始:「雪・花畑・寝起き」
一匹の黒い犬が道に飛び出してきた。
バンを運転していたカズミは、犬から十メートル程離れた場所でブレーキを踏んだ。スピードは出していなかったけれど、古いバンは嫌味たらしくガコガコと軋んだ。ハンドルに寄りかかるような形で腕と顎を乗せ、呼吸音が相手に聞こえないように、ソッと息を殺した。自分でもそうする理由がわからなかったし、そもそも車の中にいる自分の呼吸音が聞こえるとも思わなかったけれど、カズミは自分の姿を透明ななにかに置き換えるように、意識を集中し、薄く息を引き伸ばした。それが無駄な努力だとわかっていても。
車が通る事を予期していなかったのか、犬は道の真中で驚きに身をすくめ、動きを止めてしまっていた。当然カズミに気づいていて、そして目と目があった。
大型犬である事はわかるが、犬種ははっきりしない。犬の毛は、泥や灰やそれ以外のものが付着し、ベットリと体に貼り付いてしまっていて、貧弱な体のラインを露わにしてしまっている。少し、いや、かなり異様な風体だった。見る人が違えば、その四足動物が犬であることにさえ気づかないかもしれない。さらにいえば、その骨ばった姿に悪魔的なイメージを重ね、逃げ出すなり怯えるなりする者もいたかもしれない。しかし今この時、犬を発見したのはカズミ一人で、そしてカズミはそうではなかった。彼が犬である事を瞬時に理解した。
こちらに顔を向けている彼の表情が(彼であっている筈だ。何故なら毛が貼り付いて後ろ足の間にあるものが目立ってしまっていたから)、昔飼っていたゴールデンレトリバーのマックスとよく似ていたのだ。
マックスは、当時好きだった大食い番組に出場していた選手にちなんで付けた名前で、そのおかげか知らないが、死んでしまう直前まで、驚くほどよくご飯を食べた。そしてそれに見合う驚くべき量の糞をした。時折、食べた量以上に糞を出しているんじゃないかとさえ思う事もあって、カズミはとにかくその計算に合わない糞を「チップ」と呼ぶことにしていた。《あら。今日はチップを弾んでくれたのね。ありがとう、マックス》
退屈な事務仕事を終え、重い買い物袋を下げて帰宅すると、いつだってマックスは「ワフ」と一度だけ鳴き、足元に絡みついてきた。
飼い主に懐くというよりも、飼い主が持っている買い物袋の中にある(グレインフリーのカリカリ「わんだふるワン」か、それともワイルドなウェット系「ドッグ・ファイン」)ご飯に期待しているのだ。そして同時に、トイレシートからこぼれ出た例のアレにカズミが(せめてご飯を皿に盛るまでは)気づきませんようにと、少し恐れてもいる。
そんな、期待と恐れを同居させた表情を、マックスはよくこちらに向けていた。
目の前の哀れな彼は、その時のマックスとよく似た表情をしていた。
つまりは、目の前に現れた車と人間から、期待するべきか、それとも恐れを抱くべきか必死に読み取ろうとしているのだろう。少し浮かせた前足は、まるで科学者が計算によって答えを導き出す際によくやる手付きのように、トットッと小刻みに揺れていた。
「どうする。やるのか?」
突然呼びかけられて、体がビクリと跳ねた。
犬と目を合わせ、まるで会話をするかのように動きを止めていた(実際にカズミは、念みたいなものをなんとか犬に届かせようと力んでもいた)最中で、助手席から低くこもった声と、身じろぎする音が聞こえて慌ててそれを中断した。
「あら、起きてたの。てっきり寝ているものだと思ってたわ」
隠れてヒーローの真似事をしたり、魔法の呪文を唱えているところを親に見られてしまった時の子供のような気恥ずかしさを感じつつ、その恥じらいを全力で隠す為に顔に力を込めて、カズミは助手席にいる男に振り返った。
「寝てねえよ」
男--ムカイは明らかに寝起きで張りのない声音でそう言った。ダッシュボードの上に両足をのせ、体を奇妙に折り曲げて「座る」と「寝転ぶ」を足して二で割り、極限までグンニャリとした体勢で助手席に収まっている。
「そう。鼾も聞こえた気がしたけど。よくそんな体勢で寝れるなと感心してさえいたのよ」
「だから、寝てないって」
