第31話「家路」④


 あぁ、やっぱりダメだったか。


 倒れる瞬間、咄嗟に浮かんだのは、そんな投げやりな感想だった。


 最初に足に違和感を覚えたのは、多分体感時間で二時間ほど前。でも、時計なんて見てないので正確な時間は分からないし、そもそも途中から時間を気にする余裕なんてなくなっていた。


 その時は、ほんの少し足に痛みが走った気がした。でもそれは、「気がした」と言えるくらいにほんの一瞬のことで、その後は何事もなかったかのように痛みもなく、足の違和感もなくなった。


 一瞬痛みを感じた時は、冷や汗が出た。そこまでの道のりでも、一応痛みはないものの、そもそもが帰り道も半日近くを自転車を漕いで行くハードな道のりだ。途中で痛み出したら、それこそ皆にも迷惑を掛けるだろうし、何より途中でリタイアすることになる。せっかく、ここまで頑張って走ってきたのだから、そんなことには絶対なりたくなかった。だから、細心の注意を払って、左足にもなるべく負担を掛けないように気を遣いながらずっと自転車を走らせて来た。


 違和感があった後は、より一層気にするようにはなっていたけど、思った以上に足に痛みや違和感も出ることなく、由唯から事あるごとに「大丈夫?」と声を掛けられても、本心から笑顔で「大丈夫だよー」と答えられていた。


 何だ、大丈夫じゃないか。このまま、問題なくゴールできるんじゃないか。


 そう思えるようになっていた。


 だけど、違和感を最初に覚えてから恐らく一時間くらい経った頃、誤魔化しようのない痛みを感じるようになって来た。


 一つ引き金となったのは、最後の休憩の時だった。さぁ出発、となって立ち上がろうとした時、今度はハッキリとした痛みが一瞬足に走った。その痛みに、思わずよろけて由唯に寄り掛かってしまった。


 幸い、その時も痛みは一瞬だけで、瞬間的に痛みで顔が歪んでしまったけど、由唯に寄り掛かったおかげでその顔を由唯に見られることはなかった。


 急に凭れ掛かってきたので、由唯は驚いた声を上げてすごく心配してくれたけど、由唯に顔を向ける時はすぐに笑顔を作っていたし、絶対に由唯にはバレないように笑顔を浮かべ続けていたので何とか誤魔化すことができた。


 由唯が安心したように私から離れて行った時、思わず視線は左足に向いた。由唯に寄り掛かった時に感じた強い痛みはないものの、その時にはもう気のせいではない痛みを感じるようになっていた。


 その後、どういうわけか少しの間だけ由唯と理久君のポジションが入れ替わったのは、好都合だった。


 「ごめん桜、ちょっとだけ昇に用事があるから、少しだけ離れるね」と言って後ろに下がって行った時、またもしかして私関係のことで何か昇に吹き込むんじゃないかとヒヤヒヤしたけど、それ以上に由唯にバレないように気を配る時間が少なくなることの方が正直ほっとした。


 由唯と入れ替わりでやって来た理久君は、来るなり「芹沢さん、足大丈夫?」といつものように優しく声を掛けてくれた。それに対してはもちろん笑顔で答えて、後は前を向きながら他愛無い会話をした。


 そもそも疲れていて、お互いにそこまで会話を弾ませようとしていなかったのと、由唯ほどは過剰に気を配らない(むしろ、由唯が過保護すぎる気がするけど)理久君の隣では、少し精神的にも休憩ができていたかもしれない。


 結局、しばらくすると由唯は何事もなかったかのように戻って来て、自然と理久君と交代になった。


 しかし、そこからは思ったほど由唯と会話をするわけではなかった。


 やはり、流石の由唯と言えども二日間ほぼテンション高く過ごしてきたんだ。疲れは確実に溜まってきていたみたいで、最初こそ会話を続けていたけど、次第に口数が減ってきて、そこからは時折思い出したように一言二言会話を交わすくらいで、基本的に沈黙の時間が続くようになった。


