執事エリオットと小さな領主
早瀬千夏
第1話:ロンドン空襲
一九一七年六月某日のロンドン。
エリオットは多忙を極めていた。先週、歳の近い同僚がついに召集されてしまい、ホテルで働く人手が不足したからである。
ちんちんちん――ホテルの食堂から絶えまなく鳴る、呼び出しベル。受付フロントから出て、小走りで向かう。
「おまたせいたしました」
乱れそうになる息を整えながら、カーキ色をした軍服姿の客の前に立つ。襟章を見たら佐官だった。
「きみ、いつからスープは冷製になったのかね?」
その嫌味を合図に、別テーブルの夫婦客も苦情を告げる。いらいらと指先でテーブルを叩きながら、佐官は続ける。
「さんざん注文を待たされたあげく、出てきたのは戦地と変わらん食事。サービスは悪いし、ここもすっかり変わったな」
「申しわけございません。すぐに熱いのとお取り替えいたします」
盆に三皿のスープを乗せると、くすんだ金髪と青灰色の瞳のエリオットは厨房へ向かう。女料理人はおらず、メイドもいなかった。仕方なく鍋の蓋を開け、別の皿に注ごうとしたら空だった。繊維状になったセロリの小さな塊が、底に残っているだけ。
すぐさま客の残したスープを鍋に入れ、オーブンの上で温める。少し湯を足し、何食わぬ顔で配膳をした。
温めなおしたスープを口に入れたとき、佐官の手が一瞬、止まる。
――湯を入れすぎたか?
と、そのとき。
大きな衝撃音と震動。テーブルと食器、グラスが小刻みに揺れる。
が、それもすぐに止んだ。
何ごともなかったかのように、客たちはパンとスープと豆だけの朝食を食べた。
どうやら近くで落雷があったらしい。今朝は天気が良くて、雨が降りそうな気配はなかったのがひっかかるが、多忙のあまりすぐに忘れた。
ふたたびフロントにもどり、チェックアウトする客たちの対応をこなす。また食堂から呼び出しベル――待っても待っても朝食が出てこない、という苦情。
――ええい、ミニーはどこへ行った!
探そうにもフロントには自分しかおらず、代理を頼めない。動けないいらだちをこらえながら、ひたすら謝罪するしかなかった。
ようやく女料理人が帰ってくるが、まったく悪びれず、それどころか得意げに「市場で手ごろな材料を調達できたよ」と、エリオットに喜々として報告する。
「買い物はいいが、せめて朝食の支度を終えてからにしてくれよ」
「その肝心の材料が不足してるのよ。スープだってまともに作れやしない。それもこれも、戦争が長引いているからどうしようもないじゃないか」
「それにしても客のスープが少なすぎる」
「じゃあ、ミニーだね。あたしがあれだけ、量を少なめにしな、って注意しておいたのに」
「そういえばミニーは?」
「牛乳を買いに行かせたけど。まだもどってないの?」
「ああ。給仕がいないから、代わりに僕が」
「このご時世だからねえ。きっと、品薄で行列ができてんだよ」
「だろうなあ……」
あとはため息しか出てこなかった。
勤務を終えたエリオットは、わが家への帰路につく。夜勤明けで、あくびが何度も出てくる。早くベッドで眠りにつきたい。人手不足で休憩が取れず、ひどく疲れていた。
――そういえば、あのころの僕も人手不足でまいっていたっけ。もうあれから十年か。
ふと、独身時代に奉公していた領主館での日々を思い出す。急遽、夜逃げした上司の代理として執事職を得た。先輩同僚の嫉妬があったり、慣れない管理職で泣きそうになったり、やっかいな客人の世話、気まぐれな若主人、いたずら好きな坊ちゃん、温厚で誇り高い准男爵のあるじ、そしてはるか遠くにいたお嬢さま…………。
あのころは多忙な日々に嫌気がさしたが、今となっては懐かしい。充実した日々だった。
――僕は、高貴なあるじにお仕えする、おのれの職業を誇りにしていた。
使用人になんてなりたくなかったが、奉公仕事をしないと生きていけなかった。だれもがそうで、そんな時代だった。
しかし今はちがう。
戦争が始まり、男たちは志願、あるいは徴兵されて戦場へ行く。その留守をあずかる女たちは、男の代わりとして働き、社会進出を果たす。そうなると当然、不人気の使用人仕事は慢性の人手不足になる。自由時間がなく、つねにあるじに縛られる奉公生活を選ぶ若者は少なかった。
けれど。
エリオットは眼鏡のレンズ越しに晴れた空を見上げる。
――ああ、もう一度、誇り高いあるじにお仕えしたい。
不特定の客を相手にするホテルでの仕事は、忙しいばかり。あるのは苦情とチップの多寡だ。一期一会の世界だから、どうしても機械的な接客で終わる。
屋敷での奉公仕事のような、あるじが何を欲し、何を望み、だれを好み、だれを退け、どんな未来を願っているのか。そんな心遣いは必要ない。それがエリオットには物足りなかった。
それでも執事職に復帰できない、深い理由がある。
――僕は同業者のブラックリストに載ってるからなあ。
自分で決めた道だとはいえ、心の片隅はつねに疼いていた。
そんなことを思いながら通りを歩いていると、人だかりがあった。商店が数軒くずれ、瓦礫が道路に散っている。
いやに焦げ臭い。周囲の会話を聞くに、ドイツ軍の飛行機が爆弾を落としたのだという。
――さっきの衝撃音は、爆弾?