中肉中背、不健康そうな青白い顔と右目の上にちょうど眉毛を分断する形で細い傷跡があるムカイは、前まで広告会社で働く営業マンだったらしい。
そこでは新人の頃から「出来ない仕事でも出来ると言え。強がりは美徳だ」「お客の前でNOは無しだ。なんでも叶える妖精になれ」「こちらに否があろうと最初からそれを認めるな。主導権を握れ」といったような指導を受け、その教育の結果なのか、それとも生来の性格なのか、はたまたそのどちらもが重なり強化されたのか、とにかく「口先だけのカラッポ人間」として今この場に居る、とカズミは認識していた。この調達班に任命されたのもきっと、「この辺の地理は頭に入っている」だとか「自分には対応力がある」だとか口先だけの事を言った結果なのだろう。
案の定、助手席に座った(あの体勢を座ると表現するのなら)彼は、頭に入っている地理情報も、突発的な対応力も発揮しないまま、帰路についている今この時まで、外に出て体を動かす以外の時間はずっと例の奇妙な体勢で目を閉じてグンニャリとしていたのだった。
正直、なにか言ってやりたい気持ちは山程あったのだけれど、(その関係を望む望まないに関わらず)短くない付き合いであるカズミは、どうせなにか言えばのらりくらりとした言い訳を長く話すに決っているからと、すでに諦めてしまっていた。
彼からすれば、自分は寝ていないし、空は快晴だし、街は平和ってことだ。もうそれでいい。
カズミは刺々しい感情の混ざった長い息をフウと鼻から抜き出して、また視線を前へと向けた。犬はまだ道の真中で動きを止め、前足をトットッと揺らしていた。
どうやら、こちらの気持ちは少しも犬に伝わっていなかったらしい。当たり前の事なのだけれど、カズミは舌打ちしたい衝動に駆られた。
数秒の沈黙があった後、ムカイがモゾモゾと動いた。やっと座る体勢というものを思い出したらしい。足を下ろし、尻を本来の尻の位置に戻した。
「で……、やるのかって聞いて--」
「行かせてあげましょ。まだわたし達はそこまでじゃないわよ」
言葉を被せるようにカズミは答えた。ムカイがこちらを見ながらチラチラと後部座席を気にしているのがわかったし、さらにはその後部座席に置いてあるボウガンを手に取る為に体勢を戻した事にも気づいたからだった。
まだだ。まだわたし達はそこまでじゃない。
カズミは言い聞かせるように頭でそう念じ、そして口に出してもいた。
「そうだな。まあ、あまり美味しそうじゃないし」
ムカイはこともなげにそう言うと、まるで安心したかのようにハアと息をついた。
「あの汚れ方……、きっと大阪の方から来たんだろうなあ。あっちじゃまるで雪みたいに灰が積もっているらしいし」
「馬鹿みたいね。被害を食い止めようとして、さらに別の被害を生むなんて」
「まあ、やり方がまずかったよな」
そう言って、カズミとムカイはどちらともなく東の方角を仰ぎ見た。
大阪と奈良の境界線あたりに突如現れた、巨大な樹の幹が、その先端を雲に隠しつつ、聳え立っていた。
視界の先、カズミ達と巨大樹の間には町並みが広がっていたけれど、そのどれもが緑に覆われていた。植物に侵食されていた。視界の先だけではなく、後ろを振り向けばその先にだって緑しかない。いや、それは少し違う。緑以外の色もある。
建物のない開けた土地には、色鮮やかな花が狂い咲いている。ドギツイ色をした大きな花弁が、その地に住まっていた人間達をあざ笑うように、ユラユラと揺れている。
カズミ達の街が、世界が、植物に支配されて一年が経とうとしていた。
「俺はさあ--」
ムカイが巨大樹から町並みへと視界を移し、元は小さな市民球場だった場所で目を止めた。フェンスが蔦の重みで倒れ、グラウンド一面には黄色やら紫の花が溢れていた。
「こうなるまで、花畑を見て恐ろしいと思った事なんて一度もなかったよ」
その時ばかりは、カズミもムカイに同調した。
「わたしもよ」
前方に視線を戻すと、すでに黒い犬は走り去っていて、割れた路面と、その隙間からグネグネと芽を出しつつある植物が見えた。
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