弐:「ボタン、山、新人」
「クロダさん」ジンナイは隣にいるクロダに声をかけた。「あれ、やっぱりこっちに来るんですよねえ?」
噴水広場を取り囲む樹木の陰から、ノロノロとぎこちない様子で現れた男は、はじめのうち、センターには目もくれず広場を横断する気でいるように思えた。しかし、正面にある円形の大きな噴水(だったもの)で一度体が隠れ、次に姿が見えた時には、しっかりと目標をジンナイ達のいるセンターへと定め、一歩、一歩と確実に歩を進めていた。
男と呼んでいいものかどうか、ジンナイは少し迷った。まだ顔の詳細が見えるほど近くはなかったし(ジンナイは常にメガネをつけてはいたけれど、左目のレンズにはヒビが入ってしまっていた)、それに、なんだか腕が三本あるような気がして、それが肩の辺りから木の枝が生えているからで、さらにその枝が腕のようにウゴウゴと動いているんだ、とようやく理解した時に、ジンナイの口から漏れた言葉は「あの男」ではなく「あれ」になっていた。
こちらに人が近づいてくる、と報告しに来たのは、まだ顔に幼さの残る--部活動は運動系ではなく文化系に所属しているんだろうなと思わせる、肌の青白い体の小さな少年で、後になってその子が高校生である事を知って少なからず一声上げる程度には驚いたのだけれど、ともかく少年が目を輝かせながら話すのをクロダがぞんざいに受け止め、建物奥に引き下がらせたのをジンナイは隣で見ていた。
その対応の仕方に少年は不満そうであったし、ジンナイも多少の労いはあってもいいんじゃないかと思わないでもなかったけれど、先日、暴れる男をいとも簡単にねじ伏せた当人相手に文句をいう気持ちは湧くはずもなく、(きっとどこかでその様子を見ていたのだろう)少年も、一瞬だけ恨めしい目をこちらに向けただけで、何も言わずにスゴスゴと二階に上がっていった。
ちょうど調達班が帰還する予定時刻だからと、二人で玄関口に待機していた為に(だからこそ少年は自分たちに報告をしに来たのだろうけれど)、そのまま外へ出て様子を確かめようという流れになった。
普段ならば--この日常を普段とするならば、皆によって取り決められた警備担当の人間に任すところで、クロダはリーダー的立場から外の警備も担当した事があるのだろうけれど、ジンナイにとっては初めての--世界がこうなってから初めての来客対応だった。
返事を期待した訳ではなく、ただ口から漏れ出たように発した問いであったから、クロダの耳に届いたかも定かではなかったし、そもそも、見るからにあれの姿はだんだん大きく、今では顔の表情さえわかる程に近づいてきているのだから返事を待つまでもなかったのだけれど、それでもジンナイはクロダの顔をチラリと窺った。
体力的なものか日々のストレスからか、脳から送られる足を動かす信号が鈍くなっていて、まるで泥濘の中に立っているように感じられ、油の切れた機械のようにギシギシと軋む。返事がなければ、このまま立った状態で何もせずに、全てクロダに任せてしまおうかという甘え、というよりも懇願に近いものが脳裏に浮かんでいた。
クロダはまるで煙の中にいるかのように顔をしかめて(それはセンター内の皆がこのところよく目にする表情だったし、皆がよくするようになった表情でもあった)前方から近づく男を見据えていた。
足を肩幅に開き、木製のバットを地面に突き立てている。
そのバットは、少年期をこの地区で過ごし、地元チームへの入団を経た後、現在は大リーグで活躍している(いたというべきか)有名な野球選手からセンターへと記念に贈呈されたもので、側面には新人の頃から今に至るまでずっと変わらず使い続けている選手の背番号と名前が彫られていた--名前の下にはマジックペンで大きくサインも書かれていたのだけれど、それはすでに滲み、かすれて、今では日焼けあとのシミのようになってしまっていた。
グリップエンドの部分に両手を添えてしかめ面でいるクロダは、バッターボックスに控えている強豪スラッガーや、「動かざること山のごとし」を体現している将軍のように見えた。しかし。
「ありゃあ、マツオんとこの息子じゃねえか……。まいったね」
きっとジンナイと同じように口から漏れ出てしまったのだろう、返事を期待する類のものではない言葉をクロダは発し、そして、顔の筋肉がダルンと垂れ下がって、一瞬で何十年も経てきたような疲れた表情をジンナイへと向けた。
まるで杖をついてギリギリ立っていられるだけの老人のように思えた。
自分たちは、いつからボタンを掛け違えていたのだろうか。どうしてこのような事態になってしまったのだろうか。
ジンナイはとりとめもなく溢れてくる考えを叩き消すように、軋む足を拳でゴンゴンと叩いた。
