第2話:再就職と再会
応接間であいさつを交わしたあと、家政婦であるボーデン夫人は、目を輝かせて即答した。
「明日――いえ、今日からでもかまいませんわ。採用いたします」
「あの、質問とかはないのでしょうか。たとえば、以前、どこのお屋敷で奉公していたのか、とか。妻帯者なのか、とか」
「心配ご無用、うちは大歓迎よ! 男手が足りなくて困っているの。しかもロンドンから三時間以上もかかるでしょう。不便だからって、募集しても面接希望者すらないところですの。ああ、よかったわ」
「ええ、まあ、そういうご事情なら……」
以前の雇い主であるホテルのオーナーから、紹介状――人物証明書を送る話をつけておく約束をするも、一抹の不安を禁じ得ない。
――十年近くもブランクがあるのに、事情は気にしないのか?
ボーデン夫人が言うには、あるじであるリンドン男爵はまだ十歳で幼く、後見人である大叔母令嬢は気むずかしいため、使用人の採用は家政婦へ一任している。五十歳なかばのボーデン夫人は三十年近くリンドン家に奉公しているものの、その他の使用人は戦地へ出征したり、町の工場へ転職してしまい、今いる者は経験が浅い。
――つまり、この屋敷はボーデン夫人が首領みたいなものか。
そう、判断した。
採用が決まったので、一度、ロンドンのわが家にもどり、荷物をまとめることにする。
エリオットが屋敷の裏口を出たとき、中年の男とすれちがった――直後、両者は立ち止まり、たがいを凝視する。
「え――まさか、きみは」
「へ? その眼鏡顔に、マヌケな声は」
「マヌケはよけいだ」
「ああ、やっぱりエリオットさんっ! こんな田舎で再会できるとはっ!」
ぎゅうぎゅうとおのれの抱きしめるのは、かつての同僚部下だ。
「く、苦しい、ヒュー…………」
「知り合いが無事だったんですぜ。これが喜ばずにいられますか! 俺より若い連中、ほとんど戦地に行っちまってさ」
「身体検査に落ちてしまってね。役立たずの身ってわけさ」
「よかった、よかった……」
そしてさめざめと涙を流す。いつも陽気で競馬が好きで、ざっくばらんな男とは思えない変わりように、エリオットはあらためて時の流れを感じた。茶色の髪は白髪まじりになり、くっきりと現れた目じわが年齢を物語る。
ふと、われに返ったように、ヒューは姿勢を正し、咳払いをする。
「こほん。そもそも、俺らはなぜここで再会を? ちなみに俺は、職業紹介所で求人を見つけて、面接に来たんですが」
「僕もだ。長いブランクがあるけど、経験不問とあったから」
「で、採用されたんですかい?」
「ああ。即、採用。うまくいきすぎて、怖いぐらいだよ」
「その慎重さ、変わってませんねえ。ということは、俺、不採用かよ……」
「そもそも御者も運転手も募集していなかったが」
「経験不問とあったから、執事やってみようかな、と」
「え、じゃあ、どこかの屋敷で従僕でもしてたのか?」
「いや、それがその、三年前、車で事故しちまって。怪我で解雇になるわ、若い連中が運転うまいしで、奉公仕事をやめたんですよ。けど、この歳になると、工場勤めはきついんで、またお屋敷奉公にもどりたくなった、というわけです。でもですぜ、肝心の紹介状がアレですんで、ちょこっと細工して……」
「つまり偽造か」
「まさか、エリオットさんと再会するとは、夢にも思わないじゃないですか。というわけで、さよならだぜ。悪いことはできねえな、神さま……」
ヒューは裏口から中へ入ることなく、屋敷を出ていく。寂しそうな背中を見送っていると、昔のできごとが脳裏によみがえる。
せっかくの給金を競馬で失い、呆れながらエリオットは給金の前借りを許したことがある。一度や二度ではなかったが、しばらくすると反省するどころか、得意げに勝利のおこぼれを渡してきた。ヒューが言うには、ギャンブルは運ではなく、勝算があるから賭けるのだという。が、そう豪語するわりには、儲けにはならない。勝ったとしても、以前の負けを埋めるレベルで終わるからだ。
そこでつぎは何か用事がないか、とエリオットの周りをうろつき、お駄賃を稼ごうとした。四十なかばだというのに、相変わらずセコくていい加減だ。けれど憎めない。
――なんだかんだ言っても、気の良い男なんだよなあ。弱気な僕は何度、それに救われたか。
エリオットは走った。屋敷の門を出ようとしたヒューの肩をつかむ。