 そこから、少しずつ痛みは広がり始めていた。


 休憩の時に感じ始めた痛みは、ペダルを一度回すたびにほんの少しずつではあったけど広がっていくような感覚があった。何とかその痛みを誤魔化すために、足の角度を僅かに変えてみたり、なるべくペダルを回す回数を減らしてみたりと色んなことを試してみたけど、痛みは一向に引いてくれる気配はなくて、むしろそれまでは単に自分自身が感じてなかっただけだったんじゃないか、と思えるくらいに痛みは少しずつ、でも確実に大きくなっていた。


 恐らく、会話をしていたら流石に誤魔化しきれなくなっていたかもしれない。でも、沈黙が続くようになったおかげで、何とかバレずに走り続けることができた。


 それなのに、それもほんの一瞬の油断で全てが崩れてしまった。


 昨日、皆で昼食を取ったあの大きな樹が見えてきた。


 その樹を見た時、思わずホッとした。その時には、痛みは大分強くなってきて、ペダルを回すごとに確実な痛みが左足に走っていた。でも、あの大きな樹が見えた時、「あぁ、何とかここまで来れたんだ」と大きく肩を撫で下ろした。


 皆も、あの樹が見えたことには少し安心した様子で、誰しもが疲れで無口になっていたところに、誰からともなく明るい声が聞こえだしていた。


 あの樹が見えたということは、ゴールまでは恐らくあと一時間ほど。


 ゴールがもうすぐそこまで来ているんだという安堵感があったのもそうだけど、何より昨日あの樹では色んな思い出がある。


 皆で、あの樹を見つけるなり競争であそこまで自転車を走らせたこと。


 皆が、「美味しい美味しい!」と私と由唯が作った お弁当を食べてくれたこと。


 女王様みたいになった由唯が、吉川に好き勝手していたこと。


 由唯が、黙って私と昇を二人きりにして戸惑ったこと。


 昇が振り向きそうになって、息を詰めたこと…


 皆で、あの樹の下で乾杯をしたこと。


 サイダーが吹き出して、皆で笑い合ったこと。


 思い返すと、本当にまだ昨日のことのはずなのに、すごく楽しかった想い出として記憶が蘇ってくる。何でもない、ただの大きな樹の下でお弁当を食べただけだというのに、その想い出が何故だかとても懐かしく、特別なものとして思い起こされる。


 少しだけ、昇とのことに関しては苦い思い出になってしまっているところはあるけれど。


 それでも、あの大きな樹は間違いなく私たちにとって特別な樹になっていた。


 そう思ったのはどうやら皆同じらしく、皆ペダルを漕ぐのを止めて、自然に回るタイヤに進むのを任せて、緩やかなスピードの中でじっと夕焼けに染まるあの樹を見つめていた。


 だけど、それに見惚れ過ぎていた。


 テンションが上がった吉川が、少し自転車を加速させて、それに慌てて井川がついて行った。


 それを見た時、咄嗟に「遅れちゃいけない!」と足に力を入れた。その一瞬、足が痛かったことを忘れてしまっていた。


 左足にグッと力を入れた時、鋭く足全体に走った痛みに、思わずペダルを踏み外した。「いけない、支えなきゃ倒れる!」と反射的に思いはしたけど、痛みのせいで左足はちゃんと言うことを聞いてくれず、そのまま支えもなく自転車ごと横倒しになってしまった。


 ガシャン!と自転車が倒れる音が耳に響いて、そこから地面に打ち付けた身体に強い痛みを感じた。周りで、由唯や井川たちが大声を上げているのは聞こえたけど、痛みが強過ぎて何を言われたのかは分からなかった。そこから、沈黙が降りると共にじんわりと全身に痛みが広がっていって、思わず呻き声が漏れた。


 タイヤの回る、カラカラという音がやけに聞こえてきた。


 しばらくは、全身に広がっていく痛みに耐えることで必死だった。所々、血が出ているところもあるのか、見ないまでも痛みが強い箇所が幾つかあることが分かってきた。そこから、全身に広がった痛みは少しずつ引いていった。


