第3話:レベッカの決意
その夜更け、またも騒動が起こった。
階下の使用人部屋にいるはずのヒューが、離れの家にいるエリオットを訪ね、顔を見るなり苦情を訴える。
「やってらんねえ! あ、あいつメイドだったんだぜっ!」
「は?」
「一週間も同室してたのかよ。頭がいかれちまってる」
「……なんのことだ?」
興奮したヒューはエリオットの腕を取ると、表へ引っ張り出す。
「おい、用件があるなら朝にしろ。眠い」
「じゃあ、俺はどこで眠ればいい? なあ?」
ヒューの剣幕に押されたエリオットは、パジャマにガウンを羽織る。ランタン片手に屋敷の母屋へ向かった。月明かりすらない、真っ暗な裏口から階下へ降りた。
従僕用の寝室へ入る。何ごともなかったかのように、クリスがベッドで寝息を立てていた。ヒューが叩き起こす。
「おい、てめえ、目を覚ませ!」
「……ヒュー、あまり乱暴は」
「俺は怒りでこいつをぶん殴りそうです。けど、一応、女だからな。できねえ」
エリオットはわが耳を疑った。
「嘘だろ」
「嘘なもんですか。さっき、俺がいない隙に着替えてたんですが、煙草を取りにもどったとき見ちまった」
「……ああ、なんてこった」
あまりの驚天動地に、うなだれることしかできなかった。
「仕方ないだろ。何度募集しても、すぐに辞めちまう。だからあたしが、人手不足の穴埋めってわけさ」
目をこすりながら、クリスがそう言った。ランタンに照らされる表情には、まったく動揺が見られない。
「だったら、なぜ僕に相談しない?」
「したら解雇だろ」
「それは……」
否定できなかった。メイドが従僕の格好をして奉公しているなど、前代未聞だ。あるじに発覚すれば、解雇はもちろん、恥をかかせるな、と警察へ突き出される可能性が高い。
「朝になったら、こいつに屋敷を出ていってもらおうぜ」
怒った口調のヒューに、クリスは鼻で笑う。
「何がおかしい?」
「じゃあ、あんたがあたしの代わりに、悪ガキ坊っちゃんの面倒を見るんだね? 言っておくが、大奥さまは坊っちゃんに甘い。おっさん従僕が気に入らない、と告げ口されたら、あんたなんて即日解雇だ。従僕がいなくなったお屋敷、エリオットさんひとりで切り盛りできるのかな?」
「こいつ……」
図星だったようで、ヒューは拳を握りしめるだけだった。
ここではなんだからと、エリオットは執事室へ部下ふたりを入れた。気持ちを鎮めるため、茶を沸かし、それを飲みながら、事情を聞く。
「クリス、きみはいつからここで奉公を?」
「五年前から、キッチンメイドとして。けど戦争が始まっただろ。若い男連中、みんな戦争へ行ってしまって、今じゃ募集してもおっさんか、病人ぐらいしか来やしない。おまけにライナス坊っちゃんは悪ガキで、執事すら居着かない」
「なるほど。それで困った、とボーデン夫人からお願いされたのか?」
「いや、あたしから提案した。始めは猛反対されたけど、戦争が終わるまでなら、という約束でやってる。そもそも、大奥さまのわがままでこうなったわけだし」
「メイドは、いやだとか」
「あたり。メイドが給仕や接客なんて、上流階級の恥だとかなんだとか言ってさ。けど、人手がないよね。ならば、という苦肉の策ってわけ」
「よくバレないな」
「まあ、半分耄碌しているからね、大奥さま。旦那さまも若旦那さまたちも戦死しちまって、そのショックで正常な判断ができないのさ」
ボーデン夫人から聞いていたが、ライナスの母は彼を産んだときに亡くなり、父である先代男爵は出征中、肺炎で病死した。そして年子の長男と次男は年齢を偽り、志願して士官になったものの、西部戦線で若い命を散らした。
今、リンドン家に残ったのは、老嬢である先代男爵の叔母と、現男爵のライナスだけである。
ヒューがため息をついた。