まさか空からそんなものが降ってくるとは、夢にも思っていなかった。空前絶後のできごとに、血の気が引く。もし、通りがたがえば、職場のホテルの上に落ちていたかも。
「人が倒れているぞ!」
労働者の男たちがそう叫び、瓦礫のなかへ走っていった。救助するため、エリオットは駆けつける。戦地に行けない自分が、わずかでも役に立てるのなら、という思いからだった。
瓦礫を動かし、そこで見たのは――。
「ミニー!」
変わり果てた同僚メイドの姿だった。
同僚メイドのミニーが被爆死した。世界大戦はエリオットが想像していた以上に、兵器が近代化しており、その威力に戦慄をせずにいられない。
あの朝、すぐにミニーを近くの病院へ運んだが、息はなく、熱で肉体は焦げ、瓦礫の重さで頭が半分、潰れていた。翌日、同僚たちと葬儀に参列したものの、孤児だった彼女を見送る家族はいなかった。
葬儀のとき、鉛色の飛行機が空を旋回する。だれかが「ドイツ軍の爆撃機だ」と叫ぶ。エリオットは心臓が止まりそうになる。身体が震え、とても仕事ができる状態ではなかった。
結局、二日ほど休み、三日目の朝、出かけようとするが身体が動かない。
妻のレベッカが心配そうに、玄関で顔をのぞきこむ。
「ねえ、ジョン。あれは不幸な事故だったのよ。だから自分を責めないで」
「違う、違うんだ。あれは事故なんかじゃない。殺人だ。ミニーは民間人だ。なのに、たまたま……」
「戦争だもの……」
「そんなことが許されるのか?」
「許されないから、戦場で戦ってるのよ。違って?」
「戦えない僕には、意見する資格がないということか?」
「そんなつもりじゃ……」
「いってくるよ」
「ジョン」
妻の呼びかけに背を向け、苦い思いで下町のアパートを出た。まだ小さな子供たちが起きていなかったのが幸いである。夫婦喧嘩を見せたくない。
大通りに出たとき、聞きたくないプロペラ音がした。また飛行機――よかった。翼に描かれた赤白青の三重円は、連合国軍の戦闘機だ。
――僕はあいかわらず小心者だな。
周囲を見るが、若い男どころか同年代の男もほとんどいない。いても明らかにやつれた者か、戦場で怪我をした者、休暇で帰国した兵士ばかりだ。
――そうだよな。前線にいたら、飛行機の爆弾ひとつどころじゃないしな。
知り合いたちがいるだろう、狭く薄暗い塹壕のなかを想像するが、過酷な穴蔵生活の実感はさっぱりわかない。行ったことがないのだから、当然である。それでも世間話や、新聞で過酷な塹壕戦を知るたび、彼らの無事を祈るばかりだった。
一年前、志願制だったイギリス軍だが、長引く戦況で徴兵制に変えた。「臆病者」と後ろ指をさされ、白い羽を渡された男たちですら、義務として徴兵検査を受けた。エリオットもそのひとりだった。もう若くないから、戦争に行っても足手まといになるのではと、不安だった。
結果は不合格。視力が極端に弱いためだった。
安堵するが、それを決して口にしなかった。少年時代からコンプレックスだった分厚いレンズの眼鏡が、まさかこんな時代になってわが命を救うとは。人生何があるかわからない。
勤務先のホテルに入ろうと裏口へまわる。一枚の張り紙があった。
「え――? 長期休業……」
自分が休んでいるあいだに何があったのだろうか。鍵がかかっていたから、ノッカーを叩いてみる。
同僚の女料理人が煙草を吸いながら、ドアを開けてくれた。その表情は冴えない。
「昨日さ、メイドとボーイがみんなやめちまったの。ロンドンにいたら、いつここも爆弾が落ちてくるかわかんない、からってさ。もう従業員があたしと雑用のじいさんと、あんたしかいなくて、とても営業できる状態じゃないから、オーナーの判断ってわけ」
「ああ、そうか。ああ……」
エリオットはがっかりする。失業してしまった。家族をどうやって養おう。
「あんたもあたしも、いい歳だけどさ、ホテルならあるよ。どこも人手不足だろうし」
「職業紹介所へ行くしかないか」
「あたしはエリオットさんが好きだった。だから戦争が終わったら、またいっしょにここで働こうじゃないか」
「ああ、そうだな」
ふたりは別れの握手を交わす。そして女料理人はトランク片手にホテルを出ていった。エリオットは私物をまとめ、その足で職業紹介所へ向かう。
職業紹介所の広間にはたくさんの求人張り紙があった。エリオットはホテルの欄を読んでいくが、ふと、ある文字が目に入る。
『ウイロデイル・ホール。至急、執事求む。年齢、経験有無は問わず。あれば給金優遇。場所――』
反射的にその求人票をつかみ、受付カウンターへ向かった。
――至急、年齢、経験問わず、なら雇われる可能性が高い!
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