 そうして、ようやく起き上がることができた。


 吉川の手を借りて、由唯に支えてもらいながら何とか座らせてもらった。全身に鈍い痛みは感じたままだったが、自転車で転んだことによる怪我自体にそこまでの痛みは感じなかった。何の支えもなく直接自転車ごと地面に倒れ込んだのに、大事に至らなかったことは何よりだったと、とりあえずそのことはホッとした。


 だけど、もう左足はダメになっていた。


 何とか立てないことはないけど、まともに立てば痛みが走ってすぐにしゃがみ込んでしまう。歩けるかどうかは怪しくて、そんな状態だから自転車なんてとても漕げるはずはなかった。


 実際、由唯に治療してもらうために包帯と湿布を外したら、びっくりするくらいに左足首は赤くパンパンに腫れていた。本当、どうしてこんな状態になっているのに、ああしてここまで自転車を走らせて来られていたのか、我ながら不思議だった。


 でも、その足の状態を見た時に、はっきりと自覚した。




 もう、私はこれ以上行けないんだ。




 それは、海を出発するときから何となく予期していたことではあった。


 ビーチボールの時にあそこまで足を捻っていたんだ。実際、あの時は結構痛かったし、その痛みがちゃんと引いてくれるまで結構時間が掛かった。


 それでも、海を出発するときには痛みは引いてくれていて、自転車も問題なく漕ぐことができていた。


 何とか、帰りまで足が保ちますように。


 祈るような気持ちでずっと走ってきて、あともう一時間もすればゴールできるというところまで何とか来れたんだ。




 それなのに、どうしてここまで来て。




『…自転車は別に後日取りに……それこそ……健吾でも使いっぱしりに……』


 ずっと、左足をさする振りをしながら、頭の片隅で由唯の声が響いている。


 だけどそれは、頭の奥が痺れていて上手く聞こえない。ノイズが入ってくるように、上手く皆の声が聞こえない。




 諦めたくない。でももう無理だ。皆と一緒にゴールしたい。できるわけない。ここまでせっかく来たのに。こうなったのは誰のせいだ。




 頭の中で色んなことを考えても、それはすぐにネガティブな言葉で塗り潰されていく。




一緒に旅行に来ても、結局お前は昇とも話せなかったじゃないか。




 心に大きな楔が打ち込まれる。この言葉を打ち込まれたら、私はもう何も言えなくなってしまう。


 もう、諦めてしまおう。というより、もう昨日の夜の時点で諦めはついていたはずじゃないか。


 だったら、もう我慢する必要はない。頑張る必要はない。お母さんに迎えに来てもらって、一人で家に帰ればいいじゃないか。


 それで良い。


 だから、、


「なんてね……ごめん皆、困らせて。そうだよね、もう……」





「だったら、俺の後ろに乗っていけば良いんじゃないか?」





 一瞬、誰の声か分からなかった。


 さっきまで、ノイズばかりでまともに聞こえてなかったところに、やけに明瞭な声が響いた。


 一体、今の声は誰?理久君?井川?吉川?