「この屋敷だけじゃねえ。どこの領主も若い紳士を失ってるって話だぜ。坊っちゃんには気の毒だが、こればかりはどうしようもねえ」
エリオットは頭を抱える。
「そういう事情なら――というわけにはいかないなあ。かといって、きみがいないと屋敷の仕事が回らないし。悩む」
「悩むんだ、エリオットさん」
固い表情だったクリスが、わずかに笑みを見せる。
「執事連中、あたしが女だと知ったら、すぐに追い出した。荷物を裏口に放り投げて。仕方なく実家に帰ったら、ボーデン夫人から電報が届いて、復帰したんだ。あたしがいないと、坊っちゃんが手に負えないって、執事が三度も逃げ出した。……四度目は一ヶ月もつかな?」
女だと発覚しても堂々としている理由がこれでわかった。そう、彼女以外、あのライナスの相手をできる執事も従僕もいないのだ。
「どうします、エリオットさん?」
ヒューが眉根を寄せたまま、上司と同僚を見つめた。
カップをソーサに置いたエリオットは、決断する。
「わかった。きみは引き続き、従僕として雇おう。ただし、戦争が終わるまでだ」
「話がわかる上司でうれしいよ。じゃ、おやすみなさい」
あくびをしながら、クリスは執事室を出た。ぱたん、と従僕の寝室のドアが閉まる音がする。
「というわけだ。おやすみ、ヒュー」
そう言いかけ、肝心なことを思い出す。
「あー! おまえの寝場所が……」
「同室するわけにはいかねえしな。だから執事室を俺の部屋にするぜ。異論はないですよね?」
「も、もちろん」
「やった。気分は執事だぜ!」
無邪気に喜ぶ中年を見ながら、まあこれでいいか、とおのれを納得させる。
エリオットがリンドン家で奉公を始めて一ヶ月後。
今度は女家庭教師が辞職した。ライナス坊っちゃんのいたずらに耐えることができず、勉強も進まず、疲れ果てたのだ、と。
「あれでも三ヶ月もったんだ。長いほうだよ」
クリスのその言葉が、エリオットをさらに気鬱にさせた。しかし落ちこんでいては何も始まらない。新聞とロンドンの職業紹介所へ、求人を出した。
だが半月が経過しても、応募者はなかった。家政婦のボーデン夫人が推測するには、ウイロレーク屋敷の悪評が同業者のあいだで広まったのではないか、という。
「ああ、また難題……」
エリオットは頭を抱え、職を探している女家庭教師はいないか、と手紙を書くことにする。宛先はかつての同僚従僕だった、マークである。すでに四十をすぎている彼は徴兵されることなく、小さなホテルの主人として暮らしている。
数日後、返信があった。
「ええー。あきらめろ、だと? なんという、冷たいお言葉……」
落胆するエリオットは、夜の執事室でヒューに愚痴をこぼした。
「ま、あいつらしいっていやあ、そうだな。噂ほど恐ろしいものはねえ、ってエリオットさんも承知してるでしょ?」
「もちろんだ。そこを友人ならば、うんうんと良案をひねり出してくれる、と淡い期待を抱いたのさ」
「見事に砕け散りましたね」
「あはは……。って笑いごとじゃない。ライナス坊っちゃんをどう、教育するか。重大な問題だぞ。なにせ男爵さまなのだからな」
「こうなったら、どこかの寄宿学校にでもぶちこみます? 中学生になる前に、あずかってくれる学校があるって聞いたことがあります」
「そうだな。それがいいかもな。ただ、それを大奥さまがお許しになるか。それに校則が厳しくて、脱走するような気がしてならない。女家庭教師がみな、手を焼いたほどのやんちゃぶりだ」
気が進まなかったが、小さな主人の教育を放棄することはできない。翌朝、エリオットはおそるおそる女主人であるマーガレット・リンドン嬢へ、ライナスを寄宿学校へあずけてみては、と進言した。
齢七十の老嬢はしばらく無言でエリオットを見つめ、苦々しく言葉を吐いた。
「……かわいそうなあの子を、追い出すつもりかしら」
「いえ、そのつもりは。ただ、つぎの女家庭教師が決まらないですし、ひとつの提案として申しあげたまでです」
