第2話

「先生超困ってんの。ウチはまあ無難な顔してそこにいたけど、空気読めって絶対全員思ってたよ」

「もうちょっと先生が返事できるように発言しないとね」

「で、いたたまれないから、もう言うしかないな、と思ってウチぼそっと言ったんだよ。予定は来週なのにって」

 美樹と陽菜乃は以前よりも親密になった。5人で帰るときも、陽菜乃は美樹ばかり相手にした。陽菜乃の家に遊びに行ったことは、どちらが言い出したわけでもなく秘密という扱いになっていた。交換ノートを通して2人だけの秘密が増えていった。

 陽菜乃が自分を特別扱いしているのを美樹ははっきりと感じた。あまり人に弱みを見せない彼女が、自分のことを頼りにしているという実感は美樹を喜ばせた。合唱部の他の部員も意識していたらしく、梨恵などは——彼女は2年生の冬に副部長になったのであるが——

「川原が不良にならないように、久保島が手綱引き締めといてよ」

と文化祭の準備中に耳元で明言した。美樹は顔の火照りを覚えた。

 実際陽菜乃は度々細かな校則違反をしていた。ゲーム機を鞄に入れて来ては隙を見ていじり、ワイシャツの袖に隠してブレスレットを身に着け、頻繁に指定外の靴を履いて登校した。初めの頃は注意で済まされていたが、違反が度重なると教師達の対応も厳しくなった。生徒指導主任からは完全に目をつけられていたし、顧問も彼女に冷淡だった。美樹は一度陽菜乃が叱責されている様子を見たことがある。

 放課後の自主練習の時間に、上級生に指示されて別の教室へCDプレイヤーを取りに行く途中だった。廊下の景色は最悪だった。いつの間にか呼び出されていた陽菜乃は、顧問を前にして泣きそうな顔で下を向いている。普段決して聞くことのない低い声が彼女の頭に振り下ろされる。

「何にも考えてないよね、あなた」

 陽菜乃は表情を変えず、口も開かなかった。大きな目だけが揺れていた。沈黙の後、再び叩きつけられた叱責の声は一層厳しかった。

「川原さんが校則を平気で破ることで、合唱部員全員にマイナスが付くの。皆がせっかく頑張って練習しても、あなたの行動で全部台無しになるとしたらどう? あんまり無責任すぎない?」

 陽菜乃が校則を破る理由はよくわからなかった。しかし美樹は、彼女が故意に校則を破っているのだと確信していた。何も考えていないからではない。何が違反になるかよく考えているからこそ校則違反が出来るのだ。それは明確な「反抗」の意思表示である。何も考えていなければただただ学校の言う通りに行動するだけである。自分のように。

 従順な生徒は、まるで何も気づいていないような顔でその場を通り過ぎた。


 そんな陽菜乃も、不良グループに入っているわけではなかった。仲間内で賞賛されるわけでもないのに、1人小さな反抗を繰り返していた。そもそもどこかの集団に溶け込めているわけではなかった。何をしてもいちいち過剰に自己演出して目立とうとする彼女は、一部の生徒からは目の敵にされていた。折に触れてはあらかさまに仲間はずれにされているのを、美樹は知っていた。

 夜中、叱責されていた陽菜乃の目が揺れていたことを思い浮かべて、感傷的な気分になり、脱衣所の磨りガラスを見つめて美樹は考えに耽る。たとえ普段と同じ家の中でも空想さえすれば非日常である。

 陽菜乃はいじらしいという言葉がぴったりの子だ。どこへ行っても冷遇される彼女を、自分だけは決して見放すまい。美樹は深く心に誓った。彼女の苦しみを全て自分が引き受けてあげてもいい。

 不思議な感情であった。それは決して恋ではなかった。もっと献身的な、自己犠牲的な気持ちを陽菜乃に対して抱いていた。薄暗い電灯の下で陶酔を味わった。たとえ彼女が気づかなくても私は永遠に味方だ。

 自分の感情が、完全に利他的なものでないと思い知ったのは、中学3年の冬のことであった。

 ずっと目標にしていた高校受験も、シーズンを迎えてしまえば各々の人生の危機から日常に成り下がり、ただの毎日として消費されていった。誰もが自分の落ち着ける安全な未来を見出し、多少は失望しつつも安堵していた。一足先に私立高校への推薦入学を決めてしまった美樹は、もうすぐ中学校生活が失われる悲しさを受け入れられないでいた。それはすなわち陽菜乃との別離を意味していたのだ。

 陽菜乃はほとんどの生徒が滑り止めとして受ける私立高校を第一志望にしていた。自らの成績なら余裕で受かるから、とあまり勉強をする様子も見せなかった。その割には英語の発音が良いのを自慢にしていて、人前ではこれ見よがしに参考書の長文を音読した。試験を受ける前から既に自分はその高校へ入るものと決めているらしかった。

 帰り道でも英語を発音したがる陽菜乃に辟易していた美樹は、問題の日の放課後、彼女が参考書も電子辞書も手にしていないのを見て安心した。ところが彼女は思いもよらぬ嫌な知らせをもたらした。

「さっきね、渡辺に教室残ってくれって言われて、まあこれは何か話あるんだろうな、と思ってクラスの人たちいなくなるの待ったわけよ。そしたらね、ウチのこと好きだって言うの。ウケルでしょ? え、今時そんなベタな告白あるんですか? みたいな。ホントにそう聞こうかと思ったよ」

 美樹は血の気が引くのを感じた。友香と梨恵と真奈美がおおげさに驚いて色めき立つのが腹立たしくて仕方なかった。

「で、川原はあいつと付き合うの?」

「っていうか彼女?」

「彼女なんじゃね?」

「えーっ! すごい! カレカノじゃん!」

 現実とはこんなに過酷なものかと美樹は倒れそうになった。ひどく不機嫌なのを悟られないように努力したが、隠し通せなかったことに気づいていた。陽菜乃が急に自分の知らない人に思われた。私なんでこんな人と友達やってるんだろ。勉強はしないし校則は破るし自分が目立つことばかり考えている派手な女の子、まだ中学生なのに彼氏まで作っちゃって、将来のことも何も頭にないじゃない。どうしてこんな子にあんなに献身的に接したんだろう。

 それがきっかけとなって、美樹の中に陽菜乃への不満があふれた。以前は見ないように感じないようにしていた嫌な部分が一々目についた。楽しい思い出にすらどんどん瑕が見いだされていった。交換ノートは以前にもまして滞るようになった。たまに返せば聞きたくもない渡辺との交際の進展が事細かに記されて戻ってくる。

 彼氏という存在は同性の美樹よりはるかに陽菜乃の欲求を満たしてくれたらしい。彼女はすっかり渡辺に夢中になり、美樹を躊躇いもなく2番手に格下げした。美樹は渡辺に激しく嫉妬し、同時に「男から恋人として選ばれた女」としての陽菜乃に嫉妬した。両方向の嫉妬はぶつかり合っているのか加勢し合っているのか美樹自身でも分かりかねた。

 互いに心が離れた状態で、2人は中学校を卒業した。

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