第4話 状況確認

「もしもし、田上さんの携帯ですか?」


「はい、そうですが。」


初めて聞いた声の相手は、エリアマネージャーだと名乗った。

あれだけのトラブルがあったのに、落ち着いたトーンで少し詳しく話を聞かせて欲しいと言った。


そういえば、だ。

過去にもろくな研修を受けず初めて使う機械を目の前にして、ボヤ騒ぎになりかけたことがある。誰にも気づかれないように処理をして会社に報告をすると、こちらは冷や汗をかくような状況であったのに、あっけらかんとした対応で他にも同様のことがあったと、すぐに新しい機械が手配され拍子抜けしたことがある。

ひとつ間違えれば、火災になっていたかもしれないのに。

業務中に学生だった同じアルバイトをしている人の指が飛んだこともあったか。雇用契約書一枚だけの関係で、自分たちを守ってくれるものは何もないのに、彼は一体どうなったんだろうか。

投げたことはとんでもないかも知れないけど、自分たちの置かれている状況の方が、実はとんでもないのだ感じ、さっきまで焼けるように熱かった内臓の温度は下がりだした。


事の発端、あの男が初めから粗暴な態度だったこと。

何度も蹴られたこと。

背負い投げをしたこと。

備品を巻き込んでしまったかもしれないということ。


冷静ではない状況を冷静に話す自分におかしさを感じたが、一通り説明をした。


エリアマネージャーは、確認をするから、またあとで電話をかけさせてくださいと言い、一旦電話は切られた。


川に来てから、焦り、怒り、そして今は冷静な状態にある。


暴行や傷害は喧嘩両成敗だと聞いたことがある。


あの男は平然と初めから暴力を振るってきた。

誰もやり返す人はこれまでいなかったのか。多分、いなかったんだろう。

だから、当然のように蹴ってきたわけだ。


なら、子供の頃からこれまで、理不尽なことも耐えて我慢してきた僕の努力は、生まれてから根拠もなく自分は人より上の存在であると、殴ってもいいと、そんなやつを増長させてきただけに過ぎないのか。


あんなに・・・苦しい思いをして耐えてきたんだぞ。


子供の頃から今までの僕の何かが、この時ガラガラと音を立てて崩れるような感覚があった。


もう、耐えて誰にでも優しい僕はいない。


僕は今、何者なんだろうか。


乾きを感じて飲み物を探したが、あいにく何も持っていなかった。喉の渇きなのか、それともこれは心か何かの乾きなんだろうか。

また電話をすると言ったが、いつまで待てばいいんだろう。自動販売機でも探しに行こうか。

多分、30分くらい考えていたら、また電話が鳴った。


「はい、田上です。」


「田上さんですね。状況の確認をしました。向こうも手を出したと認めています。私から、謝罪はさせていただきます。」


「はい。」


「今後のことについて話をしたいのですが。社章を返却していただけないでしょうか。郵送でいいので。」


「社章?」


「ええ・・・」


彼は話を続けた。理由はよくわからないが社章が戻ってこないと困るということ。あの男については、本当に申し訳がないと。


僕は疑問を感じた。


10代の頃から、色んなことがありながらも楽しく続けてきたアルバイトが、こんな形になってしまった。この電話をしている見たこともない相手はなにも言わないが、あの男は今後どうなるんだろう。変なやつに当たったよと笑い話にし、この上司になる男からは、今度からは気をつけろと、そんな適当に済まされるんだろうか。軽い注意くらいで、なにもなかったかのようにこれからも生きていくのか。また手を代え、あの男は同じような生き方をしていくんだろう。


我慢しろ、優しくあれ、それがこの世界の全てだ。正しいものだと言われ、育ってきた僕は今は見通しもつかず、これまで築き上げてきたA4の学歴と、たった一行の職歴しかなく、何処からも必要ない、何ができるのか、君のような経験のない劣った人間ではなく優秀な人間が欲しいんだと言われる僕と。


どうしてこうなった。


あの男と、僕と、なにが違うんだ。


「社章は送りません。」


気づけば、僕はそう答えていた。


「いや、ないと困るんだ。郵送が難しいなら自宅に取りに行ってもいいか?」


「自宅に来られても応対しません。」


「悪いことをしたと思っています。どうしたら返していただけますか。」


「アルバイトは、3ヶ月の契約でした。まだ2週間しか働いていません。蹴られることがなければ、続けることが出来ました。」


「契約期間までのお金はこちらの都合で働くことができなくなったので支払います。だから返してください。」


「・・・支払う?」


「ああ、こちらの都合で働けなくなった場合は、6割保障すると法律でそうなっているので。あと2ヶ月くらいですか。支払います。」


指が飛ぼうが、なんの保障もなく働いていると思っていたが、法律とやらが実はあったのか。なにも聞かされていなかった。知らなかった。日給は1万円だから単純に6千円。それがあと2か月分。それがあれば、焦って日雇いをする必要もないし、まとまったお金があれば次のことを考えられるんじゃないか。


「わかりました。郵送します。」


今後の少しの安心と引き換えに、その話に応じることとなり、この一連の事件は終わった。


今になってわかることだが。

僕は逃げていたんだ。

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