壱:「蝋・塔・酔い」
中央区民コミュニティセンターは、建てられた当初から様々な用途に使われる事を目的とした施設だった。
区民が交流できる事を主にし、大、中、小の会議室や和室やスタジオ。それに、ビリヤード台や卓球台等も置かれていて、サークル活動の拠点としても利用できる。
もちろん、緊急避難所としても指定されていた。入り口からグルリと裏に回れば、巨大な災害時用の備蓄倉庫が併設されていて、中には避難者収容可能人数である千二百人分の生活用品がうず高く積まれている。いや、積まれていた。
区民全員が利用する事を大いに期待していたのか、入口側を除く三方の敷地も広く駐車スペースが無くて困るといった事も無い。それに入口の前方にはこれまた充分な広さの噴水広場があって、そうした、過剰な期待を含んでいるともいえる立地が、この世界規模の災害の中でさえ、人間が利用できる避難施設として機能している理由の一つではあった。
現在、中央区民コミュニティセンターは名目通り、中央区民の活動拠点として最大限に活用されている。
陰で無駄に敷地を使っているだけじゃないかと囁かれていた駐車スペースは、急速に成長する植物の侵食を妨げる事が出来た。それに、一度も使われた事が無いのじゃないかと疑われていた会議室やスタジオには碁盤の目のように間仕切りが敷かれ、区民の居住スペースという役割が与えられた。そして、役人の横領や不正の温床だと決めつけられていた備蓄倉庫の中の生活用品や食料も適切に皆に分配された(それが明らかに足りないと判明するまでは)。
怒涛ともいえる災害に直面し、日々目の前の事柄に追われていた中央区民の一部が、すこし先の将来、これからの事について考えを巡らせる事が出来るようになるのには二週間かかった。
排気ガスのように濁ったため息を一口吐いて現状を振り返る。
不安に陰る目で辺りをキョロキョロと見回す者、天井を眺めなにやらうわ言を繰り返す者、あてもなくフラフラとセンター内を歩き回る者。
二百人に満たない全中央区民は、失意や絶望に満ちた靄の中にいた。
センターの玄関口から横に伸びるように大きな窓が続いていて、本来ならばどの窓からも、大きな噴水やその下で水遊びに興じる子どもたちを眺める事ができた。逆に噴水広場から建物を見やれば、窓ごしに建物内で働く職員やイベントを楽しんでいる利用客の顔をうかがい知る事ができただろう。
しかし今はそのどちらも不可能だ。
窓は一筋の明かりも通さない程に黒く汚れていた。埃や煤、それに大量の花粉のせいだった。粘ついた花粉とその他モロモロが混ざり合い、泥を塗りたくったように窓を(いや、建物全体を)覆っているのだ。
そして、外から中を伺おうとする人間はすでにもういない。
けして開けることが出来ないように固く固定され、内外の様子を見ることもできない窓はもはや壁と同じでしかなく、それ故に大半の壁と同じように、人々の興味を惹くものではなくなっていた。
しかし、ケンタはフロアの隅にあるその誰の目にもとまらなくなった窓の前に居た。
窓の前には使われていない木製のパレットが四段、五段と乱雑に積まれ、少し階段状になっている(それがまた、景観美を良しとしたセンターが窓に興味を無くした証拠でもあった)。ケンタはその上に乗っかり、膝を抱えた姿勢で黒く塗りつぶされた窓を見ていた。
風に飛ばされた木の枝かなにかがすこし窓を引っ掻いたのだろうか、ほんの一部分だけ線状に汚れが取れて、外を見ることができたのだ。
とはいっても、見ることが出来たからといって何をするでもなかったのだけれど--外の状況がどうなっているかについてもケンタはよく理解しているつもりだったし、心境としては嵐の晩に窓に打ち付けられる雨や風を眺めるのと似ていた。
ケンタは高校生にしては体が小さかったが、しかし精神的にはすこし大人びていると自覚していた為に(世の高校生男子の大半がそう考えているのだけれど)、このセンターにおける自分の扱いについていささか不満があった。
もう高校生なのだからと、荷物の運搬や力仕事などには大人同様の仕事を求められ、少し危険な(しかしとても刺激的な)建物外での作業となると、まだ高校生なのだからと他の子供同様にやんわりと室内待機を命じられる--その時はまるで牢に閉じ込められたような絶望感さえ味わう。
自分はいてもいなくてもどちらでも良いんだ、という周りの大人が出す雰囲気がとても嫌だった。
実際、こうしてパレットの上でボーッとしているケンタを見咎める者など一人もなく、つまりは黒い窓や壁と同じように興味を惹く対象ではないのだろうと、若干子供みたいにすねた気持ちでいたし、今回に限らず、そうした気持ちになる事は多かった。
センター(ケンタはこの略称にも不満があった。中央区にあるセンター……まるでここが世界に巻き起こる災害対策の中心地で、問題の解決という期待を一身に背負っているみたいじゃないか)の中を見渡す。
入り口から続く一階部分は比較的ガランとしている。
