第5話:野外授業



 ヨークシャーの自然は美しい。夏の緑が谷を包み、薄青色の空を飛ぶ小鳥のさえずりが心地よい。さわやかな風が小川の匂いを運ぶ。

 しかしエリオットは息が切れてしまい、景色を楽しむ余裕はなかった。同じく前を歩いていたヒューが立ち止まり、振り返る。

「…………坊っちゃん、はるか先に行ってしまいましたぜ」

 ぜえぜえと肩で呼吸をしながら、ヒューはそう言った。

「あ、ああ。年齢には勝てないな……」

 バスケット片手にエリオットは、そばの岩に腰かける。ハンカチを出して、額の汗を拭った。

 予定ではクリスがお伴をするはずだったが、残念なことに彼女の外出着がなかった。本来はメイドなのだから、黒いワンピースしかもっていないという。男装は従僕のお仕着せ姿のみ。

 だからヒューを同行させたのだが、中年にはきつかった。元気いっぱいのライナスは飛ぶように谷を駆け、遠くからエリオットたちを呼ぶ。

「早く来てよ! 先生も待ってる!」

 エリオットはヒューと顔を見合わせ、苦笑した。

「レベッカは元気だな」

「アンダーソン家の坊っちゃんも元気いっぱいだったじゃないですか。きっと、その血ですぜ」

「そうだったな。あれから、僕は年老いた、ということか」

 そう呟いたとたん、少年時代の思い出がエリオットの脳裏をかけめぐる。

 許されない恋をしたエリオットは、アンダーソン家の坊っちゃんの世話をしながら、愛しいひとの手をそっと握った。それだけで全身の血が熱くなり、それ以上、踏み出せない未来に苦しんだ。そんな自分たちの思いを知らないまま、無邪気な坊っちゃんはエリオットを兄のように慕い、遊んだのを思い出す。

 がさごそとバスケットに手を入れたヒューは、ビール瓶を取り出し、栓を抜いた。

 エリオットが止めるのもきかず、ぐいぐいと酒を飲む。瓶から口を放したヒューは、満足そうなため息をついた。

「ぷはぁ。うめぇ!」

「おいおい、昼食時に飲むものがないぞ」

「そんときはそんとき。今がよければいいんです。さ、エリオットさんも」

「……」

「疲れたでしょ。ビールで精気を養いましょうぜ」

 我慢できず、エリオットもビールを飲んだ。うまい。最高に美味だ。

 そのとき、レベッカの叱咤する声が聞こえてきた。

「ちょっと! あなたたち! ビールはまだ早いわよ!」

「げ、バレてる!」

 ヒューが立ち上がり、空の瓶をバスケットに詰めると、小走りに歩きだす。そのあとをエリオットが続く。

 中年男ふたりが、ぜえぜえ息を切らしながら谷を上がったら、双眼鏡を手にしたレベッカがほおを膨らませた。

「まったくもう。坊っちゃん、待ちくたびれてるじゃないの」

 エリオットは失笑してその場をごまかす。

「あはは。すまない。体力が追いつかず、つい」

「ビールすすめたのは俺です。ミセス・エリオット……」

「召使いがさぼってどうするのよ? わたしが見張っていたからよかったものの」

「先生、ウサギがいた!」

 ライナスが駆けた。休む間もなく、エリオットたちは追いかける。

 ふと、立ち止まり、周囲を見回す。

 林を抜けたここは小さな草原だった。白や黄色、紫色の草花が風に揺れる。谷を見下ろすここは、絶景だ。果てしなく広がる緑の向こうには、小さな家々がならぶ。

 風に揺れる小麦畑、太陽の光に輝く小川の流れ、そしてリンドン男爵一家が暮らすウイロデイル屋敷――。領主館は赤いレンガの外壁で覆われ、茶色の屋根の上にひとつ、丸屋根の尖塔がついていた。その外壁だけ白く、リンドン家の紋章が彫られている。古びた屋敷を蔦が這い、広い庭園が囲む。規則正しく剪定された庭木と、色華やかな自然風の花壇が対照的だ。

 その歴史ある建物が、リンドン家の長きにわたる血筋を物語る。

 ウサギを捕まえることは叶わなかったが、昼食時ということで休憩になった。小川のほとりに座り、用意したサンドウィッチやビスケットをならべ、ポットに入れた紅茶をカップに注ぐ。

