第4話:初めての授業
レベッカが小さなあるじの家庭教師になったことで、エリオットの退職は保留になった。新たな執事を家族単位で雇うと、離れの家を用意できないためだった。
「どうせだれが来ても、すぐに辞めるんだ。大奥さまもそう思われている。保留、大歓迎だよ」
第一従僕クリスはそう言って、珍しく笑顔になった。第二従僕のヒューは、使用人ホールで抱きついて、またも男泣きするものだから、エリオットは恥ずかしくてたまらない。
「あらまあ。ずいぶんと好かれているのね」
家政婦ボーデンは、こらえきれないように笑う。
「そりゃもう、前の職場ではね、エリオットさんモテモテだったんだぜ! メイドだけでなく、従僕連中からも。旦那さま、若さまだって。まあ、仕事はいまひとつかもしれねえが、それを俺たち部下がカバーするのが務めだ。それでうまくやっていた」
「褒められているのか、いないのか。複雑な気分だな…………」
エリオットが苦笑すると、どっと部下たちは笑った。
――なつかしいな。以前の職場を思い出す。
「だったら、どうして前の職場、解雇されたんだよ? 旦那さまに信頼されていたんだろ?」
「それは――――」
クリスの指摘に、ヒューは口ごもる。
「そうよね。同業者の評判が良くないのが不思議なの。どうしてかしら」
ボーデン夫人の素朴な疑問に、エリオットは咳払いでごまかす。
「ごほん。予期しないできごとがあって、奉公仕事を辞めた。いつか話せるときがくれば、話す。どの屋敷も男手が足りないのをきっかけに、復帰したんだ」
クリスは目を輝かせた。いつも無関心で冷めている彼女らしくない。
「深い事情がありそうだな、エリオットさん。ま、その事情とやら、いつか聞けるの楽しみにしてるよ!」
ここで朝食は終わり、多忙な使用人生活が今日も始まった。
エリオットは古びたモーニングコート姿で、階上へ上がった。すぐ後ろに盆を提げたヒューが続く。居間でリンドン嬢と女家庭教師の朝食を給仕するためだ。坊っちゃんとエリオットの子どもたちの朝食は、クリスが面倒を見る。
居間の空気は緊張感が漂っていた。まったく笑顔のない女主人が、新任の女家庭教師を値踏みするように質問をする。
「ミセス・エリオット。ご結婚される前は、どこのお屋敷で教鞭を取られたのかしら」
「初めてですわ」
「なんですって。未経験だとおっしゃるの!」
かちゃん、とナイフとフォークが皿に落ちる。まじまじと目を見開いた老嬢へ、動じることなくレベッカは答えた。
「ええ。でもご安心ください。わたし、准男爵家にいたことがありますの。それはもう、長いあいだです。その屋敷にはライナス坊っちゃんのように、とてもいたずら好きな小さな若さまがいました。わたしが面倒を見ていましたのよ」
「子守――ナースメイドをされていたのね」
レベッカはそれに答えず、話を続ける。
「今日はライナス坊っちゃんの興味と、学力を確認いたします。明日から、それに見合った教材を用意しますから、少しばかり出費があることをお許しくださいませ、ミス・リンドン」
「本ならたくさんあるわ。あの子、飽き性だからあれこれ買い与えたの」
「本だけが教材ではありませんもの」
「まあ、本以外の教材って何かしら」
「それを今日、たしかめますのよ」
「あら、そう。せいぜい、ライナスの機嫌を損ねないよう教鞭なさいな、ナースメイドさん」
女主人の視線が、背後にいるエリオットに移った。
女家庭教師のなり手がないからと、夫婦で画策してナースメイドだったレベッカを奉公させた。なんて、図々しい。――そう思っているはず。
――ああ、明らかに期待されてない……。
内心、はらはらしながらエリオットは、食後のコーヒーを女主人のカップに注いだ。
和やかでなかったものの、険悪ではなかった。初日の朝食は無事に終えることができた。
問題はそのあとだ。
子供部屋へ向って行くレベッカを呼び止め、エリオットは念を押した。
「いいか、何を言われても、真正面からぶつかるなよ。いたずらが返ってくるだけだからな」
苦笑しながら、妻は肩をすくめた。
「心配性なんだから……」
「助けが欲しいときは、すぐに呼び鈴を鳴らせ」
「ええ、頼りにしてるわ」
そしてレベッカは、魔の子供部屋へ消えていった。
正午前。子供部屋からの呼び鈴が、使用人ホールに鳴り響いた。クリスが向かうより早く、エリオットが疾風のごとく駆けつける。
「お呼びでございますか、坊っちゃん!」
何をされたのか不安なあまり、呼びかけた声が裏返った。
「お腹すいた」
「……」
惨事を想像していただけに、気が抜けた。部屋を見るがとくにおかしな所はない。机に教卓、黒板、壁に貼られた地図、ノートとペン……。
「あら、ジョン。そろそろお昼にしようと思って」
にこやか笑顔の女家庭教師は、いたずらに困った態度を見せなかった。
「勉強は順調かい?」
「朝ね、床でガチョウたちが出迎えてくれたの。あと、教卓の引き出しでカエルが鳴いていたし、本棚にネズミがいたわ。とっても賑やかだったから、さっきまで外に帰していたの。少し疲れちゃった」
「それはそれは……」
どうやらイタズラは仕掛けられたようだが、レベッカには通じなかったらしい。ボーデン夫人やクリスが言っていたが、初日、女家庭教師は驚きの歓迎を受けるのがお決まりだった。
「ネズミじゃない。モルモットだ」
「そうだったわ。ライナス坊っちゃんは動物がお好きなのね」
ライナスはふん、と不機嫌丸出しのまま、レベッカから目をそらす。
「明日、野外授業をしましょう。わたしにたくさん教えてください。動物たちのことを」
「え?」
目をぱちくりさせるライナス。
「先生も動物が好きなの?」
「坊っちゃんがわたしの先生になるのよ。あくまでも授業ですからね。たくさんお弁当を持って、ピクニック――じゃなかった、野外授業よ」
「ぼくが先生の先生……」
「ということで、午後の授業はどこへピクニックへ行くかの話し合いをします。いいわね」
「はいっ!」
十歳の少年らしい笑みがあった。
そばで見守っていたエリオットは感動した。手を焼いていたあの悪ガキ坊っちゃんが、素直になったからだ。
同じく控えていたクリスも感嘆の声をもらす。
「まともな授業を初めてみた」
その夜、子どもたちは寝静まり、ようやく夫婦だけの時間が来た。ききたくてたまらなかった昼間のできごとを、エリオットは妻に問うた。
ベッドに入ったレベッカはほほ笑む。
「あら、簡単なことよ。寂しいからライナス坊っちゃんはいたずらをしているの」
「でもそれで女家庭教師たちが辞めたじゃないか」
「いたずらを許してくれる母親のような、教師が欲しかったのかもしれない。ああやって、使用人たちを試すの。インドの駐屯地にいたころ、ひどいいたずらをするご子息を見たことがあったわ。母親を亡くして、言葉が通じない使用人ばかりで寂しいのだろうって、父親が愚痴をこぼしていたのよ」
「そういうことだったのか」
「だからわたし、しばらく坊っちゃんの母親になろうと思うの。いいでしょう?」
「それはもちろん、かまわないさ。これでいたずらが止めば最高だな」
「それを祈りましょう」
ふたりは就寝前の口づけをする。
――今日は疲れた。
慣れない女家庭教師としての初日。レベッカはもっと疲れているはず。
眼鏡を外したエリオットが目を閉じると、妻の寝息が聞こえてきた。
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