災害前にあった数々の設置物は壁際に除けられ、代わりにブルーのシートが人の動線に従ってカーペットのように敷かれ、その所々で工具の詰まったダンボール箱や板材(分解した卓球台も含まれる)がポツン、ポツンと置かれている。二階と三階に設けられた居住スペースから出るゴミや何かの目的で使われた板の端材等も下に降ろされ、それは一階の邪魔にならない部分にまとめて放置されている--ケンタのいる窓際も邪魔にならないソレの一つだった。
二百に満たない避難者の内、その半分が子供やその母親、高齢者で、そういった人たちは居住スペースからあまり動こうとはしない。現状に対してなにか行動しようとする者だけが一階部分をバタバタと動き回っている--時折、共同生活に疲れた人や悲壮な顔を浮かべ絶望している人なんかが一階に降りてくることもあるけれど、そうした人たちはなぜか決まったようにゴミのそばや例の邪魔にならないスペースに座り込んだ。
ただそうした人たち(居住スペースから動かない者、居住スペースから逃げてきた者、そして一階をバタバタ動いている者)を数えてみても、百二十人に満たないだろう。残りは全て怪我や病気になった者だ。
それが現状であり、ケンタにとって今の世界の全てでもあった。
ケンタがいる窓際ではなく、向かい側の壁に一人、尻を床につけ、全身の力という力が抜け落ちたように座っている男がいた。
まだ宵の口ともいえない時間で酔い潰れている訳ではなく(そもそもセンター内に酒は無い)、時々右手の指をピクピクとさせているから死んでいる訳でもないのだろうけれど、まるで蝋で固めたようにジッと動かない。
確か二日前に騒ぎを起こした男で、その時は、外に物資を調達しに行く班に酒と煙草を持ち帰るようにやかましく要求していた。(その時もケンタは同じように窓際にボンヤリと座っていた)
これからの事を考えると嗜好品の類を調達するのも悪い考えではない(あいにく備蓄倉庫には嗜好品の類は無かった)と調達班のリーダーはやぶさかではない態度だったのだけれど、その後も続く男の言動や振る舞いに腹が立ったのだろうか、今回の調達物資に嗜好品は含まないとリーダーは男の意見を突っぱねた。そして--男が暴れた。
暴れたとはいっても、体格の良いリーダー(確か釣り屋の主人だ)にすぐにねじ伏せられ、男はしぼんだように急速に大人しくなったからトラブルにも満たない一幕となったのだけれど、当の男が今、目の前で焦点の合わない視線を宙に浮かべている。
アルコールによるものかタバコによるものかわからないけれど、何かに依存している人間というのはこうまでみすぼらしくなるものなのか、とケンタは侮蔑の目を向けつつ、しかし自分もスマホが使えなくなった頃からイライラが募ったり手持ち無沙汰で意味もなくスワイプしたりしてしまう事に気づき、恥ずかしくなり。そしてほんの少しだけ同情もした。
ケンタは再び窓についた傷のような隙間から外を窺った。
動かない男が哀れで見ていられないというのもあったし、その男に注意を向けられないように顔を隠すという意味でも、外を窺うという行為は最良の行動に思えた。
まずは水の出ていない噴水に目をやり、そしてひび割れたコンクリートの隙間から木の根のようなもの(正に木の根ではある)が飛び出している事に注目する。
遠目に見える広場を囲む木々が揺れているのが見えるがそれは風のせいではなく、急速に成長している木がウゴウゴと蠢いているからだということを今では理解している。
さらに遠くに目をやると、雲を突き抜けて屹立している塔が見える。
ある日突然、大地震を伴って大地から飛び出してきた塔。
人によって「地球の棘」であったり「巨大樹」であったりと呼び名がかわるのだけれど、ケンタは、もしバベルの塔が完成したならあんな感じなのではないだろうかという安易な考えから「塔」と呼ぶ事にしていた。もしこれがファンタジーなら、あの塔を登ればその形がどうであれ今より状況が改善されるのではないかという希望も含まれている。
勇者のような人間が現れて、あの塔を目指す……。
ケンタは自分がその勇者になれたら、とまでは考えなかった。それはどうにも子供ぽかったし、妄想の上でも自分にその能力(責任やリーダーシップも含め)があるとはどうしても思えなかったからだ。
黒い窓の隙間から外を窺っている無力な男。興味を惹く対象にはならないそれが、自分だ--。
だから外を覗き見る目の端にヨロヨロと動く人影を捉えた時には、心臓がドキリと跳ねた。
ファンタジーを妄想していたからか、その人影が、なんだか物語が始まる出来事のように思えた。なにかが変わるかもしれない--。
壮大な話にはならなくても、もしかしたら、いち早く建物を警備している大人連中へとその事を知らせ、自分も役に立つ人間なんだと主張すれば、少しは扱いが変わるかもしれない--それに、自分は発見者なのだから、大人同様の武装をして外に出られるかもしれない。それにそれに、そこでまた役に立てば今度は調達班にだって選ばれるかも--。
そこまで考えを巡らせるが早いか、ケンタは慌てたようにパレットを駆け下り、入口前まで走った。
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