「早とちりするな。ここの家政婦は男手が足りない、と言ってた。執事は無理でも、従僕か運転手のクチはあるんじゃないのか」
そういうわけで、翌日からエリオットは、かつての同僚といっしょに奉公することになった。
ウイロデイル屋敷はヨークシャー北部の谷あいにある。イングランドの最北端で、羊毛と石炭産業が盛んだ。そして自然が美しいことで知られている。
ロンドンの下町に住んでいた幼い娘と息子は、初めは引っ越しをいやがったが、一週間すると慣れた。村の子どもたちと仲良くなり、初めてみる川や森のなかで楽しく遊ぶ。もともと田舎に住んでいた妻は、お屋敷奉公に大賛成だから問題はなかった。屋敷の離れにある上級使用人用の小さな家で、家事と子育てにいそしむ。
すべてが順調に思えた。
しかしそれは甘かった。エリオットの不安が的中する。
今朝、女家庭教師が悲鳴をあげて、エリオットに助けを求めた。すぐさま子供部屋に走り、ドアを開けたら、ゲロゲロと大合唱のお出迎えである。十匹以上のカエルがぴょんぴょんと、跳ね回っていた。
「ライナス坊っちゃん! ど、ど、どこからこんなにカエルをっ!」
茶褐色の髪と青い瞳をしたパジャマ姿のくそガキ――いや、小さなあるじは不機嫌な顔丸出しで、頭をかいた。
「昨日先生が言ったんだ。カエルは水がないと生きられないって。だから実験してるんだよ」
真面目な回答をするが、黒いフロックコート姿のエリオットを見る目は挑戦的だった。
――また嫌がらせかよ。
この小さなあるじは、エリオットが執事として屋敷で奉公を始めてから、毎日、いたずらを仕掛ける。昨日はスープのなかにミミズが入っていた、と騒いでぶちまけ、一昨日は用事がないのに呼び出しベルを幾度も鳴らした。エリオットが小言すると、逃げたライナスは階段の手すりを身体に乗せ、そのまま滑って落下したことがあった。幸い、怪我はなかったものの、エリオットは生きた心地がしなかった。
どうやら、リンドン男爵はエリオットを歓迎していないらしい。身にしみるほどそれが伝わってくる。
「今すぐ、片付けてください、ライナス坊っちゃん。カエルは屋敷に住めません」
「実験しないとわかんないだろ」
「ですから、実験ごっこはまたにしましょう。あと、実験は先生にまずご相談してください。後始末に困ります」
「片付けるのがおまえの仕事だろ」
「いいえ」
しばらく沈黙したライナスは、無表情のままカエルを虫取り網で捕まえる。今日は素直に言うことをきいてくれそうだ。
と、安堵した直後。
エリオットの顔にべっちょりとカエルが張りついた。
「ぎゃああああ!」
おのれの悲鳴に従僕ヒューとクリスが駆けつける。そのときすでにライナスは子供部屋から消えていた。
「や、やられた…………」
あるじのいたずらに負けてしまう。あまりの情けなさにエリオットは、うなだれるしかない。
「おれがカエルを網で捕獲するから、ヒューは麻袋に入れてよ」
「よっしゃ」
すっかり慣れきっているらしく、少年従僕クリスは器用にカエルを捕まえる。
「エリオットさん、うまい話には穴があるっていうやつですね」
ヒューは苦笑した。
「ああ、いつまで辛抱できるのやら」
あるじのいたずらを真に受けないよう、気をつけてはいるものの、あまりのやんちゃぶりに振り回されてしまう。
「辞めたければ、どうぞ。もう慣れっこですから」
冷めた口調のクリスもエリオットを歓迎していなかった。必要最低限の言葉しか交わそうとせず、雑談にもまったく応じない。無愛想そのもの態度に、自分だけでなく、ヒューも困っている様子だ。
「前の執事はいたずらに耐えかねて、辞めたんだろう?」
エリオットの問いにクリスは答えず、黙ってカエルを捕まえ、ヒューに渡し、子供部屋を出た。
「なんだよ、あれ。上司にあの態度はねえだろ」
「うーん。坊っちゃんだけでなく、いろいろわけありなのかもな、このお屋敷。ボーデン夫人はにこにこしているが、明らかに僕を警戒しているし」
「エリオットさん、いい人なのに、なんでわかんないっすかねえ……」
軽くヒューを小突かずにいられない。
「よせ、照れるだろ」
「ほんとのことじゃないですか」
真顔でそう言われると、自分でも赤面するのがわかった。
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