第8話:アルフォンスの未来

***



 戦争は終わったが、スペイン風邪が大流行し、人々を苦しませた。同時に食糧不足がさらに深刻になり、物価の高騰がイギリス中を覆った。せっかく戦地から使用人たちが帰還したというのに、食料調達が彼らの仕事になった。

 一年半後、春がすぎ、夏が近づくころには、戦前のような穏やかな日常がもどってくるのを、エリオットはようやく感じとった。

 一九二〇年、ライナス・リンドン男爵は十二歳になっていた。九月からはパブリック・スクールに進学し、寄宿生活が待っている。

 寮住まいのための日用品を始め、制服、教科書、文房具を執事エリオットが買いそろえる。レベッカは家庭教師の職を無事に終え、残りの日々をライナスといっしょに過ごした。進学したら、長期休暇以外、会えないからたくさん思い出を作ろう、と。

 そんなある五月の終わり、アルフォンスが興奮した面持ちで、学校から帰宅した。屋敷の執事室で帳簿をつけてるエリオットへ、元気いっぱい報告する。

「父さん。おれ、奨学金でグラマー・スクールへ進学できそうなんだ!」

「ええ? おまえ、そんなに勉強できたのか?」

「勉強嫌いだったけどよ、ライナスといっしょに母さんの授業聞いていたら、びっくりするぐらいテストの点が取れてさ。学校で一番になった。校長先生が、やる気があるなら来年、推薦してくれるって言うんだ。でもそのまえに、両親に許可をいただきなさい、って」

「そうか。それはすごいな」

 エリオットのなかのアルフォンスは、やんちゃで遊びに夢中な少年のままだった。わずか一年のあいだに、ぐんと成長したようだ。父親として誇らしくなる。

「父さん、うれしくないの?」

「もちろんうれしいさ。じゃあおまえは使用人にはならないんだな?」

「当たりまえじゃないか。大学に行きたいよ。そうしたらおれだって、医者や弁護士になれるんだろ?」

「ああ。そのためにしっかり勉強しろよ」

「うん」

 その夜、エリオット家ではアルフォンスの進学推薦を祝った。ささやかだったが、久しぶりに食べたチキン料理はおいしかった。

 レベッカがはしゃぐ。浮かれすぎて、エリオットが呆れるほどだった。

「ああ、リンドン家の家庭教師になって、本当によかったわっ! アルフォンスの成績がこんなに上がるなんて、予想していなかったもの! 坊っちゃん以上に、記憶力と理解力があるんですもの。大学だって進学できるわ。わたしが保証する」

 アルフォンスは頭をかき、照れ笑いを浮かべた。

「母さん、褒めすぎ……。だから進学するまで、今度はおれに教えてよ。成績を落としたくないんだ」

「もちろんよ。国語に算数、理科に地理、歴史。あと、予習にラテン語も。午前は父さんのお手伝い、午後はわたしと勉強。いいわね?」

「いいよ」

 夏休みが始まると、アルフォンスは両親と約束通りの生活をおくる。朝は下男として屋敷の階下でブーツ磨きやランプ掃除をし、午後は自宅で教科書を広げて勉学に励む。

 未来に向ってがんばる息子を応援するエリオットだったが、ひとつ問題が起きた。

 ある日の午後、仕立て屋に注文しておいたパブリック・スクールの制服が届いた旨を、ライナスに報告する。エリオットが居間に入り、午後の茶をテーブルに置いた。進学を直前に控えた少年領主の表情は冴えない。

「学生生活が不安ですか?」

 エリオットがそう優しく問うと、彼は小さくうなずいた。

「集団生活に慣れてないからね。それより、アルフォンスは?」

「自宅で学習しております」

「なぜ?」

「なぜって、それは奨学金を得るためです。進学するとなると、学費はともかく、寮住まいのための生活費も必要になりますでしょう」

 ライナスの顔はさらに険しくなる。

「だからどうして進学するのかって、僕はきいている。使用人の子供は使用人なのが、普通じゃないのか?」

「たしかに世間ではそう言われますが、せっかく息子に与えられたチャンスを逃したくないのです。グラマー・スクールを卒業したのち、大学に進学したいと、本人も希望しております」

