第10話:ヒューの旅立ち
その翌々日、また騒動がわいた。ヒューとリックが口論を始め、とうとう暴力沙汰になってしまった。殴られたのはヒューである。
兵隊上がりの屈強な若者と、四十半ばの中年では力の差は歴然としている。エリオットが銀器を保管している部屋に駆けつけると、床の上でヒューが伸びていた。
「おい、おまえたちどうした?」
怒りで顔を真っ赤にしたリックが叫ぶように答える。
「このオヤジ、俺に『クリスと別れろ』って、しつこいんだ。三年前から婚約しているのに、それはないだろっ!」
うめき声とともに、ヒューが反論する。
「……いい加減、あいつを解放……して、やれよ。おまえらはうまくいかない。年寄りの忠告だ、ぜ」
「秘書になれるわけないだろ。小学校しか出ていないし、もう二十六の女だ。結婚したら、主婦になるのが世間の常識。年増の独身になりたい女なんているものかよ」
「それでも、だ。俺は、あいつをそばで見ていた、からな。結婚に幸せを求めるような――うげっ!」
エリオットは、同僚へ容赦ない蹴りを入れるリックを羽交い締めする。
「おい、よせ。暴力で解決はしない」
「こいつは俺とクリスを侮辱した。許せねえ……」
「ヒューも言い過ぎだ。ここはいったん、距離を置いて冷静になろう。な?」
リックは舌打ちする。
「ちっ――。せっかく生き残ったのによ。あの地獄を耐えてきたんだ。なのになんで戦争に行かなかった野郎に、婚約破棄されなきゃなんねえんだ? そんなの神が許さないぜ」
「だから、落ち着け、リック」
「今でも毎晩、夢に、戦死した血みどろのあいつらが出てくるのに。俺の苦しみを癒やすのは、クリスだけなのに」
「……」
そうだ。戦争は終わったが、人々の心のなかではまだ続いている。シェルショックと呼ばれる、戦争後遺症に悩む男たちが大勢いる。リックもそのひとりだ。
しかし戦場へ行かなかった自分には何もわからないし、どうすることもできない。彼の苦しみを否定をする資格はない。
言葉を失ったエリオットは無言のままリックを廊下へ出し、メイドたちを呼んでヒューを執事室のベッドに移動させた。家政婦ボーデン夫人から湿布をもらうと、それをヒューの腫れた顔と腕、胸に貼る。
「あいてて……。あと、腰もやられた」
呆れながら、エリオットは五枚目の湿布を貼る。
「おまえらしくないな。揉めるとわかりながら、ケンカを売るのか?」
「裏庭でリックの野郎が、クリスをなじっていてよ。我慢できなくてつい……」
「秘書になんかなるな、だろ? それは彼女だって承知しているはずだ。婚約を破棄するかどうかは、僕らが口を出すことじゃない。当人同士で決めないと」
「だけどよ。『おまえのために戦場から帰ってきた』なんて、言われてみろよ。簡単に婚約破棄できるか? 真面目なあいつのことだから、責任感じてしまって……あいてて」
「まさか」
そう口にするが、ヒューの言葉に同意せずにいられない。
「あいつには不幸な結婚をさせたくない」
「だったら、明日にでも僕からクリスに話を聞いてみよう」
「頼みましたぜ」
ここで就寝しようと、ナイトテーブルのランプを消そうとしたとき、ノックの音がした。ドアを開けると、気まずい表情をしたクリスがいた。
「あの、ヒューは?」
「手当をしたところだ。しっかり話せるし、明日、医者を呼ぶつもりだから、大丈夫」
「そう。よかった……」
安堵したのか、クリスの瞳から涙がこぼれる。
ここではなんだから、とエリオットは部屋のなかへ入れた。小さな居間のソファに座らせ、話を聞く。
「あたしのせいで……。あたしのわがままで……。やっぱりリックと結婚して、主婦にならなきゃ。こんなあたしなのに、彼、ずっと愛してくれているのに……」
ヒューの悪い予感は的中した。だから、年長者として、エリオットはアドバイスをしてやる。
「僕は思うんだけどね。本当にクリス――きみのことを愛しているのなら、きみの夢を頭ごなしに否定なんかしない、と。違うかな?」
「え……?」
目をぱちくりさせるクリス。
「たしかにリックが国のために戦争へ行ったことは、誇るべき大事だ。僕もヒューも、その点は尊敬している。だけど、それときみたち個人の幸福とはまた別の問題だよ」
「そうなの?」
エリオットは笑みを作ってみせた。
「ああ、そうさ。これでも僕なりに、たくさんの人たちを見てきた。ヒューだってそうだ。きみが主婦になるよりも、秘書を目指すほうがはるかに向いている、っていうのは同感なのさ」
そのとき、隣の寝室からヒューの声が聞こえた。
「エリオットさんの言うとおり、だぜ、クリス。リックの野郎に、負けるな、よ」
クリスは立ち上がり、エリオットが制止するのも聞かず、寝室へ入っていく。そして何度も感謝し、ぎゅっとヒューの手を握りしめた。