「それをどうにかするのが、おまえの仕事だろうに。使えない執事ね」
エリオットは退散するしかなかった。
午後、子供部屋から呼び出しベルが鳴る。エリオットが駆けつけると、ライナスに桶のなかのものをぶちまけられる。家畜の糞尿だった。
あまりの臭気にエリオットは咳きこみ、涙を流す。目を開けていられない。
「げほっ、げほっ!」
「おまえ、ぼくを追い出そうとしたな! ここはぼくの家だ。おまえが出て行け!」
「……」
言いわけはしなかった。まさに小さなあるじの言うとおりだったからだ。
――僕は取り返しのつかない過ちをおかした。
あるじが何を望んでいるのか考えようともせず、安易な手段を選ぼうとした。悔やんでも遅い。
「かしこまりました、ライナス坊っちゃん。わたくしはあなたさまの召使としてふさわしくないようです。明日にでも荷物をまとめましょう」
「……」
ライナスは桶を床に投げつけ、子供部屋を出ていった。エリオットは追いかけなかった。いや、できなかった。
「一ヶ月半か。予想どおりだった……」
夕食前の使用人ホールで、エリオットが退職を告げるなり、ぽつりと従僕クリスがそう言った。
「お力になれず、ごめんなさい。だれが来てもすぐに辞めてしまうのだから、あなたは悪くないわ」
ボーデン夫人は力ない声で謝罪する。
「あーあ。せっかくエリオットさんといっしょに働いてたのに。明日でお別れかよ」
苦い表情のヒューは、ため息を何度もつく。
そして静まり返った使用人ホールでの食事が始まる。戦争のため、じゃがいもと豆スープだけの貧しい食卓だが、物資の乏しいロンドン暮らしに比べたらまともだった。
エリオットは使用人ホールを出る。朝食と夕食は、離れのわが家で食事をとるためだった。
食卓につくなり、エリオットは妻レベッカに詫びる。
「すまない。ライナス坊ちゃまとうまくいかず、明日、ここを出ることにした」
「そう。村の奥さまたちから、ライナス坊っちゃんのお話、たくさん聞かされたわ。一年で三人の執事が辞めたことも」
九歳の息子と七歳の娘はすでに就寝している。ヨークシャーの自然を気に入っていた子どもたちを、がっかりさせてしまうのが心苦しかった。
「ただのかわいいいたずらだったら、よかったんだがな。糞尿で新調したばかりのフロックコートをだめにした。それだけ、僕を許せなかったのだろう」
「残念ね。うちの子は聞きわけがいいのに、どうして……」
「父親と兄ふたりを短期間で失ったんだ。ひねくれるのも無理はない。初日から、ひどく警戒されてお話すらできないし、もう、お手上げさ」
悔しさがこみ上げる。
おのれの敗北に。
それから黙って、じゃがいもと豆スープの食事をした。
皿が空になったころ、レベッカが言った。
「ジョン、決めたわ」
「何を?」
「わたしがライナスさまの家庭教師になる」
「ええっ! それはいくらなんでも、無謀すぎる。だれが来ても、すぐに辞めてしまうんだぞ。僕だって手を焼いてるほどだ」
夫ではなく、執事として忠告した。しかしレベッカの決意は固い。
ぐっと拳を握りしめ、まっすぐにエリオットを見た。
「子どもたちを転校させたくないの。あなたが失業しても、わたしが奉公できれば出ていかなくていいはず。そうよね、ジョン?」
「まあ、それはそうだが……」
「だから悩むのはもうおしまい。明日、ボーデン夫人と会わせて。わたしから直接お願いするわ。だれもなり手がないんだもの。断る理由はないはず」
レベッカは出会ったときから、型破りな一面があった。
結婚後、出産して育児に追われてからは、従順な妻としてすごしていたが、彼女の血が騒いだようだ。紫色の瞳は闘志に燃えていた。
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