「アルフォンスが大学……」

 ライナスは目を見開き、まじまじとエリオットを見つめた。信じられない、と言いたげに。

「そんな。あいつ、ぼくと約束したじゃないか。ずっと友だちだって。なのに、遠くに行ってしまうというのか?」

 エリオットは一瞬、言葉に詰まる。

「おまえと同じ執事になって、僕のそばに仕える。そう信じていたのに」

「奉公と友情はまったくべつのものです。ですから坊っちゃん、早とちりしないでくださいませ。アルフォンスはずっとあなたさまの友人でございます」

「アルフォンスが遠くへ行ってしまう…………」

 エリオットはなだめるのだが、ライナスの心には届かないようだ。それきり言葉を交わそうとしなかった。

 その夜の就寝前、エリオットはレベッカに相談した。坊っちゃんがアルフォンスを進学させたくない、と言っていると。

 レベッカは目をぱちくりさせる。

「え? 坊っちゃんのおっしゃるお友だちって、主人と使用人の関係ってこと?」

「そうらしい。僕も驚いた。たしかにアルフォンスが奨学金で進学するとは、考えていなかったが、使用人になって欲しいとも思っていない。だって将来のことは、本人の希望を優先させたいじゃないか」

「そうよね。わたしたちの子供時代とはちがうんですもの。女性にも選挙権が与えられるなんて、想像すらしてなかったわ。オリヴィアだって、勉強したいって言ったら進学させるつもりよ」

「まだ幼いから、理解できないのだろうか」

「頭ではわかってらっしゃるはず。おそらく認めたくないのよ」

「アルフォンスにずっと屋敷にいて欲しい、と僕に言っていた。さすがにそれは無理だと、遠まわしにお伝えはしたんだが」

「坊っちゃん、このお屋敷と使用人の世界しか知らないからかしら」

「寄宿学校でご友人ができたら、小さな悩みだって思われるかな」

「それを信じましょう」

「ああ」

 ライナスとアルフォンスの友情が変わらないことを祈りながら、エリオットは目を閉じた。



 数日後、以前リンドン男爵家に奉公していたという、従僕が帰ってきた。

 戦争で負傷したリックは入院が長引き、ようやく復帰できた。顔なじみの使用人たちは大歓迎した。エリオットとヒューは初対面だったため、たがいの歓迎会を兼ねたパーティを、使用人ホールで開くことにした。

 階下に足を踏み入れるなり、リックは家政婦ボーデン夫人を探し、問うた。

「なあ、クリスはまだこの屋敷にいるのか? 手紙を書いても、返事が一度もなかったんだ」

「いるわよ。でもね…………」

 ボーデン夫人は気まずそうな表情で、使用人ホールの少年従僕に視線をやる。

「いる、どこだ、どこ?」

「だからあなたの目の前に」

「へ?」

 エリオットはどう説明しようか、と悩む。

――手紙を書かなかったってことは、リックに伝えてないってことだよな。

「ええー、じつは深刻な使用人の人手不足で――」

 と、言いかけたとき、リックは察した。

「お、お、お、おまえ、まさか――クリス?」

 まったく表情を変えず、彼女は言葉を返す。

「そうだよ。久しぶり」

「それが婚約者に対する返事かよ……。相変わらず冷めた女だ」

「あ、そう」

「それより、男の格好――従僕? 俺がいなくて寂しすぎて、おかしくなったのか?」

「つとめて冷静。従僕が足りないから、あたしが助っ人に入ってたんだ」

「よくそんな冗談、主人が許したな」

「大奥さまがね。接客にメイドはよろしくないっておっしゃるから」

「だからといって、ズボンはないだろ。こうして俺も無事、帰還できたし、早く結婚式を挙げようぜ。ウェディングドレスなら、俺の姉さんのを借りればいい。な?」

「そう……」

 クリスはまったく笑顔を見せないまま、使用人ホールを出ていく。そのあとをリックが追いかける。

 ヒューは困惑したように、小声でエリオットに言った。

「……どう見ても、クリスはリックを婚約者と認めてないですぜ」

「リックの片思いなのか? だったら婚約はおかしな話だ」

 ため息をひとつつき、ボーデン夫人が教えてくれる。

「たしかにクリスはリックに恋していない。でもね、メイドを辞めるには結婚するしかないわ。彼女、メイドをしたくないって、わたしに相談していたの。『リックにプロポーズされた。どうしよう』って聞かされたとき、絶好のチャンスだから承諾なさい、ってすすめたのはわたしなの」

「それはいつのお話です?」

「戦争が始まる少し前だったかしら、エリオットさん」

「そうか。もし戦争がなかったら、クリスは主婦をしていたのか。今の姿からは想像できないが」

 ヒューが同意する。

「あいつ男の格好してるが、ドレス着たらなかなかの美人だからな。リックが一方的に惚れるのも無理ねえか」

「しかしあの様子だと、婚約破棄だろう。リックには気の毒だが」

 エリオットだけでなく、使用人ホールにいた全員が「そうだろうな」と話した。

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