第32話「家路」⑤

「うおー!見えてきたぞー!!」


 前方から、歓声が聞こえてきた。少し身体をずらして前を見ると、吉川が片手を大きく突き上げていた。


「桜大橋だ!!」


 そのまま、突き上げられた手がビシリと前の方を指し示す。点在する街灯で皆の姿は輪郭くらいしかぼんやりと分からないはずなのに、吉川のリアクションは大きいので何をしているかよく分かった。


 吉川が指し示した前の方に視線を向けると、桜大橋が見えてきた。昨日も渡って出発したその橋は、今までに数えきれないほど見てきた地元の橋だ。


 ついに、私たちは地元に帰って来たんだ。


「うおー、マジかー!やっと着いたー!」


 吉川の隣で、拳を突き上げた井川も歓声を上げた。しかし、そうしたのも束の間、「いや、もうダメだ…」と呟くなり、力尽きたようにフラフラと減速して後ろに下がってきた。


「井川、頑張って!もう少しでゴールだから!」


 下がって来た井川のすぐ横に寄り添いながら、理久君が励ましの声を掛ける。「俺は、もうダメだ…俺のことは気にせず先に行け…」なんて井川は言ってるが、キッチリ理久に並走していて、ペダルを回す足も普通に軽やかだ。


「全く、まだゴールしてないのにはしゃぐからそうなるのよ。あんた達、テンション上がり過ぎ」


 そう言って嗜めた由唯だったが、井川と入れ替わるように加速して吉川の隣に行った。


「と言いつつ、もう少しでゴールだから張り切ってラストスパート行こー!」


 この中でもしかしたら一番ハイテンションな声で、由唯は片手を大きく突き上げて先頭に立った。


「原田、お前さっきまでは後ろにいたくせに、最後だけ一番でゴールしようなんてずるいぞ!」

「何言ってんの?別にそんなの関係ないでしょー」

 

 すかさず言いがかりをつけてきた吉川を、由唯は気にしないと歯牙にも掛けない。


 この二人のこんなやり取りを見るのも、何だか久しぶりだった。本当、ついさっきまでは誰しもがしんどそうに自転車を漕いでいたのに、ゴールが近付いて来ると嘘のように元気だ。


「よっしゃ!ならあと少しだし、ラストスパート駆け抜けるか?」


 吉川は、すぐにでもロケットスタートできるとばかりに自転車の上で立って臨戦態勢だ。本当、吉川は最後の最後でも何であんなにも元気なんだろう。


「お前らなー」


 すぐ隣、少し上の方から声が降ってきた。


「別に、ラストスパートしても良いけど、俺達のことも少しは見てくれるか?」


 チラリと横目でそちらを見ると、はっきりと表情が分かる所で昇が苦笑いを浮かべていた。


「大丈夫だ!芹沢を乗せてでも立ち漕ぎはできる!」

「できるか!芹沢は怪我人なんだから、そんな無茶な運転できるわけねぇだろ!」


 グッドポーズをこちらに向けながら言う吉川に、すかさず昇がつっこんだ。


 しかし、サラッと言われた言葉の中に、自分に対する気遣いが含まれていて、少し顔が熱くなるのを感じた。


「ほーう、なるほどねー」


 吉川の隣を走っていた由唯が、ゆっくりと後ろを振り返った。そして、昇の脇から僅かに顔を出している私とバッチリ目が合った。由唯は、隠そうともせず満面のニヤニヤ笑いを浮かべていた。