 その誰でもない声だった。


 驚いて顔を上げた。


 そこには、真っ直ぐ私の顔を見つめてくる昇がいた。


「俺の後ろ、荷台付いてるから乗れるぞ。だから、後ろに乗っていけば皆で行けるんじゃないか?」


 昇は、真っ直ぐ私を見ながら言った。


 まだ、何を言われているのかよく分からない。いや、もうノイズは走っていないし、ちゃんと声は聞こえているんだけど、昇が何を言ってくれているのか分からない。


 でも、昇はまだ私から目を逸らさずに言った。


「俺の後ろに乗って、一緒にゴールすれば良い」



---


 日はとっぷりと暮れてしまった。


 日が長い夏と言えども、夕日が完全に沈んでしまってからは夜の帳が下りていくのは早い。


 あんなに鳴いていたひぐらしの鳴き声もいつの間にかほとんど止んでいて、蝉の声も時折聞こえるが、それは一匹二匹と数えそうな数にまで少なくなっていた。


 道行く先、ポツリポツリと街灯の灯りが見える。しかし、こんな田んぼ道の中では街灯から次の街灯までは結構な距離があって、辺りは随分と暗い。


 道を照らしてくれているのは、その遠い街灯の灯りと、漕ぐ度にユラユラと揺れている自転車の豆電球の明かりだけだった。


 少し離れた前の方では、同じようにユラユラと揺れている自転車の明かりが四つ見える。


 でも、俺の隣にはそうやって揺れている自転車の明かりはなかった。


「……」


 自転車を漕ぐペダルが重かった。


 ギアは一番軽いものまで落としている。いつもだったら漕ぐ足の方が早くて、むしろ漕ぎにくいギアのはずなのに、今はそれでちょうどいいくらいだった。


 前の四人も、そんなにスピードを出してるわけではなさそうだった。そのはずなのに、一番軽いギアでは速く漕いでも思うようにスピードは上がらず、少しずつ前との距離が離れている気がした。


 道は、凸凹のない平坦なアスファルトの道だ。それなのに、少し走るたびについさっきまでは感じなかったはずの僅かな振動を感じる。


 ハンドルを握る手も、少し力を緩めるとすぐに自転車自体がグラグラと左右に揺れてしまいそうになる。


 なるべく振動や左右の揺れは最小限に抑えようと、足と手にしっかりと力を込めながら自転車を走らせていく。その分、息もすぐ上がりそうになるが、そんなところを見せるわけにもいかないので、漏れ出そうな息はなるべく飲み込んでいく。


「……」


 少し身を引けば当たってしまいそうな場所に、温もりを感じる。


 夜になり、気温はすっかり下がって暑さはほとんど感じなくなっていた。それこそ、自転車を漕ぐことで前方から戦いでくる風は、心地良いくらいだった。


 それなのに、背中から感じるのは、じんわりとした温かさだった。


 気にしないように、意識しないように努めてみても、それがむしろどんどん意識することを強めてしまっている。心臓の鼓動がまた少しずつ上がっていきそうになるのを、「ダメだダメだ」と自分に言い聞かせながら、後ろには聞こえないように静かに息を吐き出して、何とか抑えていく。


「……」

「……」


 お互いに、何も話すことなく走り続けていた。


 蝉の鳴き声もほとんど聞こえず、前を走る皆との距離もあるから、特に話し声というのも聞こえてこなかった。だからこそ、辺りはとても静かだった。


 それが今、この場所には自分たち二人だけしか居ないんだ、ということを殊更に意識させた。


「…おっと」


 ふと、道に石ころがあるのを見つけて、咄嗟に避けるためにハンドルを切った。そんなに大きく切った訳ではなかったが、自転車は僅かにグラリと揺れて、その時に後ろから「…いっ」と堪えるような声が聞こえた。


「あぁ、悪い。石ころがあって、咄嗟にハンドル切っちまった」

「ううん、別に大丈夫だよ。ちょっとビックリしただけ」


 思わず声を掛けると、後ろから静かな芹沢の声が聴こえた。


 それは、何だか随分久しぶりに聴いた芹沢の声だった。


 僅かに緊張は感じられたが、その声は至って自然な感じで、特に話し掛けられても不快感があるようには聞こえなかった。


 それが、更に話しかけることに勇気をくれた。


「…足、痛くないか?結構振動あるよな?」


 なるべく、声が震えないように、緊張感が伝わらないように、慎重に声を出した。それでも、少し声は震えてしまった気がする。


「えっ?うん、確かに振動はあるけど足は投げ出してるから痛くないよ。むしろ、お尻の方がちょっと痛いかも」


 そう言いながら、芹沢は僅かに「あはは」と笑った。それは、何だか不器用な笑い方だった。


 その返答に、俺も不器用に笑い返す。


「それは、荷台なんだから我慢してくれ。タオルは一応敷いてたよな?」

「うーん、確かにタオルは敷いてるんだけど、やっぱり網網の部分はどうしても少し痛いかなー」


 そして、また笑った。今度は、少し気の抜けたような笑いだった。


「まぁ、なるべくダメージが少ないように走るから、勘弁してくれ」

「ううん、別に大丈夫だよ。むしろ、もう体力も限界だと思うのに、二人乗りさせてごめんね」


 そこで、会話が終わった。何だか、成り行きで声を掛けたところから自然に話ができていたが、それもプツリと途切れて、また沈黙が降りた。


 何か言わなきゃと思うのに、二の句が継げなかった。


 芹沢に声を掛ける度に、心臓の鼓動が強くなっていくのを感じて、ドクドクという心臓の音が大きくなりすぎて、喋るとそれがそのまま伝わってしまうんじゃないかと不安になる。


