誰にも届かない

十一

透明な鍵

暗号

 長机の上に置かれたキャンパスノートを俺と郁子香むべかは眺めていた。室内にパイプ椅子はあったが二人とも使っておらず、机を挟んで対面に立ってノートを見下ろしている。


 特別教室棟二階西端コンピューター室、その隣にあるネームプレートさえ出ていない教室。本棟から渡り廊下を抜けて目の前にある片引き戸を開くとこの狭い部屋になる。一般教室を横に半分に割った程度の中途半端な広さなのは、もともと第二化学室の準備室だったせいだ。カリキュラムの改定によるのか、はたまた少子化のせいか、十数年ほど前に第二化学室のコンピューター室への改装が実施された。準備室から直接化学室へと入るために設けられていた通用口は、工事に伴って塞がれ、ドアだった場所は現在では真っ白な壁となっている。かつての面影を思わせるものはスチール製の薬品棚くらいだが、それもいまでは本棚と成り果てている。

 用途もなく何年も開かずの部屋として放置されていたところを、我が文芸部が譲り受けたのだ。先々代の部長が生徒会に掛け合い、なかば強引に奪い取ったとも聞いたが真偽のほどは定かではない。


 部としての登録こそ文芸部となっていたが、会誌を発行するような活動はしておらず実質ただのお茶の飲み部だった。

 地方の公立高校は概して運動部が主で文化系の部活はあまりないものだ。ご多分に漏れず俺たちの高校も文化系の部活は数えるほどしかない。漫画には美術部、映画には演劇、音楽にはブラスバンドおよび軽音部といったふうに、趣味の延長で部活を楽しみたい生徒の受け皿があるため、大部分の文化系の生徒はそれらの部活に入部することとなる。そうした事情もあって現部長の俺を含めて文芸部には五人しか所属していない。


 そのわずかな部員も、最近ではあまり部室に寄りつかなくなってしまった。山を切り崩して作られた土地に建った学校、そのもっとも奥まった場所に特別教室棟はある。眼前に山が迫り、窓のむこうはコンクリートで補強された崖となっていた。日当たりが悪く日中であっても常に薄暗く、おまけに風抜けも悪いとくる。夏は蒸し、冬は冷えるという劣悪な環境であまり居心地のよいところではない。足しげく通っているのは俺と郁子香くらいだった。


 しかし、その日俺たちはなにも部活のためだけに集合したのではない。昼休みに郁子香から相談があると連絡を受けたのだ。興味本位で「なにか面白いことでもあった?」と訊ねた俺に「謎ですよ、謎」と存外に大きな声で彼女は答えた。電話口であってもはっきりとわかるほどに喜色が滲んだ声だった。


 放課後の部室で、謎と称して彼女が鞄から出してきたのは一冊のノートだった。

 水色のキャンパスノートはごくごく一般的なものに見えた。表紙には数Ⅰの教科名と学年クラスおよび望月郁子香という名前が細マジックで記されている。


「普通のノートに見えるが?」

「なかですよ、なか。開いてください」


 郁子香の言葉に促されて表紙をめくると、一ページ目から板書したとおぼしき字で埋まっていた。全体的に丸みを帯びた少し癖のある字が綺麗に並んでいた。大半が数式なので余白が多いものの、スペースの使い方が上手いのか全体としてバランスが整っており見栄えがよい。蛍光ペンは利用されておらず、公式などの強調する部分には色ペンでアンダーラインが引かれているだけだった。ぺらぺらとページをめくって行っても特に変化はない。女の子のノートってこんなもんなのか。数学だからそうなっているのか、郁子香の性格がそうさせているのかは判然としないが、なんというか、ともかく地味だ。


 結構なページを繰り、終わりに差しかかったところで、それは出現した。


   ぬ へ ら

   む ほ と

   み あ ん

     (横書き表示ver.)


   ら と ん

   へ ほ あ

   ぬ む み

     (縦書き表示ver.)


 左側――左閉じの横書きノートなのでノンブルを打ったとすれば偶数が振られるページに書かれていた。前のページは半分ほどしか使われていない。新しいページに移ったのは全面を使用するためだろうか。

 罫線を無視した特大のサイズで九つの文字が、赤色の太マジック書かれている。裏写りしていないので、たぶん水性のマジックを用いたのだろう。字間および行間の取り方からおそらく横書きだろうと推測できるが、そのまま読んでも「ぬへらむほとみあん」となって意味が通らない。


 赤い文字というのもそうだが、筆跡を隠すためだろう金釘じみた筆遣いで、ところどころ線が撚れているのが不気味さを醸し出していた。血文字、それも死力を振り絞っり指先につけた血で綴られたダイイングメッセージを連想させる。

 背後からナイフを突き立てられうつ伏せに倒れこむ被害者。犯人は凶器を持ち去り部屋を去ろうとする。しかし、被害者にはまだ息があった。犯人を追うことは叶わない。ならばせめてもと瀕死の体に鞭を打ち、自らの血で床に凶行の主の名を書き残す。怨嗟を込め、糾弾するかのように。



「あっ」

 呻き声じみた音を漏らしたきり俺は言葉詰まらせてしまった。なにも色彩の暴力に驚愕し生々しい映像を思い浮かべしまったからではない。空気が乾燥していた。日中こそ過ごしやすい気温ではあったが、このところ朝晩は冷えこむ日がつづいている。着実に冬が近づいて来ていた。


 唾を飲みこみ喉のいがらっぽさを洗い流して言い直す。

「暗号か」

「どうです。謎! まさしく先輩が、いえ、私たちが待ち望んだもの!」


 郁子香は机に手をつき、下からのぞきこむようにして見上げてくる。

 彼女は小柄だ。ブレザーの制服は少しサイズが大きく、本来ならば腰回りがすっきりとしたデザインであるにもかかわらず、ボタンを全部留めていても裾がだぶついて身体のラインを隠している。スーツを着こんだ中学生のようですらある。


 容貌も丸顔で幼く、潤んだようなつぶらな瞳と心持ち下膨れの頬にショートの黒髪がかかった姿は、ドワーフロップなんかの垂れ耳のうさぎを彷彿とさせる。かわいい系の顔立ちで小柄なので世話を焼きたくなる雰囲気があった。廊下で見かけたときなどは往々にして大人しそうに友人の後ろをついて回っている。クラスの友人だろう女子にお節介を焼かれているのも目にしたことがある。


 同級生たちは、郁子香に落ち着いたイメージを持っているだろう。たしかに気性が激しいわけではないし、明暗二つのグループに分類したら暗に属する。しかし決して猫を被っているのではないが、彼女にはもうひとつの側面があった。


 謎。

 それが好奇心を刺激しミステリ読みとしての血が騒ぐのか、目を輝かせ息を荒くしている。よくない兆候だ。好きなこととなると周りが見えなくなり多弁になるオタク気質な部分が顔を出し始めている。


 俺は郁子香の顔を押し返し、ため息をついた。


 たしかに俺も彼女と同類だ。

 謎を求めていた。

 しかし、それは昨日までの話だ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る