陽菜乃
文野麗
第1話
「先生来たらどうしよう」
「大丈夫! バレないバレない」
普段はあまり立ち入らない奥の領域まで足を進める。積み重なった丸椅子の隣に埃をかぶった古いギターがある。床には固まったワックスが波の痕のように白く模様を描いていた。
陽菜乃が両手でそうっとギターをもちあげると、弦が微かに音を漏らした。急に風景の一端から楽器へと変化したそれは、陽菜乃の両腕に抱かれた。美樹は椅子を差し出してやる。うん、いけるいける、と微笑む陽菜乃。2人きりの演奏会は、恍惚として始まった。
1つ1つ和音を置いていくように、確かめながらゆっくりと、陽菜乃はAura Leeを奏で始めた。現実が消え去って、曲の世界が美樹を飲み込んだ。夢のように穏やかで美しい旋律が、目に入るもの全てを愛おしくさせた。美樹は震えるように祈るように陽菜乃を見つめていた。秋の日はほとんど沈んでいた。
世界の均衡は突如破られた。慌てた様子の足音が二人の世界に侵入する。手を止めた陽菜乃が先生来た? と頼りなげな目で見てきた。美樹は怒られることへの恐怖からすっかり縮こまった。
部室の扉を開けたのは意外にも教師ではなかった。友香のいたずらっぽい表情に2人はずいぶん安堵した。
「何やってんの?」
2人は顔を見合わせるが、ふさわしい言葉が浮かばなかった。友香の後ろに黒い頭が2つ見えた。確認するまでもなく梨恵と真奈美だ。
「川原、部室に久保島連れ込んで何してんの?」
「ちょっとね、うん、秘密。ね、久保島」
「美樹ちゃん大丈夫? 変なことされてない?」
合唱部において美樹は常に初心な役を期待されていた。美樹自身演技とも本心ともつかないその役をそつなく演じた。
「川原ねえ、いい加減にしなよ? こないだ先生から怒られたばっかじゃん」
部活に対して非常に真剣な梨恵は陽菜乃にぴしゃりと言ってのけた。
「今は別に悪いことしてたわけじゃないから」
「ねえ何してたのホント、気になるんだけど」
友香たちには気づかれていないんだ、と美樹は安堵した。同時に一刻も早くあの陶酔の世界へ戻ることを切に願った。しかしいくら待っても会話が止むことはなく、Aura Leeの続きは聴けなかった。耐えがたいほどに口惜しかった。
美樹と陽菜乃の仲は交換ノートによってかなり深まったと言える。部内で同じ方向に帰る者同士が仲良くなって、自然と5人でいることが多くなった頃、美樹は陽菜乃に交換ノートを作ることを持ちかけた。彼女に対する興味もあり、単に家の方向上他の3人と別れた後もしばらく2人で歩く時間があるからという理由もあった。ただ、特定の誰かに自分の表現を披露できるというのは、陽菜乃の自己顕示欲を大いに刺激したらしく、彼女のページは毎回熱烈な意欲をもって埋められた。最初に4ページも書いてきたのは美樹を驚かせた。陽菜乃は最低でも3ページは書いた。多い時には5ページに及ぶこともあった。1人1ページという暗黙の了解など陽菜乃に通用するはずがなかった。
陽菜乃がギターを演奏できると知ったのも、交換ノートを通してであった。ギターが出来るなどという格好いい特技があるのに、それを今まであの陽菜乃が自慢に使わなかったというのが美樹には不思議でならなかった。一度聞いてみたいと書いて返した結果が秘密の演奏会である。この日の夜は、名残惜しくてたまらないとぬかりなくノートに書いた。
次の日2人きりになったタイミングで、唐突に
「そんなにウチのギター聴きたい?」
と尋ねられた。
「聴きたい。あれ以来ずっと耳が求めてるんだ」
「うーん、どうしようかな……」
珍しく陽菜乃は真顔になった。
「じゃあ今度家来る?」
「いいの?」
「うん。久保島だから特別いいよ」
陽菜乃はなぜか不服そうに俯くのであった。美樹は、実際にはしていないのにも関わらず、何か陽菜乃の意に反することを無理に押し通してしまったような気分にさせられたのであった。
「そういえば陽菜乃の家ってどこにあるの?」