 ほんの僅かな沈黙が降りただけで、尚のことそれが意識させられて声が出せなくなる。


 まだ、今の状況が信じられなかった。


 昨日の夜で、もう芹沢との糸は完全に切れてしまったと思っていた。自分自身で切ってしまった糸は、もう既に繋ぎ合わせようとしても手遅れなんだと思っていた。


 でも、今俺は後ろに芹沢を乗せて、家までの道のりを走っている。


 あの時、芹沢に後ろに乗るように言ったのは、我ながらよく言ったものだった。


 断られる可能性もあった。むしろ、昨日あんな振る舞いをしたやつから、後ろに乗るように言われても、「何を言ってるの?」と冷たくあしらわれても仕方ないことだった。


 でも、芹沢はあれこれ言うことなくただ素直に「うん」と答えて俺の自転車の後ろに乗った。


 むしろ、他の四人の方が些か戸惑っている様子で、唯一健吾は一瞬ニヤリと悪戯っ子の笑みを浮かべたが、すかさず原田が空気を読んで健吾の耳を引っ張って連れていってしまった。


 そうして、今自転車の後ろに芹沢を乗せて走ってるわけだが、静かになるとフツフツと罪悪感が心の奥底から湧き上がってきた。


 何、お前は昨日のことやこれまでの事をなかったかのように、芹沢と話をしているんだ?


 昨日から何度も囁いてくる自分の中の悪魔が、自分自身を非難してくる。


 芹沢をあんなにも傷付けたお前が、よくもまぁ普通に芹沢と話をしているもんだな。


 自分の中で込み上がってくる言葉は、容赦なく自分を突き刺してくる。


 お前は、


「昇、ありがとうね」


 その心の声を掻き消す、芹沢の声が聴こえた。


「……えっ?」


 咄嗟のことで、遅れた反応は何とも間抜けなものになってしまった。


 そんな間抜けな反応は気にしない様子で、芹沢は話を続けた。


「絶対ここから二人乗りなんてしんどいと思うのに、私を後ろに乗せてくれてありがとう。昇があの時ああ言ってくれなかったら、私はお母さん呼んで、あそこで一人だけ車で帰ってたと思う。皆とゴールしたかったから、本当ありがとう」


 後ろから聴こえてくる声は、なるべく明るい声を出そうとしている声に聞こえた。当然顔は見えていないのだが、もしも顔が見えていたとしたらぎこちない笑顔なんじゃないかと思う。


 そんな芹沢の声に、胸がざわついた。


 今の芹沢の言葉は、全てをここで言ってしまおうとしているように聴こえた。


 それはまるで、ここで言ってしまわなければもう伝えることができないと、そんな切迫感にかられて出た言葉に聴こえた。


 昨日の夜のようなことがまた起きてしまわないように。


 明るく振る舞おうとしている声の裏に、緊張とほんの少しの恐怖が垣間見えたような気がした。


 そして、そんな声を出させているのは一体誰だ。


「でも、昇、本当に大丈夫?やっぱりここから二人乗りなんてしんどくない?しんどかったら、全然遠慮なく降ろしてくれても…」

「ごめん」


 これ以上、芹沢にそんな言葉を重ねさせるわけにはいかないと、声を出した。


 だが、これでは別の意味に捉えかねられないと、すぐさま言葉を続けた。


「ごめん、芹沢に色々気を遣わせちゃってるな。俺はそこまでしんどくないから、芹沢は何も気にせず後ろに乗っててくれ」


 もちろん、そこまでしんどくないなんて言うのは強がりだ。でも、ここで芹沢を置いていくくらいなら、こんなしんどさなんてどうでも良かった。


「俺も、やっぱりここまで来たからには皆一緒にゴールしたかったし、俺の自転車なら二人乗りもできたから」


 続けて重ねていく言葉を自分で聞きながら、「いや、違うだろ?」と心の奥底で声が響いた。


 お前が言うべきことは、そんなことじゃないだろ。


「少し、帰り着く時間は遅くなりそうだけど、大丈夫だから……」


 お前が、本当に芹沢に言ってあげなきゃいけない言葉はなんだ?