 その顔を見て、更に顔が上気する。


「由唯、何ー?」

「いやー、別に何でもないよー」


 含みを持った声で言ったけど、由唯はそんな私の視線をサラリとかわして前を向いてしまった。前に向くなり、ヒラヒラと手のひらを振るおまけ付きだ。


 そんな由唯の様子に、思わず頬が膨れる。


「あいつ…絶対、何か勘違いしてるだろ」


 すぐ隣で、昇も苦笑いを浮かべている。


 表情を見られるのはあれなので、スッと顔を後ろに下げてから答える。


「ううん、多分由唯は普通に喜んでるんだと思う」


 由唯があんな表情で私のことを見る時は、大体私のことについて喜んでいる時だ。そういう時、決まって私をからかう要素が入っているのは、少し頂けないけど。


「喜んでる?何を?」

「……」


 由唯が何に対して喜んでいるのか。それを私の口から言うのは流石に恥ずかしい。 


――昇と話ができて良かったね。


「芹沢?」

「いやだ、言いたくない」

「えっ?言いたくないって…」

「昇も、結局私に対して誤解してたとかいうの教えてくれなかったでしょ?」


 水戸黄門の印籠のように、先程結局言ってくれなかった昇の言葉をちらつかせる。意図した通り、昇は「うっ、それを言われると…」と黙り込んでしまった。これは、今しばらくはこの手を使って昇を封じ込めることができるかもしれない。


 今しばらく。


 まさか、昇との関係にこの言葉が浮かんでくるなんて思っていなかった。


 昨日の夜をもって関係は壊れて、大きな樹の所で足が本格的にダメになって、あの時は本当に全てが終わってしまうんだ、と思っていた。


 でも、そこでまさか昇が私を乗せて最後まで走ると言ってくれて、そして私は皆と一緒に地元に帰って来ている。


 目の前の、少しだけ左右に揺れている背中に目が行く。


 昇は、ずっと変わらないペースで自転車を漕ぎ続けてくれている。多少の揺れはあるけれども、後ろの私を気遣ってなるべく揺れが最小限になるようにしようとしてくれているのは分かる。


 昇の後姿を、こんなに間近でまた見る日が来るなんて思ってもみなかった。


「ねぇ、昇覚えてる?」


 多分、地元に帰ってきたからだ。記憶がフラッシュバックする。


「うん、何が?」

「昔、こうやって自転車で二人乗りしたことあったよね」

「あぁ、確かにあったな」


 確か、小学三年生か四年生の頃だったと思う。


 その時、昇が新しい自転車を買ってもらったんだと嬉しそうに見せてきたことがある。


『すげぇじゃん!これ、後ろにも乗れるやつじゃん!』


 吉川は、昇の新しい自転車を見てはしゃいでいた。(見た目はこの頃の方が可愛いけど、はしゃぎ方は今もそんなに変わっていない気がする)


 自分の新しい自転車を褒められて、昇も嬉しそうに満足げな顔をしていた。


『じゃあ、せっかくだから二人乗りやってみようよ!』


 そんな提案をしたのは井川だった。


 好奇心旺盛な私たちだったから、すぐに「やろうやろう!」という話になって、交代して皆で二人乗りをすることになった。


 でも、その当時身体がまだまだ小さく力も弱かった昇は、なかなか吉川と井川を乗せて二人乗りするというのは難しく、一向にできなかった。


『昇、二人乗りできないじゃん!』


 その当時から身体が大きかった為、平気で昇も井川も二人乗りしてスイスイ自転車を漕いでいた吉川が、そうして昇をからかっていた。


 そんな風に言われて、悔しくて少し泣きそうになっている昇を見て、私が言った。


『ねぇ、私だったらどうかな?』


 私も、クラスの女の子の中では成長が比較的遅い方だったので身体は小さかった。だから、私だったら昇も二人乗りができるんじゃないかと素直に思った。


『やってみる!』


 私の提案に、すぐに昇は気を取り直して、すぐに自転車に跨って私が乗るのを待った。


 私が後ろに乗ると、昇は小さな手で力いっぱいにハンドルを握っていた。そして、小さく何度も息を吸ったり吐いたりして集中しているのが近くからよく見えた。


 頑張って、昇。


 小さい頃の私は、そんなことを思いながら昇が上手くいくのを心の中で祈っていた。


 そして、


『…できたー!』


 昇は、私を乗せて自転車を走らせることができた。


 むしろ、私の方が自転車の後ろに乗るのが初めてで、自分がコントロールできない揺れに少し怖くなったけど、後ろからでも分かる昇からの様子を見てると、自然と笑顔になっていた。


