2018/07/26『紅』

 くだらない友人からの残暑見舞いは風鈴だった。

 あいつにしてはなかなかいい選択ではないだろうか。遅刻してるけど。箱を開けて、無色透明で涼しげな風鈴を取り出しながら思う。


 暦の上では九月に入ったとはいえ、まだまだ夏のように暑い。胡瓜キュウリ蕃茄トマトは安いし、蚊だって出る。

 エアコンが効かないから出てきた縁側に、煙が二筋。蚊取り線香と、俺の煙草。蚊取り線香の渦巻きは、もう残り半分も無い。蔵から引っ張り出してきた古い扇風機は、音をたてながら首を横に振り続ける。カタカタカタ。ふわりと揺れた煙が、俺の視線を庭先まで誘った。


 猫の額、という表現がぴったりな小さな庭。前の住人は管理が面倒だからと除草剤を撒きまくったらしい。可哀想に、人の手で荒地にされた庭だ。連日の猛暑でからからに乾いた土の中で、何故か彼岸花だけが群れて咲いていた。


 彼岸花を見ると、もう死んでしまった母のことを思いだす。

 母は紅色が好きだった。紅色は真っ白な肌の母によく似合っていた。出かける前に鏡台の前に座って紅を引く母の姿は、いつまでも目に焼きついている。俺の中の明確な、『女性』のイメージ。

 俺が初めてした手伝いは、母の爪にマニキュアを塗ることだった。紅いマニキュア、薬品の匂い。母の暖かい手と、不慣れで震える俺の手。この手伝いのおかげで俺は、今でも女の爪にマニキュアを塗ることだけは得意だった。


 彼岸花を見ると母を思い出すのは、その花の形がなんとなく人の手のように見えるからかもしれない。紅いマニキュアを爪に塗った、母の白く細い手。


 カタカタカタ。扇風機の音が、俺をゆっくり懐かしい記憶から引き戻す。カタカタカタ。気がつくと、揺れる煙が一筋になっていた。煙草がきれた。そこら辺に転がってた箱を掴んだら、空箱。さっきのが最後の1本だったことに気がついた。買ってこなきゃいけない。こんなに暑いのに。俺には禁煙の二文字は見えない。寝ていたい気持ちをはいはいとあしらって、もう年だなと思いながら立ち上がる。


 カタカタカタ。


 さっきつけた風鈴が、ちりんと一音鳴った。


 ふわりと目の前を横切った蚊取り線香の煙につられて、また庭を見て、思わず足が止まる。


 群生した彼岸花の中に、一本腕が生えていた。


 花の代わりに蠢くのは、爪を紅く染めた、女の手。自らの美しさを確かめるように、ゆらゆらとくるくると蠢く、細くて白い指。

 指はつ、と動きを止めて、あぁ、あぁ、俺は何故か分かってしまった。あの腕は、。俺を見て、嬉しそうに手招く。


 おいで、おいで。


 行っちゃいけない、誰かが俺の中で叫んだ。目を逸らせ、見るな、忘れてしまえ。なのに俺の身体は動かない。あれは駄目なものだ、と分かる。なのにとても、美しくて、俺は動けない。


 白い手。細い指。深い深い、紅色の爪。


 俺は庭の方に一歩、踏み出しかけた。


 ─────ちりん、と風鈴が鳴る。


 はっとした。なにかのスイッチを押したように風鈴の音は俺の身体を動かした。俺は何も考えず、とにかく逃げなければと思った。縁側をじとりと湿った靴下で駆ける。逃げた。逃げることができた。


田舎町の煙草屋に駆け込んで、いつもの煙草を俺は一箱余分に買ってしまった。その場で一本に火をつけて、煙を吐き出す。ゆっくり、ゆっくり、忘れていたかのように汗が吹き出してくきた。

煙草屋の軒先の扇風機は新しくて、煙は一瞬で溶けて消える。一本吸いきった時、俺はふと思い出した。


俺の家の庭には、元々彼岸花なんて一輪も咲いていないということを。





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