 お前は、何を伝えるためにあそこで芹沢に後ろに乗れと言ったんだ?


 尻すぼみになっていく自分の声の代わりに、心の声はどんどん大きくなっていく。


「……」


 また、沈黙が降りた。


心臓の鼓動が、飛び出しそうなくらいにドクドクと脈を打って、耳を鳴らしている。頭が熱くなって、色んな言葉で埋め尽くされていく。


「…昇?」


 急に黙りこくった俺に対して、芹沢が声を掛けてきた。


 そんな芹沢に、今俺が言わなきゃいけないことはなんだ。昨日、芹沢は俺に何を伝えてくれていた。俺は、今芹沢に対して何を思っている。


 伝えなきゃいけない。


 頭の中に埋め尽くされた言葉から、その言葉を取り出した。


「…芹沢、昨日の夜はごめん」


 その言葉に、辺りはシンと静まり返った。背中に感じていた温もりが後ろに引いて、何だか自分一人だけになってしまったような感覚になった。


 だがそれは、中学に入ってからここまでの、そして自分自身が昨日更に開けてしまった、俺達の心の距離を表しているように感じられた。


 この距離を少しでも埋めるために、俺は俺の言葉で、逃げずに芹沢に伝えなければいけない。


「昨日は、あんなひどいことを言ってごめん。芹沢があんな風に言ってくれたのに、それを冷たくあしらうような真似して、本当にごめん」


 「ごめん」をただただ積み上げて、言葉を紡いでいく。言いたいことは沢山あるのに、自分の語彙力がなくて上手く言葉が出てこない。それでも、自分が思っていることをストレートにそのまま芹沢に伝えることでしか、誠意を見せることはできないと思った。


「何を言っても言い訳にしかならないし、芹沢を昨日も今までも傷つけていたと思う。そんな俺が許してもらえるなんて、そんな虫のいい話はないと思う。でも、今俺は改めて、芹沢と話ができたら嬉しいって思っている」


