第9話:友情の亀裂
リックが従僕職に復帰したことで、クリスはキッチンメイドにもどった。彼女は階下の厨房で過ごすこととなり、主人たちの前へ姿を出さなかった。食事は厨房のすみでとるため、同僚たちと顔を合わせることすらない。
ときおりエリオットは、クリスの背中を見て案じる。従僕をしていたとき輝いていた瞳は、今では曇っている。口には出さないが、メイドを辞めたい、と思っているのだろうか。
ある日、廊下ですれちがったとき、周囲にだれもいないのをきっかけに、声をかけてみた。
「キッチンメイドはどうだい?」
歩みを止めたクリスは肩をすくめ、ため息をつく。
「やっぱ、あたし、向いてないみたい。転職したいけど、従僕していました、なんて紹介状に書けないしさ。結局、どこへ行ってもキッチンメイドだよ」
「だったら僕が融通をきかせて、パーラーメイドに推薦してみようか」
「うーん。接客がしたい、ってわけじゃなくて。なんて言えばいいんだろ。メイドそのものがいやなんだ。もっと主人に近くお仕えして、お役に立ちたい。ただの使用人じゃなく」
「僕のように?」
「そう」
「それは難題だな……」
クリスは苦い笑みを浮かべた。
「ほら、だからあきらめるしかないんだって。あたしのこと、心配してくれてありがとう、エリオットさん」
「もったいないな。教育し甲斐があったのに」
「女に生まれたから、仕方がないね」
そう言い残して厨房へ消えていく背中を見ていると、これでいいのか、と疑問がわいてくる。しかし性別の壁はどうしようもない。
おのれの無力を噛みしめていたら、使用人ホールの呼び出しベルが鳴った。図書室からだった。
エリオットが駆けつけると、ライナスとアルフォンスがいた。何やら言い争っている。
ライナスがラテン語の本を抱え、それをアルフォンスが奪おうとした。
「約束がちがうじゃないか。おれに貸してくれるって昨日は言ってたのに!」
「ラテン語じゃなかったらな。これはおまえには読めない代物だ」
「だから勉強するために」
「パブリック・スクールに進学できないのに?」
「奨学金でグラマー・スクールに進学するんだ」
「そんなにこの屋敷で働きたくないのかよ」
「父さんが使用人だからって、おれも奉公仕事をするって決めつけないでくれ。父さんも母さんが進学できるのを、すごく喜んでるんだ」
「喜ぶ両親がいて、いいよな」
「おれ、そんなつもりで言ったんじゃ……」
と、ライナスとアルフォンスの視線が、エリオットを捉えた。ふたりの少年の表情は、泣き顔に怒りが混じった複雑なものだった。
思案するまでもなく、エリオットはアルフォンスの腕をつかみ、謝罪するよう言った。
「なんでだよ? おれ、悪いことしてない」
「悪い、悪くないの問題じゃない。おまえはリンドン男爵家に奉公する使用人の息子。おのれの立場を弁えなさい」
「ライナスとは友だちなのに?」
「たとえ友人だろうが、貴族と労働者の立場は天と地ほど遠い。それがわからないおまえではないだろうに」
「……」
アルフォンスが訴えるようにライナスを凝視する。小さなあるじは固まったまま、何も答えない。
――友だちだ、と答えれば、アルフォンスの進学を認めることになる。
ずっと遠くに行ってしまう友人を祝福する。そんなのできない。でも……。
まだ幼いあるじには難しい判断だった。
その夜は夕食どころではなかった。泣きじゃくるアルフォンスをなだめるエリオットに、レベッカが困惑したように言った。
「ねえ、もっとうまく説明できなかったの、ジョン?」
「説明? 身分の差はどうしようもない。うやむやにしていたら、将来困るのはアルフォンスだろうに」
「それは承知しているわ。だけど、まだ子供なのよ。あれじゃ、坊っちゃんだって気分が良くないはず」
「だから僕は何度も言ったじゃないか。『貴族と労働者は友人になれない』と。それを心配しすぎだと、きみたちは笑っていただろう」
そう口にしながら、エリオットはおのれの甘さを悔やむ。
――あのとき、しっかりと息子に言い聞かせるべきだった。
と。
あのときとはクリスマス・パーティーの夜だ。ライナスとアルフォンスが友情を誓った日。
「アルフォンスと坊っちゃんなら、乗り越えられる、と思ったの。だって、わたしたちだってそうだったじゃない?」
「たしかにそうだが、アンダーソン家とは未だ絶縁状態じゃないか」