 よほど空腹だったらしく、ライナスは一気に食べ終えた。ぬるい紅茶を飲みながら、午後の計画をレベッカに話す。

「野鳥とウサギは観察しただろ。つぎは村の牧場がいいな。羊と牛、ヤギもたくさんいるんだ。あと、ジェニングス先生のところも」

 レベッカが問うた。

「ジェニングス先生?」

「動物のお医者さん」

「ああ、獣医さんね」

「父上の友だちなんだ」

「先代さまの? それはお会いしたいわ」

「面白いんだよ。なんでも知ってるし」



 ライナスの案内で丘を下り、ふもとの村へ入る。ある一軒の小さな館の門を、エリオットたちはくぐった。

 玄関ベルを鳴らし、顔を出したメイドにリンドン男爵の名を告げた。

「ジェニングス先生、リンドン男爵んとこの坊っちゃんが来なすった!」

 訛りのある声で、年若いメイドがそう告げると、どたばたと足音がした。

「これから羊を診なきゃいかん。また今度にしてくれ――って、え?」

 初老の男が玄関に姿を現す。灰色の髪とあごひげ、そして丸眼鏡のジェニングス獣医はまじまじとレベッカを見つめた。

「……初対面ではないような」

「そうですの?」

「どこでお会いしましたかな?」

「さあ。インドの駐屯地へ行かれたことが?」

「いいや」

「なんておっしゃるの?」

「私はジョージ・ジェニングス。ホーク村で獣医をしている。その前は――二十年はたったかな。コッツウォルズの動物病院で雇われていた。その当時だろうか」

「ずいぶん昔なのね。わたしが忘れてしまっただけかもしれないわ」

 レベッカとジェニングス氏の話が深くなる前に、エリオットは帰宅をうながす。

「こんなところで立ち話もなんですし、今日はお引取りいたします。では――帰りましょう、ライナス坊っちゃん」

「ええー、久しぶりにジェニングス先生と会えたのに! いっしょに羊の診察をするって約束しただろ」

 ライナスが不満いっぱいの顔になる。

「ジェニングス氏はお仕事でお忙しいのですよ。さあ、じゃまにならないうちに、屋敷に帰りましょう」

「やだったら、やだね。先生の仕事が終わるの待ってる」

「そんなわがままばかりおっしゃらないでください……」

「エリオットは小言ばかりで、すごくつまんない」

「小言ジジイと呼ばれてもけっこうです。本日は遊びではなく、あくまでも授業の一環。いいですね、迷惑をおかけしてはなりません」

「……いいよね、ミセス・エリオット?」

 上目遣いでレベッカを見るライナス。

「今日は帰りましょう。その代わり、今度、訪問する日を決めましょうか。ずっと前から約束しているのよね?」

 にこやかにジェニングスが答える。

「ああ、そうしましょう。再来週の火曜日の午後なら、休診日ですので空いてます。急患がなければの話ですが」

「決まりね」

 レベッカの機転で、ライナスの機嫌が直ったようだ。笑顔いっぱいでジェニングス氏に手を振ってあいさつをする。

「約束だよ」

「ああ、もちろんだとも、ライナスさま――、そうだ。お帰りになるのなら、羊の診療を見学されますか? すぐそこの家畜ですし」

「ほんと?」

「ただし、見るだけですよ、いいですね」

 エリオットとレベッカが返事をするより早く、ライナスはジェニングス氏のそばへ走っていった。

 十分も歩かないうちに、村はずれの農家に到着した。石垣で囲まれた家の隣に家畜小屋があって、ジェニングス氏が住人にあいさつをすると、そのまま羊のもとへ向かう。

 エリオットとレベッカ、ヒューはライナスの後ろについて、羊の診察を見学した。ジェニングス氏が言うには「乳腺炎」だそうで、出産したばかりの家畜がかかりやすい病気である。よくある症状とはいえ、放置していると死につながることがある。貧しい農家は、家畜が貴重な財産だったから、獣医の存在はなくてはならなかった。

 めえめえ鳴く羊へ、ジェニングス氏は注射を打つ。目に止まらぬ早さ。まさしく神業である。つい、エリオットが拍手すると、ヒューとレベッカも続いた。

「もたもたしていたら、暴れるからな。牛や馬に蹴り殺された同業者もいる」

 汗ひとつかかず、さらりとそう話すジェニングス氏が輝いて見えた。大ベテランの貫禄だ。

「ぼく、獣医になるんだ。父上にそう言ったら、大反対されたけど、あきらめないからな」

 興奮した面持ちでライナスが、そう言って氏の腕をつかむ。

「男爵さまが獣医……。聞いたことがねえ」

 ぽつり、とヒューが本音らしきものを漏らした。その部下の尻を、エリオットはつねる。

「あいてっ!」

「個人的な感想はあとでたっぷり話そう。それより、ライナス坊っちゃんは獣医になりたかったのか」

 困惑したような笑みとともに、ジェニングス氏が言った。

「上の若さまたちがご存命でしたら、お約束どおり私がライナスさまの面倒を見るはずでしたが。戦争で状況が変わってしまったのです」

「約束は約束じゃないか」

「その話はまたいつか、あらためていたしましょう。ライナスさまがもう少し大きくなられてから、考えても遅くはありませんよ」

「遅くないよ。獣医になるって決めてる。父上はもういないし、兄上たちだって。ぼくが決めたらそれで――」

 と、そこまで口にしたライナスだったが、突然、丘に向って駆け出した。

 レベッカが追いかけようとした。エリオットはその腕をぐっとつかむ。

「ジョン?」

「どうやって、なぐさめるつもりかい?」

「でも……ひとりにしておいていいの?」

 ヒューが首肯する。

「そうだな。坊っちゃんには酷だが、家族の死を受け入れてもらわねえと。俺たちが言ってどうこうできる問題じゃない」

「ライナス坊っちゃんはまだ十歳なのよ。子供だわ」

「子供だろうが大人だろうが、死んだやつは生き返らない」

 いつも陽気で飄々としているヒューだが、戦争のことになるとエリオット夫妻よりはるかに、現実的だった。冷めているといってもよい。

「俺も戦争で親父を失ったんだ。南アフリカだ。そのとき、俺はライナス坊っちゃんと同じ歳で、さんざん苦労した。なんとか――まあ、汚い方法で奉公仕事にありついて、生きてきた。昔から俺はちょっとずるくてよ。なあ、エリオットさん?」

 エリオットは驚いた。ヒューが少年時代のことを話すのを聞いたことがなかったからだ。

「けど、ライナス坊っちゃんは、リンドン男爵さまだ。飢える恐怖はねえし、教育だってしっかり受けられる。だからだろうな、素直に同情できねえのは……」

「そうだったのか」

 ジェニングス氏がため息をつく。

「……私には娘しかいなかったから、肉親を失うようなことはなかったが。それでも、どこへ行っても喪服ばかりで、気が滅入りますな。一日でも早く、戦争が終わるのを祈るしかありません」

 それから会話がないまま、エリオットたちはライナスがもどってくるのを待った。

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