「クロダさん、僕はどうすればいいですか? 初めてなんで教えて下さい」
「……初めて。そりゃそうか。まあ、世界がこうなっちゃあ、誰だって新人だわな。俺だって--」
クロダはそこで一度言葉を切った。次の言葉を発する覚悟を決める為に、ゴクリと唾を飲む。
「人を殺すなんてのは……やっぱり慣れねえよ」
◆
ボタンの掛け違いという表現はどういった状況の時に使われるものだったか。
ボンヤリと現実逃避じみた考えに耽りながら、その日ジンナイは、文字通りにボタンを掛け違えたシャツを直していた。
今日は新入社員の研修会があるから午後からの出社でいいと上司に言われ、その言葉に存分に甘えた結果、前日に深酒をし、起きてみれば遅刻ギリギリの時間になってしまっていた。
妻は子供を幼稚園バスに送る準備に忙しくしており、つまりは戦闘モードであるから、容易に「なんで起こしてくれなかった?」なんて文句を言える雰囲気でも無かった。
焦る頭で着替えを済ませ、立鏡を覗いてみるとなんだか体が傾いて見えた。シャツの右側がピョンと上に飛び出している。ボタンを全て掛け違えてしまっている事にそこで気づき、焦りの陰から諦めがひょっこりと顔を出した。
妻と自分のスマホから同時に、胸を突くようなアラーム音が響き渡ったのはその時だ。
直後に家が揺れ--それは「揺れた」というよりも、まるで家の両端に長い足が生えて、そのまま家を持ち上げて走り出し、山登りでも始めたかのように凄まじいものだったのだけれど、自分でも意外な程、ジンナイは冷静でいられた。
五年前に建てたマイホームは耐震構造が売りだった、という絶対的な自信があったし、幼少期にとはいえ、過去に震災を経験したというのも冷静さを後押ししていた。
「水、ドア、ブレーカー……、水、ドア、ブレーカー……」
ジンナイは、揺れが収まったらまずやらなければいけない事を呪文のように唱えながら、階下の妻と子供のいるリビングへと向かった。画面に「強い揺れに備えてください」という警告文が表示されたスマホをポケットにしまう。寝室に忘れていたのだろう妻のものも(いくらか乱暴に)ポケットの隙間にねじ込んだ。
家全体からギヨーウ--ギヨーウ……という音が聞こえる。揺れで軋み、まるで家が叫んでいるように感じた。
廊下に額縁が落ちていた。
妻は付き合っていた当時から絵を描くのが好きで、ある日、ふとした事から喧嘩をした際、気を紛らわす為に殴るようにして描いたのだという牡丹の花の絵が飾ってあった。水彩絵の具で描かれた薄いピンクの牡丹の花の下に、デカデカとした筆文字で「COMPASSION!(思いやり)」と書かれている。
これは牡丹の花言葉なのかとジンナイが疑問を口にすると、妻は顔に恥じらいの色を浮かべながら「花言葉なんて知らない。思いついたから書いただけよ」と、そう言った。淡い色合いの花と、暴力的ともいえる文字、そして照れて顔を隠すように俯く妻が、チグハグではあるけれど不思議とマッチしているようにも思えて愛しく感じ、そしてジンナイはその日、プロポーズをしたのだった。
大事な絵ではあったけれど、ジンナイはそれを放置し、階段を這うような姿勢で降りた。
未だ揺れの続く中、本来なら安全な場所に身を隠すのが最良の行動なのだろうけれど、妻と子供の近くへと向かうのは何よりも優先すべき事柄だった。
時折体のバランスを崩し、転がりながらも、なんとかリビングまで辿り着くと、妻は部屋の中央で子供の頭を抱えて伏せるような体勢でいた。
バタバタと、膝と手を使って二人の元まで歩み寄る。
子供があらん限りの声量で泣き喚き、妻が子供の頭を胸元に強く押しつけていた。まるで子供の泣き声がこの地震を起こし、それを妻が必死に抑えているような構図にも見えた。
ジンナイは二人に覆いかぶさるように、精一杯両腕を広げ、背中に力を入れた。細い背中ではあったけれど、この時ばかりは二人を隠せるくらいに大きくなってくれと願った。
「大丈夫。大丈夫だから」と、自分にも言い聞かせるように声をかけた。
妻はギュッと目を瞑り、コクコクと頷いた。子供はさらに泣いた。しかしその声音には父の姿に安心したような響きも混ざっていた。
そこにきてジンナイは、この地震がただの地震ではないことにふと思い至った--いくらなんでも、長すぎやしないか?
すでに三分以上、凄まじい揺れは途切れること無く続いていた。
冷静さを蝕むように焦りがジワジワと生まれた。ジンナイはすでに呪文の言葉を忘れてしまっていた。
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