「それとこれとは話はべつじゃない」
「いいや、それこそ甘いと――」
「父さん、母さん、やめてくれっ!」
アルフォンスが両の拳ででテーブルを、強く叩いた。食卓に配膳された食器が、音を立てて震える。
「悪いのはおれなんだ。父さんの言うとおり、男爵さまの友だちだとうぬぼれていた。よくわかったよ」
「アルフォンス……」
「だからもう会わないし、話さない。だよね?」
つらいだろうに、と息子を抱きしめたい衝動をこらえながら、エリオットは淡々とアドバイスをした。
「友人ではなく、あくまでも使用人として接しなさい。口をきかないとか、そういう子供っぽい仕返しはよくないよ。主人と召使。それをしっかりと頭に入れておけば、言い争うこともなくなるはずだ」
「はい、父さん」
「さあ、食事にしよう。泣いていても始まらないからな」
顔を上げたアルフォンスに涙はなかった。何も話さず、黙々と食べる。
それを見守るエリオットとレベッカ、そして不安そうな顔をするオリヴィア。沈鬱な一家の夕食はその日限りで終わった。
翌日からは何ごともなかったかのように、エリオットは屋敷で働き、レベッカは家事のかたわら勉強を教え、アルフォンスは進学のための学習に励んだ。いつもの日常だった。
第一従僕リックと第二従僕ヒューの相性は悪かった。恐ろしいほどに。
エリオットがいない場で、たびたび口論をしているらしく、毎夜、執事室でヒューの悩みを聞かされた。
クリスが去り、リックが仕事をこなすのだが、長いあいだの戦争と療養でカンが鈍ってしまったらしい。食卓の配膳と給仕は適当、接客も丁寧さが欠けており、上司である執事エリオットへ、女主人リンドン老嬢から苦情があるほどだった。
「……あの子――クリスは良かったわ。機転が利くし、よけいなことを言わないし、いっしょにいて安心できたの」
居間で午前の茶を給仕しながら、エリオットは女主人の小言を聞かされる。
「さようでございますか」
「なぜ辞めてしまったのかしらねえ」
「なんでも実家の父親が倒れたとか」
適当な理由をつけるしかなかった。本当はキッチンメイドとして、厨房にいるのだが、主人と顔を会わせる機会はないので、発覚することはないはず。
しかし女主人の次の言葉に、エリオットは心臓が止まりかけた。
「女の子だったけど、そこらへんの従僕よりずっと立派だったわ。もったいない」
――ええっ! とうにバレてた?
あまりにも自分の顔が面白かったのだろう。女主人はぷっと、吹き出す。
「おほほ……。戦争中で人手不足だったのよねえ。気がついていても、知らないふりをするのが粋でしょうに」
「これは参りました。ええ、そのとおりでございます」
「侍女にしてもよかったのよ。でも、あの娘、ファッションとかまるで興味なさそうだったわ。裁縫もね」
「ずいぶんと男勝りですから」
「わたしも考えが古いのかしらねえ。メイドに接客。でも中流階級みたいになってしまうのも……」
ここで女主人は口を閉ざした。遠い過去を思い出すようにゆっくりと目を細め、遠くを見つめる。エリオットには見えない何かを追いかけるように、視線が動いた。
その午後、エリオットは厨房に顔を出し、クリスを裏庭へ呼んだ。
「あたしに話って何?」
煤汚れたエプロンの裾をいじっている彼女へ、リンドン老嬢の言葉を伝える。
クリスの瞳がぱっと輝いた。
「ほんとに? あたし、大奥さまに認められたの?」
「ああ。裁縫が得意だったら、侍女にしたかったと。しかしそれは難しい。でもこのままキッチンメイドとして生きていくのは、惜しいと僕は思う」
「だけど紹介状が」
「使用人以外の職業を目指すのはどうだい。社長秘書とか」
「秘書。あたしが秘書。……だけど、タイプライター打てないよ」
「僕の妻が教えてやるさ。タイプライターだって持っている」
「ほんとに?」
エリオットはクリスに手を握られ、勢いよく上下に動かされた。感謝いっぱいの握手らしい。
「秘書になりたい! そしてエリオットさんみたいに、バリバリ働きたい!」
その日、浮かれすぎたのかクリスが出したまかない食は、ひどく甘かった。砂糖と塩をまちがえたようだ。不満いっぱいの使用人たちだったが、エリオットだけは笑みがこぼれずにいられない。
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