 そのまま、昇は私を乗せたまま町へ行った。私たちのことなどお構いなしにいつものように全力で自転車を漕いで行く井川や吉川の背中を追って、頑張って自転車を漕いでいた。


 それでも、その時の昇もなるべく私に負担を掛けないように揺れを最小限にして漕いでくれていた。


「ねぇ、あったよね。確か、昇が新しい自転車を買ってもらって」

「あぁ、あったあった。俺が亮や健吾乗せて漕げなくて、それを健吾のやつが煽って来てなんかムキになってたな」

「そうそう!でも、私は乗せることができたんだよね」

「そうだったな。それで調子乗って町に出て、そこでたまたま先生に見つかって結構叱られたんだよな」


 そう言えば、そうなっていたんだった。普段、町中で先生に会うことなんて滅多にないのに、その時に限って先生と鉢合わせになって叱られたんだった。


「そう言えば、怒られてたね」

「そうだよ。まぁ、関係ない亮や健吾も一緒になって怒られてたのは流石に可哀想だったけど」

「そう言えばそうだったねー」

「なのに、桜だけは二人乗りしてた張本人なのにお咎めなしだったんだよなー」


 一瞬、その名前が自然に通り過ぎそうになった。


 だけど、何か反射的に昇から言われたことに違和感を覚えた。


「あれ?今、昇何て言った?」


 聞き間違えだったんじゃないかと、思わず聴いてしまった。


 昇は、今私のことをなんて呼んだ?