「今日はダメだよ」
「えっ、今日行きたいってわけじゃなくてね。ただ場所が……どこかなって」
時折2人の会話は全く噛み合わなくなるのであった。この日も美樹の骨折りは徒労に終わった。美樹はそういう事態を全て自分の努力不足のせいだと考えていた。
待ち合わせ場所に現れた陽菜乃の、いつもと変わらない上機嫌に美樹は安堵した。私服を見るのが新鮮だと伝えると、陽菜乃は自分の服についてひとつひとつ説明し始めた。常に聞き役に徹するのが美樹の役割だった。陽菜乃は、穿いているデニム素材のパンツとの不思議なめぐりあわせについて劇的に語った。
いつもは別れる丁字路を、2人は初めて同じ方向へ歩いた。陽菜乃の声は街の波に漂って揺れた。揃わない足並みが微かに休日の倦怠を誘った。美樹は車から反射される日光にほとほと嫌気がさしていた。
突然陽菜乃が足を止めた。
彼女の様子を見て、右の2階建ての建物が陽菜乃の家なのだと美樹は察した。1階部分には扉が2つあった。そのうちの片方にはアルファベットが掛かれたオレンジ色の看板がかかっている。
「陽菜乃の家ってお店なの?」
「まあそんなような? よくわかんねえ」
看板のかかっていない方の扉の鍵を開けながら陽菜乃は答える。空くのを一度確認してから、
「中でママが眠っているから静かにね」
と微笑んで美樹に注意した。
扉を抜けるとコンクリートの階段があった。およそ自宅とは思えない雰囲気だった。自営業の子の家はこんな風なのかなと美樹は考える。上り尽くすと、ようやく住宅の玄関らしいドアが現れた。
「静かにね、しー」
と小声で合図され、美樹は余計に緊張した。
陽菜乃がドアを開け、美樹はその後ろから恐る恐る付いて行った。まず感じられたのは香り付き柔軟剤のにおいであった。次に脱ぎっぱなしで置いてある何足もの靴が目に入った。中央の大きな白いハイヒールにぶつからないように気を付けながら美樹は自分のスニーカーを脱いだ。
暗く短い廊下を進むと、右側に引き戸が開け放たれたリビングルームと思しき空間があり、その部屋へ通された。陽菜乃は小声で今ギター取って来るね、と囁き、ソファーに座った美樹を残してどこかへ行ってしまった。どうにも心細かった。見つかったら怒られる状況なのではないかと不安で、持ってきたバッグを脇に置く気にもならなかった。軽く吐き気がした。耳をすませばかすかに寝息が聞こえるのだった。見慣れぬ大きなテーブルを前にして、どうしてこんな所へ来てしまったのだろうとあてもなく考えた。
そこへ陽菜乃が戻ってきた。楽器の形の黒いバックを担いでいた。美樹はようやく当初の目的を思い出した。
「それギター?」
「移動するよ」
美樹は言われるままに部屋を出て引き返した。今度は階段を下りずに通路を渡って2階の別の扉をくぐった。
部屋に入って陽菜乃が電気をつけると、想像より広い部屋に入ったことが分かった。コの字型のソファーが長テーブルを囲っていた。壁には大型のモニターが取り付けられていた。
「ここってカラオケ?」
「テーブルちょっとどかすよ」
「こっち?」
2人でテーブルを動かすと、陽菜乃が演奏できるくらいの空間が出来た。
「ここならギター弾いても周りに聞こえないから」
やっと陽菜乃が自分の方を向いてくれたと美樹は感じた。陽菜乃との会話は接触の悪い電気器具のように時々しか通じ合わないものであった。
待ち焦がれた演奏会が幕を上げた。
聞き覚えのある外国の民謡が何曲か奏でられた。陽菜乃の演奏のレベルがどの程度であるか、美樹には見当もつかなかった。ただただこの上なく美しく甘美な旋律が世界の全てを明るくしていた。日常から隔絶された聖なる領域があることを美樹は思い知った。涙をこらえながら音色を味わった。
その後同じ場所で何度か演奏会が催された。美樹はその感動をずっと忘れなかった。
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