちに、見つけたのさ。この無防備な体を」
そして現在につながるというわけだ。
「あなたの身の上話はわかったわ。かわいそうだと思うし、同情もする」
でも、と妹はいう。
「私にとってお兄ちゃんは世界にたった1人しかいない大切な家族なの。悪いけどあなたには蚊に戻ってもらうわよ」
弟も同意見のようだ。両手を構えてジリジリと奴に近づく。
しかし奴はそんな状況にもかかわらずおかしそうに笑い出した。心底楽しそうに。
「お前ら本当っバカだよなぁ。まだ気がつかないなんて、俺の罠に」
「え?何!?」
動揺した妹と弟は俺の方を振り向き、初めて気づく。
俺が床に落ち、泡を吹いているのに。
俺は部屋に入ってから急に気分が悪くなり、床に落ちていた。声の出ない蚊では俺は2人に助けを求めることはできなかった。
ピクピクと
そう。部屋では蚊取り線香がたかれていたのだ。
俺は蚊取り線香の殺虫成分に静かに、ゆっくり、しかし確実に犯され、命を落とそうとしていた。
奴は意味ありげな話で2人の気を引き、時間稼ぎをしていたわけだ。俺が、悪魔の蚊が死んでしまえば奴に怖いものはないのだから。
「そんな!お兄ちゃん、死なないで!」
弟が悲鳴をあげる。しかし世界はぐるぐると回り、俺の意識は
妹が奴に飛びかかり、その体を押さえつけた。
「お兄ちゃん!早く!血を吸って!!」
妹が叫ぶ。今ならまだ間に合うと。
「バカか!蚊取り線香の煙の中、飛べるはずがないだろう!死ぬんだよ、おまえの兄は!」
奴が叫んだ。弟の瞳から涙がこぼれる。
「そんなの、いや!」
妹も声を叫び、手を振り上げた。そしてありったけの力で奴の頰を引っ掻く。
長く鋭い付け爪が頰に食い込み、その溝から奴の血が溢れた。
「お兄ちゃん!この血を吸って!」
妹は手に付いた血を俺に垂らす。ボタボタと血は垂れ、俺の小さな体に降りかかる。
––––––それは賭けだった。
血を吸うと入れ替わる、といっても相手から直接針で吸わなければ効果がないかもしれない。
相手から血を吸い出すことに意味があるのか、それとも相手の血を体内に取り込むことに意味があるのか、現段階ではわからなかった。果たして入れ替わりはうまくいくか、それは妹の賭けだった。
「やめろぉ!!」
奴の怒号が聞こえる。
俺は遠のく意識の中、最後の力を振り絞って、
血を吸った––––––。
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