犯人

「予定外の来訪者である先輩という客人が宿泊していながら、その部屋はフリースペースと化しました。なぜそんなことをする必要があったのでしょう。先輩に気取られることなくリュックを奪えたのは睡眠薬によるところが大きいので、それらが全く無関係の事象であるとは思えません。侵入者にリュックを運び出して貰うために先輩は眠らされたのでしょうか。睡眠薬を使ったのが家主だからといってXも家主だとは限りません。けれど、リュックを部屋から出すこと自体が目的だと仮定すると、家主は搬出をわざわざ他人に任せたことになります。どうして自分でやらなかったのでしょう。手を離せない別の仕事があった、その説は家主が立ち去ったタイミングと矛盾します。睡眠薬が効いてきた頃合いで彼は部屋を出ました。時計を確認していた様子もなく、時間が差し迫っていたわけではなさそうです。あと少し、先輩が完全に眠りに落ちるのを待てば、リュックを手にして立ち去れました。家主がリュックを持ち去ることは可能だったのです。ところが、実際には彼は部屋を一度出ています。絶好のチャンスを逃しているのだから家主の犯行ではなかった、客人こそがXだった。そう考えるのは早計です。ここで重要なのは、リュックを移動させた人物は、先輩が寝ている間に元の位置に戻すつもりだったということです。全てを秘密裏に行う必要があったわけです。家主が、一旦部屋を出なければどうなるでしょうか。先輩が寝入ったのを確認してリュックを持って行き、しかるべきのちに返しに来る。なにも難点はない、はたしてそうでしょうか。退出時には睡眠薬の効果で先輩は熟睡中、ただし、その後どうなるかはわかりません。なにしろ先輩と家主は初対面です。もしかしたら、先輩は睡眠薬を常飲しているかもしれません。効き目が悪く、途中で目を覚ますリスクもありました」


 受験勉強のストレスから睡眠障害になることもあるという知識はあった。俺は毎日快眠できていて不眠とは無縁だったし、そういった心身症に悩んでいる友人もいない。自分にとって睡眠薬は身近なものではなかった。だから、普段から俺が薬に頼っているかもしれないと危惧されるのは予想外だった。他人の視点からすればそうなるのかもしれないが、嫌疑をかけれているような座りの悪さがある。容疑者がやたらと名探偵や刑事に反発するのは、こういった心理のせいなのかもしれない。


「そして、それはリュックを盗んだ犯人として疑われるリスクでもあります。事実、起床時の先輩の予想では、リュックを持っていったのは家主でしたよね。洗濯のためというものでしたが。家主は先輩が寝入るまで部屋に留まり、そのままリュックを手に退出。そうなったとき、リュック消失直前まで部屋にいた家主は、最後にリュックを目撃した人物となります。状況証拠からして、これ以上ないないほど怪しいですよね。途中で起きてしまった先輩は、家主が持って行ったと可能性を第一に考えるでしょう。リュックの往復を密かに行わなければならない家主にとって、そうした疑惑のまなざしを向けられるのは忌避すべき事態です。真っ先に犯人として疑われる状況を自ら作り出すのは愚策でした。だからこそ、一度部屋を出る必要があったのです。先輩に退出時の姿を目撃させてリュックを持ち去っていないと印象づけることができます。そしてなおかつ、睡眠薬が適切に効果を生んでいるか見極める時間を設けることができます。中途覚醒してしまったケースでは、さらに薬を追加するつもりだったのか、あるいはリュックは諦めるつもりだったのか。そのあたりの判断はつきません。なにしろ、幸いにして先輩は朝まで眠り通しだったのですから」


 これだけ言葉を費やしても家主と客人のどちらがXなのか明言されていない。まどろっこしいにもほどがある。ミステリの、それも本格とつくミステリの面倒くさい部分をまざまざと見せつけられた心地だ。厳密さを求めるあまり、二歩進んで一歩下がるような進行速度で、前進している実感が薄い。これだからミステリというヤツはと愚痴のひとつでも吐きたくなった。


「ここでX=家主説での展開をおさらいしましょう。まず軽食の差し入れによって先輩に睡眠薬を与える、次にしばらく席をともにしてちゃんと睡眠が誘発されるのを確かめる。オフ会についての会話は、薬が効いてくるまでの時間潰しの意味合いもあったのかもしれません。それから、先輩がベッドに入ったところで一旦部屋を出て様子見の時間を設けます。効果が持続していると確証を得たら、いよいよリュックを運び出します。目的がまだ明確になっていないのでこの後の行動ははっきりしません。リュックはずっとソファーの上にあったのか、それとも他のところにあったのか。ともかく、いずれにせよ部屋に返しに行く予定だったのは明らかです。けれど、部屋には侵入者が居座っていて返却のタイミングを逃してしまいます。結局、朝になって目を覚ました先輩はリュックをリビングで目にしてしまいました。そこで言い繕うという選択肢もあったのでしょう。けれど、先輩から質されることもなかったのでそのままうやむやになりましたとさ。だいたい、こういう流れです。Xの正体が家主で無理のない筋書きが成立することが判明しました。あとは、客人説を潰せば、X=家主の傍証となります。まだ客人説は生きているのでしょうか。Xが客人であったにせよ、リュックを戻しておくはずだったのは同様です。計画上では、全てを内密に済ませなければなりませんでした。そして、そのためには睡眠薬が必要不可欠です。先輩が起きないと知っている者だけが、Xの条件に適合するのです。薬を盛ったのはほぼ間違いなく軽食を振る舞った家主です。では、どのようにしてその事実を客人は把握したのでしょうか。まず浮かぶのは、家主と共犯関係。けれど、家主には客人と結託する理由がありません。リュックの移動そのものが目的だった場合、それ自体は手段で何か別の目的があった場合、どちらであっても変わりません。リュックを他人に預けるメリットがないのです。他の可能性としては、家主が睡眠薬を混入させる瞬間を目撃したなどが考えられます。けれど、家主と客人は別々に動いていたすると各人の行動に齟齬を来します。秘密裏にリュックを往復させる計画だった客人は、偶然にも軽食に薬が入れられるシーンを目にしてそれを利用したとします。もし、そうなっていなかったらどうでしょう。客人の計画ではどうやってバレずにリュックを動かすつもりだったのでしょう。そのための手段があったはずではありませんか。つまり、別口で客人も睡眠薬を盛る予定だったということです。ところが、先輩に接触しては来ませんでした。家主が先に仕掛けたのも偶然だったと? 雨宿りに来ただけの先輩はいつ帰るかも不明です。家主なら宿泊を勧めて帰宅を先延ばしにできますが、客人の立場ではそれもできません。雨次第なのです。ならば、できるだけ早くそのチャンスを作ろうと働きかけるものではないでしょうか。家主が部屋を訪ねてくるまでの間、何もしないのは不合理なのです。応接室で客人たちを見かけたきり会っていないのですから、彼らの誰一人として先輩へのアプローチを仕掛けていません。客人の企みが失敗に終わったが、家主が睡眠薬を用いたのを偶然知ってそれを利用したというのはあり得ないのです。これらのことから、客人は、家主の睡眠薬を用いたと事前に把握していなかったと言えます。よって客人はXではありません」


「リュックを掠め取ったのは家主だったんだな」

 しかし、これで解決ではない。睡眠薬の存在は侵入者がいたという仮定の元に成り立っている。侵入者の存在を否定する材料が見つかれば、一気にこの仮説は崩壊してしまう。

 そして、侵入者の目的も謎のままだ。リュックの動機もそうだ。部屋の構造についてはまだ手すらつけられていない。まだまだ先は長い。

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