赤字

「謎ですよ! 暗号ですよ! これこそ私たちが求めていたものじゃないですか。どうしたんですか、ため息なんて吐いちゃって」

 興味がないと言えば嘘になる。こんなあからさまに意味不明な文字列を目にすれば、否が応でも好奇心を掻き立てられる。ミステリ読み、そしてネタに飢えた小説書きの血が騒いでいる。しかし、だからこそ嘆息したくもなる。


 見て見ぬふりなどできようはずもない。小説のためではなくあくまで郁子香の相談に乗るだけだ、そう自分に言い聞かせながら俺は問う。

「それで事情は?」


「事情と言われても……。四限目が数Ⅰで休み時間にノート出したらこうなってました」

「最後にノートを確認したときにはなかったんだよな」

「はい。数Ⅰは昨日の六限にあったんでそのときに見てます。黒板を写しただけで特に異変もありませんでしたよ」


 つまり、昨日の六限から今日の四限の間に何者かによって書かれたということだ。ならば問題となるのは、書き手、いやミステリらしく呼称するなら犯人だろうか、何者かによってこの赤文字が書き加えられたタイミングだ。


「いつ書かれたかわかる?」

「すいません、それは……。移動教室があったのでそのときなら可能だとは思います。けど確証は」

「待った。昨日の放課後は?」

「え? レイにぃもしかして教科書とかノート学校に置きっぱなしにしてるの?」

 昔からの呼び名を口にして郁子香が驚く。


 俺は敬語とか気にする性分ではないので、以前通りタメ口でいいと告げてあったが、仮にも先輩なのですからと彼女は譲らなかった。その姿勢は誰の視線があるわけでもない二人きりの場面でも貫かれていたが、たまに地が出るのか、幼い時分のようにあだ名で呼ばれる。彼女にしてみれば、俺はいまだに兄のような存在で、それはもしかしたら一生変化しないのかもしれない。


「持って帰ってるっての。便覧なんかの重いのは置きっぱにしてるだけだよ」

「来年受験なのにそんなので大丈夫なの?」

「大丈夫だよ。ともかく、むっちゃんは昨日ノートも持って帰った、と」

「はい。だから書かれたとしたら今日です」

「あ、そうだ。ところで昨日部活どうしたの」


 鞄を持たずに部室に来たのであれば、教室に残った人物によって書かれた可能性もある。また鞄持参で来ていたとしても部活中にたとえばトイレかなにかで離席した隙にノートを取り出して謎の赤文字を記入することができる。ノートを出す、文字を書く、仕舞う、その程度の動作であれば数十秒とかからずに終えられるはずだ。もっとも、席を外すかどうかもわからない郁子香を待ち構えていたとは考えにくいのだが。犯人は部室で同席していたとするのが自然だろう。


「すぐ帰りましたよ。どうせ先輩もいないし、誰も来ないでしょうから」

「となると日中か。……いや、待て。最後に見たのが昨日の六限ってことは家でノート使ってないんだよな。予習とか復習で出したのならそのときに目にしているはずたし」

「そうですね。宿題もなかったんで鞄に入れっぱなしでした」


「じゃあ持って帰る必要なかったじゃん」

「気分の問題ですよ、気分の」郁子香が顔を顰める。「置きっぱなしって嫌じゃないですか」

「そういうもんかね。まぁ、それはともかくとして、なら家族がやったって線もないか?」


 郁子香の部屋に忍びこみこんで鞄からノートを取り出して暗号を記し、最後に鞄に戻しておく。同じ家に暮らす人間なら機会などいくらでもあっただろう。これ以上ないってくらいに簡単な仕事だ。


「いや、さすがに鞄をいじられた形跡があったら気づきますって。学校ならともかく自宅で鞄なんて頻繁に開きませんよ。予習とかで

要るもの出すとき、それと登校の準備をするときくらいです。中身の配置やダブルファスナーの位置が前回と微妙に変化しているだけでも違和感が生じます。むしろ、その手の異変を見逃すのは頻繁に開け閉めする学校においてです。何度も触るからこそ、直前にどうなっていたか印象に残りにくいというわけです。疑念が湧いても、記憶が曖昧で気のせいだろうと軽く流してしまいます」


 言われてみると、たしかにそうかもしれない。それにノートに暗号を書かなければならない理由が家族にあるとも思えなかった。


「学校で書かれたとなると、犯人の特定は難しそうだな。教室なんて鍵もかけないし。移動教室中に忍びこんで犯行に及ぶなんて簡単だろうからな」

「少なくとも学校関係者であるのは確かだと思いますけどね」

「まぁそうだよな。学校侵入してそんなことする意味ないし、このご時世だから見つかったら通報される。不審者がいたとか聞いてないから、生徒か教師が犯人か」


 俺はノートをペラペラと弄びながらパイプ椅子に腰を下ろした。何か異常でもあるかと思って調べてみたがそれらしいものは発見できなかった。もう一回あの文字を観察しようとしたが、なかなか目当てのページが見当たらず、最終ページに指をかけて後半を捲るという動作を数度繰り返すはめになった。これならば郁子香に断って折り目でもつけておけばよかった。


 そのページを開き、再度赤い謎の文字列を目にして思わずつぶやく。

「なんというか不気味だよな」


 一文字一文字はけっして綺麗な字ではなくむしろミミズがのたくったと称される類の字なのだが、全体として並んだ様子は整然としている。他の文字と重なったり潰れたりしている部分がひとつとしてなく、収まるべきところに収まるべくして収まっているというように綺麗に配置されている。識別できないということもない。

 筆跡を隠すためと理解はしていても、文字自体の歪みと全体の整い具合のアンバランスさがなんとも言い難い奇妙な雰囲気を醸し出している。

 もちろんダイイングメッセージのはずはない。校内で殺人事件や、殺傷沙汰などといった大事があれば耳に入ってこないはずもない。

 改めて眺めてみて、最初に連想したイメージは払拭されたが、また別種の暗い印象を俺は感じていた。


「そう?」

 いつの間にか椅子に腰を下ろしていた郁子香は不思議そうに小首を傾げる。彼女は平気なようだが、俺はこの文字に怨念というか悪意めいたものを見取ってうそ寒さを覚えた。

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