 微かに、息を呑んだ気配を感じた。でも、それは自分が都合よく解釈している幻聴だと、自分を叱責する。


「俺、勝手に芹沢のこと誤解していて、勝手に色んな事思い込んで、それで遠ざけるようなことしてしまった。ごめん」


 何度重ねたか分からない「ごめん」を繰り返した。


 本当に積み重ねなきゃいけない「ごめん」の数は、きっとまだまだ足りない。昨日今日だけではなくて、今までもその言葉を言わなければいけない場面は沢山あったはずだ。


 それでも、その言葉をこれから先にも伝えていけるように、今は伝えられる限りのその言葉を伝えたい。


「本当、ごめん。もしも、少しでも許してくれるなら、今度は俺の方から芹沢と話がしたい」


 昨日、芹沢に言われた言葉を返した。


 こんな気持ちで芹沢は昨日俺に対して、この言葉を言ってくれていたのかと今更ながらに気付いた。


 顔は熱いし、心臓の鼓動は一向に鳴り止まない。自分の声も遠くに聞こえていて、少しあやふやだ。それなのに、目の前に見えている視界はやけにはっきりと鮮明に見えている。


 今、俺は芹沢の姿は見えていない。でも、昨日芹沢はこの視界の中で、俺の姿はどう見えていたんだろうか。


 心臓が絞られているかのように苦しさが押し寄せてきて、それを押し留めるために細く息を吐き出した。


 辺りは静けさに包まれて、自転車のタイヤが回る僅かなカラカラという音だけがやけに耳に入ってきた。芹沢からの返答はなく、息を潜めているのか芹沢の気配も希薄だ。


 存在を感じられるのは、漕いでいるペダルの重さが明らかに自分一人分ではないことだけだった。


 一体、今芹沢は何を考えているのか。顔も見えない今の状況では、それは全く分からなかった。


 永遠にも感じられる静けさが続いたと思ったその時だった。


「……ふぅ」


 ようやく聴こえてきた声は、小さな溜息だった。


「もう、そんなにごめんごめん立て続けに言わなくても大丈夫だよ。充分分かったから」


 芹沢は呆れたように言った。そして、また少し背中に温もりを感じた。


「でも、昨日は本当に傷付いたし、結構泣いてたんだからそれは許さない」

「うっ……それは、なんて言うか、本当にごめん」


 予想はしていたものの、実際に本人から告白されるとまた心臓が絞られる。


「…まぁ、由唯が私に代わって怒ってくれてたし、今こうして昇も謝ってくれたから、ほんの少しだけ許してあげる」


 そう言って、芹沢は戯けるように軽く笑った。


 その反応を後ろで感じながら、どうしようもなくホッとしている自分がいた。もちろん、完全に許してもらえるなんて思ってないし、傷付けてしまったことに変わりはない。


 それでも、芹沢本人から許しの言葉をもらったのは、せめてもの救いだった。


「何?それを言うために、昇は私を後ろに乗せるって言ってくれたの?」


 改めてそのことを聴かれると、思わず苦笑いが先に出た。


「いや…うん、まぁそうなんだけど、芹沢と話をしなきゃとは少し前から思ってて、でもなかなかタイミングが掴めなくて言い出せなくて、ずっとどうしようか悩んでた。でも、芹沢が転んで俺達と一緒にゴールしたいって言った瞬間、そんなことは考えずに咄嗟に声が出てたな」


 自分のあの時の行動を思い返すと、今になってまた顔が熱くなってくる。冷静になって思うと、あの時自分が言ったことや行動はほぼ無意識だったからこそこっぱずかしい。


「まぁ、それでも芹沢に気遣われて、そこでハッとなって今ようやく言えたって感じになってるから、情けないったらありゃしないんだけど」


 そう言って、照れ隠しに「あはは」と笑った。


「ううん、そんなことないよ」


 でも、そんな俺に対して芹沢は明るい声で言った。


 その声は、さっきのような無理して作った声ではなく、本心からの声に聴こえた。


「昇が、そんな風に思ってくれるようになって、それをこうして言ってくれたことは本当に嬉しい。だから、」


 芹沢は、一拍置いた。


 そして、


「とりあえず、家に着くまでのこの時間、色んな話をしようよ」


 「とりあえず」という枕詞が、これから先があることを暗示してくれているように聴こえた。


 この旅が終わった後も、それが続いてくれることにどうしようもなく嬉しさが込み上げてくる。


 まだ、俺達の関係は続くんだ。


「それで、早速昇に聴きたいんだけど」


 打って変わって、何だか芹沢はおどけるように言った。


「昇が、私に対して誤解してたこととか、勝手に思い込んでたことって何?」


 それを聴かれて、思わず息が詰まった。


「いや、それは…」


 それをはっきり口にするのは、あまりにも恥ずかしすぎる。というより、口が裂けてもそれは言えない。


「あれ?昇、私と話をしたいんでしょ?何で、黙るのかな?」


 芹沢は立て続けに追及してくるが、その声は明らかに楽しんでいた。恐らく、見当違いの解釈をしている気がするが、それでもそれが俺にとって言いにくいことというのに、違いはない。


 そして芹沢は、それを分かった上で追及して楽しんでいる。


 それはまるで、小さい頃に一緒に遊んでいた時のようだ。


「…よーし、もう少しでゴールだし、気を抜かずに頑張るぞー」

「あっ、話をはぐらかすな!」


 芹沢の声が響いて、自転車がグラリと揺れた。


 その揺れに、二人して「うわっ」と驚いた声を上げて、そしてすぐに二人で笑い合った。


 俺たちの笑い声が夜道に響いて、前の方を走っている四人がチラリとこちらを見たような気がした。


 そして、見えないはずのその四人の顔は、誰しもが笑顔でいてくれている気がした。

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