「あたしのために、ありがとう」
「いいんだぜ。だって俺たち、同僚だろ。困ったときは助け合うってもんだ」
「同僚……。そうか、そうだったよね」
エリオットはそっと寝室のふたりを見守る。痛みと照れだろうか。ヒューは苦しそうしているものの、頬は真っ赤に染まっていた。
リックに殴られたヒュー。幸いなことに骨折はしていなかったものの、打撲で一週間近く仕事ができなかった。
そしてようやく復帰したものの、ふたりの従僕はまったく口をきかない。クリスがきっぱりと婚約を破棄したい、と申し出したことで、リックはヒューを許せないようだ。
クリスに執着していたリックだったが、彼女の意思が固いのをようやく悟ったらしく、婚約解消をしたと、上司エリオットとボーデン夫人に告げた。その腹いせとして、ヒューにつらく当たったのである。
「これじゃ仕事になんねえな……」
ある日、エリオットにそう愚痴をこぼしたヒューは、翌日、荷物をまとめた。
「おい、辞めるつもりか? だったら僕としては、リックを解雇したいんだが。仕事がいまいちだし、感情的だし、扱いづらい」
ヒューは肩をすくめる。
「やっぱ、俺、従僕をするには歳をとりすぎたな。クリスがいたから、やっていけてたって、気がついたんだ。あいつのフォローがあってこその俺……って情けねえぜ」
「だったら、次が見つかるまでいてくれ」
「言ったろ。仕事になんねえって。俺はとうに限界を超えてしまいました、エリオットさん。ここは未来のある若者に席を譲りましょう」
明らかな嫌味とともに、ヒューは大きなため息をつく。
エリオットの本心は、トラブルの元凶であるリックを解雇し、ヒューを残しておきたいのだが、彼自身が告げるとおり、従僕として仕事を任せるには歳を取りすぎている。体力気力ともに十年前より落ちているのを、中年になったエリオット自身は実感していた。
引き止めたい気持ちをぐっとこらえ、穏やかに最後の問いかけをした。
「行くのか?」
「転職したら、素敵な紹介状を書いてくださいよ」
「もちろんだ。そのときはすぐに報せてくれ」
「今度は農場でのんびり牛の世話でもしようかなあ。まだなーんにも決めてねえが」
「自由な生き方をするおまえらしいな」
その日の階下の午餐は、突然の同僚の退職のために女料理人が腕を奮った。チキンローストが食卓に並び、ささやかな餞別と涙がヒューを見送る。リックだけは終始無言のままだった。
ついに裏口から出ていこうとするヒューを、ある者が呼び止める。
「待って! あたしも連れて行って!」
厨房から飛び出し、駆けつけたのはクリスである。
エリオットたちはいっせいに、驚きの声をあげる。一番、戸惑っていたのはヒューだ。
「ちょ、お、おまえ? 正気か?」
「正気も何も、あたし、気がついたんだ。あたしに必要なのは、あなただって」
「それって、プロポーズ?」
「……いけない?」
裏口にどよめきが響き渡った。
ヒューが叫ぶ。
「おわぁぁ! バツイチで二十歳も上のおっさんだぞ、俺っ!」
まさかの展開にエリオットは頭がついていかない。
落ち着いて話そうと、クリスに呼びかけるも、まったく耳に入らないようだ。彼女はヒューの腕をつかむ。
「従僕をしていたときだって、そっとあたしを見守っていた。今だってそう。あなたがいたから、あたし、こうして前に進むことができたんだ。だから、これからもずっといっしょに生きたい」
「それはだな。同僚だったから……」
「あたしはだれも好きになったことがないし、友だちだっていない。他人に興味がなかったから。でも、ヒュー。あなただけはちがう」
「そ、そりゃあ、俺だって。おまえが女だからって、気ぃ使ってたて言えばそうなんだが。なんかほっとけないっつうか…………」
と言いながら、ヒューは山高帽でおのれの顔を隠す。ぶつぶつと、独り言が聞こえてきた。思案中らしい。
答えをせかす使用人たちを、エリオットは止めた。そして、友人としてヒューへ言った。
「照れずに、おまえの本心を伝えてやれ」
「……」
さらに時間が流れる。二、三分たったころ。
山高帽をかぶり直したヒューは、真面目くさった顔をしてクリスへ指示を出す。
「わかった。ならば、今日中におまえの荷物をまとめろ。夕方にここを出発しようか、クリス」
「じゃあ……」
「結婚する前に、まずは仕事探しから。いいな」
「はい」
「甘い生活なんか期待するなよ」
「もちろん覚悟してるよ」
いっせいに拍手喝采で、婚約者たちを祝福した。エリオットも負けじと手を叩く。
クリスは今まで見たことのない明るい笑顔になる。ヒューは赤面したまま、そのあとは無言で固まった。
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