「えっ?……あっ」


 昇は、一瞬何を言われたか分からないというような反応を見せたが、すぐに何のことか合点がいったようで、間抜けな声を上げた。


「いや、今のはだな!」


 昇は、やけに慌てていた。後ろから見ていても動揺していることは明らかで、自転車が不自然に左右にグラグラと揺れていた。


 その反応に、思わず顔がにやけそうになる。


 今、昇は紛れもなく無意識に私のことを「桜」と呼んだ。


 あの頃のように。


「今のは?何?何て言ったの?」

「あー!もう少しで桜大橋渡り切るから、ゴールまであと少しだな!」


 昇は必死に誤魔化そうとしているけど、それはあまりに苦しい誤魔化し方だった。さっきから、昇は誤魔化し方がワンパターン過ぎる。


 というより、私は普通に名前で呼ばれて嬉しかったのに、昇は何をそんなに慌ててるんだろうか。


「別に、私はそうやって呼ばれても全然良いよ。むしろ、昔はそう呼んでくれてたんだから」


 昔は、井川も吉川もそして昇も私のことを「桜」と呼んでくれていた。


 だけど、中学に入って皆と交流がなくなってから、井川や吉川からの呼ばれ方は自然と「芹沢」になっていた。


 そしてそれは、多分昇が私のことを名前で呼ばなくなっていたからじゃないかと思っていた。


 三人の会話で出てくる私は、いつからか「芹沢」になっていた。


 だけど、それが今また昇は私のことを「桜」と呼んでくれた。


「…すぐには慣れないかもだけど、呼べたらそう呼ぶようにする」


 昇は、ボソリと聞こえるか聞こえないかくらいの声で言った。でも、多分そう思っているのは昇だけで、その声はバッチリ私まで聞こえていた。


 その声を聴きながら、気付かれないように苦笑いを浮かべる。


 仕方ないな、少しくらいは待ってあげるよ。


 内心で、そんな風に返事をした。


 だって、今までだってこうなることをずっと待っていたんだ。今更、昇が私のことを名前で呼んでくれるのを待つくらい、なんてことはない。


---


「うおー!今度こそ、ゴールが見えてきたぞ!」


 夜になり、すっかり静まり返った町に健吾の歓喜の声が響いた。


「早く!早くゴールして、もう自転車を漕ぐのを止めたい!」


 亮も、居ても立っても居られないとばかりに自転車を左右にグラグラと揺らしている。


「健吾、亮!気持ちは分かるけど、流石にもう夜なんだから少しボリューム抑えて…!」


 流石に理久は周りがよく見えている。田舎町の夜では、出歩いている人なんて全くいなくて、だからこそ声がよく通って家に居る人たちに迷惑になってしまいそうだ。


「そうよ。もう子どもじゃないんだから、ご近所迷惑も考えないと」


 そう言いつつ、原田は誰よりも先頭で立ち漕ぎをして自転車を走らせていた。何気に、一番テンション高いのは原田じゃないだろうか。


 皆、自然とゴール目前になって加速していて、少し置いてかれそうだ。


 僅かに顔を横に向けて、後ろに伺いを立てる。


「芹沢、ちょっと揺れるかもしれないけど、少しスピード上げても良いか?」


 まだ、自然と下の名前で呼ぶことはできない。だから、今まで呼んできたこの名前で桜に声を掛けた。


「良いよ。私も、早くゴールしたい」


 桜も、嬉しさを隠し切れないのか返ってきた声は弾んでいた。


 夜になり、町の信号機も点滅信号になっていた。車も全く走っていない道路を、六人でひとかたまりになって駆け抜けていく。


 自分たちが通っていた保育園の横を抜けて、図書館を通り過ぎていく。


 そして、並木になっている道、公園の入り口の前まで来ると、誰からともなく自転車を止めた。


「着いた…」


 誰かがしみじみと言った。


 五台の自転車に乗って、六人が横並びで公園の入り口で立っていた。


「おい、誰が一番にゴールする?」


 さっきまでのテンションとは裏腹に、落ち着いた声で健吾が言った。こういう時は、特に伺いも立てずに真っ先に飛び込んでいきそうなもんだが、待ち切れない様子ではあるものの我先に行こうとはしない。


「えっ?そりゃ、こういう時はお決まりでしょ?」


 原田も、ついさっきは一番にゴールするしないで健吾と夫婦漫才をしていた気がするが、周りを見渡しながら何かを待っている様子だ。


「お決まり?」


 理久が天然炸裂で、キョトンとした表情を浮かべている。


「そりゃお前、こういう時は決まってる!やっぱ、ゴールは全員揃って『せーの!』だろ!」


 亮が、高らかにお決まりの答え合わせをした。


「だろ?昇」


 そして、なぜか俺に伺いを立てた。


 何であえて俺を見るんだよ、と苦笑しながらも、俺も綻んでしまう顔を隠せなかった。


 無事、六人全員でゴールできるんだ。


 それは、皆で一斉に行くのがこの旅のゴールに相応しいだろう。


「あぁ、そうだな。みんな一緒に入ろう」


 俺が言うと、グラリと自転車が揺れて今まで持っていた重さが軽くなるのを感じた。


 見ると、桜が自転車の後ろから下りていた。


「昇、ここまで本当にありがとう。最後は、由唯と一緒にゴールしてもいいかな?」


 桜は、じっと俺のことを見ながら言った。


 その表情は微笑んでいた。


 そんな桜に、俺も笑顔を向けた。


「そうだな。それで良いと思うぞ」

「何?昇に別に言われるまでもないけど?」


 言うなり、原田は自転車を止めると大きく手を広げて「桜、おいでー」と可愛く言った。


 そんな原田に、「わーい」と左足を引き摺りながら桜は近寄っていく。「うん、可愛い」と、健吾からごくごく素直な感想がボソリと零れた。


「よし、じゃあせっかくやるんだったら、皆自転車止めて手繋がないか?」


 そのまま提案すると、皆が一斉に俺の方を向いた。


「いいね!」

「そうしよう!」

「うんうん、お決まりと言ったらそうでなくちゃ」


 全員がすぐに賛同してくれて、言うが早いか全員その場で自転車を降りた。


 そして、六人で並んであと一歩で公園に入るという場所に立った。


 「海に向かって」の、ゴールテープの前に。


「よし、じゃあ皆手繋いで」


 促すと、皆少し恥ずかしがりながら手を繋いでいく。


 順番は、理久,健吾,亮,原田。


 そして、桜と俺。


「よし、じゃあ皆一斉に行くぞ」


 声を掛ける。


 そして、


「「せーーーの!!」」


 六人の声が重なって、一斉に両手を上げながらゴールへと足を踏み出した。


「「ゴ――――ル!!!」」


 皆の歓声が、静かな